露伴先生と科学

中谷宇吉郎




 私は露伴先生のものは少ししか読んでいないし、お目にかかったのも、三、四回くらいのものである。それで先生についてはあまり書く資格もなく、また材料も持ち合わせていない。しかし露伴先生のことは小林勇君を通じて、この近年よくきいていたし、上京して武見国手に会うごとに、先生の容態のことが一度は話題に上ったので、晩年の先生の風貌に親しい接触があったような錯覚に陥ることもあった。そういう機縁で、この小文を書きかけたのであるが、材料は大部分小林君から得たものである。また直接先生にお目にかかっていろいろ話をきいた時も、いつでも小林君につれて行かれたわけである。
『幻談』以前の昔の露伴ものを時々読んでいた頃は、露伴という名前は、既に歴史的の人物として私の頭の中にあった。それが同時代人コンテンポラリーとして初めて感ぜられたのは、寺田先生の晩年における、露伴、寅彦のつらなりからである。小林君はこの両先生のいずれからも、深く愛されていたので、両先生の年老いてからはじまったこの交遊には、小林君というものがその仲立ちにあったのであろう。
 寺田先生はもちろん露伴を尊敬しておられたが、露伴先生の方も寅彦を愛敬しておられたようである。『思想』の『寺田寅彦追悼号』にある『寺田君をしのぶ』という露伴道人の文章には、寺田先生の「粋然たる風格」や「洽然として自ら好しとする」交遊ぶりに対する愛敬の情がのべられている。しかし露伴先生がそれよりもさらに愛敬されたのは寅彦の学問であって、「君に篳篥ひちりき、笳の談をし、君から音波と物質分子位置の変化との関係をきく」ような静かな清談を楽しみとされたようである。
 露伴先生が科学に興味をもっておられたのは、まだ若い時代からのことであったそうである。知らない世界へのあこがれ、新しい知識に対する情熱は、露伴の生涯を通じて変らないところであった。「七十を越した老人で、あのように小児のように、新しい事に溌剌たる興味をもつということが既に驚異だ」と小林君は書いている。したがって自分の専門の方面の学者と話をすることには、あまり興味がなく、科学者と会って新しい知識の話をきくのを大いに楽しみとされていたようである。
 寺田先生の随筆の中に『鐘にちぬる』という一文がある。冒頭に「この事に就いて幸田露伴博士の教を乞うたが」とあるとおり、こういう話などが両先生の清談の中に出て来る話題の一例である。鐘に釁るというのは、昔支那で鐘を鋳た時に、これに牛や羊の血を塗ったという言い伝えがあるが、その伝説に興味をもって、露伴先生の意見を求められたのである。『寺田君をしのぶ』によると、その問題は「卒然として答えるにはあまりに多岐多端なことであるから、大要を語った後に、数日を費して自分は自分の方の分内でそれに関することを記しつけ」それを寺田先生に渡されたそうである。その調べによると、これは鐘を鋳る時に、犠牲の血をもって祭典を挙行するという意味に使われた場合が多いそうである。しかしその中には露伴先生は否認されたが、ずっと昔に逍氏の説というのがあって、それでは鐘を鋳た後に、羊の血をもって鐘の裂罅に塗るという説もあった。またこの説を裏書きする方の明の宋氏の洪鐘の詩の序中の事実も後になって見付かり、それも寺田先生に伝えられた。
 寺田先生はこの鐘に血を塗るという操作について「本来は恐らく犠牲の血によって物を祭り清めるという宗教的の意義しかなかったのであろうが、併し特に鐘の割れ目に塗るということがあったとすると、それは何かしら割れ目のために生じた鐘の欠点を補正するという意味があったのではないか」という疑いを持たれた。
 ところで問題はもしそういうことがあったとしたら、それは現在の分子物理学の知識から考えてみて、全く無稽なことではなく、一応は首肯されるというのが寺田先生の考えなのである。それは金属と油脂類との間には強い吸着力があることがわかっているので、もし鐘に眼に見えないような割れ目があれば、血の中の膠ようのものや油脂のようなものがその間隙を充填して、固体のような作用を為し、「割れ目の面に於ける音波の反射をかなりまで防止し得従って鐘の正常な定常振動を回復することが出来るであろう」という考察がなされたのである。
 露伴先生は自分が否認した方の説ではあるが、寺田先生が「読みづらかったろう其冊を読」み、「労を厭わずして微を積むを敢てする学者的態度の誠実さに悦服」されたそうである。寺田先生の考え方ももちろん面白いが、自分の否認する方の説についても、これだけの考察を進められた寺田先生の態度の「誠実さに悦服」された露伴先生の心構えにも、敬服の念を禁じ得ないような気がする。その時寺田先生に見せられた草稿は、まだ発表されていない由である。小林君がすすめても「あれは寺田君に見せるために書いたものだから」といって、印刷に付することを承諾されなかったそうである。瑣細なことのようであるが、そういうところにも露伴先生らしい風格が偲ばれるような気がする。
 この鐘に釁る話が出た時の座に同座していた小林君の話によると、この時には、その話の他に伊豆の何処かに出る珍しい石の成因について、露伴先生が考えられたことを話されて、寺田先生の意見を求められたそうである。その石は、割れ目が沢山はいっていて、その隙間に色のちがった他の石がつまったような構造のものであった。寺田先生は即答はせず、面白い問題ですから、地震研究所くらいで一つ実験をしてみましょうかなどといっておられたそうである。
 そういえば、私も寺田先生から、そういう話をきいたような気もするが、詳しいことは忘れてしまった。地震研究所で実験をされたかどうかもしらないが、多分着手までは行かなかったのであろう。寺田先生は、晩年には非常に忙しい研究生活をされていたので、そこまでは手が届かなかったのであろう。
 その時にもう一つ虫送りの話が出たそうである。地方によっては、鉦だの太鼓だのを盛んにたたいて練り歩くことがあるが、音波によって虫を殺すか追うかすることが可能であるかという質問である。それにも寺田先生ははっきりした返答はされなかったそうである。しかし『鐘に釁る』から半年ばかり後に書かれた随筆の中に、『音の世界』という短文がある。初めに「音の触感」に関する研究の報告の紹介があって、そのあとに呪文によって蚊柱を呼び下ろすという子供の頃の経験の追憶が書かれている。呪文の中の「むーん」という声が多分蚊の羽根にでも共鳴して、それが、蚊にとって挑戦或いは誘惑としての刺戟を与えるのではなかろうかという話である。音波によって虫を退治するという露伴先生の仮想とは直接の関係はないかもしれないが、似たところのある話である。
 昭和十年の暮、寺田先生の逝去によって、この露伴、寅彦の交遊は、永遠に打ち切られた。その頃の日本はまだ良い国であった。しかし満州事変以来の暗雲は、それから二年を待たずして、遂に昭和十二年の北支事変に発展し、国の姿は次第に狂相を呈して来た。露伴先生は痛く国情を憂い、また一方家庭的にも不幸な事件が続出して、多難な日がつづいた。その間の消息は、小林君が今年の一月『世界』に書いた『露伴先生近況』によって、私も初めてくわしいことを知った次第である。
 丁度その頃私は十年来の雪の結晶の研究が一段落ついたので、その綜合報告を中央気象台でしたことがある。その報告が『気象集誌』の特輯号として出たのが、たしか昭和十三年の春であった。露伴先生はその頃、しきりと科学書を読んでおられたそうである。『露伴先生近況』によると、岡田博士の『気象学』や私のこの『雪の結晶の研究』などを読まれ、特に原子物理学には興味をもって、菊池教授の『原子核及び元素の人工転換』のような専門書まで読破されたそうである。「専門ちがいだからなかなか手軽には読めぬ」といいながらも、菊池教授のこの本を二週間くらいで読了された。まことに驚くべきことであって、物理出の理学士でもそれくらいはかかる本なのである。いくら露伴先生でも、菊池教授のあの本をとにかく読了するまでに理解されたことは、一寸考えられないことであった。ところが今度小林君にきいた話では、先生は『理化学辞典』だの各種の化学の本なども届けさせておられたそうである。高等学校時代に、一々の言葉を哲学辞典でひきながら、畑ちがいの哲学書に熱中していた頃のことをふと思い出したが、先生には、七十歳をとっくに越してからもなお、青年の日々の若々しい情熱がつづいていたのであろう。
 小林君につれられて、伝通院のお宅へ初めて伺ったのは、丁度その頃であった。二階の八畳は、二面に白い障子が立ち、一面は桐の和本箱で埋められていた。先生はその真ん中で机によりながら、上機嫌で話をされた。六月末の雨の日で、静かにこの鴻儒の話をきくのにふさわしい午後であった。まず雪の話が出た。雪の古字は※[#「雨かんむり/彗」、U+4A2E、164-下-18]であって、※[#「帚−(冖/巾)」、164-下-19]は手、※[#「蚌のつくり+蚌のつくり」、164-下-19]は箒、要するに箒ではき集められる雨という意味ということになっている。しかし箒はいい加減なこじつけかもしれない。洗濯する時の水の音に雪々というのがあるから、或いは雪の降る音から来たのかもしれない。字解には字形と字音とがあるが、支那人は字形が好きなために、前者の解をとることが多い。そういう話を伺っているうちに、「君の雪の研究は近来読んだものの中で一番面白かった」といわれて、大いに恐縮しながらも、心から嬉しく、学問の有難味をつくづく感じた。
 その頃は丁度私は伊豆の伊東で静養をしていた時代で、墨や硯のことに興味をもち始めた頃であった。寺田先生の墨と硯に関する研究は、世間にはあまり知られていないが、先生晩年の仕事の中では、かなり重要なものであった。三つばかりの論文が既に発表され、そのつぎの研究が大体出来上がった時には、先生は最後の病床についておられた。もっともあの年の秋の理研の講演会で、その論文の代読をした頃は、まだあれが最後の病床だとは思っていなかった。そういうことも一つの機縁となって、墨と硯とに対する興味がかなり強くなっていた時代である。
 墨や硯のことになると、これは露伴先生に伺うには、こっちの知識があまりに少なすぎた。第一漢字をあまり知らないので、先生の話の単語がまずつかめない。いちいちどういう字ですかときくわけにも行かないので、惜しいながらに聞き流していた。歴史的のことはほとんど忘れたが、墨の性質についてはいろいろなことを教わった。昔の墨は硬墨であったが、現在のは軟墨であること、それは膠のちがいによるもので、獣膠は硬いが魚膠は軟いからである。獣膠でも特に角や嘴から採った膠が硬い。古墨のごく硬いものは、水中に放置してもほとんど変らず、墨を磨り終ったところでその磨り口の縁で紙が切れるくらいといわれているそうである。日本で墨の膠のことを重視したのは、鈴木棋仙であった。もっとも現在の日本の墨はほとんど全部魚膠で、問題にならないらしい。煤の粉については、支那では昔からいろいろな研究があり、灼く時の温度については考えた人があるが、圧力の方はまだ考えた人がないという話であった。
 名墨の墨色の美しさは、決して通人だけにわかるような主観的なものではなく、誰にも一目でわかるくらいはっきりしたものである。それで名墨と駄墨との差は、当然物理的にきめられるはずである。膠の方は一寸むつかしいが、煤の粉の方はすぐわかりそうである。炭素という元素は、木炭のような無定形のものにも、石墨のような結晶形のものにも、また金剛石ダイヤモンドのような純粋な結晶にもなり得るもので、その成因の差は温度と特に圧力とによって決まるものである。墨色の差は煤の粉の性質によって、少なくもその一部は説明されそうである。そういうことを実はぼんやり考えていたところだったので、圧力の方はまだ考えた人がないという話をきいて一寸驚いた。或いは先生のこの一言をきいて、今までぼんやり考えていたことが、私の頭の中で急に結晶したのかもしれない。先生は科学者として考うべき灸所もちゃんと押え得る人であった。
 雷の話も出た。雷の方も実は前に理研にいた頃一寸手をつけたことがあり、そのうちに本にまとめようかと心づもりをしていた頃である。緒言として昔の人の考え方を少し入れたいと思っていたので、雷神のことを伺ってみた。驚いたことには、漢の時代に既に雷神や太鼓の説を批難した人があったから、それ以前からの考えであろうということであった。雷のことは、その後次の年かに『すゝき野』が出た時、一部贈って戴いて、その中の『神祇論』の中に雷電に関したことがあるから参考にするようにという言伝てがあった。喜んで早速読んでみたが、先生の鴻大な知識に圧倒され、見たこともないような難しい漢字がいっぱいあるのに度胆を抜かれて、考証の方は歯が立たなかった。しかし支那の古来の諸学者の説を、まるで嬰児と腕相撲をするように論破されているところが痛快であった。神は示申よりなり、示は地祇である。申は天神であって、その金文甲文石鼓文ともに皆電光に象ったものである。申字の甲文の六つの変形を見れば、それが「左右定無」く「電光の閃爍して、急に伸び忽ち屈するの状に象」ったことがわかる。
 古人が天上に電光を仰ぎ見て畏れ、「不測の霊を思ひ、神なるものありて天に在るを感じ、始めて神の思想を生じた」と察せられる。七月この電光は屡々地に達して、万物が生い繁る。「古の人、地下に霊力あるを思はざるを得ず」示即ち社朮を地祇として「本に報い始に酬いるの情」を現わした。「人の此情の美より神祇を得るに至って人遂に禽獣たるを免れ、文明漸く積発して、天地に参画するに及ぶ。人と禽獣との異なる、ただ其の祖先に「申」「示」を有すると有せざるとに在り」と先生はいわれる。文字の学も此処まで達すると、最も純粋な形での自然科学の境地と著しく近いものになるのではなかろうか。
