霧を消す話

中谷宇吉郎




 六月二十九日の同盟通信海外電報版によると、英国では一昨年の冬の初めから、飛行場の霧を消すことに成功し、それを実戦に使っていたそうである。
 この電報は、六月一日の「ニュース・クロニクル」紙の記事を転載したものである。新聞記事のことであるから、何処まで確かかはわからないが、その内容を読んでみると、かなり精確らしく思われる。少なくもあの報道のとおりに実行すれば、科学的に見て、英国の冬の濃霧も充分消えるであろうと言うことが出来る。
 この霧を消すという「英国独特の発明」によって、対独戦を二カ年早く切り上げることが出来たと英紙は言っている。この方は勿論誇張であろうが、或る程度もっともと思われるふしもある。というのは、米英軍が昨年の夏ノルマンディーに上陸してから、独軍は枢軸側の期待を裏切って、案外簡単に独仏国境近くまで後退してしまった。独軍が最も得意とする機動作戦への転攻がなかなか現われない。ところが十二月になって、この転攻がルントシュテット攻勢となって出て来たのである。
 海岸線からの後退以後、地勢的にみればその機会がたびたびあったはずであるが、この時まで待ったのは、気象的の条件を考慮に入れたものと解釈することが出来る。米英軍が大陸にまだ充分な飛行機の根拠地を得ていなかったので、主な航空作戦は英本土の飛行場に基地を求めるより仕方がない状態であった。ところが倫敦霧ロンドンフォッグで有名なように、英本土南方地域は、冬期間濃霧に蔽われることが非常に多い。濃霧中の盲目離着陸も現代の発達した航空術では不可能ではないが、速成大量教育の航空兵を沢山使って、大規模な航空作戦を濃霧中で行うことは出来ない。「英国の攻勢が進展するにつれ、濃霧の事故から生ずるわが爆撃機の犠牲がいよいよ増大した。英国の飛行場上空の霧はドイツ領上空の高射砲よりも恐るべき脅威となった」
 その時機をつかんで、ルントシュテット攻勢が電撃的に開始された。ドイツ側の報道によると、米英軍は木の葉の如く追われ、数個師団が殲滅された。第二戦線の完全成功を誇っていた米英軍は、再び欧州大陸から追い落されるかもしれない危機に立った。
 ところがこのルントシュテット攻勢は花火の如くにして終ってしまった。旬日にして米英軍は再び立ち直って、ドイツ国境に矛を向けて迫った。北海の濃霧の底に沈んでいたはずの英国の飛行場から、爆撃機の大軍が次ぎから次ぎと飛び出して来て、ドイツ攻撃軍の補給線を断ち切ったからである。「連合軍のドイツ補給線に対する戦略爆撃がわが攻勢を挫折せしめた」とフォン・ルントシュテットは嘆じた。英国のミッドルセックス州に新設されたヒース・ロウの飛行場を初め、灸所々々の飛行場に、霧の人工消散装置FIDOが施置され、それが実戦的に役に立つまでに到っていたことが、不幸にしてドイツ軍に充分よく知られていなかったのであろう。英空軍先導機隊司令官ベネット空軍中将は「戦争がさらに二年継続するのを救ったのはFIDOである。もしかのルントシュテット攻勢が成功していたならば、たしかに戦争はもう二年つづいたであろう」と言うが、その言葉の真実性は或る程度まで認めなければならないであろう。
 英空軍が霧の人工消散に本腰を入れ始めたのは、この記事によれば、一九四二年即ち昭和十七年の秋であった。大戦初期においてロンドンはドイツ空軍の大爆撃によって今一息というところまで追い詰められた。一九四〇年から四一年にかけての冬の爆撃をロンドンで体験した友人T君の話によると、それは文字どおり今一息というところであったらしい。ドイツ空軍は大陸の晴れた飛行場から飛び立つ。英本土の飛行場は濃霧にとざされている。霧は一般にその頂が低く、その上は飛行に好適の状態にある。こういう不利な条件の下に、辛うじて二冬を凌いだ苦しい体験が、三度目の冬を目前にして、英首相チャーチルをして、霧の人工消散を決意せしめたのであろう。
