アメリカの沙漠

中谷宇吉郎




 今世紀の初頭から着手されたアメリカの綜合開発は、今日かがやかしい成果をあげている。その仕事の九割以上は、沙漠の征服にある。即ち水資源に乏しいアメリカでは、大きいダムを造って、雪解けの洪水を一度全部その貯水湖にため、その水を一年中を通じて大切に使うという新しい開発方式を採り、ついに、沙漠の征服に成功したのである。この開発の要点は、それで高いダムの建設という問題に落ちつくわけである。今日、日本の到るところでダムの建設がやかましく論ぜられているのは、アメリカにおける綜合開発の成功に刺戟されたからである。それでわれわれは、日本の国土開発を論ずる前に、まずアメリカの風土と、それに対する人間のたたかいの跡とを覗いてみる必要がある。

一 水に乏しい国アメリカ


 ダムの建設のような、自然を直接相手とした事業の遂行には、その国の風土に基いた、地味な、そして基礎的な研究が必要である。その一例をコロラド流域の開発にみることにしよう。
 コロラド河に造られたボルダー・ダムは、この一つのダムだけで、年間を通じて百四万キロワットという驚くべき発電能力を有している。またこのダムの建設によって、下流のコロラド河は一年を通じて、全然水位の変らない河となった。そういう水位の一定した河からは、水をとることが非常に簡単である。それで灌漑用水も、水道水も、工業用水も、自由にとれるようになった。
 水道はロスアンゼルスの街へひいたものが非常に有名である。ロスアンゼルスの街は、カリホルニア州の沙漠地帯のはしにあるため、昔から水には不自由をした街である。人間の生活に、なんといっても一番必要なものは水である。いかなる近代文明設備の完備した大都会でも、いったん水が切れれば、それは廃墟となるより仕方がない。ロスアンゼルスは、はじめ附近のロスアンゼルス河から水道をひいていたのであるが、この河の水量は全然問題にならない。一九〇六年、まだロスアンゼルスが人口十六万の小都会であった頃に、既にこの水道では水が足りなくなり、ロスアンゼルスの発展はそれ以上望みがない状態であった。
 日本のように、あまりにも水に恵まれた国では、水の恩恵を人々はあまり感じていない。しかし、人間の生活に水くらい大切なものはない。水がなければ文明どころの騒ぎではなく、第一生きていることが出来ない。ところがこの水は、いくら文明が進歩しても、作るわけにはゆかない。水素と酸素とのボムベを運んで来て水を作ったり、或いは、海水を蒸溜して水を作るようなことは、人間生活という立場からいえば、全然不可能といってよい。それで、いかなる文明国においても、水だけは自然がもたらしてくれる恩恵にすがるよりほかに道がない。
 ロスアンゼルスの場合には、一番近い水の在り場所といえば、北方にあるネバダ山脈の雪である。それでネバダ山脈中の小さい湖から、水をひくことになったのであるが、その間の距離は、二百五十マイルという驚くべき距離である。二百五十マイルといえば、ほぼ東京・琵琶湖間の距離である。即ち、東京の水道を造るのに、琵琶湖から水をひいて来るようなことをしたわけである。日本では全く考えられないことであるが、アメリカという国は、それほど水には恵まれない国なのである。