 この日の先生はまだ随分元気であった。宣徳の羊脳紙は今日までも新品のようであるという話、麒麟をジラフに当てるのは間違っている話、化石時代のもの例えば恐龍などに龍という字を用いてはいけないという話など、三時間以上も上機嫌で話をされた。その間に質問が二つばかり出た。一つは盛夏氷を得る法であって、何かの容器に熱い湯を入れて、それを深い井戸に落すかどうかして、急に冷やすと氷が出来るという話が、支那の古書にあるがそれは本当だろうかというのである。今一つは白絹で銀の表面をこすると、何とかの色が出るというのであったが、くわしいことは忘れてしまった。もちろん即答は出来なかった。先生は氷の方に興味があったらしく、その後小林君から先生が答を待っておられるらしいという話をきいたが、そのままになってしまって、申し訳ないことをした。熱の現象には慣性がないというのが特徴であって、普通の意味では急に冷やしても、冷やす水の温度よりは冷たくはならない。しかしこの問題に関連して、少し考えてみたいことがあったのだが、のびのびになってしまったわけである。
 丁度その頃、私は国際雪協議会に提出するために『雪の結晶』という映画を作っていた。それがその翌年、昭和十四年の春に完成したので、銀座の東宝の試写室で試写をした。その席へひょっくり露伴先生が小林君とたしか文子さんかに助けられながら、お見えになった。この映画は試写には露伴先生にまみえ、後には天覧も賜わった。まことに果報な映画である。この時の先生は前年よりも急に衰えが見え、自動車の乗り降りも大分難儀なようであった。それだけに先生の「若々しい情熱」と科学に対する愛情とには感を深くした。
 その後一年か二年か後に、また伝通院へ伺った時には、先生は床についておられた。その枕頭でいろいろな話を伺ったが、話題はやはり科学に関係したものが多かった。その時の先生は、界面現象のことにひどく興味をもたれ、いろいろな質問が出た。「この方面は物理学でも化学でも、現在非常に大切な分野となっているので、ファラデーが今生きていたら界面現象の研究に着手するだろうという人もあるくらいです」といったら、如何にも意を得たというような御返事であった。先生は『神祇論』のような按排に、自然と人間とをこめた世界での界面論をいろいろ話された。
 露伴先生が原子核物理学の専門書を読まれ、界面現象に興味をもっておられたということは、知らない人が多いであろう。ところが先生の科学に対する情熱は、実は鑑賞家の態度に止らず、実践の域にまではいっていたのである。小林君の話によると、曩の日の先生は、写真に凝り、鉄砲に熱中し、一時は鍍金にまで手を出して、いろいろ研究をされたことがあるそうである。先生の釣はかなり有名であるが、その釣の方法も全く科学的であった。それは川の水理や水温をくわしく調べる程度にとどまらず、魚の心理までも研究されたそうである。すずきのことをいろいろ調べて、貝殻の破片のような形の小さい鏡を釣針の近くにつけて試みられた。ところがそれをぽいと放り込んだ途端にぐいとかかって大きい鱸が釣れたので、「恐ろしくなって」その釣は止めてしまわれたという話である。何だか[#「何だか」は底本では「何だが」]シバの女王時代のような話であるが、小林君から聞いた話であるから、根拠のある話であろう。
 露伴先生の科学は、普通の量的な計算をすれば、先生の全貌のほんの僅かな一斑点くらいにすぎないであろう。しかし人間の精神の力は、そう簡単に加算だけでは片付かないので、一毛が全体に通ずる場合もあるのであろう。そして露伴先生の科学は、丁度そういう例になるのではないかという気がする。
(昭和二十二年九月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「立春の卵」書林新甲鳥
   1950(昭和25)年3月30日初版発行
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2019年6月28日作成
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●表記について

「雨かんむり/彗」、U+4A2E    164-下-18
「帚−(冖/巾)」    164-下-19
「蚌のつくり+蚌のつくり」    164-下-19


●図書カード