 一九四二年の九月二十六日、チャーチルは燃料相ジォフレー・ロイドに次のようなメッセージを送った。
「飛行場の霧を消散せしめて、飛行機が安全に着陸し得るよう何らかの方法を案出することは刻下の喫緊事である。この目的のためにすべからく燃料省は全力を挙げて急遽実験に着手せられたし。余もあらゆる援助を与えよう」
 こういうメッセージを燃料相に送るということは、霧の人工消散に熱式方法を採用しようという腹が決まったことを意味するであろう。そうすればこのメッセージの以前に、既に相当の研究、少なくも充分な検討が為され、遂に熱式を採用したものと解すべきである。「燃料省は全力を挙げて急遽実験に着手せよ」というのは、実用に供するについての大規模実験を言うのであろう。一九四二年の九月といえば、北阿ではロメル軍がスエズを衝かんとし、スターリングラードでは血の攻防戦が最高潮に達していた時である。さらに南太平洋では第一次第二次ソロモン海戦に日米が鎬を削っていた時である。その危急の秋に当って「急遽実験に着手せよ」と言ったのは、チャーチルが科学を知っていたからであろう。あの時もしチャーチルが、「いまさら研究などという時機でない」と言ってくれたら、ドイツは或いは助かったかもしれない。
 直ちに科学者、産業人、軍の将兵などの多数が招致された。FIDOの最後の完成までには約五千名の関係者を動員したということであるから、この研究陣の規模も大体想像されるであろう。技術部長A・C・ハートレーというのは、ミネルバにも名前が無いところをみると、純粋な学者ではないようである。実際の実験指導には王立学会会員のA・O・フンカイン博士が当った。実験は或るスケートリンクで行われ、製氷機を用いて霧を作り、その人造霧について消散実験を行なったのである。
 霧の人工消散については、実は以前から研究があるのであって、米国のハウトンとウッドフォードの実験が比較的有名である。霧と雲とは結局同じものであって、水蒸気でほぼ飽和した空気中に、直径百分の一ミリ程度の微水滴が沢山浮んでいるものに過ぎない。その微水滴の全量は案外少なく、英国の濃霧でも大気一立方メートル中に一グラムくらい或いはそれ以内の水が存在している程度である。それで熱を与えて大気を少し暖めてやれば、この霧粒は蒸発して霧が消えるのは当然である。また大気を暖めなくても、何か塩化カルシウムのような吸湿性の化学薬品を撒布して、大気中の水蒸気を吸収させ、空気を乾燥させてやっても、霧粒はやはり蒸発するはずである。
 ハウトン等は一九三七年頃即ちチャーチルの宣言よりも五年前に、この後の化学的方法を用いて、飛行場の霧を消す実験をした。用いた薬品は塩化カルシウムが主であった。結果は中位の成績で、相当大規模な装置をして、大仕掛の実験をしてみたが、霧は大分薄くなったという程度であった。初め三百メートルか四百メートルくらいしか先が見えなかったのに、この方法を施したら霧が少し薄くなって、七百メートルくらいまで見えるようになったという程度の効果に過ぎなかった。この程度ではすぐ実用にはならないが、しかし霧の人工消散は幾分は出来たことになる。それでハウトンは学会の賞か何かを貰って、それでこの方はおしまいになってしまった。
 化学的方法は、充分効果を出すように実際にやろうとすると、いろいろ困難な点が出て来る。それで一番直接な熱式方法を考えてみる。飛行場の大気を暖めるなどというと、すぐその熱量は天文学的数字になってしまうであろうという気がする。特にわが国ではそういう迷信が一般に浸み込んでいて、熱式はあまり問題にされていないようである。もっとも莫大な熱量が要ることは本当であるが、B29一千機の編隊というものが、もはや天文学的数字では無くなっている今日、熱式も頭から問題外にすることもないであろう。