 この水道の完成によって人口二百万まではまかなえることになり、ロスアンゼルスは一息ついたのである。しかし、この水はロスアンゼルス市だけで使うわけにゆかないので、附近の都市群の水も、この水道でまかなわねばならない。ところがこの近郊都市群は、今世紀の初めからめざましい発展をして、一九二〇年には、もうネバダ山脈からの水だけでは、ロスアンゼルス及びその近郊都市、即ちアメリカの大切な工業地域である南カリホルニアの発展は、これ以上期待出来ないことになってしまった。これ以上に水を得ようとすれば、あとはコロラド河から水を採るよりほかに方法はない。
 ところが自然状態のコロラド河は、夏は非常に水が少くなるが、春さきの雪解け増水の場合は、著しく水かさの増す河であった。雪の量は日本などとくらべれば大したことはないが、面積が非常に広く、そこにつもった雪が一時に解けて一本のコロラド河に流れ込むのであるから、日本では想像も出来ないような大出水が起きてくる。雪解け時期には水嵩が七十尺も急激にふえる年が、そう珍しくないというような兇暴な河であった。水位が時によって七十尺も変るような河から水を採ることは、技術上非常な困難があり、また危険も多い。
 ところがボルダー・ダムが完成して、下流の水位が年中一定になることになったので、水道の建設は非常に簡単な問題となった。即ちボルダー・ダムから下流百五十マイルのところに、パーカー・ダムというダムを造り、その貯水湖から、二百四十マイルの水道を、ロスアンゼルスまでひくことが出来たのである。この水道は毎秒千五百立方尺の流量をもつように造られたので、一日に十億ガロンの水をロスアンゼルスに送ることが出来るようになった、十億ガロンといっても一寸見当がつかないが、東京の水道の例をとってみると、この水量がいかに莫大な量であるかということがわかる。東京の水道は一日一人当り七十ガロンの割合となっている。それで東京流にすれば、この一本の水道だけで、一千四百万人分の水が送れることになる。
 これだけの水があれば、ロスアンゼルスがいかに発展しても、水の心配が全然ないことになった。家庭用の水はもちろんのこと、工業用水にも何の心配もない。かくしてロスアンゼルスは、近代の世界の都市発展史上にも例のない急激な発展をして、十年間に百万の人口増加を来たし、デトロイトに次ぐアメリカ第二の大工業の中心地となったのである。
 前に述べたボルダー・ダムの発電量約百万キロワット年という莫大な量の電気も、その大部分がロスアンゼルスに送られ、そこで千八百の新しい工場が出来た。その中には世界第一の人造ゴム製造会社もある。またダムの近くには、世界第一のマグネシウム工場も建設された。ゴムとマグネシウムとは、現代の飛行機を作る大切な材料である。現在アメリカの飛行機の生産は、その量において世界を驚嘆させているが、その一部はコロラド河の水、即ち沙漠地帯にある岩山の雪が化けたものなのである。
 近代工業の基礎は水と電気とにある。この両者に十分恵まれれば、工業は放っておいても勃興する。アメリカ第二の工業中心地ロスアンゼルス及びその近郊都市は、この条件に完全にあてはまったため、今日の繁栄をみたのである。しかし、それは資源に恵まれているからではなく、沙漠の雪というような極めて乏しい資源を、人間の力で無理やりに資源化したためである。水に乏しい国アメリカでは、このようにして水を極度に利用している。水にあり余るほど恵まれている国日本で、エネルギー資源の窮乏にあえいでいるのは、何といってもいばれた話ではない。

