前に寒月君の「首縊りの力学」の話をした時、小宮さんから野々宮さんの「光線の圧力」についても何かそのような話があったら書くようにと勧められたことがあった。
モデル詮議をすることの好きな人は案外多いと見えて、この野々宮さんのモデルは旧の一高のある先生だというような話が一部の人の間には流行しているそうである。しかし『三四郎』の中の野々宮さんは勿論漱石先生の創造で、ただその材料が寺田寅彦先生の所から供給されたものであったのは明瞭なことで、前月の月報に小宮さんの詳しい解説のある通りである。私はただこのことについて、寺田先生から以前に聞いた話を記して単にその補足をするだけの話である。
もう十年近く以前の話であるが、私が寺田先生の指導の下に仕事をしていた頃、よく御宅の応接間で夜晩くまで色々の話を聞いたものであるが、ある時何かの話のついでに三四郎の話が出た。漱石先生が『三四郎』を書き始められるちょっと前位の頃、突然理科大学の実験室へ訪ねてこられたことがあったそうである。その時寺田先生は丁度今の理研の所長大河内正敏子爵がまだ工科大学におられて、物理の実験室で御一緒に鉄砲の弾丸が飛行する時の前後の気波をシュリーレン写真に撮っておられたのであった。その実験室は震災で取り壊しになった旧の物理の本館の地下室にあった。この本館というのは石と煉瓦で出来た四角の建物で、今の東京の大学のコンクリートの建物などと比較したら随分旧式な建物ではあったが、ひどく荘重でしかも純粋に
シュリーレン法というのは、光の通る媒質の屈折率の異る所を写真に写るようにする方法で、まあ丁度うまい日当りの時に陽炎が障子にうつって見えるようなわけである。それで弾丸が飛行する時には空気中に強い圧縮波や渦流が出来るので、それが写真に撮れるのである。光源には電気火花を使うので、その発光継続時間は百万分の一秒位だから、それ位の時間内では弾丸も気波も止って写るのである。漱石先生はその実験に大変興味を持たれて、「これを小説に書くが良いか」といわれたそうである。寺田先生が「私はかまいませんが、何分相手は殿様ですから少し困ります」と答えられたところ、「それでは何か他の話をしてくれ」ということになって、当時読んでおられた「光線の圧力」の測定に関する論文の内容を話されたのだそうである。この話は『蒸発皿』の「夏目漱石先生の追憶」の中に寺田先生自身も書かれているので確かな話と思われる。もっともその中では何分相手は殿様ですからという一句は省略されている。この話だと漱石先生は野々宮さんに鉄砲弾の実験をやらせようと考えられたが、寺田先生の依頼で取り止めにされたことになっている。ところが今度寺田寅彦全集の編輯のために矢島祐利氏が日記を整理中、『三四郎』に関係した記載があってそれを教示されたのであるが、それに依ると少し話が違ってくるのである。『三四郎』が朝日に載り出したのは明治四十一年九月一日からであるが、そのちょっと前八月十九日の日記には、
「水、晴
午後夏目先生を訪ふ、小説「三四郎」中に野々宮理学士といふが大学にて銃丸の写真の実験をなせる箇所あり。改めて貰ふ」
となっている。これからみると漱石先生は一度は野々宮さんがシュリーレン写真の実験をしていることにして書き上げられたのを、寺田先生の依頼で書き直されたことになる。即ち先生の「夏目漱石先生の追憶」に書かれていることと日記にあることとは少し違うのである。当時の事情をはっきりさせようとすることは、これ位のことでもなかなかむずかしいものである。それで問題は光線の圧力になるのであるが、寺田先生が漱石先生に話されたのは、ニコルスとハルの論文の内容であって、その原文は Annalen der Physik という
光線の圧力の問題は、野々宮さんの話にある通りマクスエルが電磁気の理論から計算し、またバルトリが独立に熱力学的に出した値もそれと一致したので、理論上は確定的のものと予想されてはいたのであるが、実験が困難なために約三十年近くの色々の人の努力にもかかわらず、実験的に確めることは出来なかった。初めてこれに成功したのがレベデフであって、一九〇一年のことである。即ち漱石先生が
それからまた野々宮さんの話の中にあるように、彗星の尾がいつでも太陽と反対の方角に靡くのは光線の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い附いた人もある位だというのも本当であって、この予想は三百年も昔にケプラーが既に出しているのである。漱石先生の『断片』の明治四十一年初夏以降即ち『三四郎』の辺の所に、寺田先生からこの話を聞かれて直ぐ書き止めておかれたノートがあって、光圧は半径の二乗に比例し、重力は三乗に比例するということが英文で認めてある。それから水晶の糸の作り方も書いてある。ところが今度小宮さんに伺って初めて知ったことであるが、朝日新聞に初めて『三四郎』が出た時と、その翌年単行本として出たものとは、少しばかりこの「光線の圧力」の話が訂正されているのである。今全集に載っているものは勿論単行本の際に訂正されたものである。第一に朝日の時には、水晶の糸の作り方の所で、「水晶の粉を酸水素吹管の焔で溶かして置いて、かたまった所を両方の手で左右へ引っ張る」話になっているが、全集所載のものでは、この「かたまった所を」というのが削除されている。勿論本当は溶けた所を引っ張るのであるが、断片のノートにも朝日のものと同じように記されている。それから「理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が初めて実験で証明したのです」という一句も後で挿入されたもので、朝日の分ではこの処が「初め気が付いたのは何でも
『断片』のついでに、『三四郎』の所のちょっと前に妙な画がある。四角の箱の前後両面に板と書き、左右両面を
硝子の破れた話にはまだ後がある。寺田先生はこの時実験室中に散った硝子の破片をすっかり拾い集めて、それを一つ一つ接ぎ合せてみて、ほとんど完全にもとの硝子板の形になるまで根気よく続けられたそうである。そして破れ目がどういう風に這入って、硝子板がどう飛散したかということを調べられたのである。「なかなか大変な仕事だったよ。しかし子供の遊戯にそんなのがあるだろう、まああの興味であったわけだよ」と寺田先生は当時を追憶しながら語られた。野々宮さんが望遠鏡を覗き暮したあの地下室で、小さい硝子の破片を沢山集めてその割れ口を一つ一つ合せてみては接いでおられた冬彦先生の姿は、三四郎の読者にもまた懐しいものであろうと思われるので、この話を追加する次第である。
附記
三四郎が大学の運動会を見に行くと、野々宮さんが計測係を勤めて、真黒なフロックを着て、胸に掛員の徽章を附けて、大分人品をあげている。華やかなりし当時の大学の運動会では、計測係には物理教室の若い先生方が狩り出されることになっていたという話を前に聞いたことがある。今度矢島氏は明治三十六年の寺田先生の日記の中からこの件を書き出して教示された。
「十一月十四日 土 晴
大学の運動会なり。例の time 係りの御手伝ひに行く 参観人夥し」
とある由である。これらの寺田先生の日記や雑纂はこの秋出る寺田寅彦全集に収載されるはずである。それが出たら漱石先生の「断片」の中にある色々の事柄でその意味の判明するものがもっと出てくるかも知れないと思われる。大学の運動会なり。例の time 係りの御手伝ひに行く 参観人夥し」
(昭和十一年七月『漱石全集月報』)