昨年の秋C・T・Rウイルソン先生からの手紙で、ストラットン教授の一行が今度の日食観測に北海道の方へ行くことになったから宜敷くとのことであった。その後何の消息もなかったのであるが、新聞紙の上で愈々一行が日本へ着いたことを知って、もうそんな時機になったのかと思う位であった。ところが四月の末に初めてストラットン教授からの手紙で、三十日に札幌へ着くから仕事の上の打合せで会いたいとのことであった。実は友人の陸軍のN少佐が
一行の先発隊はストラットン教授の外に
愈々日食の日が近づいた十五日の夜行で、私は仁科博士と同行して上斜里の観測地へ向うべく札幌を立った。その汽車には偶然英国班の最後の参加者アストン博士が観測の御手伝い役たる大使館員マッキンタイヤ、ピゴット、ペンダーカドリップおよびブロムレイの四氏と共に乗り込んでいた。上斜里では既に一か月にあまる準備工作が進んでいて、すべての器械が据え付けられてもはや当日を待つばかりになっていた。観測地点は小学校の裏庭の一部にあって、十本の海水浴用の日傘も点々として派手な色彩で観測点の柵内を色彩っていた。そしてマドラス大学のマースデン博士、
20-INCH COMMON(Prof. Nakaya)
(1) Totality begins at 3h. 21m. 58s. and lasts 113 seconds.
(2) In the case of a cloudy morning note the position of the hour circle for an emergency setting of the coelostat. Take any opportunity given by a break in the clouds of setting the coelostat mirror. Then keep the clock going(but the mirror covered until 3.0 save for an occasional check on the sun's position). The clock runs for 38 minutes after full winding. Give it a final winding at 3.0, see that a long enough run of the sector is available, and finally check the sun's position(with limb at right angles to slit on fiducial mark).
(3) Synchronize your watch with the timekeeper. Draw plate holders from Allen at 2.30.
(4) Close shutter. Insert plate at 3.20. Draw dark slide at “go”. Expose 3 to 80. Look at eclipse during exposure. Close shutter at 80 and dark slide. Change plate holders.
(5) Expose second plate for 10 seconds(or less, closing at 110).
(6) Put both plate holders in bags and return to Allen. N.B.
Rehearsals
June 16 5.0(in sections)
17 11.30 and 3.0 and 8.0
18 3.0
June 16 5.0(in sections)
17 11.30 and 3.0 and 8.0
18 3.0
このような紙片と赤い手帳とはこの班の大抵の人に渡されたもので、このように全員を器械的に一秒までの操作を規律することの可否はあるいは問題にし得ることと思われる。自分は日本の観測隊のことを全然知らず、むしろ天文の研究方法というものを全く知らないのであるが、物理的の研究態度と日食の場合の研究のような正反対の場合とを比較してみて、かなり深い所にその差のあることを知って非常に興味を感じた。そしてもし次の機会に自分が日食の観測に従事しなければならぬような場合があったならば、自分は躊躇することなく今度の英国班のような態度をとるであろうと思う。観測するものが人間である場合、「如何なる事があっても決して失敗しない」ということは非常に困難なことである。そのためには統制ということが大切であり、今度の観測隊の態度の中に自分は恐るべきその力を認めたのである。アストン博士の如き著名なる学者も、一度観測点の柵の内に入ると、全く隊長ストラットン教授の命には絶対服従の態度を取ったのであった。当日愈々五分食位まで進んで、それまでは晴れ上っていた碧空に輝く太陽の光を浴びて歓喜と軽い興奮とに記念のスナップなどを撮ってはしゃいでいた一隊も、愈々ロイヅ博士が縁効果(limb effect)の写真を撮り出すや、ストラットン教授の命令“Don't move about unnecessarily”という一声とともに、それぞれ部署について、観測地帯は厳かな静粛に包まれてしまったのである。