二 沙漠の開発


 ボルダー・ダムの建設によって、もう一つ得られた天恵は、沙漠を緑野に化したことである。
 コロラド河の下流には、イムピリアル平原という半沙漠地がある。この地方は、土質には比較的恵まれているのであるが、水がないために、農作は全然不可能だった土地である。沙漠地帯のことであるから、年中空は雲一つない青空の日が多く、太陽エネルギーには十分すぎるほど恵まれている土地である。それで、ここに水さえ十分に送ることが出来たならば、豊饒な沃野と化し得る土地なのである。
 今世紀のはじめ、即ち一九〇〇年頃から、この地方に灌漑会社が出来て、小さい運河を掘って、コロラド河から水を導き、イムピリアル平原の開発という夢のような計画が立てられた。この夢は最初からある程度まで成功して、その当時の小さい運河、即ちアラモ運河によって、僅かながら灌漑水がこの平原に送られることになった。そこで少数の勇敢な農民たちが、この熱砂の地に入り込んで、蔬菜や果樹の栽培を始めた。その中には、日本からの移民がたくさんいた。その一人に新野庄作氏という人があり、現在シカゴに住んでいるが、その人の当時の苦心談を聞いて、それは日本人の忍耐力をもってして、はじめて可能な難苦行であったことがわかった。
 これらの人々は、乏しい水をたよりにして、百二十度の酷熱を冒し、各種の高級蔬菜の栽培に惨憺たる苦心を払った。そしてついに、メロンの一種であるカンタロープの栽培にまで成功したのである。イムピリアル平原の沙漠の中で、カンタロープが実るとは、誰も夢にも思わなかったことである。
 この好成績に刺戟されて、移住者が次第に増して来て、作付面積が急激にふえた。その結果は当然水の不足を来たした。それで、灌漑会社はアラモ運河への水の取入量を多くするために、新しく大きい取入口を造った。しかしそれが無理であったために、一九〇五年の春の雪解け洪水で、ついに堤防の一部が欠潰して、コロラドの奔流は、珈琲色の濁流となって、アラモ運河に殺到した。
 厄介なことには、イムピリアル平原は、大部分の土地が海面より低い。一番ひどいところが、今日ソールトン湖として残っている場所の真中で、それは海面下二百四十尺の低地である。コロラド河の水面は、もちろん海よりも高いので、いったんその流れがイムピリアル平原の低地に流れ込めば手の施しようがない。この平原の土質は浸蝕を起し易い土であったため、氾濫した水は浸蝕作用を起して、自分で新しい流路をつくりながら、この平原の沙漠の中を突進したのである。
 現在のソールトン湖の前身は、水深僅か七尺の小さい池であったが、そこをめがけて、コロラドの奔流が流れ込み、それが二年間も続いた。前にあった小さな池の水位は、この二年間に七十三尺も上昇して、水深八十尺の一大湖水となった。七十三尺の水位の上昇といえば、丸ビルがほとんど水底に没したわけであるから、日本の洪水などでは、とうてい想像できない一大天変地異であった。湖水の面積は、出来た当時は五百平方マイル余、即ち琵琶湖の二倍の大きさであった。この湖水はその後、本流の欠潰口が塞がれてから、蒸発によってだんだん小さくなり現在は二百八十七平方マイル、即ち琵琶湖ぐらいの大きさまで縮んでいる。
 アメリカで大洪水というと、このコロラドの氾濫は極端な例であるが、ミゾリー河の氾濫でも、日本などとは、とうてい比較にならない大氾濫を始終起している。われわれは日本が天災の国であるとよくいうが、決して日本だけが天災の国ではないのである。
