私は悪友のK画伯、但し画伯は自称、から一度だけ褒められたことがある。「あなたはどんなに忙しくても、絵を描こうというと、感心に断ったことはないね」というのである。
事実、世の中に、何が面白いといっても、良い座敷で、御馳走を喰べて、それから絵を描くくらい、面白いことはない。とくに、上等の酒が少しはいると、何だかむずむずして来る。世の中には、酒だけ飲んで、絵を描かない人もあるが、どういうつもりなんだろうかと、ひとごとながら気になる。
もっとも、こういうことをいっても、私を知っている人は、あまり本当にしてくれない。厄介なことには、絵の話を切り出してくれる人がまず無いので、話にならないのである。それで随筆集には、せいぜい自作の絵を入れて、宣伝これ努めているつもりであるが、それでも反応は微弱である。誰も落款を見てくれないらしい。或いはどうせ誰か有名な画家に描いてもらったのだろうと、見逃してしまうのかもしれない。
「先生も絵をお描きになりますか」
「いいえ描きませんよ」
「でも北海道帝大の中谷さんの随筆にそんなことが書いてあったと思いますが」
「中谷君は実に熱心でね、旅行中も矢立と画帖を離さずに持っています。私は主として中谷君の画に俳句の賛をする役割に廻っていますが、時々はすすめられて、花などを写生します」
ところで問題は、この矢立と画帖にある。結論をいえば、これは本当の話ではない。しかし類似した種はあるので、私はいつでも墨だけは持って歩いている。嘉慶の青墨で、大して古いものではないが、この程度が丁度手頃なのである。いつか何処かで、小宮さんと一緒だった時に、不意に画帖をつきつけられたことがある。その時私が一寸失礼といって、手鞄からこの墨をとり出したら、小宮さんから「身嗜みがよいね」と褒められたことがある。一時面倒臭くなって、「これからは僕も、あまり墨や紙には拘泥しないことにしよう」といったら、吉田(洋一)さんが、「いや墨と紙には拘泥した方がいいね」と忠告してくれた。それで思い直して、ずっと墨だけは、いつでも身辺を離さないことにしている。
墨に凝るというと、よほど審美感の発達した大通人のように思うのは、大いに間違っている。中国の昔の青墨、即ち松煙墨は、淡くしてみると、非常に美しい色になる。青みがかった透明な鼠色をしている。アクアマリンという水色の宝石があるが、あれを夕闇の窓で見たような色である。現代の日本の墨は、油煙墨であって、淡くすると、汚い濁った茶色を帯びる。小学校の子供に見せても、すぐわかるちがいで、何も通がっていう話ではない。もっとも中国の古い油煙墨には、茶がかっていてしかも非常に美しい暖かい感じの墨色を出すものもあるが、その方は一寸私などの手にはいらない。
松脂を灼いても、油を燃しても、炭素の粉になる点ではちがいないのに、こういう著しい墨色の差が出るのは、まことに不思議である。炭素という化学的性質に差がなければ、結晶性とか粒子の形とかいう物理的性質のちがいによるのであろう。しかし厄介なことには、墨の粒子は非常に小さいもので、最高倍率の顕微鏡でも、その形は見えない。それで昨年あたりから、私たちの教室で、電子顕微鏡で粒子の形を調べる仕事を始めた。
なかなか面白い写真がとれるので、今に昔の名墨の秘密がわかりそうである。油煙墨の粒子はいくら倍率を大きくして見ても、やはり煤のような不規則な形をしている。ところが中国の古い松煙墨は、粒子が少し大きく、といっても直径一万分の一ミリくらいであるが、それが綺麗な球形をしているのである。
粒子の形ばかりでなく、原子配列の模様もちがっているらしい。炭素は非常に不思議なもので、木炭や煤は、いわゆる無定形であるが、同じ炭素でも、結晶になると、石墨になり、また
こういう粒子の形や結晶性が、墨色をなぜあのように美しくするかという点になると、まだ何もいえない。色の科学がまだあまり進歩していないからである。油絵具でも、カドミウムの黄といえば、ルフランの品でも、日本の粗製品でも、成分は同じである。ごく微量の不純物が影響しているのかもしれないが、純度の問題よりも、物理的性質のちがいによる方が多いようである。この方面の研究は、日本でも最近大分進んだので、そのうちに良い絵具が出来るようになるであろう。
油絵の方は、理研の寺田先生の研究室にいた頃、大分熱心に描いたが、いつの間にか墨絵に転向してしまった。外国へ行く時に、先生のところへ留学の心得をききに行ったら「油絵の道具を持って行くことを忘れないように」と、それだけ注意された。それで一通り道具を揃えて持って行った。そして英国とフランスとで、大いに描いて来た。帰朝の時は、トランクにいっぱい絵を持って来た。
「自分の描いた絵でも、数が多いと税金をかけられるぞ」とおどかされたので、横浜の税関でびくびくしたが、税関の役人は、ちらりと一眼見ただけで、下積みの方は見向きもしなかった。もちろん全部無税で通関した。安心もしたが、少し物足りないような気もした。それで墨絵に転向したわけでもないが、日本へ帰ってからは、油はあまり描かなかった。もっとも伊東で療養をしていた頃は、所在なさに、魚の絵を大分描いた。これは描いたあと食べればいいからと思ったのであるが、そう巧くは行かなかった。一日陽の当るところに置いて描いたあとの魚は、猫にやっても食わなかった。
この頃は専ら墨絵に凝っている。亡くなられた児島さんや小林古径先生の前では、「名墨の科学的研究が目的です」と神妙にひかえているが、学生や同僚には、大いに東洋画の真髄を説くことにしている。二、三年前までは、誰もあまり欲しいとはいわなかったが、この頃は、大分画債に悩むようになった。いま東大の茅君なんか、北大にいた頃、いくら絵をやるといっても、「表装代が高いから」と辞退したものである。ちゃんと表装をして、箱書きをしてやるといっても「うちには子供が多くて、掛物にぶら下がる癖があるから遠慮する」という。その子供が大きくなってから、「もうよかろう」といったら、「また生まれるかもしれないから」と答えた。この頃になって後悔していることだろうと自分では思っている。
(昭和二十六年二月)