統制は観測の当日よりもその準備において一層重大である。そしてそれは十分な細心さをもってされて初めて効果を顕すものである。ロイヅ博士の格子によるフラウンホーハー線の波長の精密測定には、近くの廊下を通る児童の足音でも響くということもあらかじめ調べてあって、当日はその一廊内には何人も立ち入らぬように依頼するなどという用意も出来ていた。強味はあらかじめちゃんとその振動の妨害程度を調べてあったことにある。シーロスタットその他露出してあるものには、ちょっと昼食に帰る時でも必ず日傘を立てかけてその上に縄を張っておくという風に極めて慎重であった。そのような場合に、忙しいというのは心の問題であって、時間がないということではないことを誰もがよく心得ているようにみえた。
すべての準備が終って愈々予行演習は十六日に一度、十七日に三度あった。そして日食前日の十八日には皆既の時刻にただ一回だけという風に心を配ってあった。このプログラムを見た時、自分はふとオリンピック前の監督の心組のようなものを感じた。この予行演習は全く皆既当日のままにやるのであって、マッキンタイヤ君の秒刻を読む声に合せて全行程を遂行するのである。前には何でもなかった乾板入れの戸がひっかかったりするようなことも第二日の演習の時にはすっかりとれてしまう。そして午後八時の暗闇の中での演習を迎えるのである。するとまたすっかり手許が狂うような気がして、この種の演習の必要さをしみじみ味わったのである。大使館からの応援の人達もわずかにシーロスタットの前の蓋いを取るだけの役目でも、ちゃんとその位置についていなければならなかった。この演習のために、川湯や
日食前日の十八日になると、一同の間には予行演習などはほとんど不必要というような気分が醸し出されてきて、午後の一回の演習も型通りに済ませ、誰もがただ腕を摩して明日を待つという気分になっていた。退屈凌ぎに新聞や小説に読み耽っている一同の顔には、全く何の不安の影も見られなかった。その姿を見て私はなるほどこれでなくては二分の観測に英国から出掛けてくることは出来ないと思ったのであった。もう天気さえ良ければ絶対に失敗は有り得ないという確信はここではもはや確信ではなく常識となっていた。ストラットン教授の落付いた姿の中に、大会戦を前にした老将の面影を見るような気がした。実際のところ、天候に恵まれながらも「その結果の科学的価値においては」観測に失敗した例も前にないとはいわれないのである。
今度の英国班の持ってきた器械の数は夥しいものであった。その中には由緒の正しい古い器械もかなりあり、新しい精鋭の武器も沢山あった。私が使うことになったコロナの分光器はF/3の明るさに相当し、太陽から遠い青空の光のスペクトル写真を撮るのに1/2秒の露出では少し多過ぎる位の驚くべき明るいものであった。これで八十秒の露出ならば、コロナの極めて光の弱い部分のスペクトルをも撮り得ることは確かであろう。その他プリズムにしてもニコルにしても思い切った大きさの素晴らしいものが多かった。アレン博士の使っていたニコルなどは、日本では見たこともなく、また今では金銭では購い得ないような大きさのものであった。このように必要な点には思い切って金をかけてある代りに、粗末でも済む所にはまた思い切って簡単なことがしてあったのも自分の興味を惹いた点であった。例えばシーロスタットの時計は重錘の降下によるもので、その重錘を釣っている支柱などは、杉丸太を三本そのままで地中に埋めその頭を針金で縛ってあった。また遠くの鏡やプリズムを廻転するには、物干竿を使っていた。そしてこの竹というものは実に便利なものだといっていた。人の使い方にまでこれと全く同じような趣旨があったのにも実は少々驚嘆した。それはマースデン博士が鉄の弧光の調整掛をつとめていたことである。ロイヅ博士のフラウンホーハー線の精密測定には鉄の弧光のスペクトルを標準に入れるのであるが、その弧光の番人がマースデン博士なのである。もっともこれはよく考えてみれば当然なのであって、鉄の弧光を使った経験のある人は誰でも承知のことであるが、あれ位厭なものもまた少いのである。肝心な時に何の予告もなくふっつりと消えることがある。皆既直前の一番大切な時にそのようなことの必ずないように万全の策を講ずるとすれば、結局最後は人の問題になるのは当然である。しかしこの当然のことを当然するところに隠れたる偉大さを認めねばならぬのである。弧光の番人は中学出の助手のすることとは限らぬのである。停電の場合の顧慮も勿論はかってあった。柵内の片隅には石油発電機が設けてあって、当日の午前中に運転試験を済ませて万一の場合に備えてあったことも用意の周到さを示す一つであろう。
これだけの人と器械とを備えて、いかなる事があっても決して失敗のないだけの準備をして、さて後は当日の天候に万事を委ねて待つのみである。当日は北海道全土はおおむね晴天に恵まれ、ただ上斜里のみが皆既の瞬間太陽が雲に蔽われてしまったのである。両手を腰にあてて薄明の中に天を仰いで立っていたストラットン教授の姿は今も明かに眼底に残っている。第三接触を過ぎてしばらくして、太陽はまた雲間を出て三日月形の姿を現わしたのであった。ストラットン教授は「吾々は不運であった」と一言いった。ただ皆既前後を目的としたロイヅ博士の仕事のみは奇蹟的に成功したのであった。この時ストラットン教授が「他の場所で成功さえすれば十分慰められる」といったと伝えられているのも事実である。それは小樽から声援の意味で当日上斜里へきていたライジングサン会社の支配人の慰藉の言葉に対する返事であった。
二か月に近い上斜里の滞在中、村民から慕われ新聞記者からも尊敬されていたストラットン教授の一面には、上斜里神社で拍手を打ち、校門の出入ごとに御真影奉安所に向って最敬礼をするだけの心構えもあった。しかし万事は終ったのである。ただ「成否は天に在り」という言葉を俯仰愧じることなくいい得る者は幸いである。
(昭和十一年八月『科学』)