寺田寅彦の追想

中谷宇吉郎




 寺田寅彦という名前を、初めて知ったのは、たしか高等学校二年の頃であったように思う。
 あの時代は、大正の中頃といえば、わが国の社会運動の勃興時代であった。河上博士の『貧乏物語』が、高等学校の学生たちの間に熱心に読まれていた。『中央公論』や『改造』の外に、新しく『解放』という雑誌も出て、それ等がいずれも、その方面の論文で雑誌の大半をうずめ、こぞって社会運動の烽火をあげていた時代であった。
 しかしそれ等の論文は、いずれも非常に難解な言葉を使い、文章もまた難渋をきわめたものが多かった。それに何か熱病的な気配が、どの雑誌にも漲っていて、読後感は内容の如何とは別問題に、私などには極めて後味の悪いものが多かった。そういう時に先生の『丸善と三越』や『自画像』が中央公論に中間記事として現われたのであった。それは驚きであったばかりでなく、少なくも私にとっては、何か救いに似たような感じを与えてくれた。汗のにじんだ熱っぽい肌に埃がこびりつく、そういう時に一杯清冽な水をのんだような気持がした。その時の印象は今でも思い出すことが出来る。これ等の随筆は変名で書かれたものであるが、実は寺田寅彦という物理学者の筆によるものであることを間もなく知った。しかしその名前は当時の私には縁の遠い話であった。後年その先生の助手として、実験のお手伝いをするような巡り合わせになろうなどとは、勿論夢にも思わなかった。
『丸善と三越』を手始めに、先生の随筆が次ぎ次ぎと中央公論に出始めたのは、大正九年のことである。後で知ったことであるが、その前年の暮に、先生は大学の研究室の中で突然吐血された。三年越しの胃潰瘍が遂に破局に近い状態にまで来たのであった。直ちに大学病院に入院し、真鍋氏の診療を受けて、危機は脱しられたのであるが、その後の二カ年は、自宅で療養生活を送られた。その静養の間にあって、藪柑子時代以後一時中絶していた先生の創作意欲が、急にはけ口をもった清水のように、渾々こんこんとして流れ出したのであった。
 初めはいろいろな筆名を使われたが、そのうちに吉村冬彦ということに落着いて、私たちの頭の中に、いつの間にか冬彦先生というはっきりしたイメージが出来るようになった。その頃の高等学校の学生たちの間には、特に哲学熱が高かった。澎湃として起って来た思想問題の嵐の一つの現われであったのであろう。大正十年の暮に岩波の『思想』が初めて出て、その創刊号が私たちの手に入った時の感激は、いかにも若々しいものであった。そしてその第二号に先生の傑作の一つである『鼠と猫』が載っていた。
 丁度その頃、改造がアインシュタインの相対性原理を、ジャーナリズムの題目として採り上げ、それが時流に投じて、相対性原理が流行し始めた。少数の物理学者にしか理解出来ずまた知る必要もないような理論物理学の第一線を行く理論が、銀座や新宿はもちろん、地方の都市の隅々にまで流行したというのは、嘘のような本当の話である。そういう風潮にも少しは動かされたのかもしれないが、その翌年の春、高等学校を出ると、大学の物理学科を志望した。
 寺田先生は、この大正十一年の春から、時々学校へ出て来られた。そして気象学の講義と、気象演習とを担当されたのであるが、まだ身体の方が充分でなかったので、ほんの講義や演習の時間だけしか学校へ出て来られなかったらしい。それで新しく入学してまだ大学の勝手もわからぬ私たちは、殆んど先生の姿をみることもなかった。
 先生の姿をぼつぼつ大学構内で見受けるようになったのは、その翌年、私たちが二年生になった頃からである。春も半ばをすぎて、世の中の人たちが皆軽装になった頃でも、先生は裾長いオーバーを着て、瓢然として構内を歩いて行かれた。よくボタンをかけないで、オーバーの裾をひらひらと風に靡かせておられた。辰野さんだったかの「群衆の中のベルグソン」という評がよく当るような姿であった。この年の初めには、既に『冬彦集』が出版され、引きつづいて『藪柑子集』が出ていたので、大学で時折り見受ける先生の姿は、一部の学生の注目をひいていた。
 二年生になって、初めて先生の実験指導を受けた。題目はセキスタントの目盛の検定という極めて地味なものであった。物理本館の地下室のがらんとした暗い部屋の中に、セキスタントが一つ置いてあって、その円板を順次廻しながら、目盛を次ぎ次ぎと検定して行くという実験であった。暗室の中なので、手持の小さい電球で照らしながら、ヴァーニアの目盛を読むのである。先生は測定ということについて、いろいろな注意をされ、最後に電燈を右にやったり、左にやったりしながら「金属板に刻みつけた線の場合には、照明の方向によって、こんなに読みがちがうのだから」というような細かい注意までされた。その時は随分つまらない実験だくらいに思っていたが、後になって考えてみると、測定ということについて自分の意見らしいものを持ち得るようになったのは、この底冷えのする石造の地下室で、二カ月間こういう実験をしたお蔭が大分あるように思われる。
 二年生の実験は、一月か二月で一題目を終え、次の先生の実験へ廻されることになっていた。それで寺田先生の指導を受ける実験は、これでおしまいになったわけである。先生の気象学の講義や演習は、三年生がきくことになっていたので、本来ならばこれで当分先生とは縁が切れたわけである。ところが、この年の暮にニュートン祭の幹事をつとめたことが機縁になって、曙町の先生のお宅へ時々遊びに行くことになった。その機縁というのは、『先生を囲る話』に書いたような話なのである。この年即ち大正十二年には、九月一日にあの関東大地震があり、震災に伴った大火で、私の家は全焼した。そしてようやくにして持ち逃げた風呂敷包み一つだけが、全財産として残された。参考書は勿論学校のノートまで殆んど全部焼いてしまった。一時は大学を中止するつもりになって、郷里へ帰っていたのであるが、二カ月ばかり休んでいるうちに、また気を取り直して東京へ戻って来た。大学も十一月に入ってようやく開かれ、一応は落着いた形になったのであるが、物心両方面の打撃によって、気持はなかなか落着かず、いろいろと迷い悩む日が多かった。そういう時に、先生と個人的な接触に恵まれたことは、私にとって非常に幸運な巡り合わせであった。当時の私には震災の外にも或る事情があって、時々どうにもならない切羽つまった気持に襲われることがあった。そういう時には曙町の応接間へ出かけてゆく。そして十二時過ぎまで、ディノソウルスの卵の話や、パブロワの踊りの話をきく。そうすると気持がすっかり新しくなって、物理学に対する熱情が蘇って来るような気がした。今から考えてみれば、先生には随分迷惑な話であった。この頃になって先生の日記の中で「夜中谷君来るまた十二時過ぎまで話してゆく」というような文字に出遭うと、しみじみと申し訳ないことをしたものだという気がする。
