先生を囲る話

中谷宇吉郎




 この話は大正十二年の暮から昭和三年の春までの四年あまりにわたって、私が先生の下で学生または助手として働いている間に、実験室や御宅の応接間で折にふれて先生から聞いた話を思出すごとに書き留めておいたものを整理したものである。書きかけて見ると何だか少し自分の事もかなり這入りそうで少し面はゆい所もあるが、一方考えてみるとこのような弟子の一人としてみたところの主観も少し混っている話が沢山集ったならば、かえって先生の全貌をみようとする人に良いデータを供給することになるかも知れない。
 丁度この時代は先生が胃潰瘍の大患から恢復されて、再び大学へ顔を出し始められて間もない頃から始まり、次で理研入りとなって、さらに地震研究所の専任教授になられ、物理学者として多忙なそして多彩な生活に復帰された時代であり、文芸的にも『冬彦集』や『藪柑子集』の出版があって、先生の随筆に対する態度が決定的に明かにされた時代である。以下断片的に輯録した先生の話の中には、後に随筆として書かれたものもかなりあるが、著しい重複にならざる限り一応書き残しておくことにした。先生が応接間で若い連中を前にして語られていた言葉と、それが後に完全な形となって随筆の中に書かれたものとの比較もまた一部の読者には興味があることと思われるからである。

一 その頃の応接間


 その頃の応接間は現在の姿と別に変った所はなかったので、その内部の様子などを詳しく書くのは少し御迷惑なことかも知れないが、これから後の話には、その話が醸し出される雰囲気の説明がかなり重要な要件になると思われるので、押して簡単な叙景をすることとする。まず壁には色々いわれのある油絵が三枚ばかり掛っていて、その外に先生御自身の描かれた小さい絵が時々取り換えられて一枚ないし二枚位掛けられてあった。片隅にはピアノが置いてあって、その上には随分使い汚された楽譜が一杯に積み重ねられていた。今一方の隅には随筆に書かれた蓄音機が置かれてあり、その前には楽譜台とバイオリンのケースとが乱雑に立っていた。外には印度インド更紗の壁飾りと、壺が一つ室の装飾品として置かれてあった。
 部屋の真中には掛心地良い細身の肱掛椅子が卓を挟んであり、その一方に先生が、その頃はよくジャケツ風なコートを着込んで煙草を吹かしておられたものであった。夜など少し早めに伺うと、夕食の後らしくバイオリンを弾いておられた。しげしげ伺うようになってからは先生も大分気安く、バイオリンを弾きながらちょっと頤でしゃくって椅子に腰を下すように命ぜられて、真面目臭った顔付でバイオリンを続けられていたようなこともあった。そして一節の終りまで行くと「ヤア失敬、失敬」といいながらバイオリンを無造作に置いて、椅子によりながら卓の上の敷島を一本抜いてニヤリとされるのが常であった。
 卓の上にはよく画の本が二冊位載せてあった。いつか画の話のついでに、その中の一冊を取り上げて眺めながら、
 僕は画の本はかなり持っていますよ、今に僕が死んで、僕の遺書が売り物にでも出たらきっと皆が驚くよ。「なんだ、物理の本なんかちっとも有りやしないじゃないか。絵の本ばかりじゃないか」ってね。描く方も以前は大分やったが、この頃はちっともやらない。描く暇がないから見るだけで我慢してるんです。
というような話が出たこともあった。
 この応接間については面白い話がある。ある時妙な発明家がやってきて、永久運動の器械を発明したからといって、複雑な器械の設計図を持ち込んだことがあったのである。この器械はちょっと甚だ巧妙な設計になっていて先生も大分悩させられたそうである。結局実際には出来ないような設計になっていたのでけりは付いたのであるが、その後大分経って、ある新聞の小説に永久運動の器械を作る発明家が出てきて、その発明家がある博士を訪問する場面が出てきたのである。
 ところが君、その応接間の叙景というのが驚くじゃないか、この部屋の様子がそっくり書いてあるんだよ。あれには本当に驚いたよ。
という話なのである。その時には先生が本当に驚かれたらしい表情が出ていていかにも可笑おかしかった。

二 フランス語の話


 語学の勉強の話が出たことがあった。
 君達もし学者になるつもりなら、英仏独だけは是非要るね、そしてその中どれか一つは自由に書けなくちゃいけませんね。君もし仏蘭西フランス語がまだだったら、大学にいる間に少しやった方が良いだろう。僕なんか高等学校時代から少しずつ独学でやったものですよ。もっとも全くの独学で発音も何も滅茶苦茶なので、東京へきてから少し発音だけは教わったんだがね。何しろその当時の熊本だから、勿論良い本も何もないので、仏語独習なんていう良い加減な本を古本屋から漁ってきて一人でコツコツ始めたものです。その次には陸軍の兵隊さんか誰かの使ったらしい古本を探してきてね、それに沢山仮名が付いていたので、それを頼りにしてやったような仕末さ。それでも結構今は不自由しないよ。
 それから伊太利イタリア語もその調子でやってどうにか科学の参考書だけは読めるようになった。その調子で四、五年前から露西亜ロシア語も始めているが、これはアルハベットも違うし、どうも進歩が遅くて閉口したね。それでも止めずに少しずつでもやっていれば、幾分進歩して行くようだ。この頃は狡くなってツルゲーネフなどの小説を買ってきて、その英訳と対照して読んでいるが、これはなかなか工合が良さそうだ。今「初恋」を読んでいるが、なかなか面白いね。
 何でも僕は一人でコツコツやるということに興味を感じているんでね、何にしても語学は自分でやらなきゃ駄目だよ。
 先生はちょっと言葉を切って微笑みながら顔を見られる。こうなっては仕方がないので頭を掻いてこっちもニヤニヤしているより仕方がない。先生は上機嫌である。
 それから大分後のことであるが、実験室へ這入ってこられた先生が突然、私とY君とに向って「君達フランス語はどうしました」という質問である。両人共面喰って恐る恐る「始めよう始めようと思いながらまだつい……」という極めて拙い答弁をしてしまった。「それでは来週から僕が先生になってフランス語の講習を始めよう」という爆弾的宣告が下りてしまった。
 さあ大変だということになって、両人額を集めて相談の結果、丁度化学教室で学生にフランス語の課外講習をやっていたのを倖い、両人ともその方へ出ることにしてやっと先生の「講習」を喰い止めてヤレヤレとしたものであった。

三 コロキウム


 この時代から始まって、後ずっと理研の方で先生の亡くなられるまで続いたものに、「寺田小学校」というものがあった。この綽名は理研のF君が付けたもので、実は毎週一回午後三時から、先生を中心にして弟子達が皆集って内輪なコロキウム(雑談会)を開いたのであった。後にはその都度先生が西洋菓子を買ってこられて、論文の説明がすむと御茶にしながら勝手な討論ディスカッションや雑談をするのであった。先生の奇想天外なセオリーや大気焔の聴けるのもこの時であって、皆が大変楽しみにしていたものである。
 このコロキウムの起りは大正十三年の夏で先生の理研入りの前年であった。大学の実験室の狭い一部屋で、Y君と私とで水素の爆発の実験をしていた時のことである。僕らがあまり本を読まなかったので、到頭先生から三人でコロキウムをやろうといい出されてしまった。論文は何でも良く、長さも随意で、ただし各人勝手な時に勝手な質問討論をして差支えなしというのである。実験室の片隅にやっと木の円椅子を三つ入れる隙間を作って、一尺に二尺位の小さい黒板を掛けてそこで始めるということになった。
 それでは火曜の九時からということになって、さて当日少し寝過ぎて大急ぎで実験室へ馳けつけて見ると大変、「御両人揃ったら呼びに来て下さい寺田」といつもの赤鉛筆で紙切れに書いたものが実験台の上に載せてある。Y君ものこのこやってきて頭を掻くばかりであった。こんな時でも先生は滅多にひどく叱られるようなことはなかった。
 学校のコロキウムには時々いやに難しくてとても分りそうもない題目ばかり並ぶことがある。そんな時にはこっそり逃げ出して、実験室で紅茶なんか作って太平楽を並べることが流行った。いつかそれが先生に見付かってすっかり油を搾られたことがあった。
 君達コロキウムには出ないんですか、やはりなるべく出た方がいいよ。分らぬと思っても聞いているとその中にきっと何かのヒントがあるもので、それが大切なんですよ。オリジナリティというものは、何もない所から出るものじゃなくて、出来るだけ沢山の人のやったことを利用して初めて出せるものだからね。僕なんか学生時代には特に頼んで一年の時からコロキウムを聴かして貰ったものだよ。勿論分りやしなかったが、ためにはなったと今でも思っているね。

四 デイノソウルスの卵


 これもある夜の応接間での話の中の一つである。イルストラシオンに出ていたツタンカーメンの遺物の写真を見せて貰っていた時の話のついでであった。
 今日のタイムスを見ると、例のゴビの砂漠でデイノソウルスの卵を見付けたアンドリウスが、また中央亜細亜アジアへ二年とかの計画で、何百頭とかの駱駝と途方もない人数の人とを引連れて出かけたようだ。あの辺を人類発生の地とみているらしいので、その遺跡を探すためにあの砂漠をさぐって歩くのだそうだ。とても日本人には出来ないな。あんな事になるととても亜米利加アメリカにはかなわないね。金の有る無しにかかわらず、日本人だったら、たとえ金を出す人があっても、宛もないあの中央亜細亜の砂漠へ二年の計画でそんなものを探しに出かける人があるだろうかな。勿論売名的な男にならあるだろうが、まあ大学教授位の程度の人でそれだけの意気の有る人がいるだろうか疑問だね。そういえばエベレストの英国の登山隊も相変らず今年もまた計画しているそうだが、これも日本人にはあんな風には出来そうもないな。
 オンネスの所へ行った時、液体ヘリウムを作る処を見せられたが、どうも大したものだったことを覚えている。こっちの室で液体空気を作って、それを次の室へとうとうと流してやって、まるで水かなんかのようにどんどん使っているんだからな。金のことじゃ亜米利加にかなわないし、そうかといってオンネスの所みたいに世界の名物になるほどの事も出来ず、日本ももっと科学に力を入れて本気でやらなきゃ、いつまで経っても外国から尊敬なんかされないよ。尊敬されなきゃ排日などされても仕方がないじゃないか、こっちが騒げば騒ぐほど、排斥すべき劣等国民だと思われるだけだ。いくらポンピアンクリームや耳隠しを排斥したって、日本が亜米利加から尊敬されるようになるまでは排日は君なかなか止まんよ。そんな事に騒ぐよりも不燃性水素でも作って見給え、排日なんか一辺に止んでしまうから。
 先生は、辞して帰る時、玄関まで送ってこられて、私が靴の紐を結んでいるのを立って見ておられながら、「デイノソウルスの卵が見付かったって人間がどうなるというのじゃないが、……それだから益々面白いんだなあ」と独言のようにいっておられた。

