御殿の生活

中谷宇吉郎




 御殿というのは、私の田舎に近い城下町の昔からの殿様の御殿のことである。封建時代の殿様の生活から、現今の東京における華族の生活に移る間に、田舎の旧藩下で、御殿の生活の名残りを送った殿様が、どこにも沢山あったことと思われる。
 その城下町も、今では急激に発達した輸出絹布の工場が沢山出来て、小さい工場町の感じが見えるのであるが、私の小学校時代には、旧い伝統の香りに満ちた薄暗い北国の田舎町であった。人々は昔ながらの習慣を守って、旧藩主の別邸を御殿と呼んでいた。そしてその広壮な御殿をめぐった露路のような狭い町に、活動と野心とから遠のいた静穏な生活を続けていた。
 町を切って流れる川が真直に折れる処の一隅を占めて広い御殿の敷地があって、その門の真向いには、Mという旧い家老の家があった。その前の道はちょうど川で切れているために、御殿の前だというのでその城下町に不似合な広い道をつけてあったけれども、昼でも通りがかりの人というものは一人もなかった。Mの家や、それに続いた旧士族の家々の長い土塀は、北国の灰色の空とその附近に多い旧い公孫樹のために、閑寂の境を通り越して、廃墟に近い感じを与えていた。私の家はそのような町からさえもずっと離れた片田舎だったので、縁続きになっているMの家に預けられて六年の小学教育を終えた。Mの祖父は引き続いて家令として、旧い御殿を守っていた関係上、その六年間の生活はほとんど御殿と終始していた。そして明治になって後の封建時代の生活の名残りと深い接触をもった機縁が今の追憶となっている。
 御殿には、御老体の大殿様と、御前様と呼んでいたその奥方とが主として住んでおられた。私の最も印象に残るのはその御前様の生活であって、その頃六十を越しておられて、茶筅に結った細面の随分綺麗な方であった。大殿様が東京の御本邸へ行かれて留守の間などは、Mの祖母が話相手として毎晩のように私を連れて御殿へ上った。御前様の御居間は四十畳位の広い部屋で、その奥の十畳位が昔ながらに敷居で仕切られてある。その真中に大きい火燵をしつらえて、御前様はただ一人その火燵にあたっておられる。女中達や旧士族の御機嫌伺いに上った人々は、その真中の敷居より奥へはいることは許されない。人々の伺候する広い部分には、片隅にちいさい炉が仕切ってあって、その周囲に座を占めながら敷居越しに御前様と四方山の話をする。北国の永い冬は鼠色の雪に包まれて、人々の外界との交渉を全部絶ってしまう。勿論その頃には、電灯はなくて、雪洞ぼんぼりのような形の脊の高い洋灯が二つ、御前様の手許と人々の間とに立っている。私はよほど御前様の御気に入っていたものとみえて、私が上って行くと、御前様はいつも火燵を抜けて、その炉の隅まで出てこられる。そして毎日その日の学校の話などを聞かれた。学校で教わることや、どの町で雪おろしをしていたなどというような話さえ、あるいは外界の消息を御殿へ伝えることになっていたのかも知れない。
 御殿の生活の中で、今になって一番懐しく思い出されるのは、その生活が極めて質素だったことである。冬の夜などで少し晩くなると、御茶が出て、ほとんど決ってかき餅と酒の糟とが御馳走された。酒の糟は薄い板のように圧し固められたもので、これをかき餅と一緒に御居間の炉の上で焼きながら、次から次へと話が続いた。そのような時には、五、六人いた奥女中達も皆呼ばれて、話の中へはいることになっていた。話手は多くの場合私一人で、その頃夢中になって読んでいた世界御伽話などの話をした。時には花咲爺の話を得意になってしたことも覚えている。そのような尋常二、三年位の私の話を、御前様は真面目に面白がって聞いておられた。あるいは六十を過ぎるまで、その頃の私位の子供の心を持しておられたのかも知れない。四年の冬だったと思うが、私はMの家にあった『通俗三国誌』に凝り出した。ずっと以前に博文館から出した漢文直訳の随分むずかしい本だったが、学校へはいる前から、無理に支那風の書を教えられるような雰囲気に育った関係上、振仮名をたよりにどうにか読んで行った。これでほとんど無尽蔵の話の種を供給されて私は毎晩のように孔明の話をしに御殿へ上った。赤壁の所で、「孔明七星殿に風を祈る」という挿絵がよほど気に入ったものとみえて、わざわざ本を持って御前様の所へ見せに行ったことも覚えている。
 その後引続いて、同じ叢書の『西遊記』を読んで随分面白かった。この頃新しい作家達の書き直した『西遊記』を覗いて見てもどこにも昔の姿は見られなかった。自分の年齢の差は除くとしても、本格のもののみが持つ特殊の趣きは到底再現することが出来ないものと思われる。それは別に小説に限ったことではないのであろう。昼は本当の自然の探求者として実験を進め、夜はひき籠って古典的な名著を読むというような本格の生活をしてみたいと思うこともある。それには今のような一番好都合の位置にいながら、事実は全くの逆の傾向に堕ちようとしている自分を省みて、時々激しい不安に陥ることがある。そのような時には、理由なく昔の御殿の生活が懐しく思い返されてくる。

