雪後記

中谷宇吉郎




 今年の冬は、二度十勝岳へ行った。
 そしてそれは、私にとっては、誠に待望の十勝行の再挙が遂に成ったものであった。
 冬の十勝行ももう旧い話で、実のところ、今ではもはや私たちの仲間の雪の研究の生活の中では、何も事新しい話ではない。しかし私自身にとっては、あの五年前の冬の十勝行が名残りとなってしまっていたのである。というのは、その後ずっと健康に恵まれなかった私には、再びあの十勝の雪に埋れながら顕微鏡を覗き暮す生活が巡り来ようとは思われなかったからである。
 四冬にかけて、冬毎に遠く十勝の雪を思い見る日が続いた。そして暖かい伊豆のいで湯に浸りながら漸くに貯えた乏しい生命を、少しずつ小出しに出して、時々札幌へ帰って来ては、思い出の雪の結晶の様々を、低温室の中で人工的に作って見るという生活を続けていた。そういう暢気のんきなようで、しかも心の底に何か切迫したところのある生活にも到頭別れる日が来た。そしてすっかり健康を恢復した私は、暮のうちからもう今度の十勝行の再挙について、本当に晴れやかな気持で心準備をするようになっていた。

 今年の二月一日の朝は、例年になく寒い朝であった。
 前夜旭川で泊った私たちの一行が上富良野の駅へ下りたのは、まだ朝の七時前であった。北国の真冬のこととて、勿論まだ陽は出ていなかった。しかし珍しく晴れ渡った空は一面に、高緯度の土地に特有な青磁色に淡く輝いていた。そして大地の上を低く、あるか無きかの靄がひっそりと蔽っていた。こういう厳寒の夜に低くたれこめる靄は、地上のすべてのものを凍らしてしまうような靄である。
 あとで聞いた話であるが、この朝は零下二十七度まで下ったということである。出迎えの村役場の助役さんとも五年振りの邂逅であった。暫く挨拶をかわしているうちにも、もう鼻の中が冷え切って、冷い空気がそのまま胸の中まで浸み通るような気がした。それでみんなで大急ぎに身仕度をして、すっかり防寒服につつまれて、馬橇の上に三人ずつ行儀よく丸く納まることにした。
 ちょうど達磨を三つ並べたような恰好で、馬橇は走り出した。まだ明け切らぬ夜が、馬橇のまわりにつきまとって、雪の原野が遠くまで銀鼠色にひろがっていた。軽い興奮と、まだ幾分残っているかすかな健康上の不安とがあった。私はじっと馬橇の上にうずくまって、澄み切った氷のような空気を息を細めてそっと呼吸しながら、陽の出るのを待っていた。心づくしの湯たんぽが、脚の下からほのかな暖かみを送ってくれるが、上半身の方はだんだん冷えて来る。そしてすっかり村をはずれた頃には、もう寒気が防寒服の厚い地をとおして、肩や上膊のあたりをちくちく刺すように感ぜられて来た。こういう場合には、熱の放散という言葉よりも、寒気が針のようにつきささって来るという方が適切なのであって、本当にそれは針のように感ぜられるのである。
 こういう場合には、流石さすがに誰も口はきかない。幸い強い馬にあたったので、行程ははかどるようである。馬はもうすっかり汗ばんで、全身から上る湯気がすぐ凍って、毛先に白い霜となってついて行く。
 軽い脳貧血のように、少しうつらうつらとして来た頃、待ちかねた太陽が、ぱっと十勝連峯の山際を離れた。そして見る見る周囲が茜色に染って来た。すると、すぐ眼の前の大気の中にちかちかと金剛石ダイヤモンドの粉を撒いたように、氷晶が光っているのに気がついた。
 この氷晶は、北満などでは、厳冬のうち晴れた朝には時々見られるという話を聞いていたのであるが、私が北海道で見たのは今度が初めてである。すっかり眼が覚めたような気持になって、私はすぐ眼の前を静かに揺れて行くこれ等の無数の光点の流れに見入っていた。遠い大気の上層、夏ならば巻雲の浮んでいる大空で、水蒸気が氷結して出来る最初の姿、いわば雪の結晶の生れたばかりの形とも言うべきものが、この氷晶なのである。大きさといえば百分の一ミリにも足らぬこれ等の結晶にも、色々の形がある筈である。低温室の中で、幾度も幾度も作って見た雪の結晶の初期状態の中には、それ等の美しい様々の形があった。縫針の先にも足らぬ小さい六角板、六角の角錐、小人の国の水晶の結晶ともいうべきものなど、低温室の中で色々に作って見た時のことを考えながら、私は今すぐ前の大気の中に輝いている氷晶の光点の中に、それ等の姿を思い見ていた。
