映画を作る話

中谷宇吉郎




 去年の暮のことである。T映画会社の専務とかいう方が見えたというので、会って見たら、その用向きというのが、『雪』を映画にして見たいがどうかという話だったので、少々驚いた。
 もっともよく話を聞いて見ると、ちょっと面白いので、人工雪の結晶が顕微鏡の覗野の中でだんだん生長して行くのを活動にとって、それを主眼にして、外に少し研究の雰囲気をとり入れた文化映画が作りたいという話なのである。
「実は社の文化映画部の者が貴方の『雪』を読んで、大変面白いから是非一つこれを作りたいと言うのでしてな。どうも外国の文化映画がますます良くなって、何とかして独逸ドイツなんかの物に負けないような奴を一つ作りたいのですが、なかなか巧いものがなくて困っているんです。下手に立派な器械の場面だと思って撮ると、独逸製のマークがはいっていたりするようなことがあると困りますからね。その点『雪』の方なら大丈夫ですからな」という話であった。
 どうもなかなか油のかけ方が上手である。こういう風に巧くおだてられるとすぐ降参してしまって、それでは一つ協力して何とかやって見ましょうということになった。
 もっともこれは本当のことを言うと、私の方にとっても、大変好都合な話なのである。それというのは、低温室内の人工雪の方の仕事も段々進捗して、この頃は巧く装置内で雪の結晶を固定して置いて、装置の外から顕微鏡写真がとれるようになって来たのである。今迄は大抵は雪の結晶が出来上るのを待って、それを取り出して、低温室の片隅に設置してある顕微鏡の下へ持って行って、写真を撮っていたのであるが、それでは生長の途中の色々な段階での形が分らない。それでどうしても生長途中の形を知る必要がある時には、途中でちょっと外へ取り出して、大急ぎで顕微鏡写真を撮って、又装置の中へ戻して、生長を続けさせるという風な姑息なことをしていた。
 ところが装置の外から写真が撮れるようになると、実験は大変楽になる。兎の毛の一点に雪の核がつくのを待って先ず写真をとる。それから十分置き位につぎつぎと写真を撮って行くと、雪の結晶の生長して行く有様が実に鮮明に分って来て大変面白かった。今迄は、雪の結晶は、先ず上空で中心部が出来て、それが落下して来る途中で、つぎつぎと外側に新しい結晶の枝がついて出来上ると簡単に考えていたのであるが、どうも自然の機構はもっと複雑なようである。よく注意して一つの結晶の生長の過程を見て行くと、出来上った形だけを見たのではなかなか分らないような途中の形を何度も通って、完成形になるということが分った。
 それでは雪の結晶の形からそれが出来た時の上層の気象の状態を判断しようという前から考えていた夢のような話も笑い話になりそうであるが、そこは科学の研究の有難さで、嘘でない観察と実験の結果だけはいつ迄も残るものである。というのは、結晶の生長途中に於ける外観上の変形の法則さえ分れば、問題の大筋は矢張り通ることになるからである。
 ところで面白いことには、今迄一回の降雪に就いて、各種の雪の結晶がまじって降って来ると思っていたのが、前からの写真をよく調べて見ると、その中には人工雪の生長途中の各段階に於けるような形の結晶が、沢山あることが分った。どうも上層の色々な高さのところで雪の核が出来るので、高い所で生れた結晶は、すっかり生長した形となって地表に達するが、比較的地表近くで出来始めた結晶は、赤児のままの形で同時に観測にかかるものらしい。それで当面の問題としては、人工雪の生長の過程を詳しく調べる必要がある。それには、低温室の中に撮影機を備えつけて、結晶の生長を顕微鏡活動に撮るのが一番良いことは勿論である。特に微速度で何秒かに一齣ずつ撮れば、普通に映写した時には、結晶がみるみるうちに生長して行く姿が見える筈である。
 その準備はすっかり出来て、あとは活動の撮影機さえあれば良いというところまで実験は進んでいるのであるが、十六ミリ級の小型のものでは、とても低温室内で使えそうもない。と言って数万円もする標準型スタンダードの撮影機が買える見込は、当分のうちはなさそうである。
