雪三題

中谷宇吉郎




一 初雪


 今年は初雪が例年よりも二日早かった。
 秋の天気工合がよかったせいか、円山の原始林の黄葉がまだ八分どおり残っているのに、朝学校へ出がけに、ぱらぱらとみぞれまじりに初雪が降った。外套の袖に受けてみると、雲粒のついた無定形の雪である。
 昨年の今頃は、終戦後の混乱からまだ抜けきれず、それに食糧の不安も深刻で、初雪を見ても、あまり感慨も湧かなかった。あの頃からみると、ストライキ騒ぎこそあれ、随分落着いた気持になったものである。石炭はどうせ配給は無いものとあきらめているし、活動を見る気は初めからなし、ラジオはストライキで静かになってまことに結構であった。また雪の研究でも始めるには、お誂え向きの世の中になったものである。
 十勝岳の山小屋と大学の低温実験室の中とで、十年あまり続けて来た雪の結晶の研究も、戦争中は、もっと実際的な問題の研究に切り換えねばならなかった。その研究にも面白いところもあったが、何といっても、直接に自然の内奥を窺うような今までの研究の興味には比すべくもなかった。
 今度の戦争を今のような形で生きのびようとは思っていなかったので、ミッドウェーの海戦の直後ころ、今までの十五年間の雪の研究をまとめて、二千枚の顕微鏡写真とともに、岩波書店へ渡しておいた。一冊でもその本が残ればという気持があったことは確かである。
 この大戦争の中で、二千枚の銅版をつくることは無理だろうと内心思っていたのであるが、二年近くかかって、やっとそれが出来上がり、本文も再校まで出た。そこで五月何日かの戦災で、組版も銅版も全部焼けてしまった。しかし二千枚の写真の校正刷が手許に残っていたので、それを製本して、図録だけ一冊作った。そして世界に一冊しか無い本だということにして、珍蔵することにした。さすがに今一度この本を作り直す元気は無かった。
 ところがこの春経済科学部のケリー博士が大学を訪問された時に、その世界に一冊しか無いと自称している本を見せた。そうしたら、これは科学者として出版する義務があると激励された。それでまた勇を鼓して、新しく写真の整理をして、出版することにした。
 私の雪の研究というのは、もともとアメリカのベントレーの『雪の結晶』に刺戟されて始めた仕事である。それが一時は世に出る望みを絶ったところに、また米国の科学者の好意ある激励によって、再び世に出る気運に乗ったわけである。因縁というものは不思議なものである。
 初雪が来れば、あの美しい本格的な結晶が訪れて来る日も、そう遠くはない。あの本を二度作ったことを思えば、世情がこの先どのように苦しくなろうとも、第二段の雪の研究を始めるくらいは何でもない。
 初雪を眺めながら、大いに若返って、子供のような決心をしているところである。

二 雪華追想


 北海道のI市の女学校で講演を頼まれた時に、その後で先生方と座談会のようなものを開いたことがある。
 その席上でいろいろな話が出たが、その中で一寸面白い質問があった。それは科学と宗教とのつながりに関係した話である。
 私は北海道へ来てから、もう十五年になるが、その間の大部分の年月を、雪の結晶の研究に費して来た。戦争になってからは、雪中飛行というような現実的な問題にも手を付けていたが、その前までは、十勝岳の中腹の人煙を遠く離れた世界で、顕微鏡を覗き暮したり、札幌の大学の低温室の中で、雪の結晶を人工的に作ったりするような仕事をしていた。世の中とはあまり縁の無いような仕事である。しかし研究の面白さという点では、こういう研究がまず第一位におさるべきものであろう。それにあの小人の国の水晶細工のような精緻無比の雪の結晶と、永年一緒に暮していると、一種の愛着のような感情も出て来るのである。
 ところでその質問というのは、そういう自然の内奥に直接当面するような研究を、永年続けていると、宗教的な感じにまで進むのではなかろうかという話なのである。
 自然科学の研究を、行き着くところまでつきとめて、それを宗教の域にまで高めるということは、人間に許された最も崇高な仕事の一つである。行き着くといっても、自然の奥に秘められた理法には、窮極というものは無いので、此処では、その研究者の全身を挙げての努力によって、行き得るところまで行くという意味である。
 そういう意味では、科学の研究を宗教の域にまで高めるというような崇高な仕事を為し遂げた人は、世界の歴史の上でも、そう数が沢山あるものではない。そういう例の引き合いに出されては、大いに赤面するばかりである。
 しかしまあそう生真面目に考えないで、研究の方法とか性格とかいうものだけを見るとしたら、雪の結晶の研究などは、その方向に進むべき性質の研究であろう。少なくもそれを完成したら大いに金が儲かるというような研究でないことは確かである。
 雪の結晶というと、普通には六角柱や六花の形のものだけを想像する人が多い。その種の正規の平板型のものだけでも、何十種という種類があって、そのいずれにも、繊細を極めた構造がある。そして咲きかけの花片のように軟かくてしかも鋭い輪郭をもっている。それに形がまた変化無限である。
 厳密にいえば、北海道の全山野を埋めて、毎冬毎冬降る数知れぬ雪の結晶のうち、どれ一つにも全く同じ形をしたものはない。それは世界中の人間の中に、全く同じ顔が二つはないのと同様である。本当は北海道の全山野はものの数でなく、シベリアの曠野を埋め、南極北極の果までを年ごとに蓋いつくす雪の、その一つ一つの結晶に全く同じものが二つとはないのである。水の分子の中に、どれだけの秘密がかくされているかはわからないが、多寡がその蒸気と空気との混合物に、気温の悪戯が加わるだけで、これだけの変化が生まれて来ることは、考えてみれば空恐ろしいことである。
 ところが、実際には、それだけでは済まないのである。雪の結晶というのは、けっきょく氷の結晶のことであって、氷は本来水晶などと同じく、六方晶系に属している。それで六花型の平板結晶の外に、水晶のようにいわゆる六方石の形をしたものもあってよいはずである。そういう結晶も実はかなり沢山降るのであって、その中でも六角の柱の両端を平らに切ったような、六角柱の結晶が多い。
 これで雪の結晶はまた一層変化の範囲を払げる[#「払げる」はママ]のであるが、その上に自然はさらに一歩を進めてくる。それはこの六角柱と六花との複合である。六角柱の両端に六花が生長した結晶が、その代表的なものである。これは丁度鼓のような形になるので、私たちは鼓型と呼んでいる。この鼓も単なる鼓では済まないで、それが二段三段と重なって来ることがある。そして「段々鼓」という不思議な結晶が生まれて来る。
 人界から隔絶された十勝岳の夜、全くの暗黒の中で、懐中電燈の光をたよりに、顕微鏡の視野の中で、こういう結晶を覗いていると、どのような人間でも、少しは心が静まって来る。こういう譬えようもなく美しい宝物を、自然は惜し気もなく無尽蔵に贈ってくれる。それは今十勝岳の山を埋めつくしているが、一日か二日の後には、もうその姿をかくして、ただの氷の粒になるのである。零下十度を昇らないこの雪の天国でも、昇華という現象、即ち氷が直接に水蒸気になって蒸発する現象があるために、これ等の精緻な天工の芸術品は、間もなくその繊細な部分が蒸発して消えて行くからである。
 十勝岳でのこういう生活を離れてから、考えてみれば、もう随分永い年月が経ってしまった。その間に私たちの祖国は、激しい無理な戦争をし、惨ましい敗戦の苦杯を嘗めた。しかし十勝岳の雪は、この祖国の嵐の中でも、冬ごとに、あの神秘的な姿を、誰にも見られないままに、現出しては消えて行ったことであろう。
 実朝の歌集の中で、奥山の底深い沼の中に、落葉が静かに沈んでゆく、知る人もなく、という美しい歌を読んだことがある。十勝岳の雪の結晶を思い見るごとに、私はいつもこの実朝の歌を思い出すのである。

三 雪解け


 北海道の春はおそい。
 毎年二月の末頃になると、私はいつも北国のおそい春という言葉を思い出す。
 東京の新聞には桜花のたよりがのり、芝生一面に暖かい日光がさしている写真が出ている。そういう新聞を手にしながら、窓外に目をやると、札幌の街はまだ一メートルの雪の下に眠っている。そしてその雪も煤煙にまみれて疲れた色をしている。
 冬中のビタミン不足の影響がこの頃になると、そろそろ表面に現われて来るらしい。人々の顔色も艶を失って見える。まして終戦後の冬は、燃料や食糧の不足が、たださえ乏しい北国の人々の生活を、一層きびしいものにしている。
 人々は春の来るのを待ちわびる。しかし三月に入っても、雪はまだまだ深い。札幌のような比較的雪の少ないところでも、四月の初めには、まだかなりの残雪がある。羊蹄山麓のような多雪地帯では、雪の消えるのは四月の末か、五月の初めである。まして大雪山系などの山岳地帯では六月の末、おそいところでは七月になっても、まだ雪が残っている。
 北海道の冬というと、誰でも寒さという言葉を第一に口にする。しかし北海道の冬の生活のきびしさは、ほんとうのところは寒さによるよりも、むしろ雪に悩まされる方が多いのである。そして人々の待ちかねる春が、このようにおそいという一番の原因は、雪解けがおそいことにあるのである。気温の低いことも、もちろん一つの要素ではあるが、雪がなかったら、春はもっと早く来るであろう。
 北海道の四月の生活は、まだ雪に悩む生活である。都市における四月の雪は、煤煙と馬糞とにまみれ、それに雪解け水が加わり、街行く人の足をはばむ。多雪地帯における農村の人々は、いつまでも畑を蓋っている雪を眺めて、四月の日をすごす。北海道の四月の生活は、まだ冬の生活である。しかしそれは気温が低いためではなく、雪が多いためである。というのは、札幌の四月の平均気温はすでに五・二度になっているのである。
 それに比して関東平野の三月の景色を思い出してみよう。雑木林が陽光に映えて、紫色に煙り、麦が青々とのびているあのうららかな農村の姿の中には、北国の人の脳裏にある冬の面影は、微塵も認められないであろう。あの関東平野の三月の春は気温が高いためではなく、雪がないためである。東京の三月の平均気温は六・九度であって、四月の札幌の平均気温とくらべてわずか一・七度しかちがっていないことに注意しなければならない。
 もっとも月平均にして一・七度というのはかなりなちがいであるという人もあるかもしれない。しかし三月の沼津の平均気温は八・九度であって、東京とくらべて、二・〇度高い。もちろん沼津の方が東京よりも暖かいのであるが、それは春と冬とのちがいというようなものではない。それで、もし雪さえなければ、北海道には四月の初めにもううららかな春が訪れるはずである。北海道のおそい春は、寒さに阻まれているのではなく、雪に阻まれているのである。
 この考えをさらに確かめるものは、日照時数および雲量の比較である。北国の四月五月は、空がすんで、青空に太陽が美しく輝く日が多い。東京などの花曇りの天候は、北国とくに北海道にはない。四月の札幌の日照時数は、一九四・〇時間であって、東京の四月の一八四・八時間、三月の一八四・九時間のいずれよりも十時間近く多い。平均雲量も札幌の四月は六・五であって、東京の四月の六・九に比して明らかに少ない。
 四月の北海道は関東平野よりもよほど陽光に恵まれている。気温においても大した差がなく、陽光においてはかえって恵まれている。それにも拘らず、四月の暦をめくりながら、なお冬の生活をかこたなければならないのは、雪解けがおそいという一事に帰せられる問題なのである。そういうことを考えてみると、北海道の人々、特に為政者たちの雪に対する関心の薄さは、われわれには一寸了解の出来ないくらいである。
(昭和二十三年二月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥
   1950(昭和25)年3月30日初版発行
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2019年6月28日作成
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