 今度の十勝行の目的の一つには、この氷晶から、だんだんに雪の結晶が発達して行く経過を、実際に天然の雪について、確めて見たいということもあった。低温室内での雪の結晶の人工製作にも、もう四年の月日をかけた。今では私たちのいわゆる一般分類で十八種に分けている複雑を極めた雪の結晶のすべての型も、どうやら実験室の中で作ることが出来るようになった。
 この雪の結晶の人工製作の中で、一番面白いのは、結晶が出来かけた最初の姿、即ち氷晶の状態から、結晶がだんだんに成長して、遂に吾々が地上で観測する姿までに発達して行く様子が見られることである。色々に条件を変えてやると、生れたばかりの雪の結晶は、どのようにも成育の形を変えて行く筈である。そして大抵の型の結晶は、そのようにして出来るのであるが、或る種のものは、どうも初期の状態で既にその後の発達の模様が決められるらしく、例えば美しい羊歯状の六花の結晶などは、初めから小角板か極微の鼓に生れついていないものからは、なかなか作れないようであった。逆にそういう素質の良い卵は、その後の成育条件が悪いと、妙にひねくれた形になってしまうようである。生れたばかりの雪の結晶に、そのような個性があろうとは夢にも考えていなかっただけに、天然の場合について、大空遠く雪の生れるあたりでの結晶の姿を何とかして見たいという衝動に、この一二年は駆られて来たのである。
 雪の降る中を飛行機で飛んでもらうことはまだ当分は出来ないし、気象観測用の大きい凧を揚げることも、今のところでは望みがうすい。気球に小さいラヂオの発振器をつけて飛ばし、その発信波長が気象状態の変化によってかわるのを地上で受信して、上層の気象状態を推測するという方法があるので、そういう気球も大分飛ばせてみた。しかし確かなところは何も分らなくて、むなしく一年の仕事を棒にふったのも、つい昨年のことである。
 そのうちに思いついたのが、今度の十勝行の再挙である。行きつけた白銀荘の小屋は、僅か三千五百尺の高度に過ぎないが、それでも一ヶ月も待っていたら、ちょうど運よく巧い気象配置に遭遇して、あの小屋を囲る美しい椴松とどまつの梢あたりを、初期状態の雪の結晶が流れとぶ日があるかも知れないというのである。そういう旅の門出を、今、朝日に輝いた氷晶の乱舞に迎えられて、一行の心が急に晴れやいで来たのも無理はない。
 氷晶は間もなく姿を消したが、二月の直射する陽の光はもうかなり強い。塵の名残りさえ無い空は紺碧に澄んで、雪原はまばゆく照り映えている。黒地の防寒服は、太陽の輻射熱を心ゆくばかり吸って、身体は暖かく、そして空気は冷い。幾度もの十勝行で、今度ほど恵まれたことはなかった。一行の若い人たちは、時々馬橇からとび降りて、雪原のかなたに聳える十勝連峯の写真を撮るのに忙しい。心なしか今日は十勝の噴煙も高々と立っているようである。幾分私の身体のことも気づかって同行して来てくれた友人の一人は、「こんな日が又来ようとは思わなかっただろうね」としみじみと言ってくれた。

 今度の計画は、一ヶ月間十勝にステーションを置いて、教室の人たちが代る代るにやって来て、その間中あいだじゅう雪の結晶の連続観測をしようというのである。それで従来したような自炊は少し無理なので、八丁ばかり手前にある吹上温泉に泊っていて、白銀荘へ通うことにした。
 白銀荘は昔のままの姿であった。ただ番人のO老人がいなくなって、今度の番人の若い夫婦が、小屋の裏に出来た新しい小さい家に、住んでいた。O老人の頃は、そんな家はまだ出来ていなくて、O老人とそのお神さんとは、終日台所の竈の前で、小さい丸太の切端に腰蒲団を敷いて腰を下していた。O老人は雪の山に生れて、生涯を雪に埋れて育って来たような男であった。聞けばお神さんが何度も流産をするので、山を下りて、今では何処かで土工のような仕事をしているそうであるが、山の男が山を離れた生活は惨めなものだという話であった。十勝の名物であったあの老人は、雪の山に出ると、零下二十度の尾根で雪の中に寝るのも平気らしかった。しかし子供が欲しいばかりに山を下りて、やがては北海道の奥地の名も知れぬ土地に、その姿を消して行こうとしているのであった。
 今度の番人には子供があった。周囲の景色には何の変ったところもなくて、枝もたわわに雪に埋れた高い椴松とどまつも、樹氷につつまれた枝を空にかざしている嶽樺だけかんばの姿も、昔のままである。ただ時折訪れる啄木鳥きつつきの声の外には、何の物音もなかった世界に、幼い子供の呼声が一つ加わると、何だか急に山が開けたという感じがするのが不思議であった。
