雪今昔物語

中谷宇吉郎





 もう十年前のことであるが、昭和十一年の秋に、北海道に大演習があり、天皇陛下が北海道に行幸されたことがあった。
 その時に一日北大へ行幸の日があった。そして私は低温室の中で、雪の結晶の人工製作を天覧に供するという光栄の機会を得た。それが表題の『雪今昔物語』の機縁の起りである。
 それから十年後の今年、昭和二十一年の暮に、私は東宮殿下への『雪』の御進講に上京し、引き続いて天皇皇后両陛下、さらに義宮様及び内親王様たちに、同じく『雪』の御進講を申し上げる有難い機会に恵まれた。
 十年の年月は、不断の時代ならば、ただの一昔の話としてすませることである。しかしこの十年間は、千年にも比すべき十年であった。今回の御進講に際して、私は宮中にスチームが全然通っていないので、控の間では外套を着ていたということを、新聞社の人に話した。その話が北海道の新聞に出たのであるが、最近道内の某市の駅長さんに会ったら「その記事を読んで私は思わず涙をこぼしました」という話をきかされた。その駅長さんの話が機縁になって、この小文を書いてみる気になった。


 十年前に、零下二十五度の低温実験室の中へ陛下の行幸を仰いだ頃は、陛下はお若々しく非常にお元気に拝せられた。当時の日記を開いてみると「お肥りにて御色よく光輝く許り也、万歳也」という一句が挿入されている。昭和十一年の秋といえば、「満州建国」から四年目、二・二六事件のあった年の秋のことである。一年後の蘆溝橋事件の勃発を目前にして、軍国日本がその極盛期にあった時代のこととて、御警護なども並大抵のことではなく、すべてが物々しい雰囲気につつまれていた。
 低温室の中で人工雪の結晶を天覧に供するということが、いよいよ本極りになったのは、九月十日のことであった。しかしこの任務は、当時の国内情勢の下では、並大抵のことではなかった。
 それは殆んど不可能に近い困難なことであった。というのは、雪の結晶の人工製作に初めて成功したのは、その年の三月のことであって、それは二年越しのいろいろな試みの末に、やっと偶然に一つの結晶が出来たにすぎなかったのである。その後実験はずっと続けて来ていたのであるが、現象が非常に不安定なために、実験は非常にむつかしく、なかなか思うようには進歩しない。何度もくり返しているうちには、思うような結晶も出来るのであるが、今この実験で、或る指定した形の結晶を、一回で間違いなく作れといわれても、それは到底出来ない相談であった。最初の偶然の成功以来、まだ六カ月も経っていないのであるから、無理もないことであった。
 そういう時期に、十月八日に北大行幸がきまり、午後三時三十分から二分間陛下が低温室へおはいりになるから、ちょうどその時刻に結晶を作っておいてお目にかけるようにというお達しである。それをお引受けしたのであるから、後から考えてみれば、随分大胆な話であった。
 それには時代の空気が大きい役割をもっていたのである。御先導の巡査部長が予定より別の通路を御案内したといって自殺したり、小学校の校長は、御真影奉安所が焼けると、火の中にとびこまねばならなかった時代であった。到頭宮内省から御思召しとして、そういうことは止めるようにというお達しまで出たが、愚昧なる世論がそれを許さなかった。陛下の御意志に反してまでも、いわゆる忠君愛国の強請が行なわれた悪夢の時代である。


 陛下が零下二十五度の低温室におはいりになるというのは、恐らく空前絶後のことである。その時にもし結晶が出来ていなかったら、たいへんなことになるであろう。
 それでどうしても「絶対に間違いなく」決った時刻に決った形の結晶を作ることを考えねばならない。普通ごくありふれた指示デモンストレーション実験でも、さていよいよとなると、思わぬ故障が起きて、大勢の聴衆の前でまごまごして困ることがある。そして不断は何でもないことに、とかくそういう時に限って手ちがいが起るものである。わが国の物理実験学の祖中村清二先生は、指示実験で絶対に間違いなく成功する秘訣として、あらかじめ何もかも当日やるとおりにして、何回も実験をしてみるように、そしてそれにはビーカーの中にどこまで水を入れておくかという点までもちゃんと決めておかなければならない、と教えられた。指示実験の場合は、それでもまだ気が楽である。少しくらい失敗しても、その失敗の原因をその場でつきとめて、すっかりやり直してみせれば、却って教育効果はあがることになる。しかし今度の場合は、それとは全く話がちがうので、二分間をとり逃したら、万事がそれで終ってしまうのである。
 それには日食の観測のような心構えが必要であった。丁度この年の六月に北海道に皆既日食があって、世界各国から観測隊が来た。その中で一番大がかりだったのが英国班であった。当時新聞紙上を賑わしたケンブリッジのストラットン博士の一行である。私もその班に加わって、一週間ばかり起居と観測準備とをともにした。その時に感じたことは、この一行が、当日晴れてさえくれれば、如何なることがあっても絶対に失敗しないという確信がもてるまでの、完全な観測準備をした点である。その内容は前に『英国日食班の印象』に書いたことがあるが、わずか一分五十秒の観測に、大規模な観測隊を六カ月がかりではるばる極東の僻地にまで送るには、それだけの心構えが必要であったのである。
 この時の経験が、今度の場合に非常に役に立った。或いはこういう経験をもっていなかったら、このような困難な大任を引き受けはしなかったかもしれない。


