鉛筆のしん

中谷宇吉郎




 私たちは小さい時から、「おぎょうぎよくなさい」ということばを、いつも聞かされたものです。箸の持ち方、茶碗とお椀とお皿の置き方、食べ方、坐り方から、帯のしめ方までずいぶん細かいことを、いちいちやかましく注意されました。
 こんなことは、昭和の時代になってから、だんだんゆるくなってきました。戦争中には、一時、ゆがめられた形で、しつけがやかましくいわれましたが、本当のしつけは忘れられてしまっていました。とくに、戦争が終ってアメリカの新しい考え方がはいってきてからは、しつけは、やかましくいわれないどころか、まるで悪いことのように思われているようです。このことは、今のうちにもう一度ゆっくり考えて直しておかないと、困ったことになる心配があります。
 しつけをやかましくいうことが、どうして新しい考え方にもとるのでしょうか。新しい考え方といわれるのは、ひとりひとりの人間の値うちを尊ぶというのが、一つの大きなねらいです。そこで、いっそうその人の値うちが高くなるように、目上の人には敬いの心を持つことや、服をきちんと着ることや、食事の時、他の人にいやな感じを持たれないように、食卓の礼儀を守ることなどを細かくやかましくいうことは、新しい考え方にもとるのではなく、むしろ、新しい考え方に合うわけです。
 みなさんは、アメリカの家庭では、しつけのことなんかやかましくいわれないだろうと思ってはいませんか。ぶたれるようなことは、絶対にないだろうと思っているでしょう。
 ところが、本当はそれと全く正反対で、アメリカでは、しつけがとても厳しいのです。アメリカでは、小さい時からお客様といっしょに食事をするならわしですから、食事の細かい作法などは、小さい時から、ちゃんとしつけられます。うそをいったり、間違ったことをすると、別に両親でなくても、ようしゃなく叱りつけます。おしりをぶたれることも、珍しくはありません。
 こうして、よいしつけを身につけた人が多くなればなるほど、正しい民主主義の明るい社会が生まれていくのです。
 戦争の終った次の年だと思いますが、終戦後はじめて列車に二等車がつけられた頃のお話です。
 私の乗っていた二等車も満員で、立っている人もずいぶんありました。間もなく車掌さんの検札が始まりました。その時、三等の切符で乗っていた十七、八ぐらいの青年がおりました。車掌さんは、
「これは二等車ですから、三等車の方へ行ってください」
と、いいました。が、この青年はいっこうに動こうとしません。
「三等は満員で、とても乗れないよ」
「いえ、次の車はそう混んではいません」
「いや、混んでるよ」
 ふたりは、こんな押問答をしていましたが、この青年は急に声を荒立てて、
「何いってやがるんだい! 民主主義の世の中だぞ! 二等も三等もあるものか!」
と、どなりつけました。車掌さんは、すごすごと、次の車にいってしまいました。
 私は、アメリカの友人にこの話をして、
「あなたたちが、民主主義という考え方を教えてくれたばかりに、日本は迷惑してますよ」
と、冗談をいいましたら、その人は、
「それはきみ、ジャップ・デモクラシイ(日本民主主義)ですよ」
と、大笑いしました。
 三等の切符を持っている人は、二等車に乗らないというのが、正しい民主主義の考え方なのです。それを、三等の切符で二等車に乗るのが民主主義だといばっているのですから、全く逆の話です。これではまるで、大雨の中でずぶぬれになりながら、
「ああ、いいお天気だ」
と、喜んでいるようなものです。
 これは、少し極端なお話で、列車の中では今は、もうこんなことは見られなくなってきましたが、しつけのことについては、これと同じようなことが、まだまだあるのではないでしょうか。
 生活のしつけは、朝起きてから、夜寝るまで、いや、眠っている間でも大切なことなのです。あなたは、正しい起き方、正しい寝方が出来ていますか。
 しつけといえば、すぐ、生活のしつけのことが言われますが、勉強のしつけ、学問のしつけも忘れられてはなりません。
 あなたの鉛筆のけずり方を、見てごらんなさい。むやみにしんを長く出し、その先をきりのようにとがらせてはいませんか。反対に、ちょっぴりしんが顔を出せば、それで平気でがさがさと、大きな字をなぐり書きにしてはいませんか。
きりしん」の人は、小さな事をいつも気にかける型、「ちょっぴりしん」の人は、ずぼら型といわれますが、本当はそうではなくて、そんな鉛筆を使っているから、そういう型の子供になっていくのです。
 ペンや万年筆は、使った後、ぬぐっておくものだということを知っていますか。賢人といわれた昔の中国の学者は、顔を洗わない日はあっても、硯を洗わない日はなかったといわれます。万年筆は、ぬるま湯で時々掃除することです。
 ノートの書き方、本の扱い方、学用品の使い方の、上手下手、手入れのよしあしというようなことは、つまらないことのようですが、これがその人の勉強に対する心構えを養う大変大切なことなのです。
 私が大学にはいった頃、中村清二という大変傑い先生がいらっしゃいました。私たちが、この大先生から一番はじめに教わったことは、何と、実験室の掃除の仕方と、ビーカーの洗い方でした。
 その頃は、くだらないことに思っていましたが、考えてみますと、ビーカー一つ満足に洗えなくては、立派な研究も出来るはずがありません。レンズを持つ時の注意、器械の持ち運び方、器械の触ってよいところと触ってならないところ。このような細かいしつけが、どれ程それからの私の研究を助けてくれたかしれないのです。
 ビーカーの洗い方や、器械の触り方というようなことは、科学の研究をする人には必要だが、ふつうの人には、必要でないと考える人があるかもしれません。けれども、こういうしつけをする本当のねらいは、学問に対する身だしなみを、身につけさせるところにあるのです。学問は、私たちが慎ましい心で、大いに尊ぶべきものです。なぜならば人間の値うちは、学問を持っているというところにあるからです。
 私たちは、鉛筆の正しいけずり方や、本の正しい読み方も出来ないで、むつかしいことをりこうぶるような人には、なりたくないものです。
(昭和二十六年六月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「イグアノドンの唄」文藝春秋新社
   1952(昭和27)年12月20日発行
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2020年4月28日作成
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