 もう馴れたことなので、山小屋の中を簡単な実験室に模様変えする仕事も、白樺のベランダに顕微鏡写真の撮影設備をするようなことも手順よく運んだ。物置にあずけておいた昔の木箱類を持ち出して見ると、顕微鏡を置く位置につけておいた目印まで、そのままに残っているのがなつかしかった。
 仕事は非常に順調に進んだ。
 着いた翌日には、もう待望の氷晶がちらちらと降るという思いがけぬ好機に巡り合った。渇えた人が水を飲むような思いで、つぎつぎと硝子ガラス板を空にかざしては、顕微鏡の下へ持って行った。普通の雪の結晶の場合は、硝子板にのった結晶の形が大体肉眼で見えるのであるが、今度の場合は余りに小さいので流石さすがに見当がつかない。それだけに、顕微鏡の視野の中で、つぎつぎと結晶を探して行く時の心の張りには今迄に知らない味わいがあった。驚いたことには、これ等の氷晶の中には、ちゃんと角錐だの、砲弾型だの、微小角板だのという、低温室の中でもうすっかり親しくなっている結晶の様々の形が見られたのである。考えて見れば、これで私たちの作った雪も矢張り本当の雪だったということにもなるので、満足の感じが強く来そうなものであるのに、実際には唯嬉しく、そしてなつかしい者に巡り合った時の喜びの方が先立った。
 運よく氷晶は案外永く降り続いた。そのうちに気象条件が少しずつ変って行くらしく、氷晶の結晶形も順次変って行った。寒さのことなどはすっかり忘れてしまって、夢中になって顕微鏡写真を撮りつづけていたら、そのうちに大変な結晶が降って来た。それはコップ型と、今一つ妙な名前ではあるが、屏風型とでも言うべきものとである。
 コップ型というのは、六角形の洋酒盃のような形をした結晶で、霜の結晶にはこの種のものがあることは前から知られていた。ウェーゲナー教授がグリーンランドの氷河の裂罅クレバスの底で見付けたこの種の結晶の写真は有名である。ところでこのコップ型の極めて小さいものが、人工結晶の初期状態には時々得られたのであるが、まさかそんなものが天から降って来ようとは思っていなかった。ところがそれが矢張り実際に天然の氷晶の中にあったのである。そんな結晶が顕微鏡の視野の中にひょっくり出て来た時には、どきんとするのも無理はなかった。その感じは、少年の頃魚刺やすをもって海の底に潜りながら魚を探しているうちに、不意に岩穴の奥に大きい魚を見付けた時の気持に似ていた。永らく忘れていたこういう鋭い喜びに再び会うことが出来たのも嬉しかった。
 屏風型というのも、これにも増して不思議な結晶である。六角柱の側面だけが薄く発達して、それが一方の辺で六角の螺旋形に巻き込んだもので、いわば屏風を六角形に巻き込んだような結晶である。これも霜の方では分っている結晶で、セリグマン氏の本にも、ヒマラヤで発見したというこの種の結晶のスケッチが載っているし、低温室の中でも数回は作った経験がある。今度の十勝行再挙では、この結晶は唯一つしか写真に撮れなかったが、とにかく天然の雪の初期状態にも屏風があることだけは確められた。何だかぼんやり夢想したものが全部見付かるというのも少し変なようであるが、考えて見れば当然なのである。低温室の中で色々と条件を変えて、不思議な形の結晶を作ったとはいうものの、人間の考えることくらいは、天然が司っている複雑な自然現象の中に含まれていない筈はなかったのである。低温室の中で屏風型の結晶が出来たというのも、何も天然にないような極度の低温を用いたわけではないので、丁度その実験の時と同じような気象状態にも、何時かは遭遇するのは当然なのである。
 そういえば、私たちの人工雪の実験では、時々失敗をするのであるが、天然の雪の方でも時々同じような失敗があることが分ったことも、大変愉快だった。論文に発表する時には、巧く出来上った結晶の写真だけを選ぶのであるが、本当のところは、今でもまだ可成り失敗があるので、折角成長しかけた結晶が途中でひねくれてしまって、どうにも分類のしようが無い汚い形のものになってしまうことがある。そういう結晶かどうかも分らない変梃なものは、失敗ということにして、又やり直していたのである。
