雑記

中谷宇吉郎




一 江戸時代のめんこ


 下町に家があった頃である。ある五月の日曜の朝早く、久しぶりで、千葉の稲毛の海岸へ出かけた。
 下町の真中に住んでいた自分には、花曇りの頃から引続いて随分鬱々しい厭な時期であった。
 丁度この日は珍しくよく晴れていたので、特に感じたのかも知れないが、稲毛の松林の中から、空気の透明な空と海の映えた色とを眺めながら、久しぶりで気持よく海岸に遠くない麦畑の中を歩いて行った。
 考えるともなく、この頃読んだもののことなどを思ってみた。何でも、科学的の真理などというものはそのような特殊のものが、ちゃんと別の色と形とをもって、ある所に並べられているように無意識的に考えられている。そのために科学的の考え方が、別の世界のことのように、即ち職業的な科学者や、特に数学などに明るい人々だけに可能なことのように一般に思われている。しかし実際は、そんなものではないという、自分のような者にはかなり都合のよい論旨だったので、一人でいい気持になっていた。
 ふと、麦畑の土にまみれて、一個の一銭銅貨大の土器片らしいものに気がついて、立停ってみた。肥料に用いられた魚の骨と石ころと一緒に、同じ一色に土にまみれている。
 久しぶりの心のゆとりで、静かにそれを拾い上げて見た。するとその一片は、風雨に曝されながらも、現代に珍しい型のめんこの破片であることが分った。何かやはり人の面につくったものらしく、そのグロテスクな顔付が、どうしても現代の品ではない。少し驚いて、麦畑の中をなおよく見廻して見ると、同じようなめんこやその破片が、ぽつりぽつり見つかってくる。今まで気の付かなかった自分の足跡の下からも出てくる。
 蛇の丸くなっているもの、玉という字が模様のように太く書いてあるもの、役者のような顔、鬼の面らしく角が生えていて、その角が欠けてわずかに痕をとどめているものなど、随分珍しいものばかりである。破片まで入れると十個に近い。
 めんこの一つ一つを大切に撫でて、土を落しながら、日の当っている麦畑を出て、海の見える松の下に腰を下した。そしてぼんやりとめんこのことを考えてみた。暖かい光を背にうけていると、汗ばむ位の気持だった。

 こんなことを空想してみた。
 江戸時代に、将軍や旗本がいた時代に、江戸では沢山の塵を持てあまして、それを帆かけ船に乗せて、東京湾の岸伝いに波の静かな所をぬけて、このあたりの海岸に捨てて行く。そのような船が沢山並んで、今日のような日に、やってきたことがあっただろう。そしてそれらの塵は、海岸に近い畑中に山のように積まれて、やがては腐蝕して黒い土にかわる。百姓達はやはり今日のような暖かい日に、その土を畑に運んで、易しくて得られる肥料を喜んだのであろう。そしてその塵の中に埋れた、下町の娘さん達が秘蔵していた多くのめんこの中のいくつかが、今不思議に自分の手に拾い上げられたのである。

 私はこれだけの決論に十分満足して、立ちあがった。春の海は静かで暖かい。
 明日にも考証家の目にこの文字が止って、一笑に付せられることがあるかもしれない。しかしこの空想が事実であることを、私はちっとも要求しない。唯、これが一つのアッコンプリッシュメントであることだけで十分満足している。
(今年の秋、人類学会の遠足会で、この附近へ出かけた時にも二つばかりあった。一つは梅鉢の紋だった。小金井先生が、これは江戸時代のめんこですねといっておられたので、ふと思い出して独りで微笑んだ。)