 まず実験をすすめるのが肝腎なので、低温室を一カ月だけ専用させてもらうことにした。
 その時までは、八畳間の広さの低温室の中で、物理、医学、工学の各方面の仕事が、六組くらい目白押しに為されていた。人工雪の実験もその片隅でやっていたのであるが、専用出来るとなると、気が大きくなる。当時助手だった柳田君が総監督になり、角理学士と戸田、丸山両学生とで、三種類の装置を作り、それらの中で、六花状の雪と六角板の雪とを作る実験を始めた。
 意気込みもちがっていたし、それに低温室を専用出来たので、不断の六カ月分くらいの進歩が、一カ月で得られた。そのうちでも、戸田君の装置が一番成績がよかったので、それを三個と、他に二種類各一個との装置を作った。当日は全部で五個の装置を用いて、時間を少しずつずらせて結晶を作り、どう間違っても、そのうちどれかの中では、陛下御入室の時刻に、ちゃんと結晶が出来ているというふうな手順をとることにした。
 ところで一寸困ったことは、こういう準備に熱中しているうちに、痔を悪くしてしまったことである。それがだんだんひどくなって、十月にはいったら、一晩中眠れないくらい痛むようになった。床の中で助手の人たちと連絡をとりながら、一週間ばかりねていた。柳教授がたいへん心配して見舞に来られて、自分ですっかり手当をして下さったので、二、三日してそれでもどうにか起きられるようになった。
 いよいよ行幸の前日になって、大分快いので学校へ出てみたら、たいへんな命令が来た。それは明日は助手の人は低温室にはいってはならないという大学当局からのお達しである。「他の天覧室は一週間も前からすっかり消毒をして立入禁止になっているのだから、低温室も当日は御説明者以外は入室しないように」という話なのである。写真や標本だけをお目にかける室と、人工雪のような困難な実験とを一緒に取り扱われては、どうにもやりようがない。宮内官や警察関係の人からそういうお達しの来ることは、充分予期出来ることであったが、科学の殿堂をもって自負している大学側から、こういう話が出たのには一寸驚いた。


 しかし今さら御辞退も出来ない。
 仕方なく物理実験というものの本質から説き起して、誰か側についていないでは、こういう不安定な現象を捕えることは出来ないという所以を詳しく説明した。結局総長の裁断を待てということになって、それを待っていたら、夜晩くなって返事が来た。「一人だけ三時間前まで入室してよろしい」ということであった。
 ところがこの三時間前までというのは、実は辛いのである。というのは、当日午後二時半に教授一同に列立拝謁を賜うので、十二時半から二時半までは私はその席に列せねばならなかったからである。御入室は三時三十分であるから、その三時間前までしか助手は入室出来ないとすると、丁度私が列立拝謁のために低温室を離れると同時に、助手の人も低温室を出なければならないことになる。それでは実験の一番むつかしい期間の二時間を、誰も人がつかずに放っておかなければならない。それで雪の結晶が出来たら不思議である。
 慌てて明日の列立拝謁を御辞退出来ないかときいてみたら、それは絶対に許されないという。理由は極めて明瞭で、もう名簿にのっているからというのである。「一人だけ抜けたままにしておくことは出来ないし、それを詰めると数が合わなくなる」というので、到底許されそうもない。大学当局としては、そんなことをして、責任にでもなったら大問題なのであろう。それでその方はあきらめて、無人実験を敢行する決心をした。
 無人実験をするとなると、今から手順を変更しなければならない。しかし三人の助手諸君に徹夜をしてもらえば、明朝までには間に合う目算が出来た。「当日は御入室の前に助手などはもちろん入室させませんでした」と一言云うためには、その蔭に大分苦労があるわけである。「如何なることがあっても、絶対に不敬なことがないように」と「如何なることがあっても、絶対に実験に失敗しないように」とが、鉢合わせになった恰好である。


