心霊現象と科学

――『心の領域』について――

中谷宇吉郎




心霊は信じ得られるか


 リーダーズダイジェスト誌の五月号に、『心の領域』というかなり長文の記事がある。デューク大学の「超心理学」実験室長ライン博士の著書の紹介である。
 超心理学というのは、従来の心理学の範囲を超越した心理現象を研究する学問という意味であろう。たとえば読心術とか、透視(千里眼)とか、予見とかいう種類の精神作用を研究する学問なのである。
 従来の心理学はもちろん科学の一分野であり、少なくも広い意味での科学の中に含まれている。この超心理学に類似の「学問」は、以前からもあったので、何も珍しいことではない。いわゆる心霊現象の話は、日本でも外国でも昔からあり、み子とか、口寄せとか、妖術師とかいうふうな話は、人類につきものであった。
 もっともこれらは如何なる意味でも学問という形にはなっていなかった。ところが十九世紀の末頃から、心霊現象の研究が、一種の学問の形をとり出した。各国にいろいろな団体などが出来て、こういう現象に特に興味を有する人たちの間では、かなり活溌な運動が展開されてきた。そういう傾向は、日本よりもむしろ科学の発達した欧米諸国の間に強く見られた。英国の有名な物理学者のオリバー・ロッジ卿が、晩年に熱心な心霊研究者となった話はあまりにも有名である。
 日本のこの種の話は、明治時代の有名な千里眼にしても、近年或る術師が東京の真ん中で何処とかの山から宝剣を飛来させようとした事件にしても、まことに他愛のない子供だましの話であった。しかし欧米の心霊研究者たちの研究の中には、かなり真面目なものがあり、方法も科学的と言い得る方法がとり入れられて来た。そして読心術、或いは精神感応テレパシー現象くらいまでのところは、科学者の中にも承認する人もあるようであった。
 ところでライン博士の今度の著書にある研究は、従来一部の心霊同好者の間に行われていた不完全な実験を大学の実験室で、数学者と協同して、「科学的」に完全な形で大規模に行なったという点に特徴がある。
 実験は、読心術即ち精神感応と、透視即ち千里眼と、予見と、精神動力との四種類に分けることが出来る。そしてそれらが全部肯定的な結果となったというのである。以下ダイジェスト誌の記事によって、その簡単な説明をしておこう。

読心術の実験


 一人の人が或る物体または絵を考えている時、他の人が別室またはもっと遠く離れたところにいて、その物体または絵を言いあてる実験である。この実験はオリバー・ロッジ卿時代からいろいろなところでくり返し行われて来たもので、「科学的に研究された最初の心霊現象」ということになっている。
 ライン博士によると、この実験は一九二〇年代に、二つの著名な大学の実験室で行われ、その他にも個人研究者の探究はおびただしいものがあるそうである。そして「およそ調査研究なるものの標準に照らして判断すると、これら実験の結果は、読心作用を相当よく立証するものであった。」そしてこの証明は「すべての科学を支配していた物質主義的思想傾向に対して最も重大な挑戦をなすものであった」という。もっともこれだけの説明では、批判のしようがないが、此処で注意しておく必要のあることは、この証明は、統計的な意味での証明であると思われることである。というのは、もちろん百発百中というのではない、統計学で計算した偶然の暗合よりも適中率が多いという意味と思われる。「およそ調査研究なるものの標準に照らして」というのは、そういう意味であろう。