 所へもって来て今度の話なので、ちょうど良いところであった。このT社の専務さんは、初めは映画化の承諾だけとって、撮影は東京でやりたいという意向らしかった。「低温室はビール会社のものか何かを借りて、あの『雪』の中に書いてあるような装置を作ってやれば出来ましょうね。顕微鏡活動の装置は立派なのが会社にありますから」という申し出であった。これには少々恐縮したので、とにかく一度低温室を見に来て下さいということになった。
 零下三十五度くらいの室内で、すっかり実験の装置を説明したら、これはやはりこの低温室の中で撮影しなくては駄目だということに、一も二もなく決定した。この専務さんはその後度々会っているうちに分ったのであるが、大変研究に興味があって、自分でも色々奇妙な発明に苦心したりしている人であった。それで低温室内の私たちの仕事にも余程興味があったと見えて、ひどく『雪』の映画化に気乗がして、人でもフィルムでもふんだんに使って良いから、是非立派なものを作って下さいということになった。
「私の方の会社では、こういう映画は、一巻×千円くらいで作り上げることにしていますが、何、かまいませんよ。良いものが出来れば金はいくらかかってもいいですよ。一つ外国へ出してやりましょうよ。よろしく御指導を願います」と言って、帰って行った。後で考えて見ると、少くも二三万円はする撮影機が二台は撮影期間中使い放しになるし、それに経費もそんなにかけるというのだから、大変贅沢な話である。それにつけても学問の研究に使う金なんか随分貧弱なものだとつくづく感じた。
 外国へ出すという話で気が付いたのであるが、これも誠に御誂え向きの話である。実はこの九月に亜米利加のワシントンで、万国雪協議会という国際的学会の会議があることになっている。その会議コングレスは四年毎に一回開かれるもので、世界二十七ヶ国の学者百七十人ばかりを会員にした大掛りなものである。一九三六年に英国のエジンバラで第一回の総会があって、その時の報告書が今年になってやっと出来て来たのであるが、それを見ると八百頁余りの部厚なもので、数百の雪や氷に関する論文がぎっしりつまっている大変なものである。それで今度の会議にも出席して見たい気持も無いではなかったのであるが、それよりも『雪』の映画に英文でアナウンスを入れて、それを身代りに出席させる方が気楽である。しかし大学の研究費で映画なんか作ったら、一年の研究費をふいにしても足りないところへ、ちょうどこの申し込みである。世の中のことがいつでもこういう風に行けば誠に工合が良いものだと勝手なことを考えて、自分でも少し可笑しくなった。

 二月になって、いよいよ撮影技師の一行が五人で札幌へ乗り込んで来た。カメラマンのY君と、庶務係のO君と、外に助手、照明係の連中である。撮影機を二台と、外に三脚だの、照明用具だのは勿論のこと、撮影やテストの現像に必要な道具など一切持ち込んで来たのだから、大変な荷物である。それを宿屋に持ち込んで置いて、さっそく低温室へはいる用意と言って、シャツだのズボン下だのを買いに出かけるのだから、まるで北極探険にでも行くような騒ぎであった。
 翌日はあらかじめ借りてある低温室附属の空いている実験室にすっかり荷物を持ち込んで、さっそく低温室内で撮影機が巧く働くかどうかのテストにとりかかった。人工雪の方は、もう一月も前から準備にとりかかっているので、私の方の助手や学生の人たちは、手ぐすね引いて待っていたところである。いよいよ仕事にとりかかって見て、何よりも驚いたことは、カメラマンや助手の諸君の勉強振りである。その中でもY君の猛勉強振りには、一同がすっかり度胆を抜かれてしまった。私の方の人たちは少くも一年、中には二年も三年も低温室にはいり馴れているのであるが、それでも零下三十五度くらいの時で、二時間というのが最長記録である。普通は三十分くらい毎に外へ出て、暖まって又はいることが多い。ところが、Y君は着いた翌日からもう二時間以上も低温室内に頑張って、撮影機の設置だの、照明のテストなどを始めるという勢いであった。勿論陸軍からの払下げの兎の毛皮の防寒服に防寒帽、フェルトの防寒靴など、身拵えはしているのであるが、一時間以上もはいっていると、膝のあたりから少し痛くなって来る。一旦冷え込んでしまったら、外へ出ていくらストーブにかじりついて見ても、骨の髄に沁み込んだ寒さはなかなか抜けないので、非常に気味が悪いものである。