 この震災の後には、先生はまだ充分恢復し切らぬ身体で、あの大火災に伴った旋風の研究に、東京市内の焼跡を方々調査して歩かれた。それよりも関東大震災と寺田寅彦とが、私の頭の中で結びついているのは、大分後になって聞いた話であるが、あの時の先生の体験談である。丁度あの地震の時に、先生は二科展へ行っておられた。津田青楓さんと喫茶店で休んでいると、突然地震があった。「大分大きいので、すぐこれは大変だと思ったね。部屋の天井の隅のところが、柱がくっついたり離れたりするので、こういう木造建築では駄目だと思ったよ。やっとおさまって気が付いてみたら、誰も他のお客がいなくてね、皆機敏に逃げ出しているのさ。ボーイもいないので、やっと呼び返して金を払って帰ったが、あのボーイはきっと間抜けた爺いだと思っていただろうね」という話なのである。先生には生命の危惧よりも、家屋の振動状態の方がもっと関心事だったのである。地震に対する恐怖などというものは、感覚的なものであるが、先生の自然現象に対する興味は、感覚の域にまで達していたのであろう。
 震災で物理の本館は半壊の状態になった。その中の小さい実験室で、私より一年先輩の人が二人、妙な実験をしていた。細長いU字管に空気と水素とを混ぜて入れて、それに火をけて爆発させる実験である。もっとも爆発といっても点火限界に近い混合割合なので、燃焼と言うべきのものであった。そのうちの一人湯本君は、高等学校の先輩で、前から親しくしていたので、時々其処へ遊びがてら「見物」に出かけた。湯本君の話によると、これは寺田先生の研究の一部であって、卒業実験としてやっているのだということであった。先生はこの前年海軍から航空船の事故防止の研究を委託されていたので、その基礎資料を得るために、水素の不完全燃焼の模様を調べておられたのである。
 この時代は世界的にいっても、まだ飛行機が今日のように発達しようとは、夢にも思っていなかった時代で、航空船がかなり有望視されていた。それでその事故防止は、大切な問題なのであった。実験を見ると、細長い硝子のU字管一本の実験で、そういう大問題の研究とは、どうしても思えなかった。それでも如何にも面白そうな実験に思われた。そして結局それが機縁となって、三年の卒業実験には、この水素の燃焼を選ぶことになり、初めて完全に寺田先生の指導の下につくことになった。湯本君は卒業しても引きつづき大学に残って、この研究を続行することになり、私は自分の卒業実験としてその手伝いをすることに話がきまったのである。その間に『実験室の思い出』に書いたような話もあった。
 この三年生としての一年間の実験室の生活は、非常に面白かったばかりでなく、その後今日までの私の研究生活を規定するくらいの影響を残したものであった。夏休みになって、講義がなくなると、のびのびと解放された気持で、一日中実験室で暮した。真裸の上に白い実験着を着て、ビーカーで紅茶をわかして飲むのが楽しみであった。
 先生は三十度くらいの気温になると、急に元気が出て来て、毎日実験室へ顔を出された。そして紅茶を飲んで『寅彦夏話』をしては帰られた。昼の弁当は、私たちは出前の洋食弁当なるもので済ませていたが、先生は大抵大学の「御殿」へ行くか、外へ出かけられた。そのうちに八月中頃になって、出前も「御殿」も休業になったので、皆で病院の職員食堂へ行くことにした。此処だけは年中無休であった。私たちは二十五銭の定食をとることに決まっていたが、いくらその頃といっても、あまり結構なものではなかった。先生は「松」とか「梅」とかいう上等な方を注文されたが、その都度「僕はどうも胃がまだ変なので」と言いながら、きまり悪そうににやりとされた。或る時私達の定食に、小鯛の煮付がついたことがあった。その時先生が一寸覗き込むようにして「なかなか御馳走だね」と、にこにこされた。そういう極めて小さいことが、妙に印象に残っている。
 水素の燃焼の実験が大分面白くなり、あの光の弱い燃焼の伝播状態が、廻転フイルム上で写真に撮れるようになった。それはその年の秋の末頃であった。そこへ突然に『球皮事件』が起きた。この事件は、前に随筆に書いたのは、いわば表通りだけであって、その裏にはいろいろな問題があった。事の起りは、十一月の或る日、海軍のSSという軟式航空船が、霞浦の上空で爆破墜落して燃えてしまったことから始まる。原因は勿論不明、搭乗員は全部死んでしまった。海軍では早速査問会を開いて、その原因探究に当ることになり、海軍の技術者と大学の偉い先生方とを委員に任命した。先生もそのうちの一人に選ばれた。
 こういう委員会というものは、大抵の場合は、よろしくやって「不可抗力」ということにしてお茶を濁すのが礼儀なのである。それを先生は大真面目に引き受けて『球皮事件』に書いたような恐るべき洞察力を働かせて、無電の発信によるスパークに危険性があるという推論を下された。そしてそれを査問会の答申として提出されたのである。「海軍の連中が焼け落ちた航空船の機械やら、ロープやらを一所懸命に調べて、弁の紐があるとか無いとか言って騒いでいるが、そんなことで真の原因がわかるものではない。むしろ水素の点火は最小限度どれくらいまでのスパークで可能かを決めて、それからその限度のスパークが何によって起り得るかを決めなければならない」ということを話しておられた。そしてこの事件の解決は、その方法で為しとげられたのであった。最も迂遠と思われる道が、最も早道であったのである。
 ところが海軍側では、原因が電気的のところにあると決まると、責任者を出さねばならないし、殉職者の取扱いなどもひどく変って来るのだそうである。それでこの先生の答申は、大問題になった。勿論海軍側はこぞって反対意見であって、結局実際の航空船について、無電の発信を行って、スパークがとぶか否かの立合実験をするということになったのだそうである。
 この事件にはそういうわけで、初めから何となく雲行の激しい気配があった。そのうちに立合実験の少し前に『都』と『国民』との二つの新聞に、この査問会の内容が、三段抜きくらいで出るという奇怪な事件が起きた。そしてその中に「もし無電の波を送って航空船が爆発すればよし、しなければ寺田博士らの面目は丸潰れになるであろう」というような文句まで出ていた。兵器に関する極秘の内容が、こう詳しく新聞に出て、しかも何の問題にもならないのであるから、私達はかんかんに怒ってしまった。
 立合実験は十二月二十三日に、霞浦で行われ、先生は勿論参加された。先生の日記には次のように書かれている。
十二月二十三日、火、晴
 朝七時四十五分上野発で霞浦行、SS飛行船を場内に繋留し無線操作による吊索等の電流分布試験、前日来格納庫空気膨脹で行なった実験の繰返し、昼食後飛行船隊の食堂で査問会開始、海軍側の人は無線による危険はないという結論を出したらしいが、海軍流のやり方では肝腎の問題はちっとも解決されないから駄目である、この日は……
 この日記の内容は、その次の日、先生が実験室へ来られた時の話の方が、もっと面白いのである。
「昨日はまるで面目を丸潰しさ。馬鹿々々しくてお話にならぬ実験をしておいて、それで今頃は、学者なんて、いい加減なことばかり言っていると、盛んに吹聴しているだろうな」というふうに話し出された。
「あんな三十メートルも高い所に気球を吊して、下から水兵が角のような眼鏡で覗いて、アンメーター異状ありませんなどと言っているんだもの。僕達には硝子が光って、ちっとも見えないのに、水兵は平気で見ているんだから驚いたよ。『スパークはとびません』などと言っているんだが、一尺もあるスパークならとにかく、あんな日中三十メートルも上のスパークなど見えるものか。とにかく馬鹿馬鹿しい話さ。それでだ。こんな実験をしてもらいたいんだ。水素をゼットから噴き出して、どのくらいの小さいスパークで点火するかを調べてくれ給え」
 これが『球皮事件』の発端なのである。湯本君も私も血の気盛りの年頃である。「先生のかたきをとるんだ」と、その晩から毎日夜の十二時まで猛勉強を始めるという騒ぎになった。おまけに先生の霞浦行の日は大変寒い日であって、あの吹きさらしの飛行場の寒風の中で、長い時間立たされたのであるから、まだやっと恢復途上にあった先生の身体がもつはずがなかった。「どうも風邪をひいたようだ」と言っておられたが、次の日から三十九度いくらという熱が出たというので、しばらく学校を休まれた。「先生の仇をとる」というのが、ますます実感が出て来たわけである。事実この頃になって先生の日記を読み返してみると、発熱の当夜は「気球の布に Spark を出す実験のような問題が終始頭にコビリついて、同じ事を繰返し繰返し夜中考えていた」とあるくらいで、よほど深刻な印象を受けられたようであった。
 この大正十三年の年は、先生の健康がようやく取戻された年であって、五月には理化学研究所の主任研究員も引受けられ、地震研究所の設立にも重要な役割を果され、その後の多方面にわたる華々しい研究の基礎が出来た年であった。この年の日記の最後には「要するに今年は、数年来眠っていた活力が眼をさましたような気がする。いつも元気で気持が明るかった、学校の食堂でもいつも愉快に人と話が出来た、人の悪口などが気にならなくなった、そういう自覚が更にそういう傾向を強めた。……」と、先生自ら書いておられる。まことに千載一遇の好機に、先生との親しい接触を得るという幸運に遭ったわけである。
 航空船爆破の実験は、年明けて大正十四年の一月に入って、俄然活況を呈して来た。それは航空船の気嚢の材料たる球皮の見本が、海軍から届けられたからである。湯本君が海軍省へ出かけて行って、T大尉に会って球皮のことを頼んだら、海軍の一部の技術将校たちは、原因が無電ということになると自分たちの失策になるから、何とかして不可抗力にしてしまいたいとしているということであった。T大尉自身も非常に怪しからんことであると憤慨していた。それで球皮はいくらでもやるから、どんどん実験してもらいたいという話であった。湯本君と二人で「そんなことでは海軍の将来も先が見えている」などと、生意気なことを言って、大いに気勢を揚げることにした。もう二十五年も昔の話であるが、事実病根は遙か遠い所にあったのである。
 実験はすらすら進行して、球皮の上で小さいスパークが沢山出ること、その小さいスパークで充分水素のゼットに点火し得ることが確かめられ、一応の結末はついた。しかし本当のところは、SS航空船に使っていた本物の無電発信器で発信して、そのスパークで火を点けたいのである。先生も一月十三日に「海軍省へ手紙を出し球皮を届けて貰う事、SSの無線装置を借りる事」を依頼されたのであるが、その無電器がなかなか来ない。湯本君がしびれを切らして、その発信器の納入元である東京電機へ出かけて行った。技師長級のSさんに会って、詳しい話をして発信器を一台借りたいと頼んでみたが、断られてしまった。東京電機でその実験をやらしたことが知れると、あと機械を買ってもらえないことになると困るからといって、どうしても承知しなかったそうである。それでは球皮を持って来るから、一寸使わせてくれと言っても、それも駄目であった。嘘のような話であるが本当のことなのである。