 しかしこの兇暴なコロラド河も、いったんボルダー・ダムが出来て、春さきの雪解け洪水を全部その人造湖に呑み、それを年間通じて一定の割合で下流に流すようになってからは、もはや洪水の心配は全然なくなったのである。人造湖へいったん貯めた洪水を下流へ流す時に、前にいった百四万キロワットの電気を起しているのであるが、有難いことには、電気は水の持っているエネルギーだけを使うので、いくら電気を起しても水の量は少しも減らない。この電気を起した残りかすの水は、年中水位の変らぬ河となっているので、ロスアンゼルスへ水道をひいたのと同じように、イムピリアル平原にも灌漑水をひくことに成功した。それにはボルダー・ダムから三百マイル下流の地点に、イムピリアル・ダムというあまり大きくないダムを造り、そこから運河によって水をイムピリアル平原までひいて行ったのである。運河といっても、巾は水面で二百三十尺、底で百六十尺、深さ二十一尺もあるのだから、これは立派な大河というべきである。
 流量は、一秒に一万五千立方尺を少し越える程度である。日本でいえば、第一級の大河石狩川の平均流量が、毎秒一万五千六百立方尺であるから、石狩川程度の川を、沙漠の中に人工で造ったと思えばよいわけである。しかもその長さは八十マイルに及んでいる。この運河の完成によって、従来の灌漑耕作地は飛躍的に増し、一九四七年には、イムピリアル平原だけで、四十一万エーカー(一エーカーは約四反余)に達した。その後も開拓は非常な勢いで進められているので、附近の平原を入れて、近く百万エーカーに達することになっている。
 作付期間は三百六十五日である。この間、いつも太陽は照りつづけているのであるから、水さえあれば、作物はいくらでも出来るはずであり、しかもそれは実現したことなのである。一九四六年の統計では、イムピリアル平原だけの農産物収入が、七千三百万ドル(二百六十億円)と推定されている。作物は主として、レタス、セロリーなどのなまで食べるもの、及び一般蔬菜類、それとカンタロープ、ぶどう、なつめなどの果物類、他に大麦、亜麻、アルファーファ(牧草)などである。その中でアメリカ人の食生活に一番大きい貢献をなし、従って収入もよいのが、冬の蔬菜類である。
 アメリカ人の能率生活の基礎をなしているものは、その食生活である。澱粉をあまり採らずに、蛋白質、脂肪などの栄養価の高いものを少量採って、それにビタミン、ミネラル(鉱物質)などの栄養素を必要量だけ加えるようにしている。澱粉過食は精神活動をにぶくするといわれているが、それはある程度までほんとうのことであろう。アメリカ人のような極端な能率生活をするには、肉体の労働以外に、精神労働が必要である。食生活の基礎に高度の栄養学が採り入れられて、はじめて現代のアメリカ人の生活が出来るのである。そのうち、ビタミン及びミネラルの補給源としては生野菜を必要とするのであるが、現在アメリカ東部の人口の稠密ちゅうみつなところで、大多数の国民が、冬の間も新鮮な生野菜が食べられるのは、イムピリアル平原及びその附近の耕地が、重要な役割を果しているからである。
 こういう見方からすると、単にこの平原から農産物の収入が上ったという以上に、国民の食生活の改善、即ち能率の向上にまで寄与しているわけである。ここまで来て、はじめて綜合開発というものが、ほんとうの姿を現わすのである。