 御殿には長い廊下が沢山あった。いつも勝手口から這入って行く私達は、暗い廊下をいくつも折れて、御前様の御居間の方へ行く。人気の少い御殿では時々大きい百足むかでが廊下を這っていることがある。女中達は驚いて声を立てながら、手燭を持ってきてその百足を火箸で押えて、油の罎へ入れては殺した。その油は切傷によく効くといって、大切に保存されていた。実際の効用は聞かなかったけれども、これも旧くからの方法であったのであろう。奥女中達については、妙にこの百足油を作ることと、時々女中頭の人が柴舟という小さい煎餅を白紙に包んでくれた記憶だけしか残っていない。
 御殿では御正月になると、大抵は大殿様の御留守の時であるが、御前様の御居間で、旧士族の数人の人々や奥女中達が集って、よく花合せをした。あのような花歌留多はその後どこでも見ることが出来ないが、葉書位の大きさの厚い桐の板に色々の花の絵が描いてあって、全部で百枚位もあった。それを裏返しに畳の上に並べるのである。そして畳一畳位に一杯に並べられたその悠長に大きい歌留多を、かわりがわりに一枚ずつ開けて行くのである。競技の方法は全く忘れてしまったのであるが、向日葵ひまわりに大きい日輪のあるのが一万点、月見草に青い月の出ているのが五千点という風にして勝負を決めるので、余り巧劣によらない暢気な競技であった。しかし絵だけは、昔の有名な画工の筆になったものだそうである。このような場合にも、御前様は決して自分で競技に加わられるようなことはなかった。
 御正月や、大殿様が御帰りになった時には、よく一同に御飯を下された。旧藩士の人達はちゃんとした袴を着けて、端然として一列に並んでいた。今から考えてみると、随分舞台めいた感じだったのであろうが、その頃の私には、極めて自然的な印象しか与えていなかったようである。そして今の吾々には珍しい習慣であろうが、人々が御殿で飯を戴く時には必ず両肘を膝の上につけて、深く身をかがめたまま食事をすることになっていた。Mの祖父や祖母は、それが全くの習慣になっていたものとみえて、家でも毎日必ずそのような姿勢のままで食事をしていた。私はそれには随分不服だったが、御殿では畏れ多いから俯向いて御飯を戴くのだと、Mの祖母に固くいいつけられていたので、我慢していた。勿論殿様と御前様だけは、普通に坐ったままで済まされた。
 そのような時でも、御馳走は今の東京の普通の生活に較べると、随分質素なものだった。御殿の生活では、生活費は思い切って切り詰めてあったようである。記憶に残っているのは御馳走のことが主であるが、普通に祖母と私だけで御前様と一緒に夕飯を戴く時などは、大抵小さい魚と野菜の煮たものと、いつもきまった豆腐の御汁位の程度であった。それでも御殿には、ちゃんときまった料理人の夫婦がおいてあった。
 大殿様が東京から御帰りになった時などは、よく組合せ文房具と洋菓子とを戴いた。円いカステラの上に砂糖で花を描いて、その上に仁丹位の銀の粒が載った今では普通の洋菓子を、二つばかり白紙に包んだものを大切に持って家へ帰ると、Mの祖母は、その中の一つをついでの人に頼んで、私の田舎の家へ送り届けたりしたこともある。父や伯父などは、私が始終御殿へ上っているので恐縮して、何か献上物をしたいといっていつでも頭を悩ましていたそうである。士族と町人との区別がまだ幾分残っていた位であるから、その献上物の選定はかなりの大事件であったのであろう。ある時はわざわざ猟師に頼んで、生きた青首の鴨のつがいを手に入れて、それを葬式の時の放鳥のように大きい竹籠に入れて持ってきたこともある。

