大東亞戰爭と科學技術者

中谷宇吉郎




 大東亞戰爭の緒戰における神祕的なる大戰果はあらゆる日米未來戰の夢物語りを超越したものであつた。
 帝國海軍はそれらの著者達の構想力を粉碎して身をもつて小説よりも奇なる事實を創作したものであることは、いまさら述べたてるまでもない。しかしこの一見奇蹟的なる大事業も決して神祕的なものではなかつた。それは十二月九日の夜大本營海軍報道部長前田少將の放送(十日朝刊各紙掲載)によつて明かである。同少將のいふことにはいちいち滿腔の同感を禁じ得ないものであるが、特に「帝國海軍が過去幾十年の間專ら精兵主義をもつて粉骨碎身、錬磨に錬磨を重ね、世論に惑はず、政治に拘はらず、一途にその本分に專心して參りました忍苦の賜物であります‥‥」といふ一節におよんでは、心ある者誰か血涙の胸に迫るものなくしてきくことができたであらう。
 ワシントン會議以來今日までの永い忍苦の時を思へば、その喜びはまことに筆紙に盡くし難いものがあらう。大聲叱呼することは容易ではあるが、すべてを忍んでただ一筋に、その本分に專心することこそ吾人に課せられた至難の業である。一筋に本分に徹することは、當然の如く見えて實は非常に困難なことである、それなればこそ一見奇蹟に近い事業も達成せられたのである。
 今次の戰爭において帝國海軍が顯示してくれたこの教訓こそ、有史以來最重要の時局下における科學者および技術家のもつて心魂に銘すべき金文字である。
 緒戰の光華燦然たる戰果に有終の美をもたらすべき今次の長期戰において、また大東亞共榮圈の確立に要する具體的方策において、科學者および技術家の任務の重さは軍人のそれに劣らざるものであることは贅言を要しない。
 今こそ科學振興の掛聲の時機は過ぎ去つたのである。
 この秋にあたつて、われ/\は科學振興が國是の一つとして採上げられて以來、わが科學界工學界の實情に鑑みて正視する必要がある。
 またその間において、科學の實際の振興と科學振興の掛聲とのいづれが多く實行されたかを反省すべきである。
 端的にいへば、この數年間の科學振興策は、科學の研究と普及とに力を盡さず、その奬勵に終つてゐるやうに見える。
 さらに憂ふべきことは、研究者までが、奬勵者の群の中に入る傾向があつたことである。
 今日の儘の状態に放置すれば、すべての科學者が研究の奬勵をしたり、研究者の連絡をはかつたりする側に立つて、肝腎の研究者自身がなくなるおそれが皆無とはいへないのである。
 東亞の空に低く蔽ひかぶさつてゐた暗雲を破つて四年振りに太陽を仰いだ。この新年にあたり、科學者技術者のすべてが帝國海軍の尊い教訓を身に體してその任務に邁進するならば、國家の理想實現に立派にその役をつとめ得るであらう。
 重ねていふ。大聲叱呼することは易く、一途に本分に專心することは難しい。科學振興を叱呼すべき人は、他にそれを本分にする人がある。
 科學者ならびに技術家はよろしく心を靜めてその本分を直視しその本務に專心すべきである。 (科學工業新聞)





底本:「科學小論集」生活社
   1944(昭和19)年4月15日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※底本では、表題の下に「昭和十七年一月」と記載されています。
入力:高橋征義
校正:木下聡
2028年7月28日作成
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