室鰺

中谷宇吉郎




 伊豆の東海岸のこの温泉地では秋風の立ち始めるとともに、また室鰺が沢山漁れ出した。去年の秋の暮、少し静養の意味で、漁港と温泉とを兼ねたここの土地へ移ってきてからもう一年に近い。初めてきた時はちょうど室鰺の盛りの時期であった。通りに面して魚屋の店先には、小鰺と、室鰺との干物が一面に並べられて、秋の陽を一杯に受けながら行儀よく並んで乾されていた。それがいつの間にか段々少くなって行く中に春がきて、今また秋とともに室鰺の大群がここの海にかえってきたのを見ると、季節の移りかわりがよく感ぜられる。
 誰の発意か分らないが、開いた鰺を一面に並べた網の枠は、少しばかり斜に立てかけられて、その上の方に煽風器が置いてある。そして煽風器の金網には五尺ばかりの色テープが結びつけられていて、煽風器が首をふるにつれて、その色テープが鰺の上を撫でながら蠅を追うような仕掛になっている。なるほどこうすれば乾燥も早いし、蠅の心配もないし、名案だと感心したらどこでも皆そうしていますと笑われた。しかし初めて考えた人は偉いと思った。
 ここへきて新しい干物を喰べてみて、初めて干物というものは美味いものだと分った。今まで魚を干すということは貯蔵の一つの方法だと簡単に考えていたのであるが、本当の新しい干物というのは一つの料理法だということに初めて気が付いた。朝、水から揚ったばかりの室鰺を魚屋が持ってくる時は、青銀色の肌にエメラルドの緑の斑点がまだ燦爛と輝いている。それを直ぐ開いて貰って、自分の家で干して、夕食の膳に供えるとちょうど良い位の喰べ頃になるのである。初めは蠅の止ることを気にしたのであるが、その心配は全くいらぬことが直ぐ分った。魚もこれ位新鮮なものになると、全く臭いがないと見えて、外にさらして置いてもほとんど蠅が寄り付かないのであった。強い秋日にジリジリと照りつけられている魚は触って見ると熱い位になっている。釣った魚を魚籠の中に入れたまましばらく日当りの所を持って歩くと、すぐなれて味がすっかり落ちてしまうことから考えてみて、このような温度に長時間魚を保っておいて腐敗しないのが不思議である。もっとも専門の人にきいてみたら、特殊の酵素とか細菌とかが腐敗を防止しながら、蛋白質の変化を起して、生の時にはないような良い味のものを作るのだというような説明があることだろうと思う。魚を焼く場合は、よく見ると肉の内部にある水が沸騰してその中で肉が煮えていることは誰でも気の付くことである。それで焼いた魚というのは、極めて少量の水で煮たということに大体なりそうである。干物の場合はそれよりも低温でその代り長い時間の間その温度を保ちながら徐々に何かの変化を起させたものであろう。水分はその変化の進むにつれて適当に蒸発して反応の速度を徐々に小さくさせるとすると、ちょうど良い所で美味い干物が出来そうな気がする。もっともこんなことは分っていることかも知れないが、定量的にちゃんとした研究は出来ていないのだろうと素人ながら考える。厳しくいえば味の科学が出来上らない中はそんな希望を持つことが無理なのであろう。
 干物の出来る時の紫外線の影響などもこの頃やっと分りかけたという話である。北国の寒村である村だけ※(「やまいだれ+句」、第4水準2-81-44)くる病のない所があって、そこでは干物を沢山喰べるためにヴィタミンの補給が出来るのだという話は大変面白い。干物が乾されている間に紫外線のためにヴィタミンが出来るのだという話である。ヴィタミンのことだから極めて少量に出来るのだろうが、そんな微量の特殊のものでも味の上には充分の効果があり得よう。もっとも味の方に効くのはヴィタミン自身ではなく、同時に出来る同じ程度に微量な他の化合物なのであろう。
 匂いもそうであるが、味というものも極めて研究のむずかしいものである。味の科学で劃期的の業績は味の素の発見であるが、これも結局は「味の素の美味さ」の物質を抽出したことになるのであろう。味の素を沢山使った料理はどれも同じ味になってしまう。細君の話を持ち出すのも妙なものであるが、加賀の旧式な家に育った妻は、旧い伝統に培われた同じような料理を毎日根気よく作っている。野菜の煮付けとか、魚ならば焼くとか煮るとかという風な田舎の料理である。それでも三百年の伝統の中に、いつの間にか鯛のうしおには焼塩を使わずに荒塩を用いるとか、ある種の煮物には出汁やその他の調味料を入れないとか色々の制約が出来ている。研究室の実験には、休暇があったり会議があったりして、一年の半分も本式に身を入れることはないが、台所の実験は年中毎日同じように続いて行く。そして時々新しい法則を発見して行くようである。時には「一度醤油を差して少しあまかったと思って、注ぎ足したらもう駄目ですね」などというような勝手な法則を帰納している。私はいわゆる食通といわれる人々の味覚を真似る気持はないが、ただ虚心に味わって見るとこういうような味の差が案外明瞭に分るような気がするのである。人間の舌が極微量の複雑な物質に感ずる感度にくらべては、今の精密器械などはまだまだ子供だましのようなものであろう。もっとも精密器械の方は現象を分析してその一つ一つの要素を極微量まで測定するように考案されているもので、味覚のように複雑な現象をそのまま綜合的に感じて、その中の微量物質の差を識別する機能とは比較するのが無理なのであろう。
 真鰺や室鰺と限らず、ここの海には色々の小魚が極めて豊富である。この頃は土地の生活にも馴れて、魚屋が市場からこれらの魚を持ち帰ってくる時間も大体分ってきた。その頃を見計らって店先へ行ってみると、色々の雑魚がまだ砂にまみれながら銀色に光っている。そんなのを買ってきて、直ぐ簡単に塩をふって焼くと、魚は金網の上に反りかえる。そして身がはじけてジージーと脂を炭火の上に落すのである。それを細君が太い箸でつまみ上げて皿の上にのせてくれるのに醤油の数滴をたらすとじゅっといってしみ込むのである。
 まあこんな所を味覚の秋とでもいうのであろう。到る処に人生があるという文句がふと思い浮べられた。
(昭和十二年十一月『サンデー毎日』)





底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月5日刊
初出:「サンデー毎日 第十六年第五十八号」
   1937(昭和12)年11月14日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年9月24日作成
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