兎の耳

中谷宇吉郎




 兎の耳はだてについているものじゃないという話をこの頃聞いて大変面白かった。
 その話をしてくれたのは、某大学の若い医学者のTさんである。Tさんは大変な勉強家で、毎晩二時まで本を読んで、朝は六時に起きて研究室へ出かけて行くという変り者なのだそうである。そして汚い研究室の片隅で、兎の耳に注射をしたり、私の腕にも注射したり、兎と人間とをちゃんぽんに取扱ってくれるのである。もっとも貴族院の領袖でも、大変なお金持でも、皆この実験室で兎のお仲間入りをしているのだから、私などは兎並みに取扱われてもそれで充分有難いのである。
 Tさんは前に兎に発熱療法を行って見ようと思って、硫黄を注射したことがあったそうである。ところが人間の場合ならば大変の高熱を発する量に相当する以上の分量を注射して見ても、兎は一向平気な顔をしていた。どうも可笑おかしいと思って分量を段々増して行っても、体温の方はちっとも上らない。そこでTさんは、兎の耳のことを考えて見たのだそうである。ああいう広い表面積を持ったものがついていて、そこに太い血管が沢山走っているのであるから、熱の放散器としては申分ないものである。それで兎の耳の効用の一つとして、体温の調節に何か役立つのではなかろうかという点に気が付いた。それで早速薬品をつけて兎の耳をとってしまった。それに前と同じように硫黄を注射して見たら、果してどんどん体温が上ったので、これある哉と思ったそうである。
 Tさんは別に動物学者ではないのだから、兎の耳の効能を研究したのではない。従ってこんなことは、動物の方の専門家に言わせたら、とっくに分っていることかも知れない。しかしそんなことは初耳だという動物学者もあるところを見ると、案外知られていないことかも知れない。それはどうでも良いこととして、この話は私には大変面白かった。それというのは、兎ならまだ幾分人間に近いかも知れないが、この頃は鳩なんかでやってみた実験の結果を、すぐ人間に適用しようという話が新聞に出たりして、少々おびえていたからである。
 こんなところで引き合いに出すのは気の毒なのであるが、この頃胚芽米が大変に普及して、そして評判もよいらしいので、その勢いが溢れて、白米禁止というような話が一時要路の人の間に本気で論ぜられるまでに到ったので驚いたことがある。もっともその話は沙汰止みになったようで、安心したのであるが、とにかく一度は閣議の席上での論議にまで上ったのであるから、本気の話としたら、またいつぶり返すかも知れないので、まだ安心は出来ない。特に、これも新聞で見ただけであるが、大阪では白米禁止を実行したとかするとかいう話さえある位だから猶更である。もっとも大阪という所は妙な所で、中学の入学試験を国史一課目にしたり、小学校の児童に靴を禁止して、新しく下駄を買わせたりする所なのだから、白米の禁止くらいはやりかねないのかも知れない。国史が大切な課目であること、靴用の皮革を節約しなくてはならないことは、これは言うまでもなく、国策の上から見ても明瞭すぎるほど本当のことであるが、それかと言って、それを法令で決めなければならないという結論は直ぐは出てこないのであろうと思われる。それではまるで、教育というものは必要のないものであるということを教育しているようなものである。
 もっともこういう現象が生れてくるのは、学者にも責任があるのであって、多くの学者たちは、とかく一般の人々の頭の水準を低く見過ぎているのではないかという気がする。そしてどうせ専門的の詳しいことはわからないのだからという気持も手伝って、大切な人間生活に直接関係のある研究の結果でも、その結論だけを簡単に言ってすませておく傾向がある。例えば「白米は栄養価が少い。胚芽米にはヴィタミンがある」というだけしか教えられなかったら、それを真面目に聞いた人たちが、それでは白米を禁止しようと考えるのもまたもっともなことであろう。