 ところで断っておかなければならないことは、雪の結晶は、予め作っておいて、それを低温室内に貯蔵しておいて、陛下が御入室になった時にお目にかけるというわけにはゆかないのである。結晶の表面勢力エネルギーの関係で、たとえ零下二十度三十度の低温でしかも飽和水蒸気圧の空気中に置いても、結晶の尖った部分が昇華蒸発をするという厄介な現象がある。零度以下では結晶はもちろんとけないが、しかし鋭い輪郭の形とか、繊細な内部構造とかは、この昇華蒸発のために、二、三十分もすると、もう大分崩れてしまうのである。
 何とかして生長の途中にある繊細美麗を極めた形のものを天覧に供したい。それも六花と角板と二種類御目にかけたい。しかし結晶生成の一番大切な二時間を無人のまま放置しておくのでは、どんなに注意して条件を決めてみても、普通のやり方では成功の見込みはまず五分か六分である。二時半に低温室へはいってみて、結晶が出来ていないか、或いは生長しすぎて、余分の氷がくっついて滅茶苦茶な形になっていたら、もうそれからでは間に合わない。そういう最悪の場合にも何もお目にかけないわけにはゆかない。形は多少崩れていても、前に作ってしまっておいた結晶を、代用に使うより仕方がない。要は出来るだけ昇華蒸発をさせないで保存する方法を考えることである。
 そのためには、硝子罎の内壁全面に、雪の結晶の一枝と似た形の霜の結晶を叢生させたものを用意する。その霜ももちろん人工的に作るのである。そういうふうにした罎の中央に、雪の結晶を細い毛で宙吊りにして密閉しておくと、昇華蒸発は大分少なくなり、四、五時間くらいは、辛うじて原形の輪郭を保つことが出来る。正午一寸前くらいに結晶を完成させて、それをこの保存罎の中にしまっておくと、最悪の場合の用意は出来たことになる。もっとも正午頃完了するはずの実験が失敗することも考えておく必要がある。この時代の技術では、二回実験して一度成功すればよい方であった。それでその前に今一回作っておいて、もし正午完了の実験に失敗したら、その旧い結晶で間に合わすことにする。それには、第一回の実験を朝の四時から始めればよい。これでまず出発スタートはきまったわけである。
 次にこの保存結晶と、生成途中の完全結晶との中間を行く道もある。それは十二時半に低温室を出る直前に、結晶がほぼ完成するようにして、そのまま水蒸気の供給を極度に減少しておく方法である。これは下手をすると、結晶が蒸発するか、過剰生長をする虞れがあるが、巧く半殺しの状態になっていてくれれば、一番巧いかつ安全な方法である。それで装置の一つは、この方に使うことにした。
 しかしこれ等の方法は、本物が失敗した場合の弥縫びほう策であって、肝腎なのは本物の方である。それで本物の方の手配をきめておく必要がある。いろいろ討議した挙句、一時まで低温室に出入を許可してもらうことに勝手にきめて、明日の手順を決定した。即ち次のとおりである。
装置一号A 十時スタート、十一時核出現、十二時―一時電流〇・五A、無人放置、二時半結晶の状態を見て電流調節、三時半完成予定。
装置一号B 十二時までに保存用結晶作成、十二時スタート、一時核出現、その儘無人放置、二時半電流〇・八A、三時半までに急激に結晶を生長させる。
装置一号C 十時までに保存用結晶作成、十時スタート、十二時半結晶完成、一時電流切り無人放置、二時半検査、良ければその儘三時半まで装置内放置。
装置二号と三号とは、それぞれ角板と、樹枝付角板とを作る条件にして、一号Aと同じ手順にする。


 これだけの打合わせを済ませて、私は痔の方が怪しくなったので、家へ帰って寝た。明けて十月八日、案外身体の調子がよかったので、元気で登校した。靴下から下着から、身につくものを全部新しくかえたので、気持までしゃんとしたような気がした。そしてこの日のために予め寺田先生が生前に使っておられたシルクハットを借りてあったので、それをかぶって出かけた。
 九時半に低温室へ行ってみると、戸田君たちは、一晩の徹夜にも拘らず大元気で、昨日決めたとおりにちゃんと仕事は進んでいた。顕微鏡を覗いてみると、いい結晶がもう二つも出来ていた。その後一時までの手配を今一度皆に確認してもらって、私は居室へ行って、十一時から十二時までの間、椅子を並べて身体を横にしていた。万一の用心のためである。
 十二時に今一度低温室へ行ってみると、実験は規定したとおりに進んでいる。それで幾分安心して、一時の検査を早々すませて、中央講堂へ急いで行ってみた。広い講堂の床の上に、百人近い人の立つ場所が、個人ごとにマークしてある。その自分の場所を探して、そこに立って待っていた。ところが驚いたことには、二時まで全く何ということもなく、ただ立っているだけなのである。当時の日記をみると「一時中央講堂、二時二十分まで立って待つ。これも全く何の意味もなく待たす也。宮内官が来て一応名と人を照合するだけ十分ぐらいですむ。一時間は全く無意味也。このようにすることを尊皇精神と思うよう也」とある。結晶がどうなっているか、気が気でない状態が、この字句の裏にちゃんと見えるのも苦笑ものであるが、この時は苦笑どころの騒ぎではなかった。しかしそれにすぐ引き続いて「二時二十五分陛下入御、列立拝謁は一分くらい陛下の龍顔を直視できるので有難し。お肥りにて御色よく光輝く許り也。万歳也」という一句がある。当時の心のはずみが思い起される次第である。


 日記は次のように続いている。
 それより走って低温室に帰り室に入って見る。二号と三号との分は駄目。一号BとC良し。角板と樹枝と二種出来おり美事なり。胸がドキドキする。五十分がかりにて結局全部ととのえ外へ出て見ると陛下のお車がもう前に来ている。あわてて事務室にかくれ防寒服を脱ぎ、実験室にてお待ちす。御説明全文(略)
 陛下の御熱心なる事には恐懼。一々写真を見て頷かれ、また一々各句切りごとに「アア」とか「ウン」とかお声をかけられたのには驚いた。僅か三尺も離れていぬ所での御説明で、写真は一々棒にてお示しする。お付きの方々大勢。皆シーンと静まり返り、自分の声が何となく澄んで響くようだった。
 御説明後急いで事務室に帰り、防寒服を着て先に低温室内に入り、電燈をつけてすっかり準備をしてお待ちす。陛下も同様な防寒服、頭巾、頬のお色鮮か也。靴は赤皮長グツ。顕微鏡御説明申し上ぐ。御興深げ也。一応すんで結晶の出来ていない装置の顕微鏡までお覗きになる。困る。二分以内とのお達しに付「もう御説明申し上げることはこれだけでございます」と帽をとって御挨拶申し上ぐ。やっとお帰りになる。
 一緒に室内に入られし方、松平宮相、湯浅内大臣、鈴木侍従武官長、侍従一方ひとかた、武官一方、五人の由。松平宮相「何度ですか」との問いに「零下二十五度でございます」と答えたら「案外寒くない気持よいくらいだ」とのお話也。
 急いで外へ出てお見送りす。これから工、医両学部へお成り。待っている間に、柳、大賀、田所氏等に雪の結晶を見せる。皆綺麗に出来たと大喜び。何だか急に肩が軽くなりヤレヤレ也。
 有難い事也。
 柳田、戸田君等一同来、低温室と天覧室とで記念写真をとる。
 夕食にお祝、酒盃に四杯のむ。


 盃に四杯の酒というのは、六カ月ぶりのことであった。四月ごろから身体の調子が悪く、食後に胃が痛んで、ひどく痩せてきた。胃潰瘍とか、十二指腸潰瘍とか、慢性腹膜とか、いろいろの診断があったが、結局長期の療養が必要であることは観念していた。それで八日の大任を終えると、すぐ一家をたたんで伊豆の伊東へ行く準備にかかった。そして一切を放り出して、月末には伊東へ引越してしまった。
 伊東の温泉と南海の雑魚とが、私に再び活力を吹き込んでくれた。療養二年、その間時々札幌へ帰って、まとめて少しばかり講義をしてお茶を濁していた。その間に北支事変の勃発をみて、貸別荘の窓から、召されて行く若者たちを送る「歓呼の声」をきく日がつづいた。それ等の歌声は、暗い道路の遠くからひびいて来た。そしてわれらの祖国は翌昭和十二年の十一月には、日独伊防共協定にまで突入したのであった。その発表があって数日後、熱海の蜜柑畑で、小春の陽光を浴びながら、今内務大臣をしている植原悦二郎氏と一寸話したことがあった。当時政情から全く除外されていた氏は、淋しそうであった。その時の話の中で「いよいよ世界を敵とすることになりました。天皇陛下はさぞ御心配なことだろう」という一言が、ずっと後まで頭に残った。
 南京陥落の提灯行列も、徐州会戦のお祝い騒ぎも、伊東で見聞した。張鼓峰事件で、無駄な心労を経験したのも、この療養生活の中でのことであった。しかしその頃、昭和十三年の秋頃になって、武見国手の診断と療法とが顕著な功を奏して、さすがに頑固だった私の病気も、あっさりと退散してしまった。しかし三年越しの病気のあとのことでもあり、今までの仕事をまとめるにも、伊東にこもっている方がよかったので、札幌と伊東と半々の生活をしばらくつづけることにした。そして書き上げた論文をつぎつぎと欧州とアメリカとへ送った。日米親善が一部にやかましく論ぜられて、生花使節だの、人形使節だのが、盛んにアメリカへ渡っていた時代のことである。

一〇


 その頃たまたま英国のネーチュア誌が、私の雪の紹介に、四ページを割いてくれたことがあった。それが機縁になって、米国のサイエンス・サーヴィスが、広く米国内に「人工雪」を紹介してくれた。ラジオでまで放送してくれたそうである。昭和十三年の暮から、十四年の正月にかけての頃である。
 昭和十四年といえば、日華事変がますます拡大し、その七月には日米通商条約の廃棄通告があったくらいで、日米両政府間の空気は、大分険悪になっていた頃である。しかし科学と科学とのつらなりには、まだまだ温かいものが残っていた。そしてその秋には万国雪協議会インターナショナルコミッションオブスノウの第二回総会が、シカゴで開催の予定であった。
 ネバダ大学にあるその本部から、私に総会への出席をすすめてきた。出席したい気もあったが、病後のことでもあり、どうしようかと考えていたところに面白い申込みがあった。それは東宝で「雪の結晶」の文化映画を作りたいから、結晶の生長するところを顕微鏡映画に撮らしてくれというのである。そこで思いついたのは、思い切った学術的な映画を作って、それに英文のアナウンスを入れて、映画を自分の身代りに総会へ出席させるという案である。東宝へ相談してみたところが、全部無料で作ってあげましょう、その代り日本語版は国内で上映することにするという話になった。一巻物でも少し凝ると、二万円くらいはかかるそうである。当時の二万円というのは、大学の私の研究費の十年分に相当する額である。それを無料で撮ってくれるというのは、大変有難いことなので、早速とりかかることにした。
 二月三月をそのために、札幌ですごした。今は日映の重役になっている吉野馨治君が、カメラマンとして、猛勉強をしてくれた。二カ月の低温室生活で、吉野君は一貫五百匁痩せたそうであるが、やっと一巻物が出来た。それに英文のアナウンスを入れて、漸く夏に入って「スノウ・クリスタル」一巻が出来上がった。

一一


 その七月に、例年の帝大総長会議があった。そして恒例の御陪食を賜わった時に、総長が大変光栄なお言葉をうけたそうである。その席では各大学の総長が、その年の自分の大学の研究状況を、それぞれ御説明することになっているのである。それで私の方の総長が「陛下が先年おはいりになった低温室内の人工雪は、その後進歩して唯今映画に撮り、米国の学会へ送るところでございます」という意味のことを申し上げたそうである。そうしたら陛下から「その映画を見たいものだ」という御諚があった。
 陛下からそういう御言葉があるというのは、当時としては異例なことであったので、大学としても恐懼して、その手順をとった。東宝でももちろん感激して、現像にも特別の注意を払って、英語版の立派なものを一本作って献上することになった。河原田文部大臣の時であったが、文部省で大臣に説明しながら一度試写をして、それを宮内省へ届けてもらった。
 その後二、三カ月経った頃、宮内省からそのフィルムが送り返されて来た。手紙がついていて、それには、陛下は御覧になって御満足の御様子に拝せられた。そしてこの映画は広く一般に見せるようにとの御思召しがあったので送り返す。そのつもりでなるべく広く見せるようにという意味のことが書いてあった。昭和十四年の秋、英独開戦直後ころの話である。そういう時期に、英語版の学術映画に対して、そういうお心遣いがあったことは、一般に知っていてよいことであろう。
 シカゴの総会は、その年の九月に開かれた。英独間に既に宣戦の布告があったので、独、波方面の学者は、もちろん参列しなかった。しかし学会は相当盛大に催され、「スノウ・クリスタル」も評判がよかった由で安心した。一寸面白いと思ったのは、その学会に私は出席したのと同様に取り扱われたことである。その学会の報告には、アナウンスの英文がそのまま載っていた。そしてそれに米国の学者たちの討論ディスカッションまでがついていた。学会からは感謝の決議文が届いた。

一二


 その後二年にして、わが国は太平洋戦争に突入した。
 私たちの雪の研究も、もっと実用的な形をとるべく変貌せねばならなくなった。そして低温における航空気象の問題が採り上げられることになった。十年来の雪の研究は、もちろんその方面にも、間接的に役立った。
 悪夢にうなされたような三年半が過ぎた。その間戦時研究に追われながらも助教授の花島君が、結晶形と気象条件との関係という、一番骨の折れる仕事を完成してくれた。そして今では或る特定の形の結晶を、特定の時刻に、殆んど間違いなく作ることも可能になった。雪の結晶を人工で作ることと、指定された実験で望みのものを作ることとの間には、五年余りの年月が必要であったのである。天皇陛下を低温室内にお迎えした日の苦心も、今では昔語りになってしまった。芽出たい話である。
 話は昨年、即ち昭和二十一年の秋にとぶ。終戦後一年を経て、漸く混乱もおさまりかけたかと思う頃、鉄道のストライキ騒ぎで、また不安がもり返して来た。その九月の初め頃、一寸長い旅行から帰って来たら、東大の小谷教授から手紙が来ていた。東宮職の方で君に殿下へ雪の御進講を希望しておられるが、都合はどうかという問合わせである。そして時期はいつとは決めないから、上京のついでの時に、一度機会を作って欲しいと書き添えてあった。まことに有難いことで謹んでお受けするという返事を書いた。それにしても、わざわざ出かけて来るには及ばない、いつでも上京のついでの時でいいという御鄭重なお話が、かえって私の頭の奥に淡い陰を残した。戦前の華やかだった日本の国の姿が、ふと心に蘇って来たからである。
 早速出張のことについて、総長に相談してみたところ「他のこととはちがうから、いつでも上京して差支えない。旅費のことなども心配しなくてもいい。本部の方で扱いましょう」という話であった。
 打合わせがすっかり済んで、十月の末にお伺いするはずになっていたところ、止むを得ぬ事情のために、一月ばかりおくれて、十一月の末になってようやく上京の運びになった。途中狩太の研究所へ立ち寄ったら、戦時研究時代から世話になった吉村のおばさんが、大変喜んで、赤飯をたいてくれた。

一三


 東宮殿下は小金井の東宮職の中に起居され、学習院の生徒たちと同じ教育を受けておられる。中等科の一年生としての一般教育は普通どおりに受けられ、その上ヴァイニング夫人の英語をはじめ、いろいろな人の進講をお受けになるので、相当重い御負担のようである。それでも非常にお元気で、丈夫にすくすくと御成長になっているように拝せられた。
 広い武蔵野の平野を見渡す一隅に、二千六百年記念式に使用された建物の一つを移し、その中の一部が殿下の御教育に使われている。寒いがらんとした広い部屋が、御進講の間である。そこでお待ちしていると、学習院の制服姿の殿下は、元気な足取りで、さっさっとはいって来られた。そしてお椅子の前にちゃんと直立されて「遠いところをわざわざ御苦労でした」と、元気な可愛いいお声で挨拶をされた。
 雪の結晶のお話をするには、どうしても顕微鏡写真をお目にかける必要がある。それで幻燈を使ってお話することにした。北海道における天然雪の各種の結晶の研究から、人工雪の製作に到る研究の過程、それに完成した人工雪と天然雪との比較というふうに、順序を立てて充分な御説明をするには、七十枚ばかりの幻燈板を使う必要がある。それには少なくとも一時間はかかる。暗室内で一時間も講義をされては、大学生でも疲れてしまう。それで明室映写幕を用いて、明るい部屋のままで、幻燈をお目にかけることにした。
 この明室映写幕というのは、東大の清水武雄博士が、理研の研究室で完成されたもので、世界最初の発明品である。全く清水博士の独創によるもので、過去十数年にわたる苦心の結果、最近に到ってようやく完成されたのである。世界に誇るべき文化日本の最優秀発明品なのである。この映写幕は、四、五年前に一応の完成を見たのであるが、その後細かい改良をたびたび加え、最近にさらに一大改良を施されて、完成品として世に送り出されようとしている矢先なのである。その映写幕を初めて東宮殿下にお目にかけることが出来たのも、仕合わせなことであった。

一四


 雪の話は、もうこれまでに何回となくしたものである。それに研究の経路を主とした話なので、小学校の生徒から大学の物理学科の卒業生までくらいの広い範囲の聴衆に、適当に調子を合わせることが出来るような便利な話である。
 初めは中学一年生としての殿下を考えて、そのつもりでお話をし始めたのであるが、十分ばかりするうちに、殿下の学力がもっとずっと進んでおられることがわかった。ちゃんと正座して、熱心におききになっているのであるが、灸所々々をよく御理解になり、そういう点によく興味をおもちになっているふしが感ぜられた。それでだんだん程度を高くして、大体中学の上級生くらいを相手としたお話をしたのであるが、殿下はよく御理解になれるようであった。
 比較的困難な実験が、例えば雪の結晶の一つ一つの目方を測るというような実験が、一寸した工夫によって巧く行くというところなどを御説明申し上げると、如何にも御意に召すらしく、お可愛ゆく微笑をされた。そして陪聴の御用掛の方たちの方へ笑顔を向けられ、面白いねというふうに同意を求められるような御様子を示された。
 つい話に気がはいって、一時間半近い御進講になってしまったが、その間殿下にはおつかれの御様子もなく、熱心におききになっておられた。お可愛ゆく、御聡明で、かつ御健康な殿下のことは、新聞や雑誌ではたびたび見ていたが、今度のあたりに拝して、考えていた以上に、頼もしくまた有難い気がした。こういう御進講を申し上げることの出来たのも、全く雪のお蔭である。