 ハウトン等の研究の前年、即ち一九三六年の四月、英国のリーズ大学で世界各国の学者が集まって、霧や煙についての研究討論会を開いた。ファラデー学会の主催である。霧の人工消散については英国のブラント教授が講演し、熱式と化学的方法との外に、電気的と機械的との方法を挙げている。ブラントの計算では、風速一メートルの時幅五十メートル長さ六百メートルの滑走路上の霧を十分間消すのに、石炭ガスを燃すとすると、ガス代三十五ポンド程度の量が要るということになっている。この計算には不備な点が沢山あるが、熱式も必ずしも天文学的数字の勢力エネルギーを要するとは限らないというのは本当らしい。事実アメリカで五十ガロン入りの石油ドラム罐二本を滑走路上にあけ、それに火をつけて燃したら、霧の中に大きい孔があいて、その中を飛行機が無事着陸したという報告もある。
 機械的方法というのは、大気をかきまぜる方法である。霧のある時はいつでも上空が暖かく、地表の気温が低くなっている。それが霧の出来る一つの条件なのである。それで地表から数百メートル程度の高さまでの大気をかきまぜれば、霧は消えるはずである。この方法は大変な勢力エネルギーが要るので一寸見込がない。また験してみた人もない。
 それよりも電気的方法の方が一寸面白いようである。それは帯電した砂を飛行機から撒いて、霧粒を凝縮させて雨として降らせてしまう方法である。アメリカで実際にやってみたら成績が非常に良かったというが、ドイツでの実験では雲が出来てしまって、かえって悪かったという結果が出ている。その時の気象状態によることで、勿論そういう矛盾した結果が出ても良いのである。この方は考えは一寸面白いが、ちゃんとした研究をもっと充分にやってからでないと、急には実用に間に合いそうもない
 霧の人工消散については、この程度の研究が今までになされているので、チャーチルの決心は全く無鉄砲のことを言っているのではなかった。ところで急遽実用化をするとなると、誰が考えても、結局熱式を採用するより外に方法はない。フンカイン等もそういうふうに考えたのであろう。そして霧の時期まで待てないとなると、人工的に霧を作って、それで実験をしなければならない。天然の霧も結局水蒸気の多い大気が冷えて出来るものであるから、人工的にも大規模な冷却装置があれば、霧を作ることは簡単である。そこで選ばれたのが、アールス・コートのスケート・リンクである。
 人造霧が得られれば、実験はどんどん出来るはずである。それに熱式と腹を決めてしまえば、あとは大量の熱気を得る装置さえ作ればよいことになる。そういう装置は熱機関の方面で充分研究され、既に実用に供されているものが沢山ある。国家の研究としてやればわけなく出来るべき性質の研究である。事実、スケート・リンクでの予備実験は極めて短時日で終了したらしく、石油を完全燃焼させて、その過熱排気を直接大気中に放出する方法を用いることになったらしい。その方法は記載してないが、昨年の十二月、この記者がイースト・アングリアの飛行場でFIDOの作動状態を見せられた時の記事から推察することが出来る。「濃霧季節に始まったアルデンヌ地方のルントシュテット攻勢を阻止すべき命を受けた多数の重爆機がまさに飛行場に着陸するところであった」「突然滑走路に沿いメラメラと火焔が衝立のように立昇った。数分後に黒煙が霽れ始めた。同時に霧もまた霽れ始めた」という。これは石油を霧吹きで吹き出して点火する時の記述とみることが出来よう。
 こういう記事がなくても、今の目的には、即ち大量の熱気を送り出し、その全体の熱量さえ多ければよいという場合には、石油を完然燃焼させて、その熱排気に空気を混じて送り出すというのが一番悧巧な方法である。
 多分そういう方針の下に、すぐハンプシャー州の飛行場に中規模の装置を作ったのである。そして天然霧についての第一回の成功が得られたのは、十一月四日のことであって、チャーチルの声明後二カ月も経たないうちである。