透視の実験


 ライン博士或いはこの記事の筆者が強調するのは、この実験である。この記事の中にも引用されているが、夢の中で自分の弟が自殺する光景を見た或る女が、夫にせがんでその弟の住んでいる町へ自動車でかけつけてみたら、果してその光景のままの姿で弟が自殺していたという。この種類の話は、昔からいくらもある話で、科学者としては、「そうですか」と聞き流しておくより他に方法はない。
 ライン博士ももちろんそんな話を強調しているわけではない。問題はデューク大学およびコロラド大学その他で行なった一連の透視実験の結果である。その方法は、各種の簡単な図形を五種類選び、それを一つずつ描いたカードを五枚作る。図形は、円、四角、星形、十字、波状線の五種類である。そういうカードを五とおり作って、合計二十五枚を一組の透視(実験用標準)カードとする。即ち一組の透視カードは、円、四角など五種類のものが、それぞれ五枚ずつあることになる。
 実験はその二十五枚のカードをよく切って、一枚ずつ順々に全部言い当てさせるのである。「偶然だけならば、数学的に割り出された平均適中率は、二十五枚につき五枚である。そこで被実験者がこの一組を四回やり、適中率平均一回につき七・五点をあげたとすると、この三十枚適中という総点数は、百五十対一の割合でなければ偶然には出て来ないものだと言うことが出来る。」こういう方法で沢山の人について多数の実験を行い、その点数をつけた。デューク大学の実験では、一番成績のよかった人は、七百回の実験で平均八枚適中という成績をあげた。
 一番大がかりの実験は、コロラド大学で、三年にわたり、若い心理学者と数学者、ともに女性ミスの人であるが、その二人によって行われた。その実験をうけたうち成績のよい人たちは、五千五百回以上の実験で、適中一回平均六・八五点をあげ、一万二千回の全実験の平均は適中五・八三点であった。「こういう点数を偶然だけであげるいう可能性は、天文学的な数字になるであろう。」
 この透視の実験は、カードと被実験者との距離をいろいろにかえても行われた。初めはテーブルをへだてて坐り、次には百ヤードはなれて行うというふうな実験がされた。また二百五十マイルはなれた土地でも行われた。それ等の実験は、「距離そのものは超感覚的知覚には何の影響も及ぼさない」即ち「心の力は空間の限界によって制限されない」という結果になった。

予見の実験


 人間が未来を予知できるか否かという実験を行なった。この実験と次の精神動力の研究とが、このライン博士の著書の中でも、特に新しい研究である。
 一九三三年に、デューク大学で初めてこの実験が行われた。方法は一組の透視カードの順序が、ばらばらにきり交ぜた後でどういう順序になるかを予言するというのである。「四千五百回以上試みて適中した予言の数は、単なるチャンスに対しては四十万対一というところまで来た。」しかし手でカードをきり交ぜることは面白くないので、さらに機械できり交ぜる実験が行われた。それ等の「四つの実験は何れも重要な結果をもたらした」そうである。

精神動力の実験


 前の実験で、カードを機械できり交ぜてもなお予知が出来るとすると、被実験者なり実験者なりの心が、機械そのものに直接影響を与えているかもしれないということが考えられる。それでこの全く新しい精神動力の研究が始められることになった。
 骸子さいころをふる場合に、自分の出したい目を念じてふると、その目が出るという一種の信仰は、日本でも昔からあったが、アメリカでも同様なことが考えられているらしい。それでライン博士は、骸子を用いてこの実験を行なった。
 代表的な実験は、二つの骸子をふって、その目の合計が七になるように念ずることにした。六と一、五と二、四と三との三組が合格である。十二回ふるごとに成功した数をかぞえ、それを何回もくり返し、偶然の成功率と比較してみるのである。骸子のふり方が問題であって、初めは手でふったが、後には筒からふったり、完全に機械だけでふる方法も考案された。
 実験の結果は、「偶然以上の数字を示す傾向にあった」くらいで、前の透視カードの実験のような高い数字は得られなかったらしい。しかし他方において、透視カード実験の場合よりは多くの人々が、骸子には相当成功するようであった。そして「何十万回となく実験をやった結果、われわれは精神が物質の上に働き得る力を持つことは事実であることを発見した。」
 いろいろ大きさのちがう骸子も試みられた。また距離の影響もしらべてみた。「デューク大学で行なった実験の一つでは、実験台になる人と骸子を二十五フィート離してみた。実験を受けた者が一つの装置に取りつけた紐を引張ると、骸子は引力によって落ちる仕組みになっていた。それでも結果はやはり変らなかった。」
 この精神動力の実験は、まだ不充分なところもあるが、ライン博士は、この骸子の運動を左右するものは、物質的な作用としての脳髄ではなく、実に非物質的な力としての心であると確信している。
 この骸子の実験にしても、前の透視の実験にしても、被実験者の精神状態によって成績が左右されることはもちろんである。実験室にオブザーバーがはいって来ると、その妨害の効果が一目瞭然に出てきて、成績はずっと落ちる。「被実験者に、彼がうとうととなるだけで完全には眠ってしまわない程度の睡眠剤をのませた。すると彼は透視カード実験で偶然以上の点数をあげる能力を殆んど失ってしまった。この麻酔剤の効果を消すため強い興奮剤カフェインをあてがうと、その人の点数は再び彼のいつもの平均率にはっきりと上ってきた。」その他精神力を集中させるために冗談に賭けをしかけたり、子供には懸賞の御褒美を約束したりして、異常な好成績をあげた例が、断片的に沢山あげられている。精神作用である以上は、そういうことが当然あるべきなのである。

心霊現象と科学者


 ライン博士は、過去十二年に亙って、この方面の研究をつづけて来たそうである。また同様な研究は、アメリカおよびヨーロッパ各大学の研究室でも進められている。「近年ではオックスフォード及びケンブリッジを始め、いくつかの主だった英国の大学が、これら超感覚的知覚を取り扱った論文に博士号を授けている。」
 アメリカ数学統計研究会の或る年次大会では、「ライン博士の調査中、その統計的分析は根本的に正しい。もし攻撃されるとすれば、それは数学的根拠以外の根拠に基づくものでなければならぬ」という公表があった。
 またケンブリッジ大学の心理学者ザウレス教授は「この現象の現実性は、およそ科学的調査によって立証し得る最大程度の確実さをもって立証されたものと見なさねばならぬ」と声明している。
 それで問題は、これほど確立された証拠を、現代の科学が、何故とり入れないかという点に帰する。ライン博士は「これら研究の結果発見されたことを、科学は一般に受け入れているか? 多くの科学者は個人としては受け入れているが、科学者としては受け入れていない。しかし私は、結局受け入れられることは必定だと信ずる。何故ならばそれ以外に途はないからである」と強調している。
 事実これ等の現象が、この研究者たちの信ずるとおりにその実在性が確認されたのならば、それは学問上の大問題である。科学者もそれに無関心でいるわけにはゆかない。それだのに現実には、科学者たちは、全然こういう問題にはたずさわらない。その理由として、ライン博士は、次の二点をあげている。科学者たちは、それ等の結果を自然の電子説に合致せしめることが出来ようとの誤った想定の下にとりあげる。ところが実験の結果は物理原則の世界の外に科学者をつれ出す。それで「あたかも指にやけどをした時のようにあわてて問題をすべて投げ出してしまう。」今一つ深刻な理由は、科学者が職業上の地位を失うという危懼である。「自分の家族は食べて行かねばならないから」「自分の学校が反対するだろうから」というのが、その理由である。
 私は此処で、この『心の領域』の問題を批判することは出来ない。
 その理由は、原著を見ていないので、このリーダーズダイジェストの紹介の記事だけでは、批判するだけの材料が揃っていないからである。
 しかしこういう問題に対して、科学がどういう態度であるべきかということだけは言える。もっとも以下の説明は、リーダーズダイジェストの記事を基礎としての話であって、その記事が原著の意を十分に伝えていない場合は、話は別である。その点はお断りしておく。
 いわゆる心霊現象については、科学は無関心でいてちっとも差支えない。それは完全に場ちがいの問題であるからである。特にいわゆる心霊術師の場合に、そういう問題を一々とり合っていては、科学者は身体がいくつあっても足りない。ただ明治時代の千里眼事件のように、社会的弊害が著しくなった時には、社会人の一人として立ち会う義務があるだけである。

心霊学はいまだ将来の問題


 ところで今度の『心の領域』の場合は、それとは少し話がちがっている。それは学問として登場して来た。少なくとも登場を申し込んで来たからである。それで科学も当然それと協議をする必要がある。協議というのは、取り入れるという意味ではない。科学がこういう問題を何故取り入れないかを論ずる前に、取り入れるべき性質のものか否かを吟味してみる必要がある。
『心の領域』でとり上げた四つの問題、精神感応、透視、予見、精神動力のうち、初めの三つと、最後の一つとは性質が根本的に異なっていることにまず注意する必要がある。というのは、初めの三つは、純粋に精神作用だけのもので、現代の物質科学で取り扱っている範囲外の問題である。それでそういう現象の実在性がもし確立されても、現代の科学には少なくも物質科学には、何の影響もない。精神作用のうちの超感覚的のものを、科学者は電子や原子で説明しようとは思っていないからである。
 ただもしそういう超感覚的現象の研究に、現代の科学の研究方法を導入したいという希望があれば、それに助言を与えることは出来る。たとえば、この記事にある「透視」の実験は、科学の言葉での透視ではないことに注意をうながす必要がある。レントゲン線で透視するような意味での透視の実験にはなっていない。カードの絵を五種類覚えさせておいて、そのどれであるかを言い当てさせるのであるから、これはカードの物質を透して視るのではなく、頭の中にある五種類の図形のイメージを視るのである。
 それでこれは透視の実験ではない。ただその一つを選択した時に、それが現実のカードと一致したら、それは物質と精神との感応を示すことにはなる。そういう作用があることがもし確認されたら、それは興味のあることで、そういう現象をとり扱う別の学問が出来るであろうが、それは現代の科学とは別のものである。
 もしその学問で、現代の科学と同じ方法を使いたければ、例えば透視の実験ならば、棒を何本か密閉した箱の中に入れ、その箱を振って、棒がどういう形に組み合わされているかを当てさせるような方法が考えられる。実験者も知らない形であるから、箱を透して視る以外に道が無いわけである。そういう実験が成功すれば、それは透視の実験になるであろう。
 実験者と被実験者との精神感応ならば、どういう意識しない表情の伝達とか、癖のつながりとか、記憶の連絡とかいうようなものがあるかもしれないから、それは科学者が立ち入るところまで、まだ問題が形を成していない。
『心の領域』の実験の中で、一番問題になるのは、精神動力の実験である。骸子のころがり方を支配する力は、現在までの科学では機械的メカニカルの力ということになっている。それに精神力が作用するとしたら、それは現代科学の基礎をゆるがす大問題である。科学とは別の新しい学問が出来るというような話ではない。しかしこの実験結果の批判は、「何十万回となく実験をやった結果として、われわれは精神が物質の上に働き得る力を持つことは事実であることを発見した」というだけの記事では、どうにも手のつけようがない。
 骸子の実験にしても、前の透視カードの実験にしても、科学者の眼からみると、わざわざ問題を複雑にしている傾向があるように思われる。
 例えば二つの骸子の目の合計が七になるような実験を、何万回くり返しても、なかなか確定的な議論は得られない。骸子を手でふる場合は、もちろん人間の癖がはいってくるが、機械でふっても機械の癖がはいってくることは同じことである。
 それでもしはっきりした結果が欲しかったら、一つの骸子を一を出したいと念じながら機械で何千回とふってその目の出た回数を記録し、次に三を出したいと念じながら、その同じ機械で同回数だけふってみるというふうにして研究するのが、一番早道である。そういう実験だったら、恐らく結果は出ないだろうと思われる。もしそれが出たら、初めて科学者も、この問題に手をつける義務があるであろう。
 心霊現象の研究に、従来の科学が無関心であったのは、何も悪意があったわけではない。科学との交渉が今まで不必要だったからである。科学は存在するものを研究する学問で、何が存在しないかには、触れない学問である。
『心の領域』の研究は、非常に大部なものであり、研究者たちも立派な学者である。それで千里眼や山伏と同一視する非礼を犯すものではないが、現在のところでは、まだ科学がそれに直接たずさわる必要はあるまい。そこまでまだその形がととのっていないような気がする。
(昭和二十三年七月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥
   1950(昭和25)年3月30日初版発行
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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