三 二十世紀の奇蹟


 二十世紀の奇蹟といわれる、このボルダー・ダムの建設には、もちろん非常に多額の経費がかかった。一九四七年までの総支出は、一億八千四百万ドルを越えている。これは、今日の日本の円価になおしたならば、われわれの国力では、ちょっと賄い得ない巨大な金額である。しかし、それだけの経費を使っただけの価値は十分にあったのである。
 前にもいったように、このダムによって、南カリホルニア州にはアメリカ第二の工業中心地が生れ、またイムピリアル平原の沙漠を緑野に変えることによって、アメリカの食生活の改善にまで及んだのである。
 それよりも目立たないが、洪水が完全に防禦されたという大切な効能がある。今まで琵琶湖ぐらいもある大きな水溜りをつくるような氾濫を起した、兇暴なコロラド河の洪水も、このダムの完成によって、完全に防ぐことが出来るようになった。それだけでも既にこのダムの建設に要した経費は、十分につぐなわれたといっていいかも知れない。ところが、更に驚くべきことがある。このダム建設の経費は、ダムから生れる電力によって、十分に補いがつくのである。建設に要した一億八千四百万ドルの経費の中から、二千五百万ドルは洪水防止の分として差引くことに、はじめから取りきめがしてあった。アメリカでは国費の使用が非常にやかましくて、あいまいな補助金風の金は決して出さない。ダムの建設のような公共事業でも、経済効果がはっきりわかっていないものは予算を通さないのが普通である。このダムの建設によって洪水が防止されると、国家としていくら損害が軽減されるかを計算し、その額の推定が出来たら、その分は国が負担するのである。ダムの建設費から洪水防止の分を引いた残額は、受益者負担、即ち電力及び水の使用者が、その建設費を償還することになっている。もちろん、その中で電力の代金が大きい部分を占めるのであるが、これは年に三分の利子をつけて、五十年間にダムの建設費中受益者負担の分を全部返済するように、電力の値段が取りきめられている。そして今までの成績によると、今日までに売った電力は、十分にこの経費を埋めることが出来たのである。それでこの調子で進んだならば、五十年たてば、ダムも附属の発電所の施設も、全部ただになってしまうことになる。まことに驚くべきことである。
 ところで、これだけ多額の建設費を電力代金から償還しても、それは使用者側の負担にはならないのである。というのは、この電力は非常に安いからである。例えば、全市の電気をボルダー・ダムの発電所から全部供給されているラスベガスの町は、アメリカでも最も電力の安い町の一つになっている。この町の電力料金は、ダムが出来たことによって、従来一キロワット時八セントだったものが、一ぺんに三セントに下った。しかもこれは小口消費者の料金であって、五百キロワット時以上の大口電力、すなわち工業用の電力は、一キロワット時僅かに半セントである。
 同様な現象は、ロスアンゼルス市でもみられる。今日のロスアンゼルス市における工業の発展は、その電力代が安いことが原因になっている。最近のアメリカにおける十五大都市の調査では、大口電力料金は、ロスアンゼルス市が一番安いことになっている。
 農民もまたこのダムの恩恵を受けている。ダムの建設によって水を十分に採ることが出来、今まで沙漠として棄ててあった土地から、前にも云ったように、非常に多くの収入を得ることが出来るようになった。その灌漑用の設備に要する経費は、農民の負担になっているのであるが、しかしそれも、五十年間の年賦で返済すればよいのであって、しかも全部無利子という約束になっている。即ち、五十年賦の無利子の金というのであるから、貰ったのとほとんど同じことである。詳しくいえば、一年間の農産物収入の半分くらいを、五十年間に出せばよいのであるから、農民の受ける利益というものは、ちょっと想像を絶する額に上るのである。八方いいことばかりである。まるで嘘のような話であるが、これが現在のアメリカにおいて、実際に起っていることなのである。
 この謎の秘密はどこにあるか。それは、沙漠、従来人間が住むことはもちろん、暫くの滞在も出来ないというふうに思われていた恐ろしい沙漠の真中に、六百九十万トンのコンクリートを要する巨大なダムを造った、このアメリカの科学と技術とのもたらして来たものである。それは二十世紀の奇蹟と呼ばれるに値いする事業なのである。

四 奇蹟の蔭にあるもの


 六百九十万トンのコンクリートを使う大工事といえば、それは、エジプトで最も大きいといわれている大ピラミッドよりも、さらに遥かに大きいものなのである。エジプトの大ピラミッドは、ヘロドトスによれば、十万人の奴隷を使って、二十年間かかって漸くにして出来たものだという話である。
 そのピラミッドよりも、遥かに大きいこのダムは、五千人の人間の力で、僅か二年以内に造り上げられたのである。それが、今日の科学及び技術が持っている力なのである。
 ボルダー・ダムの建設は、一九三一年に着手された。そして、ダムが完成して、発電装置が整い、正式にこのダムが働き出したのは一九三六年のことである。即ち、着手以来僅かに五年にして、この驚くべき偉業は完成されたのである。そのうち、ダムのコンクリート打ちだけに費やされた期間は、前にいった、僅かに二年間という短期間なのである。請負者と政府との契約の期限は、一九三八年ということになっていたのであるから、予定よりも二年間も早く完成したわけである。こういうふうに、結果からみれば、ボルダー・ダムの建設は、非常に順調に且つ短期間のうちに出来たようである。しかしこの建設は、決して思いつきでなされたものではない。その点が、今日の日本がアメリカの綜合開発を真似ようとする場合に、最も注意すべき点なのである。
 ダムの建設の着手は、一九三一年であるが、その準備は、実に驚くべきことに、約三十年前から始められていたのである。コロラド河の氾濫によって、あまりにもひどい損害に苦しんだ人たちの熱心な運動によって、アメリカの政府は開発法を作ることになった。そして、前のルーズベルト大統領がこの開発法にサインをしたのは、一九〇二年のことである。即ち、日露戦争の時代よりももっと昔の話なのである。今日アメリカの綜合開発をふりまわしている政治家たちは、アメリカの開発には五十年の歴史があることを知っておいてもらいたい。
 この開発法が発令されると同時に、開発局の技師たちは直ちに調査に取りかかった。そしてコロラド河の統御と、その流域開発との可能性を確認した。そのためには、コロラド河の二年分の流量を貯蔵し得る大きな貯水湖を造る必要があるということを明らかにしたのである。
 その決定がなされたのが、一九一八年のことであった。まさに十六年の年月を基礎調査に費やしたわけである。気が長いといえば、たいへん長い話である。しかし、現代人の歴史二千年の間に、初めて行なわれるような大事業をなしとげようというのであるから、十六年くらいの調査は、甚だ短いということも出来るのである。この調査の結果、最後に、即ち一九一八年に下された結論は、ボルダー・キャニオンかブラック・キャニオンか、そのいずれかに高さ約七百フィートのダムを建設すべしという結論であった。
 ところが、そのいずれを採用するかという問題になると、今までのような地図と資料とによる検討では、確かなことを決めることが出来ない。それで、この二つのキャニオンの現地調査が始められることになった。そのうちでも有望であった、即ち現在ダムが造られているところのブラック・キャニオンには、調査員が実際に三年間住んでみたのである。そして岩石の一般調査、及びダイヤモンド・ボーリングを行なった結果、この地質ならば、世界最高のダム、即ち七百フィートのダムの建設が可能であり、且つこのダムの建設による、恐るべき水圧にも堪えることを明らかにしたのである。
 この土地は、極く少数の探検家及び調査者を除いては、その頃までほとんど人の訪れないような場所であった。夏は、気温が最高百三十度にも達したという記録のある、恐ろしい場所なのであった。そういう不健康な沙漠の真中で、果して大勢の労働者及び技術者が、数年間生活をして、そこでこのダムの建設というような大きい土木工事をなし得るか否かという、衛生学的の調査も大いに必要であった。そのためには、技術者が、実際にその場所に住んで見るのが、一番いいのであって、事実この技術者たちは、一九二〇年から二三年までの三カ年間を、このブラック・キャニオンの無人の土地に、実際に住んでみたのである。
 この詳しい調査の結果、初めてこの土地にダムを建設する確信が得られたので、開発局は、その翌年、即ち一九二四年に、ボルダー・ダム建設の案を正式に採り上げたのである。しかし、それでもなかなか決定には至らなかったというのは、何よりもその実現性が危ぶまれたからである。
 完成後のボルダー・ダムの高さを見ると、基礎の岩盤からダムの頭部までが、七百二十六フィートである。そして現在世界中でこのダムに次ぐものは、カリホルニア州に、その後に建設されたシャスタ・ダムであって、その高さは六百二フィートである。第三が、同じくアメリカのコロンビヤ河に建設されたグランクーリー・ダムであって、これは五百五十フィートの高さを持っている。
 シャスタ・ダムもグランクーリー・ダムも、ともにボルダー・ダムの成功に確信が得られて、その後に造られたもので、これらには何の問題もあるはずがない。しかし、三十年以前に、初めて七百フィートのダムを造ろうという話が出た時には、それは一般の人たちを驚かせたばかりでなく、一部の老練な技術者たちからも、そういう無謀な案は、とうてい実現し得るものではないと猛烈な反対があった。
 高さ七百フィートのダムで、水深は最高五百九十フィートにまでなり得る。その時のダムの底における水圧は、日本流に換算すると、畳一畳当り、約九万貫という恐るべき量になる。反対しようと思えば、反対の理由はいくらでもある。
 こういう場合一番困るのは、世間に老練と知られている古い技術者たちの反対であって、若い熱心な技術者及び科学者たちは、非常に詳しい計算と綿密な調査とによって、その実現性を確信したのであるが、政府や一般の世間は、どうしてもそういう若い人たちの意見よりも、老練な技術者たちの意見に従いがちなものであって、そのために、このダム建設は非常な障害を受けたのである。
 しかし、やはり本当のもの、即ち科学の力は俗論を押し切ることが出来たのであって、ついに一九三一年になって、初めてこの世紀の事業が着手されることにきまり、着手以後は僅か五年間にしてこの大事業が完成されたのである。その点からみると、基礎調査のための十六年間、及び事業推進のための十三年間は、あまりにも長いように思われるかも知れない。そしてこれだけの長年月を要した理由としては、もちろんアメリカの官僚制度にもいろいろな欠陥があり、そのために必要以上の時を要したこともあるであろうが、しかし、科学的な調査をあくまでも慎重にやるという習慣が、これだけの長年月の基礎調査をなさしめた主な理由であると思われる。

五 花と根


 アメリカの大開発計画の規模は、今日の日本の国力からみたら、まさに無縁の話かも知れない。そういう話を詳しくしたのは、単に、アメリカの強大な力に驚嘆したからではない。このアメリカの綜合開発は、われわれにとっても、大いに参考になる点があるからである。何よりも大切なことは、このダムの建設が、決して思いつきですぐ着手されたものではないという点である。
 日本では、終戦後、食糧の緊急増産が必要であるといえば、すぐいわゆる緊急開拓に、何等の準備もなく着手した。詳しい調査が必要だという科学者及び技術者の意見は、簡単にしりぞけられて、今は議論の時ではなく、ただ実行の時期だというようなことがいわれた。
 この言葉は戦争中にもしばしば使われたが、終戦後にもまた同じようなことがいわれた。それは日本の政治の欠陥というよりも、むしろ、日本人全般の心の奥にひそんでいる非科学性によるもののように思われる。
 この緊急開拓が、大部分失敗に終った後では、今度は電力の開発が、刻下最大の要請だというスローガンが唱えられはじめた。それは、昨年及び一昨年の電力飢饉によって、急に表面に出て来たように思われる。新聞その他において、大規模な電源開発の必要性が、やかましく論ぜられている。そしてその例として、アメリカの各種の大きいダムの建設の例を引き、その成功の結果だけを引き合いに出している。中にはボルダー・ダムのごとく、年間通じて百四万キロワットの発電が出来る大ダムでも、僅かに五年で完成したというようなことをいう人もある。しかし、ボルダー・ダムの成功には、その蔭に三十年近い基礎的調査がなされていることは、忘れている人が多いようである。
 アメリカの綜合開発の成功は、アメリカの風土に即応した、綿密な調査及び科学的研究を、基礎的にしっかりやったことが、一つの要素をなしている。日本において、もしこれと似たような計画を実行しようと思ったならば、このアメリカにおけるダム建設以前の、基礎的調査及び研究に相当するものを、日本の風土について、同様に行なう必要がある。
 調査及び研究に要する費用のごときは、ダムの建設の全費用からみたら、ほとんど問題にならない少額のものである。例えば、この種の大きいダムを造ろうとしたならば、現在の日本の金では一千億円くらいの費用を要するであろう。たとえ基礎調査費に一億円を費やしたとしても、僅か一千分の一の費用である。そしてそういう少額の調査費によって、このダム全体が生きるか死ぬかというような問題が決定されるのである。
 ボルダー・ダムの場合は、このダムが建設されたために、コロラド河の全流域が開発されたわけではない。このダムに匹敵し得る発電能力をもつダムを、まだ上流に二カ所あるいは三カ所造るだけの水力が残されている。そういうダムの建設、及びその建設による流域の開発に対する研究及び調査が必要である。ボルダー・ダムの完成と同時に、次の段階としてこれらの研究及び調査が直ちに始められている。
 その調査の費用としては、電力の収入の中から毎年五十万ドルの金額を天引きして、それを今後のコロラド河の開発に必要な調査の費用に振り当てている。五十万ドルといえば、現在の円価にして一億八千万円にあたる。即ちダムの建設以来ずっと今日まで、毎年一億八千万円ずつの調査費を使って、今後の開発に必要な調査と研究をずっと続けているのである。よい園芸家は花を見ないで根を見るという。日本の国土開発に関心をもたれる方々が、根を見ることを忘れないでさえおられれば、われわれの国土の開発は近い将来にみごとな花を開くであろう。

