二千六百年の記念事業の中で、百年後の日本人に最も感謝されるものは、今度の法隆寺の壁画の摸写ではあるまいかと、友人の一人が私に語ってくれたことがある。
そう聞いて見れば、なる程その通りかもしれないという気がする。法隆寺の壁画のことは、色々と美しい感嘆の言葉は聞いているが、まだ見たことはなかった。もっとも機会を作れば、春秋の拝観期に大和を訪れることも出来なくもなかったが、懐中電灯の光でぬすみ見る程度では、吾々素人にはその価値が分りそうにも思えなかった。
ところがこの頃、蛍光灯の光で見た壁画の美しさと貴さとを讃仰する記事を新聞で読んで以来、急にこういう機会に一度あの壁画を見たいものだという気持が強くなった。吾々の民族の持った最高の芸術品が、千年の闇の中から初めて白日の下に浮き出たという、そのことだけでも、心を惹かれるに十分であった。もっともそれが案外本音であって、白鳳時代か奈良朝の初期か、いずれにしてもその頃の歴史も美術もしらない私たちが、鑑賞しようなどというのは少し大それた考えなのであろう。
新涼の頃からぼんやりそんなことを考えていた矢先、思いがけず仏事で郷里へ帰ることになり、二三日の暇を大和に
法隆寺へ着いたのは、十一月の三日であった。毎年のことながら、明治節の空は高く澄み上って、沢山の参詣者たちは、誰もこの絶好の秋日和を愉んでいるように見えた。久し振りで北海道から出て行った私には、特に周囲の景色が心に沁みて嬉しかった。
Y君はちょうど今壁画の摸写をやっている森田沙夷氏を知っているというので、先ずその住所を訪ねることにした。それは直ぐ分って、私たちは白く乾いた法隆寺の古い土塀に沿って、阿弥陀院というその仮りの宿舎を訪ねて行った。少し崩れおちた土塀には秋の陽が暖かくさしていた。
森田氏は留守であった。今日は電気が休みで蛍光灯が使えない為に、摸写はお休みになったのだそうである。少し失望した私たちは、それでも管長の佐伯定胤師に会って、色々話を聞いて、元気を出して金堂の方へ行って見た。ところが、運よくちょうど電気が来て、蛍光灯が煌々と輝いていたので、非常に嬉しかった。
壁画の摸写中は、勿論内陣へははいれないのであるが、外の廊下から、二号壁の弥勒像だけは、直ぐ間近に見ることが出来た。ちょうどこの壁は荒井寛方氏の助手役の藤井白映氏と鈴木三朝氏とが摸写にかかっているので、蛍光灯が二組差し向けられ、まるで直射日光に照らされたかのように、暗い金堂の中に浮き出ていた。
写真で見たことのある、等身より少し大きい弥勒の姿が、天平仏に特有といわれるあの美しい線をなして立っていた。この光で見た壁画の最初の印象は、写真で想像していたものとはまるで感じがちがっているということであった。それは崇高というよりもむしろ無上に美しいものであった。全体の基調は水色がかった明るい調子で、何となく暖かく透明な感じがした。そして仏身の線が滑かで細いにもかかわらず非常に力強く描かれていた。勿論千年の年月は画面に著しい損傷を残してはいたが、全体として見る時には、色彩が余り鮮かで、思わず驚嘆の眼を見はるようなものであった。
写真は今までも度々撮られて来たのであるが、写真には傷痕の方が印象強く写るのと、全体の調子が、乾板では
もっとも以前に、懐中電灯の光をたよりに見ていた頃は、あの写真のようなものと思って満足していたのかもしれない。そう考えて見ると、過去千三百年間の日本人が、誰も本当には見ることの出来なかった絶代の芸術品を、今日眼のあたりに見る感激がひとしおに湧き出て来た。それにしても、あの暗い金堂の中で、どうしてこういう色彩の画を描き上げることが出来たかと不思議にも思い、神秘的な感じにさえ打たれるくらいであった。次の日森田さんに聞いた話では、実際それは謎になっているのだそうである。金堂の外まわりに取りついている差掛けようなもの、これは