 その発信器は、査問会の予定日、一月二十一日の前日に大学へ届けられたが、大事な部品が足りない。同時に速達が来て、明日の査問会は中止と言ってきた。査問会に間に合わせようというので、毎晩十二時まで連日大いに奮闘したつもりだったので、大いにがっかりした。先生も「僕は今夜の懇話会を欠席してこれを纒めるつもりにしていたんだが、がっかりしたね」と言いながら、とにかく報告を持って帰って行かれた。少し肝癪をおこして『国民』と『都』との「航空船爆破の実験」の記事を切抜いて朱点をつけて、実験室の壁に貼っておいた。先生は「これは額にして、スパークの写真と一緒にかざっておいた方がいいでしょう。君たちもなかなか人が悪いなあ。しかしこのお蔭で実験がはかどったわけだね」と笑っておられた。球皮の材料にしても、無電器にしても、本来ならば先方からどんどん運んで来て、早く実験をしろと催促されてしかるべきことなのである。それがまるで逆の形になっているのだから如何にも不思議である。意地悪く考えれば、先方でこっそり自分の手で実験するために、故意に引きのばしているのかもしれないと考えられる。この間二度ばかり海軍の技術者が実験を見に来ていたし、それにそういう風評もつたわって来たので、湯本君も私も大分気を悪くした。
 待ちに待った無電発信器の部品が届いたのは、二月六日のことであった。持って来た技師の人は、親切にいろいろと使用法を教えてくれた。早速やってみると、アンテナ電流で充分スパークが出る。もうアース電流だけ調べてみれば、それでこの研究も大団円であると、大いに勉強してみたが、肝腎のその方は駄目なようである。球皮を入れるとすぐ発信が止まってしまうので、スパークは勿論出ない。少々心細くなったところに、海軍省から、「SS航空船爆破の実験はいつ見せてくれますか」という二度目の電話が来る。「今夜は徹夜だぜ」と湯本君と二人で、大いに悲壮なつもりの決心をした。ところが夜になって、気がついたことは、ゴンドラに相当する電気容量がはいっていないということである。なあんだということになって、早速適当な容量を入れてやってみると、盛んにスパークが出る。そしてそのスパークでどんどん水素のゼットが点火する。「水素点火、万歳、二月九日」と、実験帳に書いて、意気揚々として帰って行った。幸先のよいことには、この日の朝、海軍某少将が実験を見に来て、研究の重要性を認めて、研究費年額一千円を出してくれることになったことを先生から聞いていたので、勇気百倍していたわけである。寺田先生ほどの学者が、これだけの騒ぎをして、やっと年額一千円の研究費を貰われたのである。これも嘘のような本当の話である。
 延期を重ねていた査問会は、二月二十一日に開かれた。田中館、田丸両先生を始め、少将、大佐級の偉い人たちが、十九人狭い実験室にぎちぎち詰めになる。いろいろな電源でスパークを出させ、最後に無電器のスパークで水素に火をつけてみせると、大いに効目があった。「これじゃとても怖くて飛行船には乗れないな」「士気に関する大問題だよ」と小声で話し合っているのが聞える。そのうちに壁の新聞の切抜が目に止まって「おい、これこれ」ということになる。先生は「どうもこんな狭い物置のような部屋で困ります」といい御機嫌であった。
 無電を打ちながら水素に点火してみせると、田中館先生が「もっとキャパシティをいろいろかえてやって見たらいいんだが」と言われる。「実は大学にはもうありませんので」というと「それじゃ仕方がないな、こんなもの海軍へ行けばいくらでもごろごろしてる」と、老先生は遠慮会釈なく、大きい声で言われる。先生はひとりでにやにやしておられた。
 最後の決定案を作る査問会は、三月四日に海軍省の第一会議室で開かれた。海軍から迎えの自動車が来たが、私はまだ学生であったので、遠慮して助手席に乗って行った。海軍省は初めてだったもので、円天井の高さと、ステンドグラスに一寸肝をつぶした。会議の席では、海軍の将官連が真ん中に坐り、向側に田中館、長岡、田丸、岡田、寺田というような先生方が並ばれ、手前の側に海軍の技術関係の委員たちが着席という物々しいものであった。先生は黒板の前に立って、小さい声でぼそぼそと説明をされ、最後に「この球皮は非常に複雑な電気的性質を持っているもので、一寸教科書に書いてあるようなことで説明出来るものではありません」と誰にもわからないような気焔を少しばかり揚げられた。
 それに対して、霞浦の立合実験以来の当事者たるF中佐が立って、無電器の性能の説明をいろいろしたが、あまり反響はなかったようで気の毒であった。それから一通ひととおり委員達の話があって、いよいよ査定書を作ることになった。その文案が黒板に書かれ、今までの導体主義を止めて絶縁体主義を採るということになった。そうしたら突然F中佐が発言を求めて立ち上がった。「SSのような精鋭な武器を、わずかそれくらいの机上の実験で放棄することは、海軍のため、国家のためにしのびない。実際に飛行船を飛ばせて、無電を打ってみて、誰か吊縄の先にぶら下がって、果してスパークが出るか出ぬか見てみましょう。そのためにもし飛行船が爆発しても、それくらいの犠牲は国家のためには止むを得ません。その吊縄にぶら下がるのは、私がぶら下がります。」最後の方は声ばかりでなく、身体もわなわなとふるえていた。一座はしんとなり、一陣の冷たい妖風が会議室を吹き抜けたような気がした。しばらくは誰も発言する人はなかった。そうしたら田丸先生が、いつもの真面目な顔付で「それもよいが、それで火花が出なかったと言って、安全だということは出来ますまい」と言われた。
 F中佐の発言は、当事者としてはもっともな発言で、事実そういう実験もしてみたいのである。しかし先生はこうなると意気地がなく、あとになってから「あの時は実際いやな気持になったね、何だか呪われているような気がして、ぞっとしたよ。もっともF中佐の言うことも本当なんだが」と述懐しておられた。
 最後に委員長からこの球皮を製造していたF電線会社の社長さんに、何か意見が無いかという質問があった。この社長は傍聴という資格で参列していたのである。頭のはげたその社長さんは「それはもう、この球皮は他のものとくらべものにならぬくらい、良いところがあるのですが、そんな怖いものでは、どうも致し方ありません」という話をした。何でも二十年もかかって、ようやく日本でこのアルミニウム・ドープの球皮が出来るようになったので、今止められては会社としては大損害で、惜しいのですがということであった。実際風雨に対する耐久力とか、太陽光線の反射率とかいう点では、アルミニウム・ドープは非常に優秀な性能があるので、何とかこの儘で電気的性質の改良が出来ればよいのであるが、当座のところは仕方がないのであった。実は英国でもこの事件の数年前に、同じような飛行船の爆発事件があり、その時の査問委員C・T・R・ウィルソンが、この球皮を廃止してしまったのであった。それは後になってケンブリッジでウィルソン先生に会った時にきいた話で、先生は「君の方でも調べたのだろう。あれはいかんよ」と笑っておられた。

『球皮事件』も無事片付いて、間もなく私は大学を卒業して、先生との前からの約束どおり、理化学研究所で先生の助手をつとめることになった。もっとも理研の先生の実験室というのは、まだ建てっ放しのままになっていて、ガスも水道も室内の実験用配線もしてないという部屋であった。制度の上では寺田研究室という新しい研究室が出来、長岡研究室、西川研究室、高嶺研究室その他の前からあった物理方面の研究室と並んでいたが、実際は人員からいっても、先生と私と、あと小学校を出たばかりの山本君という若い人と三人だけの小さい研究室であった。前からあった研究室は三号館という物理専門の建物にあったが、寺田研究室だけは、二号館という本部と工科方面の研究室とのある新しい大きいコンクリートの建物の中に割り込んでいた。部屋は二階に先生の居室があり、下に私と山本君とがいる実験室があっただけである。設備がまだ全然無いので、とても急に其処で実験を始めるというわけには行かないので、夏休までは、大学のもとの実験室で仕事をつづけ、その間にぼつぼつ器械を買い集めたり、実験室の装備をととのえたりすることになった。
 球皮の実験は、航空船爆破の原因探究としては、一応任務を果したわけであるが、その特異な電気的性質は、そういう問題をはなれて、純物理学の問題としても、非常に面白いものであった。というのは、このアルミニウム・ドープというのは、アルミの粉を塗料にまぜたもので、電気の良導体の粉末が絶縁物の中に沢山雑ったという特殊な材料である。そういう heterogeneous medium 中及びその表面に沿っての火花放電という問題は、従来の物理学では、比較的無視されていた部門なのである。それで先生は、この球皮の実験を、そういう観点の下で、さらに続けることにされ、私が大学の実験室で、専らその仕事に当ることになった。
 この研究は Some Experiment on Spark Discharge in Heterogeneous Media ― A Hint on the Mechanism of Lightning Discharge. という報告になって発表されている如く、意外な方面に発展して、電光の放電機構に関する一新説を提供することになった。その説には岡田先生などもかなり興味をもたれたらしく、その『気象学』の中に、詳しく紹介されている。そればかりでなく、よく考えてみると、普通の空気中の電気火花にも heterogeneous medium の考えが必要であることに気がついた。火花が少し長くなると、いろいろ屈曲した形を採り、またその精密な写真を撮ってみると、決して一本の光の紐ではなく、その内部に縄をなったような明暗のこまかい構造がある。そういう現象の説明には、空気に何らかの不均一性を賦与する必要がある。
 この電気火花の形および構造の問題は、十数年前から先生が少しばかり手をつけられた問題である。その後放棄された形になっていたのであるが、球皮の実験から、不均一媒質中の火花放電という観点に立って、再び採り上げられることになった。
 八月の夏休中、たびたび催促したのであるが、理研の実験室の装備はなかなか進捗しない。先生の日記に「八月十七日 月曜 朝中谷君と理研行、水道流シノ位置ヲキメル」とあるように、水道の取付けにまで先生自身を煩わす始末であった。到頭九月十三日の日曜に「理研ではまだ配電も出来ず、机戸棚も未成、水道だけ今日完全」という状態で、無理に実験装置の移転をしてしまった。そして電気火花の研究をかなり大規模に此処で始めることになった。
 この頃は、先生は数年前から航空研究所の所員として、毎週金曜日に航空の方へ行くことになっていたが、その他は、大学の方は実験室の見廻りと用事のある時だけ顔を出され、あとは大抵は理研の二階の部屋で、静かに勉強しておられた。「数年来眠っていた活力が眼をさまして来」て、先生の頭は異常な活動を開始しようとしていた。この年の発表論文五篇、翌大正十五年に七篇、次の昭和二年が十一篇、昭和三年が二十六篇というふうに、驚異的な進展をみせて行こうとする、その準備が、この頃もちろん先生にも意識されずに、着々と出来ていたのであった。
 外的条件も丁度そういう研究陣の展開に、豊かな支援をあたえる方向に向いてきた。この時代が来るまでの大学での二十年間の先生の研究生活は、あまり恵まれた状態にはなかった。『冬彦の語源』にも書いたように、先生は終始周囲に気兼ねばかりして、古ぼけた器械ばかり持ち出して「変な実験をやって途方もない理論をそれにくっつける」ような研究をしておられた。「今理研におられる先生方が大学で実験をしておられた頃は、電気なんかの新しい流行の実験をすると、すぐ蓄電池のパワーが足りなくなるし、器械を買ってもらうのも大変だったし、遠慮ばかりしているうちに、到頭物理の方まで、吉村冬彦になってしまった」のであった。しかしそれは先生の本当の希望ではなかった。事実先生が恩賜賞を受けられた研究「ラウエ映画の実験方法およびその説明に関する研究」は、その後ずっとこの方面の研究の基礎となっているブラッグの研究と殆んど同時に、むしろ少し先んじてなされた研究であった。その研究の如きも、医学部で使い古した廃品に近い状態のX線管球を貰って来て実験をされたのであった。
 大正十四年に理研の研究室が、とにかく仕事を始めるまでに整備されると引きつづいて、翌十五年の一月には、地震研究所が完成して、先生はそこでも所員として、研究室を持たれることになった。そしてその年の四月、新しい卒業生が出ると、その中から、坪井忠二君を地震研究所に、筒井俊正君を理研に、玉野光男君を航空研究所にと、それぞれ配置されて、此処で寺田教室の研究陣が一通り揃うことになった。大学ではその外に湯本君が海軍の嘱託として水素の燃焼の研究をつづけ、桃谷君が大学院学生として、霜柱の研究の準備実験たるリーゼガング現象の研究をしている。それから二年目の学生の実験にも、器械は使わないがちゃんとした研究題目を与えておられた。
 十五年二月の日記には、研究題目と担当者のリストがあり「これでもう手いっぱいになった」と記されている。
   ┌中谷  Spark
理研 ┤
   └筒井  Thermoelectricity
   ┌玉野  Fluid motion, Wind, Powder
航空 ┤
   └服部    〃     〃
   ┌坪井  Elastic waves
地震 ┤
   └(山口)Tide
海軍 {湯本  Hydrogen explosion
   ┌――― Fluid motion
物理 │
   ┤――― Fire
学生 │
   └――― Thermoelectricity
大学院{桃谷  Liesegang's phenomena
 この他に気象台諸氏の相談相手になる。
 この頃談話会がだんだん多くなった。月曜航空、火曜午後物理学生、夜物理卒業生、水曜地震、木曜夜理研、(ただし三月から)また火曜地震研究所の談話会が月一回この他に金曜夜弘田 violin, 木曜セロ(三月中旬から水曜にする)
 小宮、松根君と連句もやる……
 この先生の日記が何よりも明かに物語っているように、超人間的な先生の精神活動がいよいよ開始された。しかし当時のことを思い返してみると、先生はいつも瓢然とした姿で実験室に顔を出され、昼食にはきまって銀座へ出て行かれて、竹葉か三越かで食事をとり、あと※(「凪」の「止」に代えて「百」、第3水準1-14-57)月あたりでコーヒーをのんでゆっくりして帰って来られた。そして僕は三時間労働説なんだとにやにやしておられたものであった。本当の意味での精神労働を毎日三時間やって、それを年中続けるということは、如何に困難なことであり、そしてそれが如何に偉大な業績を生むかということを、先生は実例で示されたわけである。朝から晩まで忙しい忙しいと走り廻っている大学教授で、一日平均したら一日一時間も本当の勉強はしていない人が案外多いようである。
 こういうふうに、先生の精神活動が最高潮に達して来ると、大学で官吏としてのつとめ、特に同僚たちとの間の気づかいというものが、先生にはだんだん耐えられない負担となって来た。この二、三年のうちに、佐野先生が死なれ、長岡先生が停年で止められ、田丸先生も第一線を退かれ、大学は新しい陣容で再出発しなければならないことになった。しかしその新しい大学の雰囲気も、先生の趣味には合わなかったようであった。大学を止めたいということも、二、三度洩らされたことがあった。初めは冗談のつもりで聞いていたが、そのうちに「僕は今度いよいよ決心をして大学を止めるよ。ああいうところにいたら、僕は死んでしまう。大学の事情もあるだろうが、生命にはかえられないから」と真剣な顔付で言われたので、びっくりした。そしていろいろのいきさつの末、昭和二年の三月にようやく理学部の教授を辞して、地震研究所の教授となられた。初めは大学を完全に止められるつもりだったらしいが、それは大学にとっては大問題であって、理学部長から総長まで乗り出して、必死の引止め策を講じ、ようやく地震研究所の教授として残られることになった。
 昭和二年二月の日記に「昨年末から辞職を申し出してあったが教室の方では承認してくれ教授会まで持ち出されたが、総長が藤原君から聞き込んで切に留任をすすめられるので一時地震研究所教授として留まり時機を見て理研専任になることにした」とある。先生がどうしてそんなに大学を嫌われたかはわからない。しかし「生命にはかえられないから」とまで思い込んでおられたことは事実である。驚いたことには、この前に先生は東大を止めて法政大学につとめたいという「就職運動」までされたことがあったのである。寺田先生の就職運動というのは、恐らく天下の珍事件であったにちがいない。
 この珍事件のことは、思想の『寺田寅彦追悼号』に野上豊一郎さんが書かれるまでは、全然知らなかった。先生が理研へ入られない前のことというのであるから、大正十三年の正月から早春にかけた頃のことであろう。先生が法政大学の野上さんに「お願いがある」と電話をかけておいて訪ねて行かれた。そしていきなり「僕を君の学校で使ってくれないか」と言われた。実は不愉快なことがあるから大学を止めようと思う、法政大学の予科では物理は教えてないかときかれたそうである。予科では物理を教えていないというと、それなら自然科学でも数学でもよいと言われたので、野上さんはひどく驚かれた。しかし法政にとってはこれは大変うまい話なので、学長から会計主任まで相談して、待遇案も出来上がり、野上さんがその案をもって先生を訪問された。そうしたら「寺田さんはきまりのわるそうな顔をして、実は君、甚だすまないが、その話はちょっと見合わせてもらえまいか」ということになり「鳶に油揚をさらわれたよう」なことになってしまった。実はその間に理研入りの話があったので、野上さんもその方が先生のためにはよかろうと思って「持って行った話はあっさり引っ込め」られたのであった。