 ところが、そういう気持になって、天然の雪をよく見ていると、その変梃なものが矢張り在るのである。そういう不規則なものが一つ見付かると、つぎつぎと同種のものが出て来て、しかも失敗の色々な段階のものまでが矢張り天然にもちゃんとあるので、大いに安心した。快心の失敗作が見付かった時などは、思わず声が出る。「一寸覗いて見給え、又失敗してるぜ」と言うと、助手のH君は、顕微鏡を覗き込みながら、如何にも嬉しそうににこりと笑うのである。低温室内の苦労を思えば、憎いひねくれ結晶ではあるが、こうして自然もまた同じように失敗をしている姿を見ると、此の憎まれ小僧にも又ひとしおの愛情が感ぜられて来る。まあこれで、「人工雪の失敗について」という論文も大威張りで書けることになったので、大変気が楽になった。
 そう言えば、こんな失敗の結晶を今まで見落していたのは、考えて見れば恥しいことである。雪の研究を始めた当初から、天然の現象の複雑さには充分の警戒をして来たつもりであった。特に外国でも従来のこの方面の研究が、正規の美しい結晶の研究に偏していたことを度々口にもしていたのである。そして畸形の結晶や、立体的な汚い結晶までも立派に一人前の結晶として取り挙げて、一般分類のようなものまでも試みて来た。三冬にわたって、札幌と十勝岳とで撮った顕微鏡写真も三千枚近くに達し、もう天然の雪もすっかり見つくしたと思っていたのに、少し新しい眼を用意して一度十勝へ来て見ると、もうこの始末である。人間の眼などを余り信用するものではない。
 氷晶の写真が運よく早く撮れたので、私はひとまず先に帰ることにした。夕方まで仕事をして、六時頃に唯一人で馬橇にのって山を下った。
 羊歯状の模範的な美しい大きい結晶が燦々と降っていた。その中を馬も人も黙って道を急いだ。見る見るうちに、防寒服の上にも、帽子の上にも水鳥の胸毛のような雪がつもって行った。月のない夜ではあったが、雪明りで道だけはほのかに見えた。そして原始林の木だちが黒く押し黙って立ち並んでいる中へ、馬橇の鈴の音が吸われるように消えて行った。馬は悧好なもので、家路につくと、足並も速い。
 山を出て、十勝の原野にかかると、急に風が強くなる。横なぐりに吹きつける雪をさけようと、頭を垂れてちぢこまっているが、時々眼をあげると、二三軒取り残されたように在る百姓家の障子が、石油洋灯ランプの灯にほの明るく照らされていることもあった。文明からも、拓殖計画からさえも、取り残されたかの如く見えるこれ等の人々にも、洋灯の下での団欒くらいは許されても良いであろう。しかしそれだけの石油さえも、この頃はなかなか手に入らないという山の宿で聞いた話がふと思い出された。
 私が札幌へ帰って色々と雑用に悩まされている間にも、十勝からはどんどん写真が撮れているというしらせが来た。そして交代で帰って来た人たちが持ち帰った写真を見ると、予期以上に好運な日に、その後も度々遭遇したらしいことが分って嬉しかった。
 例えば鼓型の結晶の成因をはっきりと示している一系の写真なども、一つの美事な収穫であった。鼓型というのは、六角柱の両底面に六花の結晶がついたものであるが、これを低温室の中で作る時には、先ず六角柱の氷晶を作っておいて、それをそのまま成長させる。そして或る程度の大きさになったら、急に六花の条件にしてやる。すると底面に段々花が咲いて来るのである。
 ところが、或る日の十勝で、六角柱や砲弾が盛んに降ったことがあった。それでその写真を連続的に撮っていたら、やがてそれ等の結晶の底面が少し伸び出た結晶にかわった。そのうちに底面の伸び出た部分が角板になった結晶が降って来たので、成る程人工雪で知った通りだなと思っていたら、最後に鼓が降ったので、大いに愉快だったという話なのである。こういう現象も、ちょうどこの種の雪を降らすべき空気の塊りが、麓からだんだん昇って来て、観測点をすぎて空の方へ上って行ったか、或はそれと同等な時間的の気象変化があったとすれば、説明は簡単に出来る。要するに、人工雪も矢張り雪であった。低温室の片隅においてある簡単な硝子管の中でも、大自然の理法は、その中に吹雪の天空を再現してくれることもある。これも天の恵みの一つであろう。
 観測は芽出度く一ヶ月間続いた。途中菓子が切れて困ったという飛報があったくらいで、外に大した故障も起らなかった。菓子の話は冗談ではないので、毎朝早く弁当のパンを持って白銀荘へ出かけ、夕食に一寸宿に帰るだけで、夜は雪の次第では、夜中の十二時過ぎまでも、零下十五度のところに立ちつくすこともある。そういう場合、菓子は立派に弾薬の一種なのである。