一五


 この大任を果したのが、十二月四日のことであった。あと数日して帰任しようと思っていたところが、意外な話が出て来た。
 今度の御進講のために、幻燈板と他に英文の天覧映画も持って上京したことを、武見氏に話しておいた。それが吉田首相に伝えられ、この機会にマックアーサー司令部の人たちにも見せてはどうかという話なのである。これも大変名誉な話なので、早速お受けした。そして十二月九日の晩、外相官邸で皆さんに見てもらった。
 来賓はオブライエン少将、ケリー博士ら経済科学部の主な人たち四人。それに日本側からは、首相の他に大金侍従長、山崎文部次官、仁科博士、経済安定本部の科学方面の顧問教授たち、武見氏等が出席された。明室映写幕を外相官邸の立派な応接間へもちこみ、煌々こうこうたる電燈の下で、「スノウ・クリスタル」を映写して見せた。この映写幕には、米国側の来賓もたいへん驚かれたらしく、驚嘆ワンダフルすべき発明であると言っておられた。そのあと三十分ばかり、幻燈で人工雪の写真を見せて、晩餐になった。その席上でも、日本の科学は予期以上に進歩している点もあると、ケリー博士が賞讃された。首相も大いに御機嫌のようであった。
 ところがその会合がすんで、おいとましようとしたら、侍従長から、この機会に天皇皇后両陛下にも、この映写幕と幻燈とを使って、御進講をしてもらえないかというお話があった。全く思いがけない光栄なお沙汰なので、謹んでお受けすることにした。以前に低温室の中で、辛うじて出来た雪の結晶をお目にかけて以来、もう十年の年月が経っている。その十年間に国の姿はすっかり変り、われわれの頭上には、恐ろしい嵐が荒れ狂った。脇道の苦しい仕事もずいぶんあったが、その間にとにかく脈々としてこの雪の仕事が今日まで続けられ、かなりの進歩が得られたのである。今その間の研究の成果を、再び陛下に御進講申し上げる機会を恵まれたことについて、私は冥加という言葉をふと思い出した。

一六


 両陛下への御進講は、十二月十一日の午後、宮中表拝謁の間で申し上げることになった。午前中に幻燈器と映写幕とを拝謁の間に運んで、テストをしてみた。両陛下のお椅子を前にして、電気工夫まがいの仕事をするのが、妙に周囲の空気とくいちがって見えた。
 このお部屋へこういう器械が持ち込まれたことは、全く初めてのことだそうである。宮中のことであるから、電圧は大丈夫と思っていたが、測ってみたら九十ボルト近くまで落ちていた。この拝謁の間にだけは、小さい電気ストーブがはいっていたが、それでも随分寒かった。控の間で昼食を頂いたが、スチームが全然通っていないので、何処も非常に寒かった。侍従の方が「かまいませんからオーバを着ていて下さい」とすすめられたので、遠慮せずに、襟巻と外套ですっかり身ごしらえをした。東京の十二月、火の気なしのコンクリートの建物では、それも止むを得ないのである。
 頂いた昼食なども極めて簡単なものであった。すべての様子が極めて御質素で、恐らく一般国民の想像以上であった。もともと宮中は、以前から御質素であったそうである。昭和十六年の五月、人工雪の研究で学士院賞をもらった時に、千種間で御賜餐にあずかったことがあるが、その時にもこの感を深くした経験がある。太平洋戦争勃発の半年前のことで、いわゆる国威隆盛の極にあった時の話である。その時代でも、その晩某侯爵邸に招かれた時の方が、御馳走といい調度といい、昼の御賜餐の十倍くらい立派であった。もっともその侯爵邸の晩餐でも、ロンドンのサヴォイホテルの普通の晩餐程度のもので、そう格別に驚くほどのことでもなかったのである。
 侍従の方たちと、お茶をいただきながら、今度上京の途中で赤飯をたいて祝ってくれたところがあったが、その人たちにこういう話をしたら驚くことでしょうという話をした。そうしたら「地方ではまだそういう人があるのでしょうかね」と、その中の一人が感慨深そうに洩らされた。その語調には、むしろ私が意外に思うほど沈んだひびきがあった。