 私はまだ体力がすっかり恢復していないというので、実験は主として助手のH君がやってくれることになっていたのであるが、すっかり低温室に住み馴れたH君も、Y君の勉強振りには少々辟易したらしい。「あんなことをして大丈夫なんでしょうか。昨日なんか、カメラを取りつけるんで、低温室の床の上に坐り込んでしまったんですが。三時間も続けてはいっていて本当に大丈夫なんでしょうかね。」とH君は少し心配そうな顔をしている。私も初めは少々心配だったのであるが、その後段々見ていると、四時間くらい連続的にはいっていることもあったようだが、別に当座は誰も病気にならなかったところを見ると、あの防寒服で零下三十度迄なら四時間程度は先ず大丈夫ということを、Y君が実験してくれたわけである。
 時々低温室へはいって見ると、Y君が生真面目な顔をしてカメラに齧りついている。微速度で、五秒一齣くらいで撮っているので、モーターの廻転をギアで落している音が、妙にしんとした低温室内に静かに響いている。Y君は黙ってその番をしている。Y君の助手たちも手持無沙汰な少しねむいような顔をして、じっとギアの番をしている。本当のところ少し長く低温室内でじっとしていると、少しねむくなって来るのである。防寒帽の兎の毛には息が凍りついて真白になっている。時々助手君が腹がしくしくするとか、足の骨が痛いとか独り言のように言って見ても、カメラマンは知らぬ顔をして振り向きもしない。どうも恐るべき統制振りなのでひそかに舌を捲いたくらいであった。
 カメラの調整や照明のテストがすっかり済んで、いよいよ人工雪の成長を撮るとなって、急に色々な困難が出て来た。初めに兎の毛に核がついたところから始めるのであるが、核が出来てしまうと、結晶は急に成長し始める。それでなるべく初期の状態から捉えるためには、早くからカメラをすっかり調整して、いつでも始められるようにしておく必要がある。ところがカメラは始終低温室内に入れ放しにしておくというわけには行かない。いくら掃除と油とを吟味しても、前夜から低温室内に入れ放しておいたのでは、やはり廻転に無理が出来て、カメラが細かい振動を起し易い。相手が顕微鏡であるから、ちょっとの振動でもすぐ像がちらちら動いて、すっかり駄目になってしまうのである。低温室内で活動写真用のカメラを使うことは、あらかじめ充分心得て色々の注意をして置いたつもりであるが、いよいよとなると思わぬ故障が起り易い。結局油の垢のようなものが潤滑面に溜るのが一番怖しいので、毎日仕事がすむと、カメラを取り出してすっかり掃除をして、朝になって又低温室へ入れることにした。そしてY君がその設置をしている間にH君が人工雪の方の準備をする。それが巧く行って雪が出来始める迄に暫く余裕があれば、一度外へ出てちょっと身体を暖める暇があるのであるが、まごまごしているうちに核が出来てしまうと、そのまま撮影を続けなければならない。一度撮影にとりかかると、雪が出来上ってしまう迄少くも二時間は撮影を続けなければならないのだから、どうしても前後四時間近く連続的に低温室内にはいることになってしまう場合が多い。それで朝の八時頃から十二時近く迄かかって、巧く行けば映画の場面にして一カット約十秒くらいのものが出来上るわけである。ところがこれだけ苦労をしても必ずしも、一場面の撮影が出来るわけではない。何にしても相手が気紛れな雪の結晶のことである。第一、核のうちは形が見えないので、それがどういう風に発達するかが分らないのであるが、とにかく撮影は始めなければならない。運よく巧く樹枝状の綺麗な結晶になり始めたかと思うと、ちょっと水温の調節が悪かったり照明の光が強すぎたりすると、途中で発達が止るか、或は形が崩れてしまう。朝の中に講義と雑用とをすませて、午頃低温室へ行って見ると、附属室の方でY君が、少しやつれたような顔をしてストーブで暖まっている。「どうした」ときくと、「どうも途中で崩れてしまいまして」という返事のことが多かった。