 実は私の家でも胚芽米を使ったことがある。知識階級の夫人連が皆胚芽米を採用されるというので、細君も私の反対を押し切って、そのお仲間入りをしたわけである。私の反対というのは、別に根拠があるのではなくて、白米の方が美味いからというのであるが、それでは口実にはならない。人間の智慧工夫には及び難き所のあるものなれば、何事も久しく馴れ来った事は少々あしき所があっても変えるものではないと、宣長先生まで引き合いに出して見たものの、胚芽米を喰って丈夫になれるものならと内心少々慾張った気持もあって、神妙にしばらく食ってみた。ところが結果はどうも悪かった。幼い子供たちはもともと弱かったのであるが、一寸したことでもすぐ下痢をする、私も病気では自信があるので負けずに腹をこわすというので直ぐ止めてしまった。これでは白米禁止の噂におびえるのも無理もない話である。
 それにしてもこれはどうも可笑おかしい話である。まさかこの非常時だからそんな弱い連中は皆死んでしまえというわけでもないだろう。炊き方が悪いとか何とかいうことがあるのにちがいない。それで何か胚芽米のことを書いた本でもあったら読んで見たいと思って、二、三の友人のお医者さんにもきいてみたが、誰もそうですねという返事であった。どうも手頃の※[#「纒」の「厂」に代えて「广」、206-11]ったものがないらしい。もっとも東大の研究室などでやった研究というのは沢山の論文になって出ているのは勿論であるが、聞いて見ると、鳩に胚芽米と白米とを喰わせて比較実験をしたのだそうである。鳩のことだから勿論生米をやったので、それに最近のことは知らないが、初めのうちの実験では副食物は別にやらなかったらしい。その結果白米の方は脚気になったが、胚芽米の方はならない、また脚気にした鳩に胚芽米をやったら治ったという風な研究が沢山されたのだということである。こういう研究は勿論非常に立派な研究であって、脚気というものの本質とか、胚芽米中に含まれている栄養素の効力とかいうものが、これで幾分分るのであって、その学術上の功績は特筆すべきものなのであろう。
 それでは人間も皆胚芽米を喰べたら良いかということになると、話は少しちがってきはしないかと思う。特にそれを法令できめるというようなことになると勿論問題はさらに深刻になる。ちょっと考えて見ただけでも、鳩には砂嚢があるが人間にはそんなものはない。それは冗談として、胃腸の弱い人や幼い子供たちの腸が果して胚芽中のヴィタミンを吸収出来るか、副食物中にある程度のヴィタミンがあった場合に、それ以上多量のヴィタミンを与えてもそれだけ栄養を高めることになるかどうかというようなことが真先に問題になるであろう。その上胚芽米に出来る米は日本国中いくらも出来ないので、その改良とか、精米装置の変改とかいう風な農政的な問題がこれまた重要な関係を持ってくる。その方は別にしても、栄養学的な研究くらいはあるのだろうと思って、Tさんにきいて見たことがある。Tさんは「それは僕やって見ましたよ。老人や子供に胚芽米を喰わせて、その便を調べると、胚芽がちっとも破れていませんね。それを洗って胚芽だけ集めて鳩に喰わせて見ると、ちゃんと脚気が治りますから、胚芽米はまあ腹を素通りしたことになるのでしょうね」とすましている。「それでは困りますが」ときいても、Tさんはにやにやしているばかりである。
 それでは一体副食物中のヴィタミンというものが、煮ればなくなるという話ですが、それでも大丈夫ですかときくと、また意外な返事である。「それはまあ実験室内で煮た場合でしょうな」というのだから、少々変である。よくきいてみるとこういう話なのである。Tさんは、木の葉の表面が直射日光に照された時は、表層に近い部分が非常に高温になることがあるのに、その中のヴィタミンは破壊されないことから考えついて、緑茶の中にヴィタミンCを入れて何分とか煮沸してから、その中のCを定量して見たのだそうである。そしたら九十五パーセントは残っていたのである。同様の条件で蒸溜水で煮てみると、従来言われている通りヴィタミンCは完全になくなってしまうことは勿論であった。これはTさんの御自慢の研究なのである。「普通のお惣菜の中のヴィタミンがどうなってるかはなかなか分りませんよ。お台所で煮たのと、実験室で煮たのとでは違いますからね」とTさんはにやりとしている。