「いやに寒い或る冬の真夜中、閣僚、気象学者、科学者、陸軍並びに空軍の将兵達は、温かい床から呼び起され、冷たい霧をもとめて飛行場へ急行した」「この日の払暁、石油による焼払装置で、約二百平方ヤード高さ八十フィートの地域にあったハンプシャーの視界五十ヤードの濃霧が消散したのだ」と英紙は報じている。大臣が真夜中に叩き起されて、霧の人工消散実験に立会うというのは、われわれには一寸想像できないが、熱心といえば随分熱心なものである。
 この中規模実験がすんで、まだ霧の焼払装置が最後の完成をみないうちに、先導機飛行場に大掛りの実戦用施設をそなえることに極まり、すぐ工事に着手したようである。問題は石油燃焼装置を飛行場にどう配置するかにある。ヒース・ロウの新飛行場にある「世界最大最新の」FIDOは「一言に言えばそれは着陸場に置かれた中がうつろな火焔の巨大な箱」で「石油を入れた管が滑走路周辺に長方形に置かれ」「管には短い間隔を置いて小さな穴が一面にあり、その穴からスイッチで急速に開閉できる石油の蒸気が圧力によって押出される」「かくて生じた凄じい熱気が霧の構成分子たる水の小粒を蒸発せしめる」のであるという。
 この記事では何のことかよくわからないが、多分次のような設備になっているのであろう。滑走路の周囲に溝を掘って、その中に鉄の樋を埋める。それが「火焔の巨大な箱」である。その中に石油を送る配管があり、短い間隔を置いて噴出孔が並んでいる。そこから圧搾空気を用いて霧吹きのように石油を微滴として吹き出す。それにスパークか何かで一せいに点火する。そうすると石油が蒸気化して完全燃焼をする。その熱気が空気と混じて鉄の樋から大気中に立ち昇る。樋の上蓋は多分丈夫な鉄格子にでもなっているのであろう。この熱気が外の冷たい霧のある大気と混じて、気温が或る程度まで上昇すると霧は消えるはずである。暖められた空気は対流で上昇するので、しばらく続けていると漸次上空の霧まで霽れるわけである。
 この方法ならば、輻射霧でも移流霧でも皆消えるはずである。輻射霧、即ち地表面が輻射で冷えたために出来た霧ならば、これは殆んど無風の時に生ずるので、しばらく石油を燃焼して一度霧を消してしまえば、後は相当の時間ずっと霽れてしまう。移流霧だと、付近の冷たい海上などで出来た霧が流れて来るので、大抵三メートルや四メートルの風が吹いている。この方は一度消しても後から後からと霧が流れて来るので、使用時間中ずっと石油を燃し続ける必要がある。滑走路は大抵はその土地の主風の方向に設置されているので、風上の方で必要量の熱気を放出し続けていれば良いわけである。
 ところで石油の使用量が問題である。英国でこのFIDOを設置した普通の飛行場では、一時間に七千ガロンの石油を燃したそうである。一時間七千ガロンというのは、少し量が多すぎるようである。もう少し巧くやればそれよりもずっと少なくて済むようにも思われるが、英国の石油の消費を心配する必要は無い。実験と実地使用との二年半の間に、三千万ガロンの石油を消費したというから、随分思い切って使ったものである。もっともこれで一カ月でも戦争が早くすめば安いもので、B29一千機でサイパンから東京へ数回往復すれば、すぐに三千万ガロンくらいの燃料は使ってしまうという話である。
 一九四二年の十一月四日に、天然霧についての中規模試験が成功すると直ちに、実戦用飛行場に本施設を作り始めた。そしてその翌年の六月十七日にはもう空軍中将のベネットが、視界百ないし二百ヤードの濃霧中を、FIDOによって霧の全く消散した滑走路上に四回着陸してその実用化の成功を報じている。
 FIDOはその後も改良されて、その年の秋の濃霧季節までに施設が完成した。燃料相のロイドはチャーチル宛に次のような報告を送った。
「一九四三年十一月十九日ハリファックス四機がルールに作戦後首尾よく着陸し、はじめてFIDOが実戦に使用された記録が樹立した」
 チャーチルはこの報告をテヘランで受取ったのである。