一七


 御進講は午後二時からであった。天皇陛下は茶の背広を召され、皇后陛下はよく新聞の写真などで拝見する古風なお服であった。両陛下御並びで御座につかれた。晴れた明るい日であったが、明室映写幕は非常によく写った。七十枚の幻燈を全部使って、十年来の研究の結果をくわしく御説明申し上げたが、最後まで御興深げにおきき頂いたので、大変有難く思った。
 御進講がすんでから、その席で紅茶とビスケットとを頂戴しながら、宮内大臣や侍従長なども御一緒で、補足的なお話を申し上げた。天皇陛下からは、結晶の樹枝状発達と湿度の過飽和との関係とか、北海道の雪と内地の雪とのちがいとか、『雪華図説』の著者の土井利位の雪華研究の方法とかいうような点について、いろいろ御下問があった。皇后陛下からは、雹と霰とのちがいについてのおたずねがあった。生物学に御熱心な科学者としての天皇陛下と、それを援けられる皇后陛下とのお姿を、眼前に拝したような気がした。侍従長から、「この明室映写幕にしても、雪の人工製作にしても、アメリカその他の国で、どうしてやらないのでしょうか」というお話があった。「両方とも手先が器用であることが必要なので、そういう点で日本人向きの研究かと存じます」とお答えすると、陛下は珍しく声をたててお笑いになった。
 人工雪がまだ外国で作られていないと申し上げたのは、私がこの時はまだ知らなかったので、この十一月二十五日の Newsweek に、アメリカでも同じような人工雪が最近出来たという記事が載っていたことを、今度の上京から帰札して初めて知った。新聞記事のことであるから、詳しい実験方法などはわからないが、「日本の学者と一致した方法で」と書いてあったから、多分似たようなことなのであろう。

一八


 無事に御進講を終えて、控の間で幻燈の整理などをしていたら、侍従長がおみえになって、また意外に有難い御内意を伝えられた。それは呉竹寮の義宮や内親王方にも、この幻燈を見せてもらいたいという御思召しがあるというお伝えなのである。そして帰任の都合もあることだろうから、明日にでもというお話であった。
 翌十二日の午後三時、学習院から皆様お帰りになるのを待って、呉竹寮の方へ参上した。簡素な木造平屋建の一棟が呉竹寮であった。お話は義宮様や内親王方のお遊びの間らしい、広い板張りの部屋で申し上げることになっていた。札幌などの幼稚園と殆んど変らない質素なお部屋で、ピアノと小さいオルガンと電気蓄音機とがおいてあるだけで、何ら特別の装飾などのない簡素なお部屋であった。硝子戸のすぐ外が芝生になっていて、暖かい陽の光がさしていた。
 しばらくおまちを願って、幻燈の準備をしていたら、宮様たちが芝生の上でジャンケンなどしてお遊びになっている声がきこえた。竹屋女官長がみえて「義宮様は初めて幻燈を御覧になるので、さきほどから幻燈というものはどんなものかと、たびたびおききになっています。大変楽しみにしておいでになります」というお話であった。「前に一度ニュースは御覧になったことがあるので、あれの動かないようなものですと申し上げているところで御座います」と女官長は微笑みながら話された。

一九


 すっかり準備が出来たのでお待ちしていると、義宮様を先頭に、孝宮様、順宮様、清宮様と四人お揃いで、御機嫌よくはいって来られた。義宮様は初等科五年生と承っていたが、お席につかれる前に「今日は御苦労でした」と可愛いいお声で挨拶をされた。中等科四年生の順宮様は、ノートをお出しになって、筆記の用意をされた。孝宮様はもう高等科一年になっておられるので、如何にも姉宮様らしく、まだ初等科二年のお小さい清宮様のお椅子などを直されながら、すぐそばにお座らせになった。
 初めから幻燈を使いながら、約一時間ばかりお話をした。孝宮、順宮様方には充分おわかりになる話である。しかし初等科の義宮様や特にまだお小さい清宮様は、お退屈にならないかと心配していたのであるが、おききになっている御様子では、大変御興味がありそうであった。それで安心して予定どおり、一時間あまりお話を申し上げた。まだ初等科二年生の清宮様が、きちんと椅子に腰かけられて、お行儀よく初めからお仕舞まで、ちゃんとお聞き下さったのにはすっかり感心した。お話の前に、その点が少し心配だったので、お付きの方に伺ったら「清宮様はまだお小さいが、大変御利発だから多分おわかりになりましょう」ということであったが、そのとおりであった。
 お話がすんで、控の間で夕飯を頂戴していたら、女官長がみえて「宮様方はみなさん大変御満足の御様子です。義宮様はニュースはあまり早く動くのでよくわからなかったが、幻燈というものは、大変いいものだとおっしゃっております」というお話であった。
 照宮様にも前に札幌で雪の写真をお目にかけて、御説明を申し上げたことがある。今度の上京で、皇室の方々が、両陛下をはじめ、皆様科学に深い御理解と御興味とをおもち下さっていることを知って、大変有難いことと感激を深くした。

二〇


 日本の科学者は、従来もまた現在も、ひどい逆境におかれている。政府からも国民からも、適当に敬遠されながら、冷遇されている。というよりも無視されていると言った方が当っているかもしれない。私などは、その中では非常に運のよい方で、分にすぎた名誉と光栄とをたびたびこうむっているが、よく考えてみると、その起因となったものは、米英両国の学者たちの好意と、皇室の恩寵とにあったような気がする。
(昭和二十二年一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「楡の花」甲文社
   1948(昭和23)年8月30日発行
初出:「自然」
   1947(昭和22)年6月
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2019年3月29日作成
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