冬彦夜話

――漱石先生に関する事ども――

中谷宇吉郎




『猫』の寒月君『三四郎』の野々宮さんの話の素材が吉村冬彦(寺田寅彦)先生から供給されたものであるという話は、前に書いた通りである。漱石先生と冬彦との関係は、冬彦先生自身が書かれた「夏目漱石先生の追憶」の中に詳しく述べられている。私は丁度大正十二年の暮から四年余りの間冬彦先生の下で働いていたことがあって、その頃度々、曙町の応接間で色々の話を伺ったのであるが、その中で冬彦先生自身が語られた漱石先生の話を次に書き抜いてみることとする。もっともその話の中の一部は、前述の「追憶」の中に書かれてあるが、同じ話でも書かれたものと話されたものとではかなり表現が違うし、話されたものの方が、余計に両先生の私的な交情が現われているように思われるので、多少の重複をかまわず書き止めておくこととする。
 ある晩のこと私はいつものように曙町の先生の御宅を訪ねた。初めにしばらく応接間で待っていると、先生は「ヤア」といって這入ってこられて、黙って卓の上の敷島を一本とって火を点けながら、ふいと立って隣の書斎へ行ってしまわれた。少し呆気にとられていると、古い革の手提鞄を持って出て来られたのであるが、その中には漱石先生の自筆の水彩の絵葉書だの手紙だのが沢山はいっていた。それを一つ一つとりあげて独りで読み耽りながら、順々に私の方へ廻して下さった。そして色々漱石先生の追憶談を始められたのであった。こんなことはかなり珍しいことなのである。
 高等学校時代に貰った手紙は、僕はこんなことには案外恬淡だったもので、家の手紙と一緒にしておいたものだ。ところが父が急に死んで、手紙を皆燃してしまったことがあって、その時一緒にみんな燃してしまった。今でも惜しいことをしたと思っている。『猫』を書かれる前の先生は、まだちっとも世間的には知られていなくて、弟子といってもまあ僕一人位だったようなものだった。『猫』が出て、小宮豊隆君がきて、確か小宮君が三重吉をつれてきたんだったかなあ、何にしても初めは、先生も随分切りつめた淋しい生活をしておられたもので、それだけにその時代の記念になるような手紙を皆燃してしまったのは随分申訳ないことをしたものさ。
というような話をされながら先生は、「……理科ノ不平ヲヤメテ白雲裡に一頭地ヲ抜キ来レ」と達筆に書かれた葉書を取り出して、「僕は始終学校の不平を洩していたものでこんな葉書を寄こされたよ」といって苦笑しておられた。そして「もっとも先生だってこんな不平をいってるんだから」と他の葉書を見せられた。それは例の「漱石が熊本で死んだら熊本の漱石で。漱石が英国で死んだら英国の漱石……漱石を知らんとせば彼等自らを知らざる可らず 這般の理を解するものは寅彦先生のみ」という葉書であった。もう一枚の葉書には「……君は勉強がいやになつた時に人を襲撃するのだからたまには此位な事があつてもよろしいと思ふ」と書いてあった。先生は「実際あの頃のは、夏目先生のいわれる通り、本当に襲撃したんだからなあ」と、いかにも当時の追憶をなつかしむように、ぼんやり天井の一隅を見ておられた。これらの手紙や葉書は勿論漱石全集に皆収められている。
 それから倫敦ロンドンからの例の長い手紙というのは、青い厚い西洋紙の裏表に細かい字で丁寧に書き込んであるもので、冬彦先生の前の奥さんが血を吐かれたことに同情して色々と慰めてあった。その中には、池田菊苗さんと倫敦で会ったことも書いてあって、池田さんは頭の大きい学者だから帰られたら是非遊びに行け、よく頼んでおいたからとも気を付けてあった。「僕の妻は、僕が大学の二年の時に死んだもので、その時の手紙なんだ。それで僕は学校を休んで国の方へ一時帰っていたために、卒業は皆より遅れているんだ。僕が妻に死なれて淋しがっていたもので、先生冷かすつもりであんな金田家の令嬢なんか引っ張り出されたんだよ」といって苦笑しておられた。
 僕が初めて先生と知合になったのは、高等学校の時に、同郷の豪傑の友人の点数を貰いに行ったのが初まりさ。丁度その時先生は俳句をやる学生と話をしておられた。僕が俳句てどんなものですかと聞いたら、その時非常に要領のいい説明をされたので、感心して直ぐ馬鹿なことを聞いたものさ。理科なんかやってるものにでも出来ますかという質問なんだから。ところが先生はそんな問にでも実に丁寧に、「俳句は職業とか専門とか境遇とかには係らず、やれる人は初めからやれるし、やれない人は一生やってもやれぬものだ」ということを説明して聞かされたものだった。それで「僕はやれそうですか」と聞いたら、まあ見た所やれそうだとのことで、大いに元気を得て暑中休暇に国へ帰ってる間に沢山作って先生の所へ持って行ったものだ。先生は一々それを見て○をつけて下さったりしたもので益々得意になって、毎週のように持って行ったものだ。その中から先生が選んで東京の子規の所へ送り、子規がまたその中からいいのを採って新聞に出してくれたものだった。東京へきてから、子規が死んで、先生が倫敦ロンドンへ行かれたもので止めてしまった。
『猫』が初めて出た頃は、先生の所へは誰も行っている人はなし、僕位のものだったのに僕が少し変っていたもので到頭あんなことになってしまったのさ。『猫』も最初の一回切りで止めるつもりだったのに、あんまり評判が良いもので続けている中に、先生自分で面白くなってしまったんだよ。先生は全く世間のことには交渉がなく、小説の材料にはいつも困っておられたらしい。来る者は極っているし、婦人の友達などは勿論なかったし。それだもので僕らのちょっとしたことでも直ぐ書き止めて材料にされたのだ。だから先生の小説にはいつもどこかに必ず先生が入ってきている。そしてちょっと変った男ばかり出てきているね。全集の中に「寺田のすしの食い方」というのがあるが、あの意味を話したことがあるかね。先生が倫敦から帰られて家がなくて牛込の奥さんの所におられた頃、僕が行ったら鮓の御馳走をして下さったことがあった。その時何でも先生が鮪を食うと僕も鮪を食う。海苔巻をとると僕も海苔巻をとったのだそうだ。最後に先生が卵焼を残されたら僕も何思わず卵焼を残したのだ。それで先生が「君は卵焼が嫌いかね」と聞かれたのでまた思わず「いいえ」といったのだ。「それじゃなぜ食わぬのか」といわれて、「先生が食べられないから」と返答したという話なのだ。僕は何も気が付かなかったがね。これも何か小説の材料にされるつもりだったのだろうが。あれは到頭出なかったらしい。
 君なんか若い人達は夏目先生のものの中でどれが一番面白いかな。僕なんか『猫』や『草枕』のような初期のものの方が好きだ。あの頃の先生は書くのがとても楽しみだったらしいが、晩年になられてからは、もう小説を書くのが厭で耐らなかったように思われた。僕には何といっても楽しみに書いたものが一番性に合うようだ。
 先生の小説といえば、漱石全集は実に奇蹟だね。初版の時が○千部位、第二回の時がその倍で×千部、今度は震災の後で僕らは少し冒険だと思っていた位だが、流石Iの親爺は偉いね。「何、大丈夫です」といって済ましていたが一万○千とか出たそうだね、実際大したものだ。印税だけでも大変だろうな、あれは漱石庵を作る維持費にするつもりで御弟子達で計企したのだが、郊外移転の話は土地会社の宣伝に使われるおそれがあるので、結局当分今の家を維持することになった。古い弟子達にはやはり旧の所が良いからね。印税のことをいえば、僕達旧い仲間は何だか先生に気の毒で仕様がないんだ。先生の生きておられる間は、始終自分の家を欲しい欲しいといっておられたのに、到頭亡くなられるまでその望みが叶えられなかった。生きておられる間に今の半分でも金が這入ったら良かったと思うが、それも仕方のないことだ。
 先生が死なれてから、書斎は生前の通りちゃんと、本でも筆でも昔あったままにして保存してあるが、やはり主人がいないと何となく部屋まで淋しくなるね。全体にいぶしがかかったような気がする。あの部屋には例の象牙のブックナイフがまだ残っているはずだが、あれは先生確か『猫』の初めの原稿料だったか不意にあぶく銭が這入った時、先生子供のように嬉しがって買ってこられたものだった。あれは随分大事にされて、「本当の象牙はこうして鼻の脂を付けると、鼈甲色に透き通るようになるんだ」といいながら、始終鼻の横をあのナイフで撫でておられたものだった。段々垢がついて薄黒く汚くなっていたが、いつかどうしたことか、その大切なナイフの上の方にひびが入って困っておられたので、僕がナイフでその部分を切り取って丸く削ってあげたことがあった。あれは思い出のナイフだよ。まあそういう瑣細なことでも皆懐しい思い出になるのだ。
(昭和十二年三月『漱石全集月報』)





底本:「中谷宇吉郎集 第一巻」岩波書店
   2000(平成12)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月10日刊
初出:「漱石全集 第九巻 月報第十七号」岩波書店
   1937(昭和12)年3月10日発行
入力:kompass
校正:砂場清隆
2017年1月12日作成
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