 植物の花が開いたり、葉が散ったりする場面の微速度撮影は度々見ていたので、雪の結晶の生長も大体あの調子に出来上るだろうと考えていたのは大変な誤算であった。第一微速度撮影には、相手が静止していてくれなくては困るのであるが、顕微鏡の視野の中では、ちょっとした動揺でも拡大されるので、結晶は先ず絶対に静止というくらいにしなくてはならない。ところが結晶の生長は水蒸気の上昇対流の中で起るので動くのが当然である。それが先ず第一の矛盾である。次に結晶の美しい写真を撮るためには、結晶の面全体が焦点面に入らなければならない。普通の顕微鏡写真を撮る時は、その都度結晶を動かして焦点を合せばよいのであるが、活動の場合はそんな悠暢なことはしておられない。もっともこういう点は実験物理の範囲内であるから、H君が色々器用な細工をしてくれて、どうにか巧く切り抜けられるようになった。
 一番困ったのは照明の問題である。研究用のものならば、どうにかはっきり写ってさえおれば充分なのであるが、今度の場合は少し話がちがう。とにかく人も器械も経費も全部出して貰っている以上、少しは商品価値も出さなくては気の毒なので、そうこっちの勝手ばかりも言ってはおられない。それにY君の気質としては、どんな困難な撮影でも、科学的価値と同時に画面としての美的価値も出さなくては満足出来ないらしい。もっともウーファの文化映画などには、どうして撮影したか見当もつかないような困難な場面が、画としても実に美しく出来上っているのが多いのだから、本当ならば私も美しい写真が撮りたいのである。
 今迄の私の所で撮っていた写真は、結晶の微細な構造を見るために、透過光で白地に黒い線で結晶が出るように撮影していたのであるが、Y君の説によると、斜めの方向からの照明も必要で、それで結晶の線の一部が輝くようにした方が良いというのである。後に試写を見て分ったことであるが、なる程その通りである。普通の写真は明るい所で見るので、単なる乱反射光だけの問題であるが、映画の場合は画面が光源となるので、結晶面の一部に輝いた白線があることが、非常に効いて来るのである。そういう照明をする為に、装置の一部に副窓を作って、背後からの透過光と、副窓からの補助照明とで、写真を撮ることになった。この補助照明がちょっと強すぎると、結晶が昇華して崩れてしまうのである。
 低温室内の長時間撮影、顕微鏡による微速度、結晶の気紛れ、照明による結晶の昇華と、これだけ悪条件が初めからすっかり分っていたら、少くもこの冬には手がつけられなかったことであろう。しかし始めた以上、止めるわけには行かないので、とにかく相当な写真が撮れる迄は、頑張るということに話が決った。
 今に閉口垂へこたれることだろうと思って見ているのに、Y君はちっとも手を緩めない。毎日、朝早くから低温室に入り込んで、昼めしの時にちょっと出て、午後は又次のカットを撮り始めるという始末である。私の方はH君の外に学生の人の応援もあり、交代が出来るので幾分楽であるが、Y君の方はすっかり一人でそれを引受けなければならない。「Y君、どうも少し勉強が過ぎやしませんか。一体君は例外なんでしょう。それともカメラマンというのは皆そんなに勉強家ばかりなんですか」と聞くと、Y君はにやにやしながら、「ええまあ、ロケーションに出ると皆なかなか頑張りますよ」と言う。どうも皆がこの調子だとすると、日本で一番の怠け者は物理学者だということになりそうであるが、まさかそんなこともあるまい。しかしいずれにしても、大学の教授などが一番の勉強家で、活動の連中なんかはみんな不良少年程度のものと思っている先生があったら、そういう見解は改めた方が良さそうである。

 台本は社の方で作ってくれたのであるが、実験の都合もあり、天然雪も勝手に降らすわけにも行かないだろうから、適当にそっちで変更して貰いたいという話であった。いずれにしても外国語版の方は少しむつかしくした方が良さそうだというので、その台本を作ることにした。
 さて台本を作るにしても流石さすがにちっとも勝手が分らない。それでY君とO君とに来て貰って、相談をしながら作って行くことになった。両人にしたら迷惑な話で、一日中低温室で働いて、夜になって今度は台本を作るというのだから楽な話ではない。座敷の真中に大きい机を持ち出して、三方からそれを囲みながら、今迄に出した雪の論文の別刷と、洋罫紙とを一杯に拡げ立てて、シナリオともコンティニュイティともつかぬものを書き出した。
 初めのうちはまるで調子が出なくて、どこから手をつけてよいか見当がつかないので大いに困った。それでも予備知識として、overlap とか wipe out とか fade out とかいう技術テクニックスと、その意味とを教わっているうちに、段々ぼんやりながら台本の作り方が分りかけて来た。それでとにかくやってみようという決心をつけて、先ず原則を勝手に決めることにした。第一に観衆に「分らす」という点であるが、これは学生が試験を受けるために事柄が「分る」という意味で分らすことは止めるという方針を立てて、線画を出来るだけ少くすることにした。もっとも雪の結晶の科学がまるで分らなくては困るのであるが、かなり大胆に作っても、研究の雰囲気と朧ろな内容とは誰にも分らすことが出来る筈だとして、先へ進むことにした。そういう方針だと、「説明」を出来るだけ少くする必要がある。こういうサイレントで撮って、トーキーでアナウンスを入れる種類の映画では、アナウンスの方はとかく説明に陥り易いようである。せっかく耳と眼と二つの次元ダイメンションを使いながら、それを一つの平面の上に並べてしまうのは如何にも能のない話である。それで洋罫紙の一方の面にコンティニュイティを書きながら、各場面の時間を決めて、その長短に従って行をあけて置く。一方少しゆっくりした口調で読みながら時間を測って見ると、英文だと案外沢山はいって、十秒に二十五語から三十語迄は大丈夫のようである。その割合で時間を合せて、罫紙の他の面に画面の直接の説明に陥らないように注意しながら、アナウンスを書いて行くのであるが、そう巧く時間が合うように、自由に文句は出て来ないことが多い。そういうところでは仕方がないから、画面の方で塩梅したり、新しいカットを挿入して辻褄を合せたりすることにした。画面の方を変えると、アナウンスの方もまた少し変って来るので、結局両方から歩み寄るわけである。この映画に於ける漸次接近の方法サクセッシブ・アップロキシメーションはなかなか面白かった。もっともアナウンスの外に音楽もはいるのであるから、底に低く音楽を流すと、いくらでも胡魔化ごまかしが効くらしいということも、少しやっているうちには分って、この方もちょっと面白かった。
 アナウンスと画面とを立体的に組合すことにすると、画面の方はそれだけで昔のサイレント映画のように完成している必要がある。そのつもりで台本をつくりかけて見て、二晩ばかりかかって初めて分ったことは、寺田先生の「映画と連句」が如何にも卓見であったということである。随筆でも書くようなつもりで、つぎつぎと連絡した画面を出して行ったのでは、目先はいくら変っていても、誠に薄っぺらな感じのものになるらしいことは、台本の上だけでも充分わかった。それかと言って、余り突飛な場面を挿入して物笑いになるのはなお困るし、結局連想の世界での連絡という連句の心得が、この場合に一番大切な黄金則になるようである。もっともそこ迄分ったとしても、映画の方は生れて初めてのことであり、連句の方もそれに似た程度の腕前では、如何にしても傑作は出来そうもない。それに初めからの註文が、なるべくは一巻に纏め上げたいという話だったので、連句の方は差し控えることにして、なるべく内容のある画面ばかりを選ぶことに決めた。そして画面の付け離しには、overlap や wipe out をふんだんに使って胡魔化すを覚えたのであるが、それだけでは余り人為的な感じが出る恐れがある。よく考えて見ると、下手にそんな細工をするよりも、カットの連続ばかりの方がかえって結果が良いかも知れないという気もする。それで所々には、かなり沢山のカットの連続も入れて、そこはトーキーを善用して、アナウンスがカットの継目に適当にかぶさるようにしたら、全体としてかなり活溌ではあるが、流暢な映画が出来るのではなかろうかと、少々滑稽なくらい雄大な計画を立てた。
 こういう規模雄大なつもりでやりかけたのであるが、実は出来上ったものを見ると、誠に平凡なもので、少々きまりが悪かった。もっともそれくらいでちょうど良いので、余り最初から立派なものが出来上っても困ることであろう。結局映画を作るということは非常に面白いものであることがよく分った。ただ迷惑なのはY君で、三晩ばかり続けさまに十二時過ぎ迄かかって、やっと三分の二くらいまで漕ぎつけたら、到頭弱音を吹いて気の毒だった。「どうも朝から低温室にはいっていますので、夕方七時頃迄やって、宿へ帰って熱いお風呂に入ると、もうぐったりしてしまうものですから」という話である。私の方も毎晩映画製作をやっているわけにも行かないので、ちょうど良いことにして、大体一晩おきに続行することにして、到頭英文版と日本語版と、二つ共作り上げてしまった。