五 田丸先生とローマ字


 先生がローマ字に大変熱心で、始終ローマ字世界に書いておられたのは周知のことである。先生はローマ字運動の先頭に立たれたようなことはなかったが、隠れた後援者としては随分力を尽されていたようである。その一つの動機としては、先生の田丸先生に対する敬愛の心持が重要な要素であったことは見逃し得ぬと思われる。ある晩この話が出た。
 実際田丸先生のローマ字に対する熱心さには頭が下るよ。田丸先生が、何もそんなに御やりにならなくてもという人があるが、時には僕らでさえ、田丸先生があの半分の熱心さでも物理の方に向けられたらと思うことがあるからね。しかしよく考えてみれば、物理の方は後には田丸先生に代る人が出てくる見込があるが、ローマ字の方は田丸先生を除いては二度とあのような人を見付けることはまず出来そうもないからなあ。何にしてもあれをかく批評することは出来ない。本当に真剣なんだから。
 田丸先生ほどの頭と熱心さをもってしなくては、恐らくローマ字もこれだけにはならなかっただろう。田中館先生も、これはまた熱心過ぎる位熱心で、時と処の区別なくやられるんで、それにローマ字を使わぬ者は馬鹿だといわぬばかりなんだから少々閉口することもあるが、もっとも先生のは何となく愛嬌があって人の感情を害するというようなことはないからいい。何にしても青森から帰ってきて、直ぐ停車場からローマ字会へ馳け付けるなんてことが始終なんだから実際感心してしまう。あの時代の人の方が偉いような気がするな、やはり武士道が残っているんだろう。僕なんかとても駄目さ。まず帰ったら一服して、美味い菓子でも喰って、ねころびながら画の本でも見て一休みしないことにゃとてもまた出掛けるなんていう元気はないからな。
 田丸先生が亡くなられた時、先生はつくづくと「これでローマ字の方も随分打撃だろう。僕なんかもローマ字のファンというよりも、田丸先生のファンといった方が適切かも知れないからなあ、もっともこれは冗談だが」と述懐されていたことがある。
 この話については、先生が高等学校時代に田丸先生から数学を教わり、それで工科から物理へ転ぜられたという話を附記しておく必要がある。

六 電車の中の読書


 電車の中でも少しずつ本を読む癖をつけると結構読めるものですよ。深川の水産講習所へ通っている間だったが、往復の電車の中でカントのプロレゴメナを到頭読みあげてしまったこともあるからね。もっともあれは一句が長くてワンセンテンスが一頁近い奴があるんで随分苦しんだものだが。
 いつか豊隆か誰かの随筆を読んでいたら、「僕の知ってる人の中でカントの哲学序説を電車の中で読み上げてしまった人もある。勿論之は異例に属するものだが……」と書いてあって、あんまり近い所の話だったんで驚いたよ。今でも電車に乗る時は少し遠廻りしても腰掛けられる車に乗ることにしているが、結局その方が良さそうだ。僕なんか五分や十分早く行かなきゃならぬというような用事なんて滅多にないんだからね。
 この話があってから数年後、いつか先生と一緒に電車に乗ったら、いつもの風呂敷包みの中からサンスクリットの本を取り出して、ちょっと私にその表紙を見せながらニヤリと笑ってまた急いで包みの中へ蔵われたことがあった。

七 初めて伺った時


 初めて先生の所へ伺ったのは、ニウトン祭の会計報告の時であった。ニウトン祭というのは東京の大学の物理教室で、毎年十二月二十五日のクリスマスの夜、先生方先輩学生が集って、漫画の幻灯や御寿司の立喰いなどで一夕打ちとけた懇親の会をするのである。その頃先生はニウトン祭の会計を受持っておられて、毎年余った金は先生の名で貯金しておいて戴くことになっていた。実際の会計事務は学生がやるので、先生は先生達方面の寄附金を集めて下さることになっていた。そんな随分御迷惑な仕事を先生は案外機嫌よくやって下さっていた。その年は私が学生方面の会計をやらされていたので、ニウトン祭の翌日の晩、会計簿と残金とを持って先生の御宅の応接間へ伺ったのであった。その時先生は、「どうも毎年、五月か七月頃になるまで会計が出来なかったものだが、君のは馬鹿に早いね、僕は本当は、几帳面なのが大好きなんだ」と大変御機嫌が良かった。
 ゆっくり話して行き給えといわれるままに、初めて見るこの応接間を、田舎出の大学生らしく物珍しげに見廻しながら、色々の話を聞いて驚いていた。大分遅くなったようなので御いとましようと思って、「先生は御忙しいんでしょうから」と月並なことをいう。
 何に、良いさ、もう御休みになったのだから何も忙しいことはない。始終忙しい忙しいといっているのが現代人の欠陥だ。中には忙しいということが何か偉い事のように思っている人もあるが、僕なんかその反対だね。君、家はどこだね。何、本郷か、それじゃ電車がなくなっても平気だね。僕なんか夏目先生の所へ遊びに行っていた頃は、牛込から弥生町まで歩いて帰ったもんだ。いわゆる、「寒月」が皎々と冴え返っている中を歩いて帰ったものだよ。
といって先生はニヤリとしておられた。
 それから二、三日してまた何か用事を見付けて図々しく伺ってみた時、先生は前の会計簿を持って出てこられて、「君この会計の計算が間違っているよ、一円余計に金を受取っていることになってる」といって一円出されたのであった。何思わずそうでしたかといってそれを受取って鰐口の中へ入れると、先生は
 そうあっさり受取って貰うと大変難有い。僕はまたもし君がそれは商人の間違いだろうとか何とかいって受取ってくれなかったらどうしようかと思って随分気にしていたんだがね、そういう点は現代式の教育の良い点なんだろう。
といわれた。こんな事を褒められたのは実に意外だった。

八 随筆の弁


 初めて伺った時に聞いた話にこんなのがある。
 僕みたい絵も描きたいし、音楽は好きだし、それに変なものも書きたいし、こんな道楽者は物理なんかやるんじゃなかった。もう断然何も書くまいと決心していても、雑誌社の人などは実に根気よく頼みにくるし、それにあまり頼まれると気の毒になる性質だから、つい書いてみる気になってしまうんだ。それに、ちょっと小使いにもなるからなかなか工合の良いこともあるね。夏目先生が『猫』の最初の原稿料だったか、二十円位はいってきたことがあったが、先生あぶく銭がはいったのでとても嬉しくてどうしようかと色々考えた末、丸善かどこかへ出掛けて行って、水彩画の絵具一式と、ワットマンか何かの引き裂くと絵葉書になる紙を綴ったのを一冊と、それから象牙の紙切ナイフとを買ってこられたことがある。きっと平生から欲しいと思っておられたものを買ってこられたんだろう。ちょっとそういう気になって楽しみなものだよ。まだ原稿料で生活の方を何とかしようというほど家計も困っていないし、またそれほど堕落もしていないが、ちょいちょい不意のあぶく銭が入ると、ちょっと都合の良いこともあってね。
 こんな時にはちょっと気まり悪そうにして独特の微苦笑を洩されるのである。これが初めて御宅へ伺った学生の一人へ話される言葉なのである。
 実はそれに僕はこう見えても科学普及ということにもかなり自信を持っているんだ。この頃の科学何とかという雑誌や本のような趣味の低いものでは、とても駄目だ。僕は科学的に考える方法というものを日常の生活に取り入れることをかなり注意して書いているつもりなんだ。だから僕の本などは極少数の人だけがアップレシエートしてくれればそれで良いのだと思っている。

九 パブロワの踊り

 いつか名人の話の出たついでにその頃初めて東京へきて騒がれていたパブロワの踊りの話が出た。
 実は朝日の記者に誘われて二人で出掛けて行ったんだがね。目的は力学的に見たパブロワの踊りというのを書くつもりだったんだからちょっと凄じいだろう。ところがどうも一度ではなかなかいかん。もう一度と思ったが、入場料が非常に高いのでどうしようかと考えた。結局原稿料で埋め合せれば理由わけはないと思って到頭二度見たよ。
 やはり重心の動き方と脚の運び方で、力学的に安定した時が、見た目にも落付きがあって美しいと思った、踊りはなかなか複雑だが、重心の動き方を見ていると、案外簡単なリズムから出来上っているものだということが分って面白かった。雄弁家の演説というものが丁度あれだね。
 それで結局その話は何に御書きになりましたかと聞いたら、「到頭書かなかったよ、まるまる損をしたわけさ」と顔一杯皺だらけにして大笑いをされた。