 愈々いよいよ引き上げという前になって、私は今一度十勝へ上った。もう三月の声をきくのも間もないこととて、流石さすがに寒さはずっとやわらいでいた。
 ちょうど着いた日に、大形の美事な樹枝状結晶が盛んに降っていた。この結晶についても実は知りたいことが一つあった。今まで雪の結晶の代表的なものとされていたので、ベントレイの蒐集などでは、殆んどこの型だけを集めてあると言ってよいくらいのものである。それでいて、肝心な点が分っていなかったことにこの頃になって気がついた。
 この結晶は六花の平面結晶であるから、六角柱の底面内に発達したものである。そうすると、氷晶の時代に六角柱の骸晶、いわば鼓の一種であったものの一底面が伸び出たと考えるのが一番自然であろう。もしそういう経過で出来たものならば、中心部に初めの骸晶があって、全体を横から見ると、ちょうど鉄道のマークの工の字形に見える筈である。実際低温室内で作った樹枝状結晶の多くのものは、その通りになっているのである。それで天然の雪についても、上からと横からと撮った一組の写真が沢山欲しいので、一ヶ月の観測の間に、機会ある毎に撮ることにしてあった。
 ところが鼓や立体の結晶とちがって、この厚さが百分の一ミリ程度の薄い繊細を極めた結晶を、顕微鏡下に立てるのは随分厄介で、なかなか良い写真は撮れなかった。私も五年前の習練を思い出すべく、木片の端をちぎってささくれを作り、その先に結晶を吊して、その結晶の一端を硝子面に唾の小滴で垂直に凍りつかせようと大わらわであった。初めのうちはどうも勝手が悪かったが、そのうちにやっと筋肉が昔のこつを思い出してくれたようであった。H君と二人で、顕微鏡を二台並べて、その前で各々が硝子板に載った雪の結晶を、木片のささくれで吊し上げようとそれぞれ懸命になっている姿は、余所から見たら少々滑稽なことだったろうと思う。
 どうも調子が出ないので、気が付いたことは、昔はマッチの軸木の頭を折ったものを使っていたのである。剣橋ケンブリッジの大学では、マッチと封蝋とさえあれば、物理学の第一線を行く研究が出来ると威張った時代もあったが、マッチの棒くらい便利なものは少いようである。美事な結晶が来たので、すぐ上からの写真を撮って、さてこれだけは何とかして巧く立てようとあせったが、なかなか思うようには行かない。つい大声で「H君、マッチ」と呼んだら、H君が慌ててライターを渡してくれたが、これではどうにもしようが無い。とんだところでマッチ飢饉に祟られたものである。
 その写真もどうにか撮れた。まあ今度の十勝行も一ヶ月の時日をかけただけのことはあった。そして今更のように、自然というものは、いくら見ても見つくせるものではないという感慨を深めて、芽出度く引き上げることにした。
 すっかり器械を荷造りして二台の馬橇に積み込み、顕微鏡と乾板とは、私が大切にかかえて、今一台の馬橇に乗った。若い人たちはスキーをはいて一気に山を下ろうというのである。麓の中茶屋まで、スキーで行けば十五分で達するとかいう意気込みであった。
 山を出たら、又十勝の原野の烈風に遭った。三月の大きい雪片が水平に飛び、名も知らぬ冬木立が鋭い音を立てていた。スキーの連中は、馬橇に縄をつけて、それにつかまって滑って来る。この馬スキーは余程愉快らしく、眼もあけられない吹雪を真正面に受けながらも、何か大きい笑い声を立てている。
 馬が寒風に苦しんで頭を振ると、たてがみは乱れて空に向って逆立つ。怒髪天を突くというような形のその鬣の動きを前に見、若い人たちの笑い声が風でとばされて行くのを後に聞きながら、私は馬橇の上でひとりこれから帰って現像すべき乾板を大切にかかえていた。
(昭和十五年五月)





底本:「中谷宇吉郎集 第三巻」岩波書店
   2000(平成12)年12月5日第1刷発行
底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日
初出:「文藝春秋 第八巻第九号」文藝春秋社
   1940(昭和15)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:砂場清隆
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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