 台本が大体出来上る迄に、人工雪の成長と、低温室内の必要な場面とは大体撮れたのであるが、困ったことは、この冬は雪がちっとも降らないことであった。二月の初め迄に北海道の測候所始って以来という大雪が降ってしまって、それが五尺近い積雪となって地上にあることはあるが、すっかり石炭の煤で汚れてしまっていて、どうにも撮りようがない。皆が札幌へ来てから二十日間というものは毎日晴天つづきで、これも北海道有史以来という不運に遭ったわけである。降雪中の街の景色と、屋上における観測の場面とがなくては、どうにもシナリオが書けないので、毎日待っているが、夕方になると一天雲もない空の地平線近くが薄紫色に霞んで、春の光の兆しが見えるような日ばかり続いて如何にも心細かった。二週間ばかり待って、漸く天気が崩れる気配が見えて来た。そして時々さっと驟雪型の雪が降って来るようになったので喜んだのであるが、今度はそれを捉えるのに大いに困難した。やっと雪が降って来たと思って、重いカメラと三脚とを二組、三階の屋上迄かつぎ上げたかと思うと直ぐ止んでしまう。暫く待っていると雲が薄れて青空が少し見え出すので、落胆してカメラを低温室の方へ運ぶと、又降り出す。大急ぎで駈け上ると又止む。そういうことを一日に三回繰り返したこともあった。そのうちに段々皆の気持の中に、敗軍の将兵達の間に起るような気分が兆し始めたような気がして、少々心細くなった。一番困ることは、余り肉体的と同時に精神的に疲れてしまうと、目的が良い場面を撮ることかられて、良い場面を撮るために行動することに変ってしまうことである。それでも結局根気の方が、今一息というところで天候に打ち勝って、三月になってやっとこの方もとにかく我慢出来る程度の場面が撮れた。
 これで一応札幌での撮影が済んだので、細かいカットは後廻しにして、この気象配置が動かないうちに、大急ぎで十勝岳へ天然雪の結晶と山小屋の場面とを撮りに行くことにした。私の方でもちょうど三月の十勝の雪を未だ調べたことがなかったので、H君たち三人が一行に加わって、コレクション用の天然雪の写真も撮り、撮影の相談にも乗ることになった。流石の十勝もこの冬は妙に暖かくて、夜の十二時頃にならぬと、零下十度に下らないので大変困ったそうである。それでも宿屋の土間に頑張って、毎晩十一時頃から雪が降って来る毎に撮影を始めているうちに、鼓の結晶が顕微鏡の視野の中で、風に吹かれて一廻転する場面というような珍しいものも撮れた。雪は時かまわずに降るし、滞在期間の余裕はなしというので大分困ったようであった。真夜中から結晶の撮影を始めて、明け方の四時迄写真を撮り、疲れてぐっすり寝込んだ寝入りばなをY君が叩き起して、「良い雪が降って来たから直ぐ山小屋の場面を撮りに行く」と言うので、時計を見たらまだ六時だったというのだから、皆の閉口垂れた姿が思いやられる。
 十勝のロケーションも一週間ばかりでとにかく済んで、また低温室へ戻って人工雪のカットを少し撮り直し、結局前後四十日ばかりかかって、どうにか予定の場面だけは撮ることが出来た。

「映画を作る話」はこれで済んだわけではない。と言うのはまだ編輯モンタージュという厄介な仕事が残っているからである。どうせここ迄来た以上は、ついでに編輯も一度勉強しておこうという気になって、四月上京の折に映画会社の方へ寄って見た。撮っただけのネガを皆焼いてつなぎ合せた編輯用の陽画はもう出来ていた。これはラッシュというものだそうである。普通のラッシュは旧いフィルムを再製したものに焼くので、とても見られたものではないが、今度のは比較的よいフィルムに焼いて貰ってあったので、その試写を小宮さんとか安倍さんとかいう少しやかましそうな先生方にも見て貰った。そしてその意見をきいて、翌日は朝から夕方迄撮影所の編輯室にとじこもって、Y君と二人ですっかり第一次の編輯をして見た。