一〇 物理学序説


 ある晩の応接間の話で、この日は先生は大変機嫌が良くて、大気焔を揚げられたのであった。
 どうも日本人はあまり夢を持っていなくていけない。それだからいつまで経っても外国人の跡ばかり追っているのだ。「何とか効果」というようなものが発見されると、それのディテイルを細かく精確にやる人はいくらでもいるが、そしてそれも大事なことではあるが、肝心の本当に新しい事実を発見するようなことを試みる人が少い。X線でも、放射能でも皆最近の発見なんだ。君達は、あんなものはもうとっくに見付かっていたような気がするかも知れないが、その発見の当時を知ってる僕達にはごく新しい事だ。まだまだあれ位の事は沢山どこかに転っているような気がしてならぬのだが。この頃のような方向に原子論が発達すると、電子と水素核プロトンとで何もかも説明出来てしまうような気持を皆に持たせてしまっていけないね。(註、この話は約十年前のことで、今の中性子や陽電子のことは誰も夢にも考えなかった頃の話である。)電子のことも水素核のことも分り、光も全波長のものが分ってしまったらもう自然界にはそれ以上かくされたものがなくなってしまうような気になるのが一番いけない。まだまだそれ位のものはいくらでもあるよ。
 僕はファラデイのような物理学を想像して学校へはいったのだが、失望したね。物理なんかちっとも教わりやしない。まるで数学ばかり教わったんだ。物理の数学中毒という論文を一度書いてみたいね。もっともそんな事をすると四方に差し障りが出て困るんだが、僕だって数学が不要だなんて決していいやしない。数学は物理の研究にはなくてはならぬ精鋭な武器なんだが、どんな良い薬だって、あまり使い過ぎると中毒するものだから、僕はその中毒のことをいっているのだ。しかしそんな勝手な熱ばかりあげてさっぱりやらないから、数学の方はどんどん忘れてしまうね。この頃は三角の公式まで思い出せぬことがある位だから、これじゃ困るね。
 数学がこんなに幅をきかすというのは、要するに学校教育というものがいけないのだと僕は思っている。今の学校教育というものは、あまり組織立てることばかりに一所懸命になるからこんなことになってしまうんだ。教育は何といっても昔の塾教育に限るようだね。僕はその中物理学序説というものを書くから、今はとても忙しいし、それに差し障りがあるといけないから、今に六十になって停年になったら一つそれを書いて、大いに天下の物理学者を教育してやるつもりだ。
 この話をきいた時は、先生珍しく気焔を揚げられた位に考えていたのであるが、亡くなられてから、この物理学序説の原稿が発見されたのである。それは海洋物理学の講義の草稿らしいフルスカップの裏に書かれたもので、百何十枚かあった由である。その初めに予定らしい数字が書いてあって、それで見ると約三分の一位は出来ていたようである。この原稿は先生の亡くなられてから、岩波のK君が全集のための未発表の原稿を探している中に、先生の書斎で発見したもので、その校正を見せて貰って初めて驚いたのである。これが完成されなかったことは実に惜しいのであるが、これだけでも世に出たことは望外の喜びである。

一一 人類学の一つの問題


 これも応接間での講義の一つである。私の弟が人類学をやっていたもので、その話の出た時のことである。
 人類学のような学問をやる人が我が国には少いので困るのだ。もっと沢山やる人があって、あのような学問がどんどん現代科学に寄与コントリビュートするようになるとよいのだが。人類学といえば僕は一つ面白いアイデアを持っているからあげよう、やってみたらきっと面白いだろうと思う。
 今度の大地震なんかで土地が隆起したのは事実だが、古い時代でもこんな地震があって、そのセンスが同じであったかどうか、少くとも第三紀以後の大地震帯の活動は同じセンスであるか否かということは大問題なのだ。それを見るのに貝塚やその他の遺跡の分布を見たら面白いと思う。例えば貝塚の同じ時代のものが巧く海岸線と並行に近い線の上にのっていたら、地震ごとに土地の隆起が同じセンスに起きたことが分り、それと今度の地震のくわしい隆起の図と比較して見たら面白いだろう。歴史時代になってからは大分よく分っているし、地質年代の事もかなりよく分っているのだが、丁度その連鎖に当る所がまるで分っていないのだ。そんな方面へ発展させたら、人類学も大分広いフィルドがあるだろうと思っている。
 それで未だ足らぬ所があるには決っているが、そこは言語学や、出来たら神話などを調べたら大分補足出来やしないかという気がする。例えば地名のアイヌ語源のものの意味を調べたり、竜が火を吹くのは火山の噴火だという風に解釈して補ってみるのだね。もっとも木村鷹太郎のようになっても困るが、あれだって一面の真理はあると思うよ。

一二 地震と○○村


 地震の話のついでに、I先生が○○村が東海道で一番地震には安全な所だから別荘を作るならあそこに限ると講演されたところ、あそこは□□□□の村だという手紙がきたという話を持ち出した。先生は言下に「そりゃあ当り前の事だよ」といわれたので、何の事か分らず「へえ」と曖昧な返事をしておくより仕方なかった。
 君、そりゃあ別に驚くことじゃないじゃないか。日下部さんが「文明と地震」という論文を書いたことがあってね、文明の起る所というのは大きい河の河口とか、港すなわち海岸線の屈曲の多い所なんだ。そんな所は地盤に裂罅の多い所なんだから、文明都市が地震に脅かされるのは当り前の事さ。それの逆で四方山で囲まれたような不便な所は地盤がしっかりしている。□□□□の人々が文明都市から排斥されてだんだん逃げて行く所は○○のような辺鄙な所、すなわち地震に対して安全なわけだ。それは決して不思議なことではない。僕にとってもっと不思議なことは、同じ日本人でありながら、ある職業の人々を□□□□だなんといって特別の取扱いをすることだ。

一三 名人


 誰かが今世界で一番偉い男は、カイゼルとチャプリンだといったことがあるね。カイゼルの方はもっとも今は面影もないが、チャプリンの方は偉いね。道化た真似でも、あれだけになると必ずその中に何か本当のものを捕えている。どんなことでも、本当のものを捕えている以上、そいつはなかなか真似の出来るものじゃないんだ。例えば一平とか、小さんとかいう男は、大学教授なんていう男と較べたらまるで問題にならん位偉いね。大学教授なんていうのは一番間の抜けた仕事で、気の利いた人は決してやらぬ仕事だね。いつか小さんの落語を聞いたことがあるが、何か本当のものをつかんでいるという気がした。あの前座に出る者なんかの話は全く inhaltlos なんだ。まるで内容がないからあんなことになるのだね。君達機会があったら、何でも良い、名人といわれる人の芸は少くとも一度は見ておいた方が良いよ。
 一平の漫画は、あれは頭で描くのだ。だから何か本当のものがある。一平の真似をしてこの頃沢山描いている連中がいるが、まるで内容がないね。ずっと落ちてしまう。やっぱり何でも真似をしてはいかん。漫画だって、オリジナリティがあって始めてある意味が出てくるんだね。もっともあの男は特別偉いんだ。この頃大臣のメンタルテストというものを出しているが、あれなんかも実に思い切ったことをどんどんきいているね。大臣なんかまるで眼中にないという様子だよ。あんなのに較べたら大学の教授なんていうのは駄目だな。もっとも大学の教授だって偉い人も沢山あるんで、僕みたいな男と較べたらという意味だよ。誤解しちゃいかん。

一四 影画の名人


 名人といえば、僕は影画の名人の芸を見たことがある。僕が仏蘭西フランスにいた時、巴里パリの一流の寄席で、手で影画を作って見せる男がいたが、実に巧いものだった。
 先生は片手をぐっと突き出して、犬の頭の恰好の影を作って見せながら
 こんな工合に、ただ何の仕掛けもなく、犬の頭を作るんだがね、それが実に不思議なんだ。パンを持って行くと嬉しそうにしたり、怒ったり、吠えたり、影が君色々の表情をするのだから実に巧いものだった。こういう工合に両手で猿を二匹作るんだが、それが頭を掻いたり、足を撫でたり、相手の蚤をとってやったりするところまで出るんだから全く驚いたよ。
 それから僕が後で紐育ニューヨークへ渡ってから、やはり一流の寄席へ行ってみたら、またその男が出てきたので驚いたね。どんなつまらぬ事でも名人となると、それで世界を立派に押し渡ることが出来るものだとつくづく感心したよ。光源はポイントライトで、アークか何か使って向うの幕に写すだけで、あとは手だけ持って行けば良いのだから簡単さ。
 最後には、書割りの家があって、亭主が酔っぱらって帰ってくるとお神さんが二階から水をぶっかけるという喜劇をやるのだ。それが済むと、指を開いて見せるのだが、亭主とお神さんとがバラバラと五本の指になってしまうのだが、あの時は実に妙な気持になったよ。

一五 本多先生と一緒に実験された頃


 先生は大学を出られて間もない頃、その当時まだ東京の大学におられた本多先生と一緒に磁気の実験をしておられたことがあった。漱石先生の『猫』の中で、寒月君が首縊りの力学の講演の稽古に乗り込んでくる所で、迷亭が「所がその問題がマグネ付けられたノッヅルに就いて抔という乾燥無味なものじゃないんだ」という条りがあるが、実際は先生は、本多先生と一緒に実験された頃は非常に面白かったようであった。ただ本多先生があまり猛烈に勉強されるので少々辟易の気味であったらしい。
 何にしてもあの地下室で、毎晩々々十二時過ぎまで頑張られるのには弱ったよ。僕はまだ新米で助手なんだから、本多さんが実験をしておられるのに先に帰るわけにも行かず、毎晩一緒に帰ったものだ。勿論門はしまっていたがね、本多さんは決して塀の隙間から出るなんていうことはしないので、いつでもあの弥生町の門だが、ちゃんと門番を叩き起して錠をあけて門を開かせて帰ったものだ。門番は睡いので初めの中はブツブツいっていたがね、何しろそれが毎晩のことでしかも半年も続いたから、流石さすがの門番もすっかり感服してしまって、しまいには、「どうも毎晩御勉強で、御疲れでしょう」と挨拶をするようになってしまったものだ。
 丁度秋の頃で上野では絵の展覧会があるのにそれを見に行く暇もないのだ。僕は昔京都へ行かないかと勧められた時に、どうも家の都合もあって断ったことがあるが、その時には、「寺田は絵の展覧会が見られないからといって京都を断ったそうだ」という噂が立った位なのだから、あれは実に苦痛だったよ。本多さんときたら土曜も日曜もないのだからね。ところが丁度十一月三日の天長節の朝さ、下宿の二階で目を覚してみたら、秋晴れの青空に暖かそうな日が射しているじゃないか。有難い、今日こそ展覧会を見に行こうと思っていそいそと起きて飯を喰っていると、障子をあけて這入ってくる人があるんだ。見ると本多さんさ。「今日は休日で誰もいなくて学校が静かでいいわな、さあ行こう」といわれるんだ。あんな悲観したことはなかったよ。実にやり切れなかったよ。
 私は思わず吹き出してしまった。先生も珍しく大声を揚げて笑い出された。しばらくして先生は真面目な顔になっていわれた。
 しかしあの頃の実験で僕は一つ大事なことを会得したよ。それは必ず出来るという確信を持っていつまでも根気よくやっておれば、ほとんど不可能のように思われたことでも遂には必ず出来るというのだ。そんなことが物理の研究の場合にもあるとは思われないだろう。しかしそれがあるのだ。これはちょっと唯物論では説明出来ないな。本多さんときたら少し無茶なんだ、機械の感度からいっても、装置の性質からいってもとても測れそうもない事でも、いつまででもくっついているんだ。そうしていると、どこを目立って改良したということもなくて自然に測れるようになるのだから実に妙だよ。あれは良い経験をしたものだな。あの時使っていたディラトメーターなんか随分無茶なものだったが、あれでよく測れたものだったなあ。