 大殿様は何とかの間伺候とかいう方で、能では当時有名な方だったそうである。半分は東京の御本邸で過されたのであるが、御帰りになるとよく能の会をされた。その町には旧い神社が二つばかりあって、ちゃんとした能舞台があった。何かの賑かな大祭が二度ばかりあったが、その時にはこの能舞台の周囲にすっかり桟敷を結って、旧藩士の老人達が朝から能を舞った。殿様も面をつけて出られた。謡の盛んな土地だけに、桟敷は勿論境内は一杯の人であった。暑い日に照らされながら、桟敷の毛布の上に行儀よく坐って、この能を一日見せられるのは恐ろしい苦痛だった。子供達はだんだん一処へ集って、時々挿まれる狂言を唯一の慰めとして我慢をしていた。御殿の大広間でも、年に数回は能の会があった。その時には、町の比較的大きい商店の主人達もぴかぴかする袴をはいて、沢山集ってきて賑かだった。
 しかしそのようなこともだんだん少くなって、私の小学校時代の末頃になると、殿様も御前様もほとんど大部分を東京で過されるようになった。大殿様は、晩年には始終眼を患っておられた。特別の病気ではなくて、視力が次第に減退するのであったらしい。良い眼科医がその町にいるはずもなく、また遠方からわざわざ医者をぶようなこともされなかった。そしてどことかの弘法様の水などを時々まぶたに塗っておられた。それよりも自分には最も御気の毒な印象として残るのは、誰が申し上げたことかは知らないが、毎朝含嗽うがいをされた水をコップに受けて、これで眼を洗うといいというので、毎朝それを実行されていたことである。口中の熱気の中に何か有効な成分があることが分ったとしても、誰でも躊躇することであろう。大殿様がこのようにして視力を愛惜しておられたにもかかわらず、経過は次第によくない方へ傾いて行った。
 御殿は段々淋しくなってきた。丁度その頃からこの城下町で薄手と称する輸出向の絹布を織る工場が出来始めた。それが比較的好況だったものとみえて、今までの厚手という内地向のものを織っていた小さい工場の人々は、段々集って大きい工場を建てて、輸出物に手を染め出した。御殿の前の淋れた大通に面して、初めて寄宿舎などの附属した工場が出来たのは、私の五年頃だったと覚えている。今から考えると何の財源もない御殿の生活から、人々は次第に離れて行くような風潮が感ぜられたことだろうと思われる。御殿には以前からまだ一人Sという老人の家令がいて、そこには私と同年輩の子供がいた。私達も段々悪くなって、留守の御殿を我が物顔にとび廻るようになった。大広間に続いた沢山の小さい室が、毎日雨戸を開けずに真暗に鎖されていた。その中でよく隠れん坊などをしたりした。沢山の襖を静かに開けて、次から次へと暗い室を通り抜けて行くことは随分怖かったけれども、それだけ私達の興味を唆っていた。ただずっと奥の方にある大殿様の御居間と、その裏のよほどの貴賓でもあった時に通すものと思われる妙に暗い室とは一度もはいったことがなかった。何だか不開あかずの間というような感じで、恐くて近寄れなかったのである。まだ一つ、一の蔵と称する御蔵も随分子供の私達にとっては怖い所だった。御蔵には一の蔵と二の蔵と白壁の大きい土蔵が二つあって、一の蔵には、大切な旧くからの御道具と能衣裳と面とが一杯詰っていた。御道具の出し入れの時くっついてはいって、埃りっぽい旧い桐の箱をそっと開けてみると、黄色くなった色紙だの、少し剥げた能面などがはいっていた。この一の蔵は何となく気味悪い処として、その後殆んどはいってみないことにしていた。二の蔵には普通の道具がはいっていて、この方は別に何とも感じなくて、むしろ悪戯には適した場所の一つとなっていた。一の蔵を怖がった理由は当時はちっとも考えなかったが、能面のせいだけではないようである。
 私が六年になった時、東京における御殿の生活に、色々よくない事件が引つづいて起って、結局御殿は町に寄附されることになった。町ではこの御殿をそのまま女学校にした。その頃になると、御殿だけは寄附して敷地は町に売るような形式になったことに対して、不平がましいことをいう町の人が幾分あるような時代になっていた。Mの祖母は、子供の私にそのことを繰り返していって聞かせた。
 御道具類は町の公会堂で入札に出された。その陳列を見に行った時に、能衣裳やら面やら、見覚えのある御道具が沢山あったが、当時はただ軽い好奇心で、心探しに見歩いただけであった。丁度学校で教わっていた小野道風の色紙などもあった。能衣裳は随分沢山あったが、この時散逸したともいわれ、誰かが一手に受けて米国へ送ったともいわれている。残りの色々の物は一の蔵へ納められて、この御蔵は狭い道を隔てた敷地の一部に移された。そしてSの老人は離れの茶室をその側に移して、そこに住んで御蔵を護ることになった。中学になって、日曜に遊びに行った時、その御蔵に蟻の塔が出来たといって町の評判になっていた。見物にくる人も沢山あった。はいってみると二階の一隅に四尺位の蟻の塔が出来ていて、蟻の行列が暗い壁に沿って長く続いていた。その時には御蔵の中は箱一つ置いてなく、全くの空であった。