 こういう話をきいてみると、どうも学術的の研究を実際問題に結びつける時にはよほどの注意が肝要だという気がして恐ろしくなった。何よりも科学的研究の結果を発表したり、特に通俗的に解説したりする場合には、あまり世人の頭の水準を低く見ることは禁物である。そして素人に対しても矢張り真面目に研究の結果だけを条件を明示して説くべきだと思った。もっとも研究者の頭の水準が低い時は、これはどうも致し方がないが、そんなことはないであろう。
「ヴィタミンCを蒸溜水中で何分煮たら破壊した」という実験を、「ヴィタミンCは熱によって破壊される」と言ったり、「鳩に胚芽米を喰わすと脚気にならなかった」という研究を、「胚芽米を喰えば栄養が摂れる」という風に説くのはどうも考え物である。もっともこれは研究者自身がそういうつもりで言われたのではないので、それをきいた一般の人々が勝手に誤解しているのであろう。そして専門の学者たちは勿論、それぞれの専門雑誌の論文ではそういう研究の意味をよく了解し、その価値批判をちゃんとして発表されるのであろうから、それらの研究や結論自身を詰らないというのでは毛頭ない。ただそれを素人に説明される場合にも、もう少し親切に研究の内容と条件とを明示されたら、誤解を招くことも少くなるであろうというのである。自分の専門の物理の方を棚にあげて、他の領域の学問ばかり槍玉にあげるようであるが、素人の立場に立って、色々な研究の結果を誤解したり、さらに啓蒙されたりするには、専門外の学問でないとちょっと実際の体験が得られないので、止むを得ぬ次第なのである。勿論物理の方などでも、これと類似の誤解を沢山の人々に流布していることであろう。空恐ろしいことである。
 ところで胚芽米の場合だと、こういうことがある。それは矢張りあるお医者さんにきいたのであるが、陸軍の方で胚芽米を採用したら脚気が非常に少くなったということだから、矢張り効くのでしょうねという話であった。それだとすると、これは大変立派な証拠であって、実際に人間の場合についてそういう証拠が出てくれば、それが一番確かなのである。もっともそれにしても、兵隊さんは皆丈夫な壮年の人ばかりなのであるから、その結果を直ぐ老人や子供たちに応用することは出来ないという点では変りがない。
 先日こういう意味のことをある新聞の短文欄にちょっと書いたら、四、五日して、陸軍軍医少佐のI氏という方から別刷と手紙とがきた。その手紙によると、陸軍で胚芽米を採用したら脚気が少くなったというのは嘘である。どうも「陸軍が胚芽米の提灯持ちをしているような誤った説をしばしば聞かされるので困る」というのである。そして別刷の何頁を御覧被下度候という注意があったので、早速拝見した。その論文は『陸軍糧食給与ノ実況』というのであって、読んで見たら大変面白かった。建軍の初め頃には、欧米模倣の風潮が陸軍へもはいってきて、「漬物を廃止せよ」とか「麺麭パン食にしてしまえ」という議論も真面目に論ぜられたのだそうであるが、石黒子爵が頑張って今日の皇軍特有の兵食が出来たという緒言にまず興味をひかれた。大部分はカロリーの計算が主であるが、中に「近年陸軍ニ於テモ胚芽米ヲ使用シアル部隊尠カラザルモ患者統計ニ現レタル脚気発生率ハ之ガ使用ニヨリ特ニ影響ヲ蒙レリトハ認メ難シ」という節があって、添えてある表を見てもその通りである。実際は建軍当時非常に多かった脚気は、麦飯の使用と副食物の選択とによって非常に少くなっていたのである。その中でも麦飯が陸軍一般に採用されたのは日露戦争当時であるが、脚気の激減したのは表によると、その十五年位前からになっている。それでどうも副食物の選択ということが重大な要因の一つになっているらしいことが分るのである。日露戦争当時、一時的に脚気が増えたという話もあるが、その点にはここでは触れないこととする。