一六 ガリレーの地動説


 人間の性質の中には、どんな大学者にも必ず人間味があるもので、恐ろしい罪人と立派な学者とが一緒にその中に棲んでいるものだ。結局その中のどちらが表面に出るかによって決まるのだ。それだから僕は偽善者は大嫌いだ。その他の人間ならどんな人間にでも必ず何か取りえがあると思っている。そのつもりで見ると必ず何か取りえがあるから妙だね。ただどうしても僕は偽善者だけは好きにはなれない。実際人間味のある可憐な人々の失策ばかりとりあげて、いわばそれの at the expense of でね、それで自分の地位を保ったり、あるいはそれを厳しくいい立てることによって自分が立派な人間であることを人に証明しようとする道徳家連中位癪に障る者はないよ。こんなことをいうと、危険思想だと思われて、寺田君の説によると泥棒をする人が善人なんだからと時々冷かされることがあるんだ。
 ガリレーが宗教裁判で、「自分は地球自転説を捨てる、しかし地球は廻っている」といったという説に対し、この頃、それはガリレーが腰を抜かして目を廻し「ああ廻る廻る」といったのだという説を出した人があるが、僕にはこの後の説の方が本当にガリレーの偉さを示していると思われる。初めのではちっともガリレーに同情することが出来ない。まるで芝居を見ているような気がして、ちっとも人間らしい所がないじゃないか。腰を抜かした所に、それまでのガリレーの内心の苦悶も見ることが出来るし、当時の世の中の空気も分るし、それでこそガリレーが益々偉く見えてくるのだ。これは喜劇のようにみえて本当は大変な悲劇になっていると少くとも僕にはそう見えるな。
 ネーチュアに、シュスターが色々の物理の大家に会った時の印象記が出ていたが、あれも面白かったな。毎号楽しみにしていたものだ。あの印象記には実際その大家の先生の人間味が出ていた。なるほどやっぱり吾々と同じ人間であったかと分って非常に愉快だった。

一七 筆禍の心配


 先生と漱石先生との関係は、随筆「夏目漱石先生の追憶」の中にある通りである。ある晩のこと、やはり曙町の応接間での話であるが、その日は珍しく最初から漱石先生の話が出た。色々追憶の中にあるような話があった末、漱石全集の話が出た時のことである。
 漱石全集の手紙のことについて色々事件があってね。森田君なんか全部出してしまえというし、そのため迷惑する人があって困るしね。あれでも実は随分迷惑に思っている人もあるんだからね。それにあの雑録や日記の中にはまだ出してはないが、かなり大変なこともあるんだ。森田君なんか、何でもかまわず出してしまえといったが、つまらぬことで筆禍になってもつまらぬから僕なんか大いに止めたわけさ。僕はこれでも官吏だからね。
 実際書きつけていると、段々図々しくなって、思い切ったことを書きたくなるので困るよ。口でいったことなら、何をいったってかまわないが、筆で書いたものはどんなつまらぬことでもやかましくて、実際馬鹿らしい目にあうことがあるからね。君なんかも今に何か書くようなことがあってもそれだけは注意し給え。
 実は今度の議会を見てきて、議会見物記というのを書こうと思ったのだが、丁度書き上げた時、武藤山治とかいう人が「議会は最も能率の上らぬ機関だ」とかいって懲罰になったということを聞いて、怖くなったから止めてしまった。僕が死んで遺稿でも整理する時があったら出してくれ給え。実際、あんな不愉快な所はないね。バントラとかいう人が、まるで何やらちっとも分らぬことをいって、手を振り廻して無暗と怒鳴っているし、政友会の方は、また厭に落付いて、何といわれたってどうせ多数決できめるんだからというので図々しく平気で構えているし、実際あんな不愉快な所はないよ。

一八 水産時代の思い出


 先生は大学を出られてしばらくして、水産講習所へ講義に行っておられたことがあった。その頃手をつけられた水産方面の色々の問題が、その後優れた後継者達の手で立派な水産物理学となって、今日日本の水産の技術と同様、立派に世界に覇を成しているのである。初めの中は先生一人で講義も実験もやっておられたのであるが、段々忙しくなったので、F先生を連れて行って講義だけを担当して貰われ、先生は研究の方に専念されるようになったのだそうである。先生はその当時の仕事がよほど御気に入っていたらしく、随分懐しそうにその頃の思い出話をされたことがあった。
 あの頃は面白かったよ。F君が講義を受持ってくれたので、僕は安心して自分の勝手なことばかりしていたんだ。何しろF君の講義というのが振っていてね。「世に物と事とあり、物とは何ぞ、例えば幽霊は物なりや否や」という調子なんだからね。おそらく物理の講義の中に幽霊が出てくるなんていうのはF君だけ位のものだろう。
 F君は学生時代はおとなしい若い学生で、あんなに偉くなろうとは思っていなかった。しかし一緒に水産講習所へ通っていた時の電車の中の話は面白かった。エントロピーが増す一方だというのは可笑おかしい、仏教の御経の中に何とかいう文句があるが、あれはエントロピーが減ることを意味しているなどという話なんだ。どうも少し変っていると思っていたが、到頭ノルウェーで出したあの有名なホルテックスの論文の中の根本概念はやはりそこにあったのだ。
 研究の方も面白かったな。僕は縄の腐れる理論をやるし、F君は乾物の理論、缶詰の理論を出すという始末さ。何でも干鱈を作る話なんだが、肉を繊維の集りとしてその中を毛管現象で水分が上って行って、表面から蒸発するというのを、何十頁か長い数式ばかりで埋めたんだから、水産講習所の連中を煙に巻いたわけさ。
 もっともこれは冗談じゃないんだ。僕はあの縄の腐れる論文には大分自信があるんだが、誰も読んでくれぬのだ。あんまり変ったことをやるのはやはり損だな。

一九 雲の美


 大正十三年の夏は大変な暑さで、夏休み中実験室へ出てはいたものの、実験なんか勿論何も手にはつかなかった。それでも先生は毎日のように実験室へ顔を出された。まず朝室へはいると真裸になってその上に白い実験着を着て、紅茶をわかして、手製の硝子ガラス細工の冷却器に水道の水を通して冷しておく。昼頃先生が見えると、それにうんと砂糖を入れて出すのである。ごみごみした実験台の上で、先生はいかにも汚なさそうにその紅茶をとりあげながら実験結果の曲線を覗かれる。「うん、そうか、これを皆集めて三次元的にすると、金屏風に山の芋を立てかけたような形になるんだな」という風な指導振りが一応すむと、後は暢気な雑談をしばらくして帰って行かれるのであった。
 ある日丁度先生のおられた時に、気象台のF先生が這入ってこられた。何でもF先生が見られることになっていた論文を見終られたので、それを持ってこられたのである。小使にでも持たせて寄こされれば済む所を、わざわざ御自身で持ってこられるのは、F先生も寺田先生に師事されていたからなのである。
「実際こう低気圧タイフーンに腰を据えられては全く神経衰弱になってしまいます」とF先生がこぼされる。先生はニヤニヤしながら、丁度その日の朝の新聞に出ていた記事のことを話されるのであった。
「F君も、ああでもなかったが、気象台へ行くと、皆人が悪くなるからね。新聞記者を操縦する所なんか巧いものだ。」
「ええ、なかなか新聞記者学を卒業するには、十年はかかりますね。今頃になってようやく、そのこつが分りましたが、I先生なんかまだまだ一年生ですね。」
「何だがこの前なんか、中央気象台のF博士に会って、雲の美の話をして下さいといったら、雲の話なら僕も少しは知っているが、雲の美となると、どうも大学の寺田先生でなくちゃとおっしゃいましたからといって、婦人記者が僕の所へやってきたね。実際F君も人が悪いなあ。物理学者を侮辱していると少々憤慨していた所なんだ。」
 先生は僕達の顔とF先生の顔とを等分に眺めながらニヤニヤしておられる。F先生は頭を掻きながら、
「どうも婦人記者には一番困ります。雲の美、雲の美といって、いやに美しがってばかりいるもので、これじゃとても僕の手には負えぬと思って先生の所へ差し向けた理由わけなんです。」
といって、大笑いになってしまった。
 F先生が辞して帰られようとした時、硝子ガラス戸に、バラバラと雨がかかる「やあしまった。傘を持って来なかった。洋傘のいらぬのがありませんか」とF先生がまた頭を掻かれた。これは早速その年のニウトン祭の漫画の幻灯の種になってしまった。