「以来もはや濃霧のために作戦を中止するなどの必要は解消した。ベルリンはモスキートー機隊によって夜な夜な爆撃され、まさに非常の秋であった」と英紙は結んでいる。事実、その後の一年半の間に、米英側の二千五百機以上が、一万以上の搭乗員とともに、安全に濃霧中に離着陸して、作戦を遂行したそうである。

 この話は少し英国の科学の成功を書き立てたような形になってしまった。しかし科学の有難味は、英国でも何処でも成功したものは、必ずわが国でも成功する点にある。
 この話の重点は、科学は不可能を可能にするものではなく、可能を可能ならしめるものであるという点にある。
 霧が小水滴の集まりである以上、大気を暖めてやれば蒸発して消えてしまうのが当然である。一時間に七千ガロンも石油を燃せば、滑走路上の大気くらいは充分暖まることももちろん当然である。英国で霧を消したのは、わかり切った方法によって、当然のことを当然に行なっただけのことにすぎない。しかしこの可能を可能ならしめることは、必ずしも容易な業ではない。
 そのためには第一に為政者が科学の本質をよく心得ている必要がある。為政者には権力が伴い易い。そして権力と科学とはその本性上両立し得ないものである。それが両立する場合はむしろ例外と言っていい。それでこの第一の条件が既に非常に困難な条件である。科学の本質を知るというのは、科学は魔術でないことを心得ることである。「そんなに沢山の石油を使えば、霧が消えるのは当り前だ。それならば何も学者に頼むことはない」という種類の言葉が、こういう場合にとかく出易いのである。
 資材も使わず、労力もあまりかけないで、何かあっというような物を作ってもらいたいという希望が案外瀰漫びまんしているようである。何か呪文じゅもんを唱えるか、「ひじりの石」みたような薬をちょっぴり使って、霧がからりと霽れるような方法を科学者に求めてはいけない。そういうことが有り得ないというのが科学なのである。
 第二に英国のこの例の中で注目すべきことは、チャーチルが自国の科学者を深く信用している点である。フンカイン等が採用したこの滑走路の周辺を加熱して霧を霽らすという方法は、現代の科学の知識では、最良の方法であると思われる。霧の本態については、実はまだわからない神秘な疑問が少し残っている。その謎が全部解ければ、何かもっと巧い方法が出て来るかもしれない。しかしそれは五年や十年の問題ではない。急遽実用化をはかるとすれば、この滑走路加熱案が最も実現性の多いものである。ただこの方法の難点は、燃料を沢山使うことと、施設に莫大な資材を要することである。重爆用の滑走路にこの施設をするとなると、下手をすると駆逐艦一隻くらいの鉄を必要とするかもしれない。それだけの施設を苛烈なる戦争の最中にいよいよ本当にするとなると、よほど学者を信用していないと、踏み切りがつきにくいものである。外国に例のないことを初めて大規模にやることは、実際にはなかなか難しいことである。
 ドイツの潜水艦に沈められる船のことや海戦で沈む船のことを思えば、駆逐艦一隻くらいは廉いものであるが、さて実行となるとそれが難しいのである。
 英国における霧消散の成功は、為政者が科学の本質をよく理解し、自国の科学者を深く信用した点にその基礎があったものと私には思われる。
(昭和二十年七月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「春艸雑記」生活社
   1947(昭和22)年1月30日発行
初出:「思想」
   1945(昭和20)年10月
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2020年12月29日作成
2021年1月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード