ジストマ退治の話

中谷宇吉郎




 今まであまり思い出のようなものは書かなかったが、私も今年で一人前の年齢に達したので、これからはあまり遠慮しないで、一つそういう話も書いてみることにする。
 もう十年以上も昔の話であるが、私は妙な難病にかかって、死に損ねたことがある。それが科学の力でけろりと治って、今では少しにくらしいといわれるくらい丈夫になっている。
 科学の力は、科学に縁のない人の方が、余計に信用しているようである。科学を商売にしていると、どうも楽屋裏の方がよく見えて、あまり信用する気にはならなかった。物理学などが、科学の方では一番いい方であるが、それも今度の原子爆弾が本当に出来るまでは、少々多寡をくくっていた。しかし原子爆弾には心底からおどろいたので、今では物理学を大いに尊敬している。
 医学の方も、この頃は、ペニシリンだの、ストレプトマイシンだのというものが出来たので、大分信用を高めて来た。しかし十年前までは、西洋医学の方は、少し難病の患者には、あまり信用がなかったようである。その証拠には、心霊療法のようなものが、東京の真ん中で、立派に大邸宅をかまえて繁昌していた。医者がどんどん病気を治してくれれば、そんなものが跋扈するはずがない。
「人間の身体のように複雑をきわめたものは、浅はかな学問の力などでは、どうにもなりません。医者はただ自然治療をそっと見守ってるだけですよ」などというと、さすが名医だというようなことになる。それほどでなくても、とにかく少し大乗的な話を入れないと、世間はなかなか名医の仲間には入れてくれない。
 そういう工合で、一般には、物理学や化学の方が信用が厚くて、近代医学の方は、少なくもごく近年までは、あまり評判が良くなかった。しかし私は反対に、近代医学の方を、原子爆弾より十年くらいも前から信用して来た。原因は簡単で、自分の病気が医学のおかげで治ったからである。
 話は蘆溝橋事件の前、昭和十一年の昔にかえるが、その年に北海道大学に初めて低温室が出来た。その中で早速雪の結晶の人工製作という、前から目星をつけておいた実験にとりかかった。ところが幸か不幸か、その実験が巧く行って、二カ月も経たぬうちに、最初の人工雪が一つ出来た。
 それで私も助手の人たちも、夢中になってその実験に熱中した。それと運悪く、妻の大病と考古学をやっていた弟の死とがぶつかり、私もすっかり身体を痛めてしまった。四月頃から胃の工合が悪くなり、食後に胃がしねしねと痛んで、ひどく痩せて来た。そしていつでも、胃袋の形とその存在とが自分にもわかって、いやな気持であった。しかしその年の夏には、英国の日食班が北海道へ来たので、その案内役をつとめたり、秋の大演習に、天皇陛下を低温室内にお迎えして、人工雪の実験をお目にかけるという大任があったので、無理を承知の上で、ずっと学校へ出ていた。その間登別温泉の北大分院へも、三週間ばかり入院して、超短波などというものをかけてみたが、ちっともよくならない。もっとも前から内科の方でも外科の方でも、いろいろ診断をしてもらっていたが、病名さえはっきりしていなかった。結局胃潰瘍、十二指腸潰瘍、乾性腹膜炎、慢性盲腸と、四つの診断が下され、やれやれということになっていた。酒も、煙草も、コーヒーも、肉類も、全部禁止。毎日牛乳ばかり飲んでいたが、もちろんそんなことでよくなるような生易しい病気ではなかった。
 到頭あきらめて、雪の結晶の天覧がすんで間もなく、何もかにも放り出す気で、さっさと家をたたんで、伊豆の伊東へ引き揚げてしまった。その頃は、物理学さえあまり信用していなかったくらいだから、西洋医学などもちろん信用する気にはなれなかった。結局温泉に浸って、あたらしい刺身でも食べる方が一番いい療法だと思ったわけである。あとで聞いた話であるが、その頃、今の日立の中央研究所長をしている鳥山君が、まだ北大工学部の教授であって、電気学会の会員たちをつれて、低温室へ人工雪の見学に来たことがあったそうである。その時私が説明をするのに、ステッキでやっと身体をささえていたということである。鳥山君が驚いて、当時私と同僚であった茅君に、「中谷君はあれで大丈夫なんかい」と、こっそりきいたそうである。この話は私がすっかり快くなってから、茅君が昔話として話してくれたのであるが、よほど皆に心配をかけたものらしい。
 伊東へ来てから、初めのうちは、大変調子がよかった。
 伊豆の温泉と、南国の太陽と、それにあたらしい小魚とが、私の身体に、再び生気を吹き込んでくれたような気がした。その冬は案外元気よく過ごして、しみじみ自然の恵みという言葉を味わった。やはり注射などよりもこれに限ると、西洋医学の方は適当に軽蔑して、いささか大乗的見地に立ったつもりでいた。そしてひまにまかせて、随筆などを書き散らしながら、大いに南国の冬を讃美して、御機嫌であった。もっとも酒も煙草もコーヒーも、相変らず敬遠して、神妙にはしていた。
 しかし、そういう自然療法には、やはり限度があるものとみえて、次ぎの年の春になっても、初めの予想のようには、ちょっともはかばかしく恢復しない。夏になっても、依然としてよくない。もっともその頃になると、自分では病気に馴れてしまっているので、案外平気で、時には東京へも出て行くくらいであった。しかし余所よそ目には、だんだん衰弱して行く私の姿が、あわれに見えたらしい。
 これもずっと後になって、岩波の小林勇君が芽出度い昔話としてきかせてくれた話であるが、その頃私の初めての随筆集『冬の華』を、岩波から出してもらうことになっていた。その頃はまだ気が小さかったので、小宮さんにすすめられ、かつ適当におだてられて、やっと思い切って「本を出す」気になったわけである。或る日のこと、小宮さんが岩波の主人に「中谷君の本はまだ出来上がらないかね。なるべく綺麗な本にして、生きている間に見せて喜ばせてやりたいから、少し急いでつくってやってもらえないかね」といわれたことがあったそうである。誰の眼にも、あと半年くらいというところであったらしい。
 それでも案外よく持って、その冬も無事に越し、伊東で第二回目の夏を迎えた。伊東の暑さには、前年の夏でこりたので、その夏は涼しい札幌で越すことにきめて、北大病院へ、今から思えば贅沢な入院をすることにした。毎日ベッドの上で静かにねころんでいて、出来るだけ御馳走を食って、腹部へレントゲンをかけていた。これで目方が少しずつでも増して行けばしめたものだというので、毎日の食事量を精しく記録し、一週間ごとに目方を正確に測ることになった。
 ところが心細いことには、目方は一週間ごとに正確に減って行った。初めは汽車の疲れの残效果アフターエフェクトだろうということであったが、三週間目も、四週間目も、物理実験のように正確に、一定量ずつ目方が減って行く。こう数量的に正確に、生命の衰えがはっきり見えるのは、あまり気持のよいものではない。どうもこれはいかんぞと、自分でも思うようになった。
 そういう悲境の最中に、岩波の小林君から、一通の手紙がとどいた。それが私の病気治療に一転機を劃したものなのである。その手紙には、小林君もどうも原因不明の妙な病気で、この数カ月悩んでいたが、けっきょく肝臓ジストマであることがわかり、その治療をしたら大変元気になったと書いてあった。そしてあなたの病気も、どうも肝臓ジストマではないかという気がするから、一つ便を慶応の小泉(丹)さんのところへ送ってみたらどうかとすすめてあった。それで早速、便を少しとって、セロファンで包んで乾かないようにして、飛行便で慶応病院あてに送ってみた。当時は東京―札幌間に定期航空路のあった時代である。
 四、五日したら返事が来た。大変な量の肝臓ジストマの卵があるというのである。これも後になって岩波さんからきいた話であるが、小泉さんも少々面喰って、これは大変だ、とにかく東京へ呼んでくれ、しかし自信をもって引受けるわけには行かないと、大いに弱られたそうである。私への手紙には、さすがにそうは書いてなかったが、とにかく東京へ来いと、熱心にすすめてあった。
 それですぐ飛び出して、東京へ出て来た。そして岩波さんと小林君とにつれられて、慶応病院へ小泉さんを訪ねた。八月の末のあつい日で、小泉さんは教授室で猿股一つになって、本を読んでおられた。
 よく話をきいてみると、とんでもない虫にとりつかれたことがわかった。肝臓ジストマは、何といっても内臓の奥の肝臓の中にいるので、薬がなかなか效かず、駆除は従来は不可能ということになっていたそうである。しかしこの頃はファーディンというアンチモンの注射薬が出来たので、その注射薬を巧く使えば駆除が出来る。現に小林君がそれで治ったが、これは肝臓ジストマ完全治療の日本でのナンバーワンである。君はそのナンバーツウになるわけだが、とにかく人間が死ななくて虫が死ぬというリミットのところまで注射するので、その身体では一寸無理だと思う。とにかくこの病院にまだ助手の人で、武見君というのがいる。この男はまだ若いがなかなかえらい医者だから、よく身体を診てもらって、それからのことにしようという話であった。それだけでも有難くないのに、「ファーディンというのはドイツの薬で、日本人には少し無理なんだ。前にもこれで患者を殺した病院があったそうだ」と余計な話までしてくれた。乱暴な医者もあったものである。
 もっとも私の身体では、話が初めから無理なので、帰ってから岩波全書にある小泉さんの『寄生虫概論』とかいう名前の本を開いてみたら、肝臓ジストマのところには「駆除の方法なし」と書いてあった。これは素人向の本だからと、自ら慰めておいて、後で伊東で懇意にしていたお医者さんのところへ行って、寄生虫の部厚い専門書を借り出して見た。それにはいろいろな注射薬のことが書いてあり、治療例も二、三載っていたが、結論は「駆除は困難だ」というので、がっかりした。アンチモンは毒薬であって、それを虫を殺す程度まで肝臓の内部へ滲み込ませようというのであるから、あと半年という身体では、もともと無理な話であった。しかし結局のところ、このファーディンで、私の肝臓ジストマは完全に退治されたのであるから、西洋医学も決して馬鹿にはならないのである。しかしこの文の初めに、科学の力で難病がけろりと治ったと書いたのは、このジストマ退治の話だけではない。それよりも、もっと面白い話があるのである。

 十年前の武見さんは、もちろん今日ほど有名ではなかった。しかし一部の識者の間には、その科学的診察と治療法とが、既に認められていた。私はもちろん会うのは初めてであり、名前もきいていなかった。病気にも医者にもすっかりすれっからしになっていた私は、失礼な話であるが、この若い助手の人が、どういう診察をするか、初めは幾分の興味をもって診てもらう気になっていた。
 ところが、その診察法が、今までとは、ちょっと様子がちがっていることに、すぐ気がついた。胸をたたくにしても、聴診器をあてるにしても、腹をさするにしても、ひどく丁寧で、何かを探している鋭い心の眼がはたらいているように感ぜられた。
 ベッドの上にねかせて、きわめてそっと胃袋のまわりをゆっくりと撫でまわしていたが、そのうちに「一寸右を下にしてみて下さい」という。そして右下にねかせながら、同じところを撫で廻し、今度は左下にして同じことをくりかえす。そういうことを二度ばかりくりかえしているうちに、この若い医者の顔は、ひどく真剣な怖い顔付になった。
「どうもへんだ。あなたは今朝、朝飯を何時に食いましたか。どれくらい食いましたか」
「八時頃です。御飯を軽く二杯と、味噌汁を一杯と、煮魚を一切れくらいでしょうか」
「そうでしょう。しかし今十時だから、その食物はまだ胃の中にあるはずなんだが。それだけの物が中にあると、右下にしたり、左下にしたりすると、その目方で胃袋が垂れ下がらねばならないのに、あなたの胃袋は、周囲の臓器との相対位置レラティブポジションが、ちっともかわらないんです。胃の周囲にひどい癒着があるとより他に考えられませんね」という。
 なるほど、これは重力を用いる実験である。これは面白いと、私はすっかり機嫌がよくなった。「それでは」と武見さんは、真面目な顔をしながら、「今一度脈を拝見しましょう」と、左右の脈所を、両手で握って、ストップウォッチを眺めながら、しばらく診ている。そしてその姿勢のままで、「それでは二十回深呼吸をしてみて下さい」という。深呼吸の間はもちろんのこと、すんでもいつまでも脈をとっている。おそろしく長い間である。五分間も両手を握ったまま脈をかぞえていたが、やがて「大体わかりました。あなたの病気は、頭が悪いのだと僕は思いますね」という。これには私も少々毒気を抜かれた。
「胃の周囲にこういうひどい癒着が出来るのは、いろいろ原因が考えられますが、間脳の機能が不調になって、植物神経が悪くなると、胃周囲炎ペリガストリシスというのが起ることがあって、もっとも滅多にない病気で、ハントブーフにも五行くらいしか書いてない病気ですが、あなたのはどうもそれらしいんです。深呼吸をすると、四つに一つ脈が結滞するんですが、止めて五分くらいすると、又旧にもどるんです。こういうのは心臓の病気ではなく、植物神経の不調なんです。間脳の治療の方をさきにしなければいけませんね。もっとも植物神経がこんなにやられていると、血管の毛細管のさきがひどく崩れているはずだが、ウルトロパークで一つ見てみましょう」という。
 ウルトロパークというのは、ライツで売り出している顕微鏡で、普通の顕微鏡のように光を下から透過させて見るのではなく、上から反射させて、光を通さない固体の表面を調べる顕微鏡である。ウルトロパークならば、私の方でいつも手がけている器械で、何年来なじみの顕微鏡である。爪の根本に近い一番表皮のうすいところにセダーオイルを塗って、そこをウルトロパークで覗くと、毛細管のさきの部分が、皮膚をすけて見えるのである。
 私の指の先を載物台の上に固定して、武見さんは、一方の手で光源を調節しながら、今一つの手でウルトロパークの焦点を合わせていた。しばらくやっていたが、そのうちに「君、一寸覗いてみたまえ。ひどくなっているよ」とうれしそうにいう。あまり有難くないのであるが、仕方なく覗いてみると、なるほどひどくなっている。本来ならば、毛細管のさきのところは、美しい螺旋形になって表皮近くまで来てまた戻っているはずなのに、螺旋形のところが少しも見えない。「なるほど、ひどいですね」と私も調子を合わす。せっかくお医者さんが喜んでいるのだから仕方がない。
「君、これじゃ、癒着だってひどくなるよ。きっと輸胆管のあたりもひきつっていて、胆汁がうまく腸へ送られないだろう。そうすると、消化不良だの何だのいろいろな故障が起きてくるよ。もっともそれだと小便に胆汁がでているはずだが。一つ小便をとってみてくれませんか」
 看護婦が、小便の胆汁検査をしている間に、胃周囲炎なる尊敬すべき病気の話をきく。よほど珍しい病気とみえて、武見さんも、あなたが初めての患者で、かつ模範的な症状だと褒めてくれた。私もあなたの診察のやり方は、実験物理学の要諦にふれていると褒めておいた。この病気は非常に慢性的な病気で、ここ二年や三年前から始まったものではなく、二十年くらい前からの病気だろうという。「朝起きて、口の中に唾がいっぱいたまっていた経験がありませんか」ときかれてみると、なるほど中学の寄宿舎にいた頃から、そのとおりで、毎朝不愉快な思いをしたことがあったのを思い出した。二十年以上も、機能の悪い間脳を、頭の中に大事にしまい込んでいたのかと、少しがっかりした。
 看護婦が小便のはいった試験管をもって来て、反応は著しい陽性だという。これくらいでもうよかろうということになって、控室で心配して待っていてくれた岩波さんと小林君に診察室へはいってもらう。「どうですかね。治りますかね」と、岩波さんが例のせっかちな調子できく。「診察は非常にむつかしい病気だが、治療は簡単な病気ですよ」と武見さんは落着いている。
「とにかくこの状態じゃ、肝臓ジストマの退治は、後廻しですね。まず間脳の方を治して、それから癒着をとって、全身の栄養を恢復して、まず三、四カ月はかかるかもしれませんね。それからジストマ退治にかかりましょう。なに、ちゃんと薬がありますから、大丈夫です。間脳の方は、ベレルガールで治りますよ。癒着の方は少し厄介だが、枸櫞くえん酸ソーダが效くと思いますね。胃袋の内面の方はビオトモサンか何かで保護することにすれば、多分大丈夫でしょう」ということになった。
「食物の方は」ときくと、「肉でも何でも好きなものを食っていいですよ。酒も好きなら少しくらいかまいません。そんな身体で栄養が充分行かなかったら、死んでしまいますよ」という極めて頼もしい返事である。
「そうか、そりぁ万歳だ。中谷さん、銀座へ肉を食いに行こう」と岩波さんは凱歌をあげて、私と小林君をひきつれて、銀座へタクシーをとばせた。
 三年ぶりに、恐る恐る牛肉を食ってみたが、やはり美味かった。私も妙に愉快になって、大分肉をくって、身体に力がついたような気になって、意気揚々と伊東へ引きあげた。あの時「そりぁ万歳だ」といった岩波さんは、もう故人の中に入り、あと六カ月のはずの私は、臆面もなくこういう物を書いている。
 ベレルガールというのは、妙な薬である。マッチの頭くらいの小さな粒を、二粒だったか四粒だったか忘れたが、それを夜明けの五時頃にのむ。そうすると、午前中うつらうつらとして、ねるでもなく、さめるでもない調子で床の中にいる。もっともこれは多年の懸案が解決した心のゆるみもあったのであろう。一日に一度服むだけであって、その服む時刻が尋常でないのも一寸気に入った。