 このようにちゃんとした論文をちょっと見れば、十分か二十分で分ることを今まで知らなかったのであるから随分迂闊な話である。しかし別の見方をすれば、こんな簡単なこと位は誰でも知っているように科学知識が普及していないのは困ったことである。もっともそんなことを知らなかったのは極少数のものだけかも知れないが、どうもそうではなさそうである。反対にかなり多数の人が、特に栄養のことに直接関係のある人までが、私と同じように言いきかされていたのではないかと思われる節が沢山ある。陸軍では昔は脚気が非常に多かったことも、今は激減していることも、胚芽米を使用している部隊がすくなくないことも皆本当である。しかしそれだけ聞いたのでは、どうも兵食の実例によって、胚芽米が脚気防止に一番よいということが証明されたように思い込ませる恐れが充分ある。
 学者というものは、とかく新聞記者が嫌いな人が多い。その理由として間違ったことを書くからというのは、いかにももっともである。しかしこの頃の一流の新聞では、そう全く出鱈目を書くようなことは滅多にない。それよりももっと分った人は、どうも新聞では、活字の配置と重点の置き方で、全くの嘘ではないが、まるでちがった印象を読者に与えるように書くから困ると言われるようである。この抗議は如何にも急所をついた話であって、今日のジャーナリズムというものの本質の一面をよく表わしていると思われる。しかし今の「兵食と胚芽米」の例のような話は、そのジャーナリズムの弊害の方と一脈通ずるものがありそうである。学者だって、そう新聞記者の悪口ばかりを言ってはおられない。稀れな例外としては、新聞記者は嫌いだということを、何か自分が名声などに冷淡であるところからくるとでも思っている、すなわち逆に言えば、新聞に名前が出ることが名声を揚げることになるという風に考える旧い型の学者もあるかも知れないが、そういう人はここで問題とするまでのこともなかろう。
 重点の置き方の話で思い出したが、Tさんはまだ一つ面白い話を教えてくれた。ある日の午後、Tさんはぴかぴか光るニッケル鍍金めっきの筒の中に兎を押し込んで、すっかり身動きも出来ないようにしておいて、無理に口をあけて、ひき茶の粉をねったものをその中に押し込んでいた。兎は苦しがってもがくので、口ひげだの鼻だのが、すっかりお茶まみれになっていた。「これは腎臓機能を調べているんですがね、十銭のチョコレートを二つ、こういう風にして喰わすと兎は死にます」とTさんは手を動かしながら言う。「チョコレートてあの普通のチョコレートですか」ときくと、「そうです、そこらあたりに売ってる十銭のチョコレートですよ。しかし僕は人間がチョコレートを喰うと死ぬなんては言いませんから御安心なさい」とTさんもなかなか人の悪いことを言うものである。まあチョコレートは運の良い方で、白米は運が悪かったと諦めて貰うより仕方がない。
 この頃兵隊さんたちの手記が時々新聞に出る。その中で、「真珠のように光る」日本米が配給された時の、兵隊さんたちの喜びが書いてあったのを読んで、ひどく心をうたれた。こうなると白米禁止など軽々しく言えることではない。もっともそれは白米に馴れていたからのことで、初めから全国民が胚芽米や半搗米になっておれば何でもないことだという議論も出るかも知れない。しかしこの問題はそう簡単には片づけたくないと私には思われる。I氏の論文の最後に独逸ドイツの例が引いてある。世界大戦当時、独逸軍が食料欠乏のどん底にありながらも、第一線から後方に交代してくる兵士たちに「カルペン」を一尾ずつ与えたという話なのである。そしてこれはこの一尾の鯉によって、蛋白何グラム、脂肪何グラム、カロリーいくらを給与しようと企図したのではないとつけ加えてある。こうなると、軍人は単純なところが美点であり、学者には深慮が取柄であるという従来の考え方が、どうもあべこべになりそうである。もっともそれはちっともかまわないことで、単純と深慮とは考えようによっては、共に立派な美徳なのである。