二〇 全人格の活動


 同じ実験室でのある他の日の話である。少し実験が面白くなって先生も頻繁に実験室へ顔を出されていた頃のことである。ある日先生が見えている所へ、I書店の主人があの野趣に富んだ精悍な顔を不意に見せたことがあった。一言二言挨拶をしておられる中に、「どうです、この頃はちっとも御書きになりませんなあ」という申し出であった。先生は少しきまりの悪そうな顔を私達の方へ向けながら「何分御覧の通りの始末ですよ、これでもなかなか忙しいんでね」と実験の装置を指差される。「それはそうでしょうが、それだけでは寺田さんの半分だけですね、全人格の活動とはいえませんな。どうかもう一方の半分の御活動も願い度いものですな」と言い棄ててIの主人はさっさと帰って行ってしまった。
 後で先生は苦笑しながら、
 どうも驚いたな。あれが精一杯の御世辞なんだから。しかし全人格の活動とは巧いことをいったものだ、実はそれが本当なのかも知れないからな。何にしてもこれはIの主人にしちゃ出来過ぎだ。ことによると道々考えてきたのかも知れないな。
こんなちょっと人の悪いようなリマークをされる時は、先生は全くの上機嫌なのである。

二一 実験の心得


 その頃の実験室は生地むき出しの汚いコンクリートの建物の中の狭い一室で、二間に三間位の極めて狭い部屋であった。その中でY君が水素の爆発をやり、KM君が霜柱を作り、HM君が熱電気の研究に焔を針金に吹きつけ、片隅で私が電気の火花をパチパチ飛ばすというのだから、まず玩具箱をひっくり返したような騒ぎである。その中で先生は悠然として朝日を吹かしながら、「こんなに雑然としているようでも、これらの題目が皆僕の頭の中では一つに融合しているのだからな」といって、済まして気焔を揚げておられた。
 時々は前にいったような珍客が晴れやかな空気を持ち込んでくるようなこともあったが、時には先生が真顔になって実験の心得を説かれることもあった。
 装置を一度作るとどうしてもその通りを追って行くのが一番楽で、どんどんそれを変えて新しく実験を進めて行くのが何となく億劫になって、次の事に手を出し兼ねるようになってしまう。それが実験家には一番いけないことだ。
 型に嵌った実験を精密にやって、恒数を決めて行ったりする仕事も僕は決してつまらぬとはいわない。それも立派な事で、またなくてはならぬ仕事であるが、それにはそんな仕事に適した人があるから、その人に任かして僕は御免を蒙るというだけなんだ。僕は子供の時から家で非常に大事にしてくれたもので、自分の好きな事だけしてこられた。まあ、苦学力行の正反対で楽学の大家だね。しかし世の中には自分の好きな事をやるというのが何か悪い事のように思う人があるので困るよ。どうも日本人には、自分の性質に合わぬむつかしい事をひどく尊敬する癖があるようだ。自分の性に合わぬ事に大変な勉強をしてやっと人並位の仕事をして得意になってるのは、征服感の満足だということに気が付かないんだね。まあ自分の好きな事を暢気にやって行くのが、少くとも身体には一番良いね。
 しかし、実験家として立って行くには、決して億劫がってはいかぬ。どんなつまらぬ事でもやってみなければ分らぬものだから。まずやってみることが一番大切なんだ。頭の良い人は実験が出来ぬというのもそのことで、あまり頭の良い人は何でも直ぐ分ってしまったような気がするのでいかんのだ。どんな事でもやってみなければ決して分るものじゃない。何といっても相手は自然なんだから。
 先生は窓越しに青空を仰ぎながら、ゴソゴソとポケットから煙草を探り出して、「実験物理学者になるには、自然をよく見ることが必要だ。一つルッソウの真似をして、自然に帰れとでも皆の前でいってみるかな」と感慨深そうにいっておられた。

二二 ボーアの理論


 この話は物理を専門にしておられぬ人には興味が少いかも知れないが、その代り物理の専門家の人にはある意味で非常に興味のある話かも知れない。
 この頃のように量子力学が非常にむつかしくなって、物理をやっていてもその方面の専門家でないとちょっと理解出来ないようになってくると、この先物理がどのようになって行くのか少し気懸りになる。
 しかし新しい理論というものは、どれも出た初めは大変難しく見えるもので、今では皆に親しまれているボーアの原子構造論でも、出た初め頃はなかなか大変だったのである。次の話は、長岡先生や寺田先生などが、その理論をめぐって色々議論をされた席の話である。東大の物理では、毎月一回、御殿で懇親会というのがある。それは先生方、在京先輩、三年の学生が集まって一円の夕食を共にし、引続いて誰かが、新しい物理学上の問題について一席話をするのである。
 六月のある晩のこと、長岡先生が新着のボーアの本を紹介されて、その頃では破天荒に新しいボーアの原子論の大体を約一時間にわたって話されたことがあった。もっとも定常軌道のことや、プランクの量子論の導入の問題は、その前から知られていて、先生方も十分考えておられた問題なので、話が済むと直ぐ議論ディスカッションが始まったのである。まず寺田先生が、「電子が次の軌道へ行く時がνニューの光で、それを飛び越えてまた次の軌道へ行く時にはν’ニューダッシュの光を出すとすると、何だか電子が自分の行先を知っていて、それに相当する波長の光を出すような気がしますがね」と例の悠揚迫らぬ姿で質問とも独り言ともつかぬ話をされる。あまり妙な質問なので長岡先生は本を撫でながら苦笑しておられる。すると横から佐野先生が飛び出して、「君、それはね、それは」と言いながら黒板の前へ出て行かれて、「電子はね、この途中は飛び越してこの軌道の所へきてしばらくまごまごしている間に光を出すんです、ここでちょっとまごまごするんです。これは本当です」と、チョークで黒板を叩きながら電子のまごまごしている姿を見せるつもりらしい。先生は「定常軌道の考え方からして、軌道の上で光を出しては困る。根本概念に矛盾するから」となかなか納得されない。するとT博士がのっそりと立ち上って、「それは、そのう、電子が出る時にあるタンゼントを持って出て行って、ヘリックスかなんか描いて行くとすると、タンゼントの角によってνも決まり、どの軌道へ行くかも決るとするとよい理由ですが」といわれる。先生は「そんな人為的アーティフィシアルな考えはどうも困る」となかなか頑強である。
 この頃になってみれば、このボーアの理論は今の量子力学などから見ると大変やさしいものになっている。やがては今の量子力学にも皆が馴れて、小学生がラヂオをいじるように気楽に親しまれる日がくるかも知れない。
 先生が晩年書かれた「生命と割れ目」や「藤の実の研究」などの論文の題目だけ聞いておられる一部の読者は、先生は今のいわゆる「正統派」の物理学、すなわち相対論や原子論の方面には全く興味を持たれなかったかのように思われるかも知れないが、実は決してそうではなかった。相対論のやかましかった頃は、「大学に籍がある以上は一通りは知っておらねばね」といいながら、難しいラウエの本を読んでおられた。先生の「アインシュタインの側面観」には、理論の内容のことはちっとも書かれていないが、その当時、我が国で相対論を十分理解しておられた少数の先生方の一人であったのである。その後原子論が物理学界の主潮となってからは、先生はゾムマーフェルドの千頁に近いあの大著を読みながら、「一回ざっと読んで今二回目を半分ばかり読んでいる。なかなか面白いよ」といっておられた。そして理研のF君の帯スペクトルの講義を喜んで聞いておられた。先生が「電子と割れ目の類似アナロジー」を書かれるにはちゃんと準備がしてあったのである。
 二、三年前のこと、割れ目の研究の生物学上における意義を論ぜられていた頃、理研の部屋へ伺った時には、机の上に細胞学の部厚な洋書が四冊ばかり載っていた。「これを皆読んだのだから、なかなか勉強だろう何理由わけはないよ」といっておられた。この調子だから、単なる奇想を堂々と発表する人があると、「出鱈目」だといって大変御機嫌が悪かった。無理もないことである。

二三 本


 本の話が出たことがあった。
 本は何といっても大家のものに限る。マクスウェルの電磁気とか、トムソン、テイトの物理教科書とかは、今頃の人にはほとんど読む人がないだろうが、閑があったらぜひ読んで見給え。新しい整った本よりも、あんな本の方がどれだけ役に立つか分らない。書いてある事は旧いし、今から見たら間違っていることもあるだろうが、ただ何となく、あれ位の大家の書いた本には、インスピレーションがあるね。そこが一番大切なんだ。この頃出る色々のものから寄せ集めたような、書いている本人もよく分らぬような人の書いた本にはそれがないのだ。実際そのインスピレーションを得るというのが、本の一番大切な要素なんだ。
 僕は大学の卒業前の正月休に、レイレーの音響学サウンドを持って修善寺へ行ったことがあるがね。湯にはいってはレイレーを読み、湯にはいってはレイレーを読むという生活は実に楽しかったな。到頭二週間近くで全部読み上げてしまったが、あれは後々まで随分役に立ったものだった。この頃ラヂオの色々のものをみても、初めての配線コンネクションのものでも直ぐ分るね。みんなレイレーの音響学サウンドにあるものばかりだね。あの旧い音響学と最近のヴァルブでは大変の違いのように見えるが、結局振動という一番大切な点では全く同じことだよ。
 それから閑があったら、大家のものでごく通俗なもので、知り抜いていることを書いた本も読んだ方が良い。そんなものを読んでいる間には、自分の頭に余裕があるから、きっと何かのヒントを得るものだ。特に実験を一所懸命やっている時に、そんな本を読むと、よく非常に大切なヒントを得ることがあるよ。その意味で、あまり実験ばかりやらないで、時々はうんと遊び給え。高い山へでも登ったり、温泉にでも浸っている間に、ふっと丸でとんでもない新しいアイディアを得ることがあるから。よく今の若い者は遊んでばかりいて困るといわれる先生もあるが、僕は、どうも今の若い者は勉強ばかりしていていかんといいたいね。