 ラッシュは焼きが一定していないし、フィルムも悪いし、それに無駄な場面も沢山はいっているし、その上順序が滅茶苦茶なので、どうにもならないもののように見えた。とんだものが出来上ったと少々腐っていたら、Y君が「これでも良い方ですよ。すっかり御化粧したら立派なものになります」と慰めてくれた。
 編輯をやるにはムヴィオラという便利な器械のあることを初めて知った。磨硝子すりガラスの上をフィルムが走って、それを裏から電灯で照しながら、拡大鏡で見る装置である。フィルムの走る速さは、ペタルの踏み加減で任意に調節出来るので、大変工合の良いものである。これで覗きながら、カットの取捨をしたり、一部を切ったりして、つないで行くのであるが、一番の問題は場面の気分が台本を作る時に考えたものとまるでちがっているものが多いことである。それから偶然巧く撮れた予期しない場面もかなりあるので、これ等を取捨選択するとなると、全体の調子も構成も、初めに考えていたものとは大分変って来る。もっともそれだから編輯の方が重大なので、意想外にむつかしいが、面白いこともずいぶん面白かった。
 編輯をして見て一番閉口したことは、低温室の中がちっとも寒くないことである。零下三十五度を指している寒暖計の大写しを出して見ても、何にもならない。低温室の内部の壁が白木で張ってあるので、照明灯の光が映えて、室全体が煌々と輝いて、如何にも暖かそうに見える。これでは真暗な低温室の中で息が白く凍る雰囲気はとても出て来そうもない。そんなことに今頃になって気がつくのはおそいのであるが、気に入るような映画が一月くらいで出来上る筈はなかったのである。この問題だけについて見ても、初めからこういう室内で特殊の効果を出すような照明灯から、工夫してかかるべきであったということが、後になって分った。
 天然雪はもう時期がおそくて、針だの、角柱だの、十二花だのという珍しい結晶は撮れなかった。それで仕方なくこういう結晶は旧い写真を複写して挿入して見たが、いざ映写して見ると、まるで死んでいるので、大部分は割愛してしまった。そのついでに、人工雪の結晶も代表的のものだけ採って、後はどんどん削ることにした。低温室の中で四時間もかかって撮ったカットが、つぎつぎと消えて行くので、Y君は如何にも悲しそうであった。そして「大抵の官庁の映画だと、あれも入れろこれも入れろと言われて困るのですが、それにしても先生のは少し削り過ぎやしませんか」と少し恨めしそうであったが、まあ我慢して貰うことにした。
 昼めしは撮影所の食堂で食べた。忠臣蔵の討入を撮っているとかで、殺され役の吉良の家来たちと並んで弁当を食べて、午後も続けて編輯をやった。夕方一通り出来上ったので、今一度試写をして見ると、少し映画らしくなっているので幾分安心した。後の細かいお化粧のことはすっかりY君に頼んで、これで先ず「映画を作る話」は完了したわけである。
 編輯をして見て一番面白かったことは、台本を書いている時に予想した映画と、出来上ったものとは、まるで別のものになるということが分ったことである。頭の中で考えたものと、現実とは如何なる場合にも違って来るものらしい。編輯の技術の方はその現実の方に即しているだけに、それだけむつかしく、又それが本当の技術なのであろう。

 忙しい時間を大分潰して、とんだ道楽と思われそうなことをして見たが、最後に残った感想は、全く新しい経験というものは、如何なるものでも、一度体験して見て決して損はないということであった。
(昭和十四年四月)





底本:「中谷宇吉郎集 第三巻」岩波書店
   2000(平成12)年12月5日第1刷発行
底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日
初出:「中央公論 第五十四年第六号」中央公論社
   1939(昭和14)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「『雪』の映画を作る話」です。
入力:kompass
校正:砂場清隆
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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●図書カード