 町では御殿をそのまま校舎にして、直ぐ第一回の生徒を募集した。その開校式のようなもののあった日に出かけて行ってみたら、いつもの勝手口の鴨居に、「男子入るべからず」と書いた半紙が下っていた。料理人のいた室には、小使がはいっていた。御前様の御居間とその隣りの室とを通して長い卓を並べて、その上に色々の理科の器械が陳列してあった。そして小さい感応コイルだの電磁石だのが人々を驚かせていた。沢山の室はそれぞれ色々にふり当てられていたが、大殿様の御居間と例の不開の間だけはやはりそのままに立て切ってあった。綺麗に敷き詰められた畳の上には、椅子や机が沢山置いてあった。見物の町の人々は、御殿の中をくるくる廻って歩いてみたり、芝生の御庭へ下り立ってみたりしていた。
 二十人ばかりの生徒の中に五、六人の寄宿生がいた。寄宿生は大広間に続いた奥の室に住んでいたが、掃除はあまりしていなかったようだった。そして料理場へ出かけてきて、声高に話し合いながら、自分で炊事をしていた。寄宿生達は、放課後は皆絹の着物を着て、広い帯を締めていたのも今から考えてみると随分変っていたようである。
 私が小学時代をおわってこの町を離れる年の春、御殿の御庭の一部には教室と雨天体操場とが建て増しになって、その建築の響きが周囲の静けさを破っていた。この女学校も先年県立になったそうであるから、今ではまさか大広間で講義もしていないだろうが、一度見たいものである。

 大殿様も御前様も、Mの祖父祖母達も今では一人も残っておられない。Sの老人は最後まで空の御蔵を護っていたことだろうが、勿論今はいなくなっているだろう。御殿が女学校になった話を知っている人は段々少くなる。今このような閑文字を止めておくことも、全く無意味のことでもないだろう。
(昭和二年十二月『理学部会誌』)





底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
   2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月10日
初出:「理学部会誌 第6号」
   1927(昭和2)年12月1日発行
入力:kompass
校正:砂場清隆
2018年3月26日作成
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