 大河内先生が、大学に先生を訪ねて、理研の所員にならぬかと相談をされたのは、大正十三年の四月十八日のことである。先生はすぐ承諾されたものとみえて、五月にはもう正式に理研の主任研究員となっておられる。大学の方へ正式に辞表を出されたのは大正十五年の暮であるから、二年半も前から決心をしておられたわけである。
 先生が野上さんを訪ねられたときの不愉快な事情というのは、野上さんも立入っては聞かれなかったそうである。しかしそれは法政の予科で数学の教師になろうとまで思いつめられたもので「生命にはかえられな」かったものであったにちがいない。先生が大学を止められて大分してからのことであるが、秋晴れの或る日一緒に理研から大学まで行ったことがある。大学の正門をくぐる時に、先生は「いいお天気だね、僕はこんな晴れ晴れとした気持で、この門をくぐることは考えていなかったよ。今までは、いつでもこの正門をくぐるたびに、いやあな気持になったもんだが」と言われた。いかにも実感のこもった声音であった。
 大学をやめて理研と震研と航研との三つの研究所に拠って、先生が恐らく理想とされた研究の生活が始まった。そして前にも言ったように、この昭和二年には十一篇の論文が英文で発表され、翌昭和三年には英文二十二篇、邦文四篇の論文が印刷されるという状態であった。そしてその精神活動は、ずっとほぼそのままの調子で、亡くなられる年まで続いた。先生の英文は、この頃の一般の大学教授の文章などとは比較にならぬ立派なものであった。ロンドンで英国の中央気象台長のG・C・シムプソン博士に会った時に、先生の電光及び火花の論文の話が出たが、シムプソン博士は「寺田の英文は、大学出の英国人程度だ」と褒めていた。後になって映画に凝っておられた頃、“Image of Physical World in Cinematography”という英文の随筆を、イタリアの“Scientia”という雑誌に書かれたことがある。ちゃんとした essay であって、このエッセイの紹介がネーチュアの紹介欄に出た時は、さすがに先生も一寸お得意のようであった。これを書いておられる頃「どうも随筆も英語で書くと、書いているうちに、いつの間にか程度が高くなるね。読者を意識するつもりはないがやはり向うの方が少し程度が高いようだ」と言っておられた。
 先生の日本文の方は、これは今さら述べ立てるまでもない。ただああいう立派な文章が、少なくも外見上は殆んど何の苦労もなくすらすらといくらでも流れ出ることが不思議であった。原稿なども非常に綺麗であった。ところどころに二、三字消したり直したりしたところがある程度で、まるで一度清書をされたのかと思うくらいのことが多かった。それは手紙を見ると一番よくわかるのであって、先生の手紙は漱石先生の手紙と並ぶべき、或る場合にはそれ以上に面白い手紙である。全集にある小宮さんや藤岡君宛の手紙には、先生の面目が躍如としているという以上に、非常な名文である。ロンドンで頂いた手紙の一節を引用してみよう。
 しかし冬の自然は実に美しいと思候、春や秋の美しさは、三越松屋の売出しの帯や長繻絆の如く、冬の霜枯の山川はまことにローマ宮殿に古きゴブランの壁掛のくすんだ渋い美しさにも比ぶべくか、或いはむしろ古陶器古銅器の美しさにも譬うべくかと存候
 上野博覧会たしか今日あたりから開会、その外フランス美術展もあるはず、ザワザワとのぼせて南の空風に縁側のふいてもふいても黄塵の積る時節となり候……。
 二伸 林檎の花さくの頃のイギリスの田園の景色は実に忘れ難き美しさに之有候、その頃のケンブリッジ、またオックスフォードの大きな大学街を観ることをお忘れなきよう願上候。
 テームズ上流、サムベリー辺のボート漕ぎにも是非一度お出なさるべく、レディ二、三人御同伴緊要に付これも念為御注意まで、ただしラヴしてもラヴされてもこれは困る故その辺は御如才なく、これまた老婆心までに一言申添候、
 君と話をしているつもりで書いていたらお蔭で汽車の進み早く、夕陽既に村外れの火の見柱にかかり「コガー・コガー(註 古河)」と呼ぶ駅員の声も何とやらん夕淋しくそぞろに旅情をさそう。想うに君は今頃はどの辺にや、ポートサイドでレセップ〔ス〕の像にグードバイでもしておらるるにや、君は春秋に富んで世界の学界への船出の旅、われは隠居仕事に「よろず研究御あつらえ所」のささやかなる看板に世をしのびて碌々余生を送るもあわれなりける。
 此処でこの手紙の一節を引用したのは、これが汽車の中で書かれたものであるという点を言いたかったからである。昭和三年の三月、大陸移動説を実験的に確かめる研究の準備のために測地委員会の仕事として、羽後の飛島まで旅行されたことがある。その帰りの車中で書かれたのがこの手紙であって、かなり長い手紙の四分の一ほどを転載したものである。私はその二月に立って英国への途上にあった。先生は旅行嫌いで有名であり、汽車にのるとひどく疲れられた。私達健康なものでも車中で物を書く時には、文章は乱れがちになる。この手紙は、先生が長途の旅行の帰りで非常に疲れた状態で、しかも弟子への手紙のことであるから、気を使わずに書き流されたものであろう。それがこういう文章になるということは、実に驚くべきことである。
 以上の話は、先生が大患以後、活力をとり戻され、それが異常な発展をとげて、絢爛けんらんたる研究生活にはいられる転換期の四、五年間のことを主に書いたことになる。昭和三年に私は文部省の留学生として英国へ行き、五年に帰朝して、そのまま札幌の大学へつとめることになった。その後先生の臨終の枕頭に立つまでの五年の間、遠く北海道の空から、先生の物理学が寺田物理学とでも称すべき新しい学問に発展して行く姿を、驚嘆の念をもって眺めていた。
 物理学のような、科学の中でも特に基礎的な学問に、寺田物理学というような個人の名前をつけることには、異論がある人が多いであろう。特にこの大戦の前および最中に、日本科学というような名前が、思慮の浅い人達によって濫用されたことを思えば、そういう日本的な物理学と解されるような言葉を使うことは、誤解を招くおそれが充分ある。
 日本科学の提唱者たちは、国家が非常事態に臨んでいるから、そういう国家意識に目覚めた科学が必要であるという論旨のようであった。しかし私はそれとは反対の意見をもっていた。昭和十三年十一月の中央公論に『語呂の論理』という小文を書いたことがある。支那事変勃発の次の年のことで、国民一般が熱病にうなされ始めていた頃で、日本科学などもその波に乗って火の手を揚げた時代である。その小文の中で『北越雪譜』の中の一節を引用して、次のようなことを書いた。
「天は西北にたらず、地は東南に足らず」というふうな科学がもし出来たら、よほど面白いものが出来上るにちがいない。もっともこれは少し冗談じょうだんであるが、それ程でなくても、現代の自然科学はいわばギリシア人の思考形式から発達した学問であるとはよく言われていることである。東洋の特にわが国のように長い間比較的孤立して特殊の文化をもって来た国に、特殊の科学が誕生する可能性はないことは無い。しかしそういう別の科学が出来たら、その応用方面も別に開かれると見るのが至当であるから、それはすぐに現代の機械工業や軍需工業の方面に、急には役立たないところの或る別のものになると考える方が本当に近いであろう。とにかく、今はわが国は未曾有の非常時局に直面しているのであるから、取り敢えずは、日本意識に眼覚めた科学などに注意を向ける暇はないはずである。……
 ところが極く一部の人ではあるが、日本意識に眼覚めた科学などを起そうと企てている人の中には、こういう非常時に遭遇している際だから、特にそういう問題が必要だと思っている人もある。そうすると今の話とはまるで反対の結論になってしまう。まことに不思議なことである。
 ところが、今日ではまるで事情が一変してしまっている。もう軍需工業や新兵器製作の基礎になるような科学は、今後の日本では必要がない学問である。それにやりたいと思っても出来ることではない。器械も測器も材料もまるで米英諸国とは比較にならないのであるから、対等の位置で科学の研究が出来る見込みは、今後相当長い期間にわたって、まず絶望である。いくら一所懸命になっても、草鞋ばきでジープを追っかけるようなもので、追えば追うほど、距離がひらくばかりである。今後のわが国の科学は、好むと好まざるとに拘らず、日本的な科学になるより仕方がないことになるのであろう。
 ところがこの頃の要路の人たちの科学振興論は、きまって世界的な科学というような言葉を口にしている。それで文化日本を再建しようというのであるが、私にはまるで空虚な議論としか思われない。日本科学など口にすべからざる非常時に、日本科学を疾呼し、今世界科学に伍し得ない国情に陥った時に、世界科学を論ずるのは、いずれも言葉の遊戯である。或いは生活の資料であるのかもしれない。
 問題は結局、本当のところ、新しい意味での日本物理学というものが、成立するか否かにかかるであろう。それについては、実は前から少し考えていたのであるが、おぼろに黎明を感じているだけで、未だその可能性を言い切るまでには到っていない。昭和十年の二月といえば、支那事変より二年前のもう旧い話であるが、その頃の東京朝日に次のような一節を書いたことがある。
『思想』十一月号の和辻氏の『牧場』は面白い。欧州ではローマの唐傘松が自然の姿であるが、日本では襖絵のうねった松の形が自然である。自然が従順であることは自然が合理的な姿に自己を現わしていることで、その見解から欧州の自然科学の発達の経路を理解することが出来るというのは一応考慮すべき意見である。この意味で日本的な物理学の発達もまた不可能ではない。その一つの試みと見られるものは、理研の寺田寅彦博士の研究室の業績である。
 その例としては、割れ目の物理学や粉体の力学などが挙げられるであろう。原子の世界においては確率のみが自然法則として成立するのに対し、割れ目の物理学はわれわれの経験世界における確率の物理学の一つの姿である。理研彙報に邦文で発表されている『割れ目と生命』の論文の如きは一部の読者には興味があることであろう。
 先生はいつか「物理学者としては随筆など書くような不幸な目にはなるたけならば会わない方が良いのだ」という意味のことを言っておられた。物理学においても肩書のつくような物理学を考えなくてもいい時が、一番幸福な時代なのである。しかしわれわれの祖国は日本物理学というようなことを考えなければならないような不幸な境遇に落ちてしまったのである。『寺田寅彦の追想』を書いているうちに、筆がいつかそういう方面に向いてしまった。「寺田寅彦の再認識」という言葉を、そういう悲しむべき事情の下で口にすることは、まことに淋しいことであるが、現実を直視することも、先生の遺訓の一つであるから、致し方がないであろう。
(昭和二十一年九月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「寺田寅彦の追想」甲文社
   1947(昭和22)年4月30日初版発行
初出:「寺田寅彦の追想」甲文社
   1947(昭和22)年4月30日初版発行
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入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2018年10月24日作成
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