二四 露西亜語


 先生が外国語に堪能だった話は事新しくいうまでもない。普通書かれたのは英語が主であったが、独逸ドイツ語と仏蘭西フランス語も自由であり、読むだけは伊太利イタリア語も露西亜ロシア語もかなり楽だったようにみえた。「比較言語学に於ける統計的研究」を書かれた頃は、単語だけは十数か国語に相当通じておられた。英文は非常に立派な文章を書かれ、英国の気象台長シンプソン博士に会った時にも、この英文は十分な高等教育を受けた英国紳士の書く文章だといって驚いていたことがあった。露西亜語に凝っておられた頃、今ツルゲネーフの『初恋』を読んでいるが、やはり原文の方が面白いなどといっておられたことがあった。よく「露西亜語の論文で必要なのがあったら僕の所へ持ってき給え、読んであげるから」と理研などでいっておられたことがあったが、これは結局誰も持ち込まなかったらしい。
 露西亜語といえば面白い話がある。ある日角袖か刑事みたいな人が御宅へ調べにきたことがあったそうである。先生の留守の時にきて女中さんをつかまえて色々根掘り葉掘りきいて行ったのであるが、その中で、女中さんがちょっと「露西亜語の本なども御読みになるようです」といったら、その男が、「やっぱりそうでしたか」といっていたそうであった。
 君、その時にね、その刑事が妙に声を落したそうだ。「やっぱりそうでしたか」は良かったね。しかしあんな報告が基になって、色々やられるんじゃ耐らないね。これは少しくだらぬことになりそうだから、今度からは御免を蒙った方が利口らしい。
 どうも心なしか、露西亜語の方はその後はあまり吹聴されなくなったようだった。

二五 ある探偵事件


 ある晩のこと、「僕は今日一つ探偵事件を解決したよ」と先生は上機嫌で話されたことがあった。それというのは、その日先生の御宅へ妙な私製葉書が舞い込んだのである。表にはちゃんと宛名が間違いなく書かれているのに、裏は真白なのであった。どうも悪戯にしてもあまり変なので、こういう場合先生は、いつか小宮さんがいわれたように、綜ての可能性ポシビリチイを考えて見られるのが得意でもあり、また好きでもあった。宛名の字の書き振りから見ると、どうもこの葉書は沢山同様な葉書を書いたものの一枚らしいという気がしたので、そうするとこれは印刷の葉書で、何かの間違いで一枚だけ刷り落ちたものかも知れないということに気が付かれたそうであった。それならばこの葉書の上に重っていたものが印刷された時の活字の圧力がこの葉書の上に残っているはずだと、色々の角度で光線を反射して見られると、どうも字の型らしい痕がある。さてこれをどうしたら読むことが出来るかと散々考えられた末、鉛筆の芯を細かい粉に削ってその葉書の上に散らし、それを指先でそっと撫で付けてみたら、字がありありと出てきたという話なのである。結局その葉書は何かの会の招待状か何かで大した必要のある葉書でもなかったのであるが、先生は大分御得意のようであった。
 球皮事件の話にしても、この話にしても私が何よりも驚いたのは先生の測り知るべからざる強い自信である。自分が考えたならば分らない事なら分らないが、分る事ならきっと分るはずだという自信がどこかに潜在意識として働いていたればこそ、一枚の真白な葉書にこれだけの脳力の消費が出来たのであろうと思われる。
 先生は探偵小説が御好きでなかったかという話を時々聞かれることがあるが、いつかちょっと伺った時の話では、あまり興味を持っておられなかったらしい。「探偵小説というものは、どれも皆つまらぬものばかりでね」という意味をもらされたことがあった。しかしそれは今の普通の探偵小説ではきっと先生には絡繰からくりがあまり見え透くのでつまらないといわれるのだろうと思われる。五、六年前に札幌へこられた時にこんなことがあった。一緒に学校の構内を歩いていたら、鴉が一羽頭の上を飛び去って、赤い血のようなものがついた布片を先生の眼の前に落して行ったことがあった。その時先生は、「それは人間の血じゃないかね、これだけを材料にしても立派な探偵小説が出来るな」といってニヤリとされたことがあった。

二六 赤い蛇腹の写真器


 大正十四年の一月のある土曜日のことである。丁度その頃ある方面の委託実験が大分面白くなって、先生もその時は珍しく興奮してその仕事に熱中されていたのであったが、その仕事も大体の見通しがついて幾分ホットした頃のことである。実験用に写真器のシャッターが一つ要るので、それを買いにA商店へ先生と皆で出掛けるという騒ぎなのである。今から考えてみると随分貧弱な話であるが、その頃はシャッターまで委託の研究費で先生御自身買いに出掛けられたものであった。
 朝その話があって、午後になってもまだ私とY君とは、その方面から借りた無電機のアンテナを雪の積っている屋上に張り廻していた。先生がのっそり屋上へ顔を出されて、「写真屋へはどうします、手が空いたら行きましょう。僕は下で校正をしているから、手が空き次第きてくれ給え」といって寒むそうにして下りて行かれる。Y君は「やあ、先生珈琲コーヒーがのめないかと思って心配しておられるぞ」と大急ぎで片付けてしまう。
 それでは参りましょうという段になると、先生は例の微笑を浮べながら、同室のM君達に、「どうです、諸君も」と誘いかけられる。M君は生真面目な顔をして、バットの煙を濛々と揚げながらテレスコープにしがみ付いている。「今日は土曜だから、いいでしょう。あまりやっては神経衰弱になってしまう。写真屋で油を売るのも一つの勉強だから」と先生もちょっと持てあましの気味である。「おいよせよせM君、行こうや」とY君の助太刀でM君もようやく御輿をあげて、さて愈々四人で電車に乗り込むという騒ぎである。
 A商店で問題のシャッターを買うのは二、三分で済んでしまう。すると先生はいつも持って歩いておられる風呂敷包の中から、古色蒼然とした写真器を一つ取出されて、「この写真器は二十年も前に、独逸ドイツで買ってきたものだが、××センチに○○センチのフィルムでなくちゃいけないのだ。ところがそれが今どこできいてみてもないから、何とか今買えるフィルムに合うように直して貰えないかな」と店員に渡される。若い店員はちょっと見て「これは三号のフィルムで合います」とまるでにべもなく言う。そして一番普通のイーストマンの巻フィルムを持ってくる。先生は少し慌てながら、「それは君その書いてある長さがちがうんだよ」といわれるが、店員は平気でチャント嵌めてみせてしまう。
「なるほど変だね、そうか、やっぱり実物を持ってこなくちゃ駄目だね。そんな位ならもっと早くからこの器械を利用すれば良かった。どうも、二十年もディメンションばかりいって探していたんだから、また諸君を喜ばせてしまったな」と先生は頭を掻かれる。その写真器というのは蛇腹が赤いのだから益々変っている。この赤い所がちょっと変っていますねと誰かが口を出すと、先生は「どうもこの蛇腹では大分軽蔑されるから、今度は一つ黒く塗ってしまう」といいながら、その店員をつかまえて、「ところでね、君このシャッターがちょっと妙でね、こう一々挺子てこで持ち上げるので不便なんだが、これを直して貰えないかな」と説明される。
 店員は仔細らしくその写真器を調べている間に、先生は印画紙の見本に掲げてある額を眺めておられる。図柄は石の階段を下から大写しにしたものであった。店員が「この写真器はもう旧いから誰かにおあげになって、新しいのを御買いになった方が御得でしょう」という結論に達した頃は、先生はもうその方へ返辞はされずに、
「君、あの階段の磨り減り方がプロバビリティ曲線カーブになっているなあ」と額を指差しておられる。
「僕はN先生の洋行中、しばらく一般物理の講義を持ったことがあったがね、助手に学生の出席時間をつけさせてみたら、やっぱりちゃんとプロバビリティ曲線カーブになったから、早速講義の材料に使ったことがあったよ」
と話をされていた。
 帰りには果して予定通り珈琲コーヒーの御馳走になった。

二七 ヴァイオリンの思い出


 この話も一部は、随筆にかかれているのであるが、御話の方がもっと先生の私的なプライヴェイト感情がはいっていると思われるので書き止めることとする。いつか、今は発狂して行衛が分らぬという噂のO君と二人で、先生の応接間へ御訪ねした時のことであった。まだセロの勉強の始まる前で、先生はヴァイオリンに大分御熱心だった頃の話である。
 僕のヴァイオリンも古いものだ。竜田山の頂上へ持ち上った時から、もう二十年あまりになるからなあ。あの時狸か何かが鳴いて逃げ帰ったというのは、あれは嘘だが、竜田山へ上ったことは本当だ。何でもあの時買ったヴァイオリンは九円だったが、月々十二円ずつ送って貰っていたのだから、その借金を返してしまうには、何でも随分かかったものだった。そのヴァイオリンを担いで東京へきて、一つ誰か先生について勉強しようと思って考えて見たが、なかなか見当らぬ。到頭思い切ってケーベル先生の所へ出かけて行ったものだ。話の方は、僕の拙い英語と、先生の拙い英語で丁度よかったが、今から考えてみると実に変なことをしたものだ。一度も会ったことのないケーベル先生の所へ突然出かけて行って、ヴァイオリンの先生を紹介してくれといったのだからね。もっともケーベル先生という方が、そんな人なんだ。初めて会ってヴァイオリンの先生の紹介を頼んでも良いような気がした人なんだ。
 到頭先生紹介状を書いて音楽学校の先生か誰かに紹介してくれたが、一体いくらのヴァイオリンなんだというので、“nine yen”というと、ケーベル先生ぷーっと吹き出してしまってね。一体外国人が人の前で大声で笑うということは滅多にないことなんだから、あの時ばかりはよほどおかしかったとみえてね、なかなか笑い止まなかったよ。
 それからその先生の所へ行ったが、今から考えてみると誰が知りもせぬ学生に教えてくれるものかね。しかしその頃はちっとも知らなかったから、喜んで出かけて行ってみると、それは音楽学校の教習場があるから、そこへ通えといわれたのさ。僕は忙しくてとてもそんな所へ出かける理由わけには行かぬというと、かく非常に忙しいからとても教えられないと体よく断られてしまった。それで先生につくことはオジャンになってしまって、独りで勝手に弾いていたものだった。
 この頃直ぐ近所に先生があるので、そこへ通っているが、また全然初めからやり直しさ。弓の使い方なんか、ちっとも気にも懸けていなかったが、やっぱり先生についてみると違うね。この頃は、「少しヴァイオリンらしい音が出ますね」などと御世辞をいって貰って、上機嫌になっているところさ。
 どうも先生の所へ行くと、十五、六位の子供がきていてね、それと一緒に教わるのは初めは随分気まりが悪かったよ。この頃はそんなでもなくなったが。もっとも先生もね、僕みたいな年寄りが、子供の前で顔をしかめてやるのが気の毒だと思ってか、僕の番になると、奥の室へ連れて行って、一人だけ別の室でやってくれるよ。それでも待っている間は、そんな子供達と一緒に腰を掛けているのだよ。なかなか勤勉なものさ。

二八 排日問題


 先生の憂国の真情には頭が下るとは、吾々腕白仲間の間にも定評のあることである。その頃、排日問題が大分騒がれたのであるが、滅多に時事問題などを少くとも吾々に対しては口にされなかった先生も、排日問題については、真顔になって論ぜられたものであった。
 民族の独立だな。永久に溶け合うことの出来ぬ黄色人種と白色人種との争いを解決するには、民族の文化上の独立が必要だ。まず日本のような国では、偉大なる学者の出現によって、日本民族自身の価値と存在意義とを世界に示すのが近道だ。国の価値とその存立の意義とを深く白色人種の脳裡に刻み込まねばならない。それが日本を救う唯一の道だ。排日なんか桐の一葉だよ。やがては天下の秋がくることを覚悟していなければならぬ。
 僕がこんな気焔を揚げるのは、君達の頭の中に種を蒔いておきたいからだ、僕にはとても出来んから、君達機会のあるごとに天下の青年に叱呼してやり給え。中学位の連中に吹き込んでおくと、存外効目があるかも知れないな。
 ケマルパシャなんか偉いものだ。いつの世になっても英雄は絶えないな。事なかれ主義は止めてしまって、消極的な道徳なんか蹴飛ばしてしまって、積極的の道徳に入らねばいかんな。親に孝行だの、家庭の不和だのみんな瑣々たる問題だ。もっとも消極的の方は皆失敬してしまって、積極的の方はやらないとなったら、こりゃ論外だがね。

二九 日本の商人


 日本の色々の商売をしている人が、どうしてあんなに進歩しないのか、不思議な位だ。蓄音機なんか特に著しいな。ちょっとした事で良いのだが、一週間に一つずつでも、どんなつまらぬ事でも気に留めて改良して行く気になれば決してあんなものにはならぬはずだ。金がなくて科学的の研究は出来ませんなどといっているが、決して金がないのじゃない。考え方がないのだ。考えて生活するという余裕がまだ日本人にはないのだな。実際科学的にやるというと、直ぐコンクリートの建物を建てて、実験室を作ってという風に考えるのだから、これは一つは吾々物理学者の責任なんだな。科学的にやるという意味を分らすことはまず今の所では到底出来んな。印刷屋でもね、毎日一つずつ活字の型を改良して行っても、すぐ立派なものになってしまうがな。そして結局その方が勝つものだがね。もっともこれは実際はなかなか難しいことなんだ。

三〇 落第


 少し話が内輪話のようになるが、ある晩先生がひどく懐古的な話をされたので、私もつい高等学校の入学試験に落第して、一年家で商売の手伝いをしたことがあるという話をした。そしたら先生が、「それはよいことをした。そういう経験は世の中を知る上において滅多にない良い経験だ。一年位大学を遅く出るということは一生のことを考えて見るとちっとも損にはならない」と妙に力瘤を入れて落第を礼讃された。そして声を潜めるようにして、
 実は僕も中学の入学試験に落第したことがあるんだ。小学校の時、なまじっか出来るなんて慢心して碌々準備をしなかったものだから、良い懲しめになった。それで慌ててね、一所懸命勉強して次の年成績が良かったもので、中学の二年の補欠試験を受けてどうにかパスしたので、年の上では損はしなかったが、立派な落第さ。しかしあの時の経験は実に貴かったと今でも思っている。その中学には色々面白い先生がいてね、溝淵さんなんかもいたんだ。若くて先生というより兄さんというような気がしていたものだ。溝淵さんからは随分色々ハイカラな事を仕込まれたものだった。
 私はびっくりして、「溝淵先生がハイカラだったんですか」と聞いたら、「何、思想上のハイカラさ」といって大笑いをされた。
 それから高等学校は五高だったが、五高にも良い先生が沢山おられたものだった。夏目先生に英語を教わり、田丸先生に三角を教わったものだ。田丸先生に教わると三角が生きてくるのだから妙だ。数学は子供の時から嫌いだったのが、あの時初めて面白いと思った。それまで二部の工科だったのを田丸先生の感化で到頭三年の時理科に変ってしまったんだ。
 理科の独逸ドイツ語は青木さんだったが、生徒は僕と木下さん(木下季吉先生)とそれから農科を出て今局長になってる男と三人切りだった。そして一人休むと今日は三分の一欠席していますから御話にして下さいなどといっていたものだよ。

三一 中学時代の先生達


 中学の先生には愉快な人が多かった。英語の先生にアメリカに十年もいた人がいて始終教員室から、帽子をかぶって外套を着て教室へやってくるんだ。そして講義が済むとまた帽子をかぶって教員室へ帰って行くというのだから変っていたね。その先生にパラフレーズを随分ひどくやらされたものだが、今になってそれが随分役に立っているよ。何にしても、遊廓へ行って、そこから朝黄八丈のどてらに靴をはいて学校へ出てきたという噂があった位だから、随分変っていたね。何でも後にはタイムスの記者になったという話だったが。
 それから漢文の先生にも面白い老人がいてね。何か話をして下さいというと、それじゃ子供の出来る話をしてやるといって、漢法の古い解剖図を黒板一杯に描いて説明してくれたものだった。愉快な先生で四書位ちゃんと本文も註も全部暗記していて、本を持って講義したことなんか一遍もないんだ。いつか子供の出来る話をしている最中に、校長さんが見廻りにきても平気で続けていたことがあったよ。
 作文の先生にこんな人がいたね。黒板一杯に南画の山水を描いて、唐人が杖を曳いて橋の上を渡って行く画を描いて、今日はこれについて作文を作れといって平気なものだった。それからある時なんか、「ある男が野原で便所へ行きたくなったので、そこで用を弁じてしまった。そして弁当を喰おうと思って握り飯を取り出したら、蜂か何かきて慌てて、その握り飯をその大便の上に落してしまったんだ。そこでその男が、こいつぁなるほど早道だといった」という話をして、「さあ今の話を漢語交りの作文に直してみろ」といって済ましていたものだった。勿論便所へ行きたくなったなどという難しい漢語はちゃんと教えてくれたが、今でも妙にその言葉だけは覚えているよ。「内逼る」というのだ。
 かく、今になって考えてみると、そんな先生方から一番多く何物かを教わってきたという気がするな。実際師範学校を出た先生に小学校で教わり、高等師範を出た先生に中学を教わる今の子供達は不幸だなあと思うこともあるよ。こんなことをいうとまた、寺田はひねくれたことをいうといわれるかも知れないが。
 この話も後で先生が随筆に書かれたことがあるかも知れないと思って、矢島氏に問い合せて見たら、随筆には書かれていないが、ノートの中に、中学時代の先生の列伝とだけ一行書かれたものがあった由である。いずれ何かの機会に書かれるつもりだったのが、そのままになったものと思われる。ここで先生の現代のいわゆる整頓した教育制度に対する御意見を聞く機会を逸したことは誠に残念である。

三二 冬彦の語源


 先生の筆名、吉村冬彦の語源は、この月報に前に矢島氏が多分こうだろうと考証をされたが、その通りであって、全く同じ意味のことを前に先生から伺ったことがある。
 僕の家の先祖は吉村という姓だったので、それに僕が冬生れた男だから、吉村冬彦としたわけさ。だからこの名はペンネームというより、むしろ僕は一つの本名だと思っているのだ。この頃の人は本名で何でもどんどん書くが、僕らの若い頃は、何となく周囲が怖いような気がして、とても寺田寅彦で堂々とあんなものを書くことは出来なかったものだよ。まあこんな道楽のことはどうでも良いとして、実験でも随分気兼ねばかりしてやってきたものだ。僕はしかしあんまり周囲に気を配り過ぎたような気がする。古ぼけた器械ばかり持ち出して、変な実験をやって途方もない理論をそれにくっつけるばかりが僕の本当の希望ではなかったのだが。今理研におられる先生方が大学で実験をしておられた頃は、電気なんかの新しい流行の実験をすると、直ぐ蓄電池のパワーが足りなくなるし、器械を買って貰うのも大変だったし、遠慮ばかりしている中に、到頭物理の方まで、吉村冬彦になってしまったんだよ。