 以上の話は何だか、栄養学の知識など少しもない癖に、無闇と胚芽米の悪口を言ったように見えるかも知れないが、そういうつもりは毛頭ないのである。Tさんが調べた結果でも、壮年の健康者に胚芽米を喰わせて、その便を検査して見ると、胚芽の殻に小さい孔があいているので、内部のヴィタミンが摂取された形跡は立派にあるのだそうである。それで壮年の健康者で、胚芽米の好きな人がそれを常用されることは、現在の吾々の知識の範囲内では望ましいことなのであろう。しかしそれでは白米禁止とはあまりに甚だしい懸隔がある。
 私たちのまだ物心のつかぬ頃、田舎でコレラが大変流行ったことがあったそうである。その頃北陸の片田舎のお医者さんは、コレラは生水をのんだために伝染うつったということから類推したのかも知れないが、患者に絶対に水をのませなかったという話である。それで多くの患者たちは、渇に苦しみながら死んで行ったが、その中でこっそり椽先まで這い出して、手洗の水を飲んだ者の中には助かった人もあるという語り伝えを子供の頃きいたことがある。この話の真偽は勿論確かめることは出来ないが、そんなことも有り得ると思われる。私たちも子供の頃、腹を下すと湯や水を禁ぜられた記憶がある。ところが現代の医学では、激しい下痢性の病気では、水分の補給が一番大切であるというのは、常識として教えられていることである。それではまるで、医学が病人を殺したようなものである。しかし、私は科学を商売にしているせいかもしれないが、或る場合には、それも致し方がないという気もする。とにかくもしその時代の医学の最高の知識として、水を飲まさぬことになっていたのなら、それに従うのもまた止むを得ないことであろう。ただ問題は、その時法令を以て水を飲むことを禁じていたら、そのために死んだ人々の親や子たちは、いつまでもその法令を呪うことだろうと思う。
 こういう例を白米禁止の譬えに持ち出すのは、少し激しすぎるかも知れないが、猫の説明に虎を持ち出すくらいの譬えにはなるであろう。ところで、こういう風に考えて見ると、結局一番不思議なことは、白米禁止というような大変なことが、白昼本気で、かなり責任の地位にある人々の間で論議されたということである。この話は数年後には全くの笑い話となるかも知れないが、現代の政治のある逸話としては、時代色を示す一つの良い例であろう。こういう非常時になると、何事でも法令で決めてどしどし実行して行かないと間に合わぬのかも知れない。そしてそのこと自身が良いか悪いかは私たちの知らされていないことであり、また論議すべき事柄でもない。ただそういう場合に、ある事物の決定に科学的な根拠があると言う時には、よほど注意しないと、科学的の根拠と思い込んでいることが、案外非科学的根拠である場合が有り得るのである。
 統計くらい確かなものはないと同時に、統計くらい嘘を言うものも少いとは、よく言われていることである。それと同じように、科学的研究の結果も、一つ間違うと、とんでもない非科学的な結論に導かれやすいような気もする。
「科学を尊重せよ」ということと、「科学を警戒せよ」ということとは、両方とも本当なのであろう。
(昭和十三年十二月)


附記

 この話を書いてから二年も経たないうちに、愈々白米禁止が断行されて、今では胚芽米か七分搗米が国民の常食となることになった。今度はしかし話がちがうので、国民糧食の節約が主な理由なのだそうであるから、この一文は何も現在の法令を論議していることにはならない。





底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日
初出:附記以外「中央公論 第五十四年第二号」中央公論社
   1939(昭和14)年2月1日発行
   附記「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「纒」の「厂」に代えて「广」    206-11


●図書カード