大謀網

中谷宇吉郎




 伊豆の伊東の温泉の沖合に、大謀網が設置されていたころの話である。
 高等水産学校につとめているI君が漁撈の視察にやってきて、大謀網を見に行きませんかというので、一緒に出掛けることにした。I君は心得たもので、土地の水産組合へ行って名刺を出して、大謀網の魚を運ぶ船に乗せてもらうようにすっかり手配してくれた。
 四月のことで、海の風はまだなかなか寒い。小さい発動機船の中には、部屋らしいものもないので、機関のそなえつけられている穴のような所へもぐり込んで、首だけ出して親方らしい人に色々説明をききながら行った。
 半里ばかりの沖合に、旗が二本ひらめいている。太い孟宗竹を何十本と束ねて縛ったものを浮標にして、重い錘をつけておくと、それが海の中でいわゆる定置網の拠点になるのである。そういう拠点になる大きい浮標が二つあって、その各々には旗を立てて目印にしてある。二つの浮標の距離は四町もあるという話であるが、海の中では、それがまるで二本並んでいるように見える。
 船が近くへ行くと、この二つの拠点の浮標をつらねて、同じような孟宗竹の浮標が沢山海上に浮んでいるのが見えてくる。それらの浮標は、旗印を両頂点に持った紡錘形をなして水上に配置されている。この紡錘形はそれで長さが四町になるわけで、幅も七十間という厖大なものである。
 網はこの紡錘状に配置された浮標から水中に垂れ下っているのであって、たっぷり海底まで届いている。そして網の底は一枚に続いて海底を蔽っているのであって、いわば途方もなく大きい紡錘形の口を持った※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)たも網を海上に浮かべたようなものである。もっともそれでは魚のはいる口がないので、紡錘形の腹の一部が切れて入口になっている。
 その入口の一方の浮標からはまた他の沢山の浮標が長く続いて真直ぐに伸び出ている。そしてそれらの浮標からは、一枚の網が水中に垂れ下って底まで達しているのだそうである。それは垣網というのであって、大抵はこの垣網はその地点の潮流の方向と大体垂直になるように配置されている。
 魚たちは、潮流に沿ってやってきて、この垣網につきあたる。そうすると、魚は本能的に廻游の方向をかえて、網に沿って沖の方へ行くのだそうである。垣網はいつも大謀網の入口から、海岸の方へ延び出るように作ってある。それで、垣に沿って沖の方へそれた魚たちは、いつの間にか、大きい※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)網の入口に誘ひ込まれて[#「誘ひ込まれて」はママ]しまう。入口の両側からは、この※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)網の内方に向って短い垣網が二つ建っている。それがちょうど弁のような作用をして、一度大謀網の中へ誘い込まれた魚たちは、いつまでも周囲の網の面に沿って、ぐるぐる泳ぎ廻っているのだということである。原理からいえば、こういう大規模な大謀網でも、琵琶湖の葦簀でも、子供たちの使う魚とりの竹籠でも全く同じものらしい。
 垣網は藁で作ってある。青暗く透きとおった海の底まで、その藁の網が黄色く見える。これは単に魚をおどして、廻游の方向をかえさせればよいのだから、目の極めて粗い乱暴な網である。「藁は海の中では光って見えると漁師たちはいうのですが、それで魚が驚いて逃げるので、垣網にはどこでも藁を使うようです」とI君が説明してくれる。「本当でしょうかね」とI君は今度は親方にきく。「まあ、そういう理窟になるんでしょうな、魚の方からいわせれば」と親方の返事は極めて悠暢である。
 大謀網の方は麻の立派な網であるが、最後に魚を集めてとる部分以外は、これもかなり目の粗いものである。それでも大抵の魚は、充分自分の身体の通るくらいの目でも、それをくぐり抜けて逃げて行かないものだということである。もっとも三浦さんが潜水服を着て、潜って見た話を読んでみると、逃げる魚もかなりあるらしいが、そんな利口な連中は、勝手に逃がしておくのであろう。
 ところが、なにぶん縦が四町、幅が七十間、それに深さも五十尋位はあろうという厖大な網だけに、その中へはいった魚をとるのが大変である。五艘位の舟に沢山の屈竟な若者が乗り込んで、一列に舟を並べて網の一方にとりつく。そして皆が船縁に並んで、胸をぴったりと船縁につけて深く身をかがめながら、手が海面につくまでずっと腕をのばして網をつかまえるのである。
 伊東のこの大謀網では、その時は百三十人くらいの人が働いているという話だった。一せいにかけ声をかけながら、一方の手で網の目をたぐりあげて、他の手で次の網の目をつかむ。そしてうんと力を入れてそれを引き上げながらまた次の目をたぐるという風に、順々に網の底を五十尋の海の底から引き上げては放すのである。そして網の一方から順々にたぐって行くと、魚はだんだん一方の隅に押しつめられる。船は自然に引きよせられて、極めて徐々に動いてくる。こういう風にして、毎秒一回位の割合で、左右の手で交互に網をたぐり上げて行って、三時間位かかってやっと一方の隅まで魚を押しつめるのであるから、その労力は大変なものである。