壁画の摸写は四組に手分けしてされていた。そして中央の須弥壇と壁画との間の狭い隙間に櫓を組んで、その上に坐って描くようになっていた。それで他の壁画は櫓のかげになったり、或は照明がされていなかったりして、外から見ることは出来なかった。それでも私たちは、二号壁から受けた強い印象だけで十分満足して辞し去ることにした。
その夜は秋の吉野で泊る手配にしてあった。しかし考えて見ると、どうしても心が残るので、吉野は泊るだけにして、翌朝は早く今一度法隆寺へ戻ることに二人で話を決めた。
次の朝は吉野の桜紅葉を朝霧の中で瞥見しただけで、急いで山を降りた。Y君は「とんだ吉野見物ですね」と笑っていた。時間を節約する為に、電車の中で鮎ずしを喰べて、ひる少し前に法隆寺村へ着いた。
その足で阿弥陀院へ行って見たら、森田さんたちは、ちょうど昼飯のすんだところであった。寛方先生と藤井さんも一緒だった。三人とももんぺ姿で、今朝から描いて今帰ったところだという話であった。挨拶がすんで、さてこの法隆寺村での生活振りを見て私は驚いてしまった。それは正しく中学生のボートの合宿の生活なのである。
阿弥陀院というのは、法隆寺の
私は何よりも先に食物のことを聞いて見た。そしてその答えは思った通りであった。初めはこの村の仕出し屋から弁当をとっていたが、何といっても法隆寺村の仕出し屋のことであって、魚などは腐敗に瀕しているので、どうにも喰べられなかったそうである。それでこの頃は炊事婆さんを雇って、大根だの芋だのを煮て貰って毎日喰べているという話であった。この方は食
摸写の仕事は、午後に現場を見て、初めて、普通に考えているよりも、遥か桁ちがいの難事業であることを知ったのであるが、それ程に考えなくても、こういう生活では、とてもこの事業の完遂が望まれないのではないかという気がした。
「実際大変な仕事なんです。私は生れてから肩の凝るということは未だ知らないのですが、今度十日ばかり続けて朝から夕方までびっちり描いたら、
壁画は事実もう崩壊に瀕しているといって良い状態にあるらしい。時々摸写をしているところに小さい蜘蛛が巣を張りに来ることがある。壁面には絶対触れられないので、それをそっと息で吹いて追おうとすると、その息でもう絵具が剥落しそうになる所もある由である。「浄土の再現」と新聞に騒がれているこの壁画の寿命を思うと、誰も暗然とした気持になることであろう。それだけに今度の摸写の事業には大きい期待がかけられるのである。
摸写の画家たちや委員会の方の意気込みでは、単なる剥落写しなどという生易しいものではなく、実物の壁と寸分ちがわぬものにすることは勿論、千年の年月がこの絶代の神品に
時間が来て、皆で金堂の方へ行くことになった。私はこの人々の貴い仕事を思うと、遠慮するのが当然と思いながら、文字通り千載一遇という誘惑にはついひかされて、すすめられるままに一緒に内陣まで御伴をすることにした。
中へはいって見たら、櫓だの、蛍光灯の支持台だので、随分窮屈になっていた。特に櫓の上の狭苦しいのにはちょっと驚いた。その上に小さい座蒲団を敷いて、それに坐ったまま、終日摸写をつづけるのである。摸写の方法は、入江氏の揚げ写し法を除いては、皆原寸大の写真の上に直接色をつけるのである。写真といっても、神宮紙にコロタイプ印刷をしたものを用いるので、初めに胡粉で一応塗り潰してから描いて行くのである。一枚の神宮紙は新聞全紙くらいの大きさで、それを一枚ずつ完成して行って、最後に全部を貼りつけてから調子を揃えようという計画なのである。神宮紙ならば千年は大丈夫持つということであった。