二 元寇


 ある歴史にくわしい友と、こんな話を語り合った。
 昔の人は、随分偉い英雄でも、わずかばかりの自然科学の知識がなかったために、度々ひどい目に会っているようである、勿論吾々だって同じことではあるが。その最も面白い例は、元寇の話である。
 いわゆる文永の役、弘安の役が、共に丁度颱風の時期に当っていたことはよく知られている。最初即ち文永の役として知られているのは、文永十一年に、対馬を経て攻めてきたのであって、この時は、我が軍が大変ひどく敗北したのだそうである。何分、蒙古軍は欧洲までも攻め入って、すっかり戦争に訓練されていたので、その戦術は当時の我が国人にとっては随分の驚異だったに違いない。我が国の武士達が、名乗をあげて騎兵戦の一騎打をしようとすると、蒙古の軍隊は密集部隊を作って、丁度現今の戦術の基調をなすような戦法でやってくる。何しろ、現今の欧洲人の戦術というものは、一番の遠い源は、蒙古軍の侵入に備えるためにその真似をしたのにあるといわれている位であるから、鎌倉の武士達には随分恐るべきものであったにちがいない。その上著名なことではあるが、一種の火器を有していた。何でも第一戦にはほとんど手出しが出来ず、箱崎の水城まで五、六里の間、一挙に退却したのだそうである。
 しかし文永の役の時は、丁度その日から風が吹き出したので、元の軍隊は皆自分の船に帰って行った。
 翌朝、武士達が恐る恐る海岸へ行ってみると、軍艦は全部難破していたのである。友の話によると、船はほとんど朝鮮馬山で造ったので、不完全なものだったそうであるが、かく忽必烈フビライが日本の気象に通じていなかったことは有難いことであった。
 今では誰にもよく分っているように、この秋の初め我が国を襲う颱風は大抵太平洋上にそれるので、滅多に支那や朝鮮の方へは行かない。それにしても『三国誌』なら、きっと天文をみる学者達が忽必烈を諫めて、叱られる所が一条位出てくるところである。それよりも、その頃から颱風は現今と同じような道をとっていた証拠であるといったら、その方が『三国誌』めいてくるかも知れない。
 これにも懲りずに、弘安四年の颱風の時期を選んで、また攻めてきた。実際の所は、第一軍の朝鮮軍が壱岐を攻め博多に迫ったのは五月二十日だそうで、その時は勿論まだ颱風の時期ではなかったのである。
 今度は時宗の方でも、彼我の戦術の差を覚って、石塁を作って上陸させないことにした。先方でもまた、今度はよほど注意した心算だったとみえて、軍艦の間を鎖でつないでしまったのである。『国史眼』には「賊巨艦を連鎖し、高櫓を起し、巨※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を俯射す。」と書いてあるそうであるが、櫓を組むためばかりでなく、風にも備えたつもりだったのであろう。勿論それが、かえって患したのである。
 何でも、その中に船の中で流行病が始まったのだそうで、すっかり元気をなくして、第二軍たる江南軍の来るのを待っている中に、だんだんと颱風の時期が近づいてきたのである。
 ようやく江南軍が鷹島に来たのが丁度七月二十九日、翌閏七月一日に、到頭みんな颱風に全滅させられてしまったのである。勿論この時生きて還る者僅かに三人というのは嘘で、五、六万は帰ったのだそうである。何でも范文虎の水軍はほとんど全滅したのであるが、蒙古高麗の軍は、大抵帰国したのだそうである。
 それからこの頃分ったのだそうであるが、二度の失敗に忽必烈は益々討伐の意を固めて、女真の艦を黒竜江の河口に集めて、骨魘、即ち今の樺太から我が国へ攻め入ろうという計画を立てていたのであるが、安息国の方の征伐とかに気をとられている間に、元の国が国内的に分裂しようとする傾向が見えてきて、沙汰止みになったそうである。何だか私達の教わった日本歴史とは大分ちがっているようであるが、大変面白く聞いた。しかしこの計画がもし実現していたら、大変なことであっただろう。そんな危険な状態を当時の人々が知らずにいて、今の吾々が知っているということはちょっと面白いことである。
 気象学の知識がなかったことは、忽必烈にとって大変の失敗だったと同様に、時宗にとっても不幸なことであった。無理のない話であり、あるいは特に宣伝したのかもしれないが、いわゆる伊勢の神風という思想が、当時の人々の間によほど深く根差したと見えて、何かことがあると諸国の社寺でまず第一に、祈祷をするという傾向が出はじめてきたのである。今からでは想像すら出来ぬ位であるが、何でも祈祷の費用で北条氏滅亡の端を発したといえないこともないようである。「その費は遠く築塁繕甲の資に超え」といってある位である。
 わずかばかりの自然科学の知識がなかったばかりに、不世出の英雄が、二人まで同時に致命的の傷手をうけたということは、よほど珍しい例であるかも知れない。
(大正十四年十二月『理学部会誌』)





底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
   2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月10日
初出:「理学部会誌 第3号」
   1925(大正14)年12月28日発行
入力:kompass
校正:岡村和彦
2021年1月27日作成
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