 その間ちっとも力をゆるめることは出来ないし、全身の力を船板にくっつけた胸の骨に持たしているのだから、身体のためにも悪いことだろうと思われる。こういう風にして網をたぐるのを、漁師たちは「胸しめ」といっているそうであるが、この胸しめを生業としている漁師の胸は鉄板のように固くなっているという話である。
 何か少しばかり改良をして、簡単な器械でも使って、もっと楽にこの大謀網をしめることは出来ないかということをI君は考えているらしい。もっとも浪の荒い日などに、少し無理をすると網はすぐ破れてしまうので、そう簡単に器械化をすることは出来ないということになっているらしい。それにしても、人間の腕を歯車の歯の代りにしたり、胸の筋肉をクッションの代りに使ったりするのはどうも勿体ないような気がした。
 それからもっと困ることは、こういう風にして毎日二回、午前と午後とに網をしめ、百三十人の人が三時間かかって、さて網をあげて見ると、小ものが数十尾ぐらいはいっていることが、まあ普通といってよいらしい。主な収入はぶりであって、冬の二月ごろ、一網に一万尾も二万尾もはいることがあり、それで殆ど一年間の収益があげられるという話であった。
 それで網をしめて見なくて、大体どれぐらい魚が中にはいっているかを知る方法があれば大変都合がよいのであるが、それもまだ方法がないらしい。超音波を海の底へ送ってやって、その反射を見る場合、漁群があるとその群からも反射されるので、魚群の探知が出来るとか、また魚が沢山いると渦が出来るのでそれを探知すればよいとか、色々の方法があるということは、前にもきいたことがある。今この広い海の上で荒浪がしぶきをあげている姿を見ると、水産物理学も愈々実際に役立つまでには、本当に荒海の上で生活するだけの覚悟をもった物理学者が二、三人出て来なくてはならないのだろうという気がした。
 網をしめるかけ声が段々近づいて来て、もう船縁に眼白押しに並んだ漁師たちの顔がはっきり見えるころになると、網の目が急にこまかくなる。もう網の底がすっかり地を離れて浮き上がって来ているので、急にしめる速度が増す。「鰤の三千もはいっている時なら、もうそろそろ大変なしぶきがあがるのですが」と親方が説明してくれる。
 網しめの船がぐるりと円陣を作ると、その中の水面が急に油を流したように平らになる。すると黒い鰭が二つ三つにゅっと海面にとび出て、それが水面上に条痕を作って走り廻る。まんぽうがはいったのだということである。私たちの船は網の最後の口のところに待っている。もう網は十坪位までしめられて、底が水面から四、五尺の所までもちあげられたのである。真黒なまんぽうはあまり猛烈に走り廻るので、漁師が手かぎを眼の所へ打ち込んでやっとのことで船の上へひきずり上げる。何分三尺四方以上もある巨大な身体がまるまると肥っているので、引き上げるのは大変な騒ぎであった。これは漁師が食べるので、外へは売り出さないのだそうである。
 最後に網を船の底へうちまける。めじが十尾ばかりと、あとは鯛やひらめなどが二、三尾宛いて、外に雑魚が一籠ばかり雑っていた。これでは何ほどのことにもなるまいとちょっと気の毒な気もしたが、親方は「これでもまあいい方でしょう」と、まるで初めから期待していないような口吻だった。
 面白いことには、船艙の底へ一杯に、長さ二寸位の桃色の小さい魚が沢山はいってきた。今までに見たこともない妙な形の魚で、口蓋が長く針状に突き出し、尾は上下不同で鮫の模型のような形のものである。それをはき集めて魚籠に押し込んだら、大きい籠が一杯になった。漁師はそれを上から足でぎゅうぎゅう踏みつけて、海へ流してしまった。
「身体は小さいがやはり鮫の一種でしょうな」と漁師は言っていた。よほど不漁で困った時には漁師たちが喰べることもあるが、普段はとても不味くて、どうにも喰べられないものだという話であった。
 この頃、この大謀網はなくなったらしい。しばらく休んでいるのかも知れないが、あるいは魚がだんだんとれなくなってあまり引き合わないという話だったから、もう止めてしまったのかも知れない。網代からのバスの中で、小さい大謀網の浮標が紡錘状に並んで、碧い海の上に浮んでいるのが見える。これもいつまで続くものか少し気になる。汽車が通ずるようになれば、魚がだんだん逃げてゆくのは致し方ないことであろう。
 日本各地の大謀網はだんだんなくなるのだそうで、伊東のものなどは比較的珍しかったという話である。そのうちにこういう漁獲の方法が絶滅する日も案外早くくるかも知れないと思って書き止めておくことにする。
(昭和十四年一月)





底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「続冬の華」甲鳥書林
   1940(昭和15)年7月1日
初出:「東京日日新聞夕刊」
   1939(昭和14)年1月12日〜13日
入力:kompass
校正:砂場清隆
2020年2月21日作成
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