壁面に近づいてよく見ると、なる程ひどい荒れ方である。明治の初めには、竹箒で壁面の蜘蛛の巣をはらったという話であるが、その前にはもっと
壁画の写生といえば、二号壁の下では、ちょうど藤井さんが一所懸命に筆を動していた。壁面の最下部という一番傷んだ部分から仕事を始めたので、神宮紙一枚殆んど完成していたが、その中には肝心の壁画はまるではいっていないのである。弥勒の羂索のほんの一部、それも大半剥れた緑青の色が僅かに残っているくらいで、後は全部崩れつつある壁の傷痕の写生なのである。よく見ると、毛ほどの傷まで実物通りに出ていて、しかも全体の調子が如何にも白鳳以来の歳月の積りを思わせるように出来ていた。森田さんの話でもそうであったが、この程度に仕上げるには、一日に普通は一寸角くらい、余程よくて二寸角くらいしか描けないそうである。あの金堂の片隅にうずくまって、一月の間毎日壁の傷痕ばかり写生をしている人の気持は、実際の場面を見なくては、ちょっと想像が出来ないであろう。
森田さんは、第十号大壁の上端部を描いていた。高い櫓の上の狭い場所で、窮屈な恰好をしながら、今日で十八日目だといっていた。神宮紙一枚の三分の二ほど出来上っていたが、この方も楽ではないらしい。もっともこの部分には比較的完全な天女の画があるので、楽しみといえば言えるが、その色がなかなかの難物らしかった。指頭大の天女の唇に桃色の色が塗ってあったが、これも長年月の変色が加わっていて、どうしても現代の絵具では、その色が出ない。「この唇だけでも十八遍塗りましたが、どうしても色が出ません。切りが無いからこの程度で止めて置きました」という話であった。
絵具は大体現代の岩絵具と同じものらしいが、どれも皆千年の年月を経ていることが困るのである。森田さんは、緑青の古色に散々手を焼いた揚句、到頭試験管の中で緑青を焼いて、適当に酸化させて見たら、やっと同じ色が出たと言っていた。緑青は酸化銅ではなくて塩基性炭酸銅の筈だから、なるほど焼けば良いのだろうと感心した。差し出された試験管を手にしながら、それにしてもこんな調子でこの大壁を描き上げることが、現在のような待遇の下で、果して出来るかしらと不安な気がした。
一時間も居たら、私は少し疲れた。主な原因は余り緊張し過ぎた為であろうが、暗い室の中に長く居るのは疲れるものである。摸写中の壁面だけは煌々と照らされているものの、室内の他の部分へはなるべく光が行かないようにしてあるので、金堂の内部全体は暗いのである。壇の中央には、釈迦三尊仏が昔ながらの姿で、櫓にも蛍光灯にも何の関心もなく、寂然として安置されている。その上の天蓋の鳳凰も、天井の闇の中にじっととまったまま、千三百年の世のうつりを眺め来た眼で、今日の摸写の人たちの懸命の努力を見まもっていた。
少しおくれて見えた寛方先生も、すぐに仕事にかかられた。同じ十号大壁の中央部近い所で、脇仏の頭が沢山並んでいるところである。先生の仕事も、遅々としてはかどらないようであった。二十何年前、アジャンター壁画の摸写に精魂をつくし、今また六十を超える身でこの難事業に最後の生命力を打ち込んでいる老画伯の後姿が、シルエットのように、黒くうつっていた。その姿を眺めながら、一方阿弥陀院での生活を思い見て、私はまたしても、今のような状態で果してこの事業の完遂が期せられるだろうかと、心配になった。
アジャンター壁画といえば、杉本氏の著書『
印度の奥地と法隆寺村とを同律に言うわけではないが、今度来て見るまでは、摸写の画家たちがああいう生活をしていようとは、夢にも考えていなかった。困苦に耐えて貴い仕事をすることが悪いとは思わないが、困ったことには、今の状態では永く続けてこの仕事に没頭することが出来ないのである。摸写の画家たちのうちには、この秋は大体一ヶ月程度仕事をして、直ぐ東京へ帰って、生活の為の仕事にとりかからねばならない人がかなりあるらしく察せられた。アジャンターの場合には生涯の生活を保証されるのが、今度の場合は法隆寺村での生活さえ十分には保証されていないように思われた。
費用のことなどを具体的に言うことは避けるが、最初の予定は、吾々が常識で考える最小限度の更に十分の一くらいが計上されていたらしい。もっともそれは今後増されることと思うが、今の状態のままで、春秋に短期間ずつ摸写をするのでは、四年くらいはどうしてもかかる計算になる。
この場合、摸写の人選に当ったことは非常な名誉で、生活のことなどを考えるのは間違っているという議論もあることであろう。事実猛烈な運動もかなりあったという噂である。しかし大臣になり手はいくらもあるから、月給などいくら少くても良いという流儀の議論はちょっと困るのである。
入江氏と橋本氏との組は今日は見えなかった。そして辞し去ろうとした頃、ちょうど中村丘陵氏が来られた。
中村さんは年にもめげず、大変元気でにこにこしておられた。この方は四人一組で狭い桟敷の上に眼白押しに坐って、一枚の画を一緒に描いて行くので、大変窮屈そうだった。「どうもむつかしくて」と言いながら見せられた画にも苦心のあとがまざまざと出ていた。
その夜は、森田さんからゆっくり摸写の体験談をきく機会を得た。
この壁画は多分当時の帰化人画家の筆になるものであろうという従来の意見に対して、今度の摸写の人たちが、実際に描いて見て日本人説を確信するに到ったという話は面白かった。寛方先生の話では、アジャンター壁画はいわば下手物の優れたものであるが、法隆寺の壁画はそれと正反対に、隅の隅まで細かい神経が行き届いたもので、全く別種の人間の手になったものという感が深いそうである。両方の画を正式に摸写して見た人の意見として、私は興味深くその話を聞いた。木の葉一枚でも、写生をして見ないと、本当の形は分らないものである。
こういう画家のいわば芸術的論拠からの意見などは、考古学的には何の意味もないことだろうが、厳密な学的根拠というものが、案外たよりない場合もある。画の考証などをする場合、摸写をして見て、その作者の神経を探るという方法も考えられないことはない。この場合、摸写をすることが必要なのであって、如何に丁寧に見ても、見るだけでは足りないのである。
森田さんは天女を描いて見て恐ろしくなったと言っていた。指一本でも、沢山のデッサンをして、その中から一番良い線を選んで描いたものにちがいないので、どんな天才でもとてもぶっつけに描ける画ではないそうである。あの大壁画の隅の隅まで、余りに精根をつくして描いてあるので、摸写をしていながら、時々人間の魂の高さに思わず頭が下ることがあるという話であった。
寒い札幌へ帰って来て、大和の秋を憶いみる毎に、千年の闇から煌々と現じ出た壁画の姿が先ず心に浮ぶのである。
この頃東京の新聞を見たら、正倉院御物拝観の群衆が、上野の山を幾巻きにも巻いたという記事があった。入場者は合計四十万人にも達したという。
この話も、今のような時勢になると、人間の憧憬の眼がどこに向くかを示すものと解釈すると、意味が深いような気がした。飛鳥や天平の夢は、永久に、日本民族の心のふるさとなのであろう。
法隆寺壁画の摸写の仕事は、永遠の時の流れに抗して、消えゆく夢をしばし取り止めようとする至難の事業である。この難事業が理解ある人々の庇護によって、一日も早く無事に完遂することを願う気持に耐えない。
(昭和十五年十一月)