六 日本の科学者へ


 ところで最後にちょっとつけ加えておきたいことがある。それは、こういうふうな話をすると、アメリカでは、調査及び研究の費用が非常に自由であって、そのために、ああいう大きい事業が成功するのである。日本の場合は、そういう調査及び研究をしようとしても、政府なり或いは同種の団体なりからは、調査研究費が出ない。そのためにアメリカのような計画は実行されない。こういうふうに簡単に結論を下されるおそれがある。
 そういう考え方はある程度本当であるが、全面的の真理ではない。アメリカの場合でも、必ずしも初めから政府に非常に見識の高い政治家があって、その人たちが調査及び研究に十分な理解をもって、ことを推進したとは限らないのである。ボルダー・ダムの例でいえば、あの巨額の予算が通ったのは、洪水の防止、舟運改善及び流量調節、河水調節による農地の開発、水力の発電という、この四つの項目が目的としてあげられ、その各々が、絶対必要で且つ実現が可能であるということが確認されたからである。
 そのうちの、例えば農地の開発を例にとってみるに、前にいったイムピリアル平原の開発が即ちそれであるが、灌漑水さえ十分にあれば、この沙漠は緑野と化すことが出来るということが既に実証されていたので、このダムの予算が通ったのである。少くも理由の四分の一にはなったわけである。逆に考えてイムピリアル平原開発の可能性が確められなかったら、ボルダー・ダムの予算は通らなかったであろう。
 こういう見方をすれば、ダムが出来たからイムピリアル平原が開発されたのではなく、イムピリアル平原開発の可能性が実証されたことが、ダムの建設を促す一要素となったといえるのである。事実ボルダー・ダムの建設より三十年も前から、イムピリアル平原では、乏しいアラモ運河の水を頼りに、営々として沙漠の開発に努力していた人たちがあった。そしてこの沙漠の真中で、カンタロープのような高級な果物を作り出していたのである。それが沙漠の沃野化の可能性を実証したことになり、この成果がボルダー・ダムの建設を促進したのである。
 前にも云ったように、この最初の最も苦難の事業をなしとげたのは、主として日本から移住して行った農民の人たちである。そういう人たちは、今日このようにみごとに開発されたこの平原には、ほとんど留っていないようである。それらの人たちは、苦難の日だけしか知らなかった気の毒な人たちともいえるが、しかし少し広い目でみれば、人類がみごとになしとげた自然の征服という事業に、立派に一役を果したともいえるであろう。
 アメリカでは、研究者は必要な研究費をいくらでも出して貰えて、自由に研究をしているというふうに思っている日本の科学者が、かなりあるように思われる。しかしそれは間違いであって、アメリカの科学者とても、決しておかいこぐるみで研究をしているわけではない。たいていの場合は、乏しい研究費と設備とで、いわば手弁当の研究をやっている。莫大な研究費と便宜とが与えられるのは、その研究の重要性と実現性とが確認されてからあとの話である。
 日本の国土開発について、為政者が現在のところ科学を無視していることは事実である。しかし為政者に科学のわからないことは、アメリカでも似たようなものらしい。もちろん、少しは向うの方がよいが、本質的にはそう差はないようである。原子爆弾の場合ですら、初めは政府は科学者たちの進言を一笑に付していたので、本気で採り上げたのは、ローレンス教授たちが、その実現性をほぼ確認してからあとのことである。
 科学の場合でも、一番大切なことは、まず実行である。考えているだけ、進言しているだけでは、決してものごとは進行しない。ボルダー・ダムの計画推進に要した十三年間の期間における技術者たちの努力は、いわば実行の努力であったと思われる。このことは知っておいてよいことであろう。
(昭和二十七年七月)





底本:「中谷宇吉郎集 第五巻」岩波書店
   2001(平成13)年2月5日第1刷発行
底本の親本:「日本の発掘」法政大学出版局
   1952(昭和27)年7月20日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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