三三 油絵の話


 あの頃先生の御弟子達の中で油絵を始めるのが流行ったことがあった。ことの起りは今理研にいるS君が、先年油絵を始めたいと先生に話したら、それじゃ僕が手ほどきをしてやろうということになって、S君を引っ張って神田の文房堂へつれて行って、一々説明をしながら必要なものを一通り揃えて下さったのである。そして帰りに風月へ行って珈琲コーヒーの御馳走まであったというので、皆を羨しがらせたものであった。
 ある晩先生の応接間へ伺ったら、S君が油絵を持ってきていた。それを椅子の上に立てかけて、先生が一々丁寧に批評をしておられる。色の使い方、構図の取り方から、細かい技巧の点まで実に懇切を極めた説明があって、画の心得の話になる。
 空は青、樹は緑と思って画をかいてはいけない。その点物理の研究と同じだよ。そういう先入主を離れて樹を見ると、樹は決して緑じゃない。陽の当っている所は黄色、蔭の所は青か赤だよ。緑はその間にちょっと出ているばかりなんだ。よく考えてみればそのはずだろう。そしてよく注意して見て、その色を大胆に使わぬと画にならぬ。シーツが白いと思って、白く描くとどうしても白く見えぬ。それでは描いたものになってしまう。本当の白いシーツは赤や黄で描いて初めて出せることが非常に多い。その積りで一度白いシーツを見てみ給え。きっと驚くから。
 しかしそんなことにあまり拘泥すると美術学校の落第生のような画になってしまう。ところがまた全然そんなことを考えないと本当の画の面白さが分らない。そこがむつかしい処だよ。まあそれだけ見えるようになったら描くんだな。見えぬものを描いちゃいかん。腹にないことはせぬ方が良い。素人の画は何となく拙いが、嫌味がなくて風韻のあるのが良いので、何でもあまり上手になったら素人の芸はおしまいだね。
 画ばかりでなく、音楽でも何でもそうだ。田丸先生がよく、昔ニウトン祭の時独唱をされたが、先生のは実に感服する。決して上手ではなく、自分でも上手でないことは知っておられたが、上手でない者が一所懸命やる所が素人の芸の尊い所だということを自覚して一心になってやられるんだ。いかにも田丸先生らしい。あれでなくちゃ駄目だよ。夏目先生の画でも、確かにそんな所があったものだ。
 実は僕はこの頃画の先生の所へも通っているんだがね。この夏は到頭モデルまで描いたよ。こうなっちゃ、あんまり道楽者のように思われて困るのだが、僕にはどうもヴィタミンがなくちゃ生きて行けないんだから仕方がない。
先生はちょっと気まりの悪そうな笑いをされる。S君が「ヴィタミンにもABCD……と沢山あるようですから」というと、「どうも今の若い人は口が悪くてかなわんよ」と苦笑しておられた。

三四 学士院会員


 先生が学士院会員になられた時は、最年少の会員だと新聞に書かれてあった。丁度その日、実験室へ見えた時に、皆で御祝いをいったら、「どうも未だ若い気でいるのに、到頭あんなものにされちゃったよ。今日も御殿で末広君に会ったら、愈々君も老大家の域にはいったのだから自重せにゃいかんよと冷かされたので悲観している所なんだ。」という話であった。「先生は地球物理の方で会員になられたのですから、その方はもう大家になったが、物理の方はこれからだとおっしゃれば良かったのですに」といったら、「それは巧い。今度末広君に会ったら早速敵をとってやろう。うんそれに限る」と大機嫌で帰って行かれた。

三五 恐縮された話


 Y君と一緒に実験をしていた頃の話である。四月の休みにY君は郷里へ帰って少し帰京が遅れたことがあった。先生から何か新しい実験の装置のことでちょっと相談したいから、Y君が帰ったら直ぐ会いたいといってくれ給えと言い付けられたことがあった。それでその由をちょっとY君の家へ電話で伝えたところが、大変な騒ぎになってしまったのだそうである。翌日の午後飛んで帰ってきたY君の話によると、何でも家から「テラダシキキヨウマツスクカヘレ」という電報が郷里へ行って、それが丁度Y君が親類の結婚披露とかの席に列っている所へ配達され、それという勢いでY君は今朝の三時に起きて一番で帰ってきたという話なのである。
 その話を次の土曜の晩先生の応接間へ伺った時ちょっとしたら、先生はまるで小娘のように真赤になってひどく恐縮されたのでかえって弱ってしまった。「それは困った、僕はそういう意味でいったのではない」と何遍も繰り返しながら、もう一つ恐縮された話をされた。
 僕はこんなに恐縮するような目に遭ったのはこれで二度目だ。もう大分前の話だが、Wさんと一緒にマグネットの長さをミクロンまで測っていたことがあったが、ある時Wさんがちょっと出張か何かでどこかへ出掛けたことがあったんだ。ところがその晩十二時頃になって、僕の家の門を叩く人があって、起きてみるとWさんが門の前に立っているんだ。そして「実は国府津まで行ったんだが、あの原器室の入口の鍵を忘れて持って行ってしまったので、急に返しにきたよ」といって鍵を出された。あの時ばかりは流石さすがの僕も恐縮の極み冷汗が出たよ。あんなに弱ったことはなかったね。僕は今は御覧の通り出来るだけずぼらにやっているが、これでも若い時は薬瓶を提げて我慢しながら学校へ通ったものだった。僕も本当は几帳面なのが好きなんで、自分も身体の良かった中は出来るだけちゃんとやってきた心算だったが、とてもWさんには敵わないね。几帳面もあれ位になると雅味が出てくるよ。もっともあの時は心底から恐縮してしまって雅味どころの騒ぎではなかったがね。

三六 昼寄席


 この話は先生の大学時代から学校を卒業されて間もない頃の、先生の御家庭の事情などがそのまま出ているので、書かない方が良いかとも思われるのであるが、これらの話は断片的には先生御自身で所々に書かれていることであるし、また先生は、夏目先生の資料を早く集めておいた方が良いということを話され、その時、どんなことでも材料は全部集めておいた方が、後に夏目先生を研究する人には大切な資料になるのだからと話しておられたことを思い出したので、書き止めておくことにする。
 僕が初めて東京へ出てきた時は、銀座の商店に親類があったもので、そこから学校へ通ったのだ。そこの息子というのが遊び人でね、よく昼寄席なんかへ連れて行ってくれたものだった。その頃の昼寄席ときたら実に呑気なもので、大抵は広い客席にバラバラ位しか客がいなくて、それが皆話をききに行くのではなくて、昼寝をしに行くのだね。みんな浴衣掛けで団扇を持ってねているんだ。中にはグーグーいびきをかいているのもいる。それでも若い男が高座で何か一所懸命に語っているのだ。どうも今の世の中には到底存在の許されそうもない呑気なものだった。その親類の家というのが天金の裏でね、時々天ぷらをとって御馳走をしてくれたことがあったっけ。
 それからそこはどうもやかましいので、またその親類のおやじに頼んだら、谷中の御寺を探してくれてね。何でも古い汚い御寺だったよ。本堂の裏が寄宿舎のようになっていて、美術学校の生徒などに間貸しをしていたものだった。僕は仏壇の直ぐ横で、随分暗い不衛生な所だったよ。何であんな所をわざわざ探してくれたのか、大学の前には立派な下宿屋が沢山あったのにと、今思ってみると、癪に障る位だが、あの頃は僕は、何でもいわれるままにきいているべきものと思っていた。毎日々々精進料理ばかりで我慢していたものだった。何でも東京は悪友が多いからとでもいうので、わざわざあんな所を選んだものだろうと思う。
 美術学校の連中は、本箱に本なんか一冊もなくて、その中に鍋やら丼やらを放り込んで自炊をしていた。日曜の朝なんか遊びに行くと、よく枕の上にあごをのせて床の中で新聞を読んだりしていたものだった。あの連中の生活ときたら実際羨しい位呑気なものだった。
 その寺の坊主といったら、実に変な坊主で、ある晩遅く、いろりの横で何やらこそこそやっているので、何思わず行ってみたら、暗いランプの下で五十銭銀貨を山のように積んで勘定をしているんだ。あの時は実にゾーッとしたよ。
 それから国から妻と母がきてね。僕は高等学校時代に妻帯していたんだ。身体が弱かったし、一人息子だったもので、親が心配して無理に貰ってしまったんだ。それでまた家を探して貰ったら、今度は藍染町の汚い小路の離れを借りてくれたんだがね、そこがまた実際不衛生極まる所だったよ。それから仲御徒町の金貸しのばあさんの離れを借りたり、随分流浪の生活をしたものだ。それがようやく今の坂井さんの前の家があいて、それに引越してやっと山の手の生活に入ったと思った矢先、妻が病気で死んでしまったのだ。実際、何故あんな不衛生ないやな所ばかり流浪して歩いていたものか、今思うと腹が立つ位だ。随分永らくあの前を通るといやな感じがしたが、この頃やっと平気になれるようになった。
 それから僕も病気になって、学校を休んで国へ帰って一年近くも海岸で暮したものだ。その間には随分面白いこともあった。案外ローマンス位あったかも知れないよ。
 いつもなら、こんな所で機嫌の良い微笑が出る所であるが、この時ばかりはいかにも淋しそうな笑いであった。

三七 僕が死んだら


 いつかこんな妙なことを先生は冗談らしく、いっておられたことがあった。
 僕は今一番読んでみたいと思うのは、僕が死んだら、皆が僕のことをどういう風に書くだろうということだ。君、何かそれを読むような巧い方法がないだろうか。どうだろうこれは、上海かどこかへ行って、隠れてしまうんだ。そして日本へは自殺したとか何とか電報を打たせて、半年位支那のどこかに隠れていて、こっそり帰ってくるという案は、もっとも駄目かね。屍体が見付からなかったら、皆が安心して書かないかな。
どうもひどく冗談らしい中に、どこかひどく真剣なような所があって、どうとも返事に困ってしまった。
(昭和十二年六月『寅彦研究』)





底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
   2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月10日
初出:一〜四「寺田寅彦全集 第六巻 寅彦研究第三号」岩波書店
   1936(昭和11)年11月27日刊
   五〜九「寺田寅彦全集 第九巻 寅彦研究第四号」岩波書店
   1937(昭和12)年1月1日刊
   一〇〜一六「寺田寅彦全集 第十一巻 寅彦研究第五号」岩波書店
   1937(昭和12)年2月7日刊
   一七〜二一「寺田寅彦全集 第二巻 寅彦研究第六号」岩波書店
   1937(昭和12)年3月1日刊
   二二〜二五「寺田寅彦全集 第八巻 寅彦研究第七号」岩波書店
   1937(昭和12)年4月1日刊
   二六〜三一「寺田寅彦全集 第十四巻 寅彦研究第八号」岩波書店
   1937(昭和12)年5月13日刊
   三二〜三七「寺田寅彦全集 第三巻 寅彦研究第九号」岩波書店
   1937(昭和12)年6月5日刊
※中見出し「二四 露西亜語」の初出時の表題は「唯物論研究」です。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2019年10月28日作成
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