 枸櫞酸ソーダ入りの粉薬は、毎食後にのむので、これはきわめて尋常である。ところで不思議なことには、約三週間、その半日のうつらうつらをやり、枸櫞酸ソーダをのんでいたら、胃袋の存在がいつの間にか、自覚されないようになって来た。人間の身体なんて、実に簡単なもので、理窟どおりに治るものだと、少し気恥しくなると同時に、それ以来西洋医学をあまり馬鹿にしないことにきめた。三週間に一遍くらい東京へ出て来て、武見さんに診てもらうごとに、「あなたはなかなか名患者だ。よく治っている」と褒められた。結局二カ月くらいしたら、もう自覚症状は全然なくなり、小便へ胆汁も出なくなった。
 これで準備工作は、一応完了した。これからいよいよ肝臓ジストマ退治にかかるわけである。
 胃袋の方は不思議なほどよく治ったが、何といっても、三年越しの療養生活の後であり、何千匹というジストマは、まだ肝臓の中に頑張っているので、なかなかそう急に全身栄養までよくなるというわけには行かない。それでまず身体をアンチモンに対して馴化する方がよかろうということになった。それには、ミルスとかいう和製のアンチモン注射薬があり、これは效きも悪いが、その代り副作用も少ないので、それでまず身体を馴らすことにした。
 武見さんの考えでは、一日おきに二十五本くらいやればいいだろうということであった。途中風邪をひいたり、おなかをこわしたりすれば休まねばならないので、まず二カ月の辛抱を必要とする。もっともこの方は危険はなく、伊東の懇意のお医者さんにやってもらえばよかったので、その方は簡単であった。ただ二カ月間、他の事故を起さないように注意するのに、少し閉口した。時々便を調べてもらったが、卵は依然としてたくさんあり、減少の模様も見えなかった。結局二カ月かかって、この注射は肝臓ジストマの駆除には役立たないということを立証して、おしまいになってしまった。
 この間身体の方は、依然として大体調子よく、副作用もほとんど見られなかった。もうよかろうということになって、いよいよファーディンにとりかかることにした。この方は十本だったと記憶しているが、四日おきくらいに、臀筋注射をするのである。量も多いし、アンプーレも厳めしいし、それに前からおどかされていたので、一寸こわかった。それで最初の一本は、武見さんに伊東まで来てもらって、自分の家でやってもらうことにした。
 もっとも武見さんの方では、自信があったそうである。ファーディンで死んだ例があるという話をきいたので、その副作用を予防するための研究を、猫を使ってやってみたのである。普通こういう副作用の予防には、カルシウムを同時に注射するのが常識になっている。やってみると、なるほど副作用はないが、同時にアンチモンの方も效かなくなるので全く意味がない。それでいろいろ考えた末、ビタミンCとグルタチオンとを同時に注射すると、副作用も少なくなり、アンチモンも效くという結果が得られたそうである。それにも何か理窟があったのであるが、くわしいことは忘れてしまった。
 それにしても動かない方がいいというので、床を敷いてその上で、両腕にビタミンCとグルタチオン、お尻にファーディンをやってもらって、そのままぐっすりねてしまった。眼をさましてみると、何でもない。第一本は美事に成功したのである。これなら大丈夫だというので、二本目からは東京へ出かけ、丁度文理大の藤岡君のお母さんが、慶応に入院していたので、その病室の隅を借りて、しばらくねかせてもらうことにして、注射をつづけて行った。
 五本くらいまでは、何ごともなかった。そして便を調べてもらったら、卵の数はあまり減らないが、少し小さくなったということであった。それに力を得て、だんだん注射を進めてゆくと、幾分副作用が出て来はじめたようである。熱が少し出たり、身体の節々が病んだりして、あまり気持がよくない。薬がだんだん体内に蓄積されるのであろう。しかしこれからが本当に效くのだとはげまされて、我慢して注射をつづけた。便の中の卵がひどく小さくなったから、虫が大分弱ったのだろうときかされ、それを大いに頼りにした。
 しかし後になるほど、副作用はますますひどくなる。もっとも小林君の前例をきいてみても、そのとおりなので、そう心配することはないはずであったが、何分身体の方がひどく弱っているので、大いに心配した。物理の実験とちがって、やり直しというわけには行かないので、慎重を期する必要がある。
 到頭最後の一本は、武見さんに伊東まで来てもらって、悲壮な決心でやってもらった。細君はのんき者だから、「もうこれでおしまいね。芽出度いことね」とはしゃいでいたが、こっちはそれどころではない。夜ねる前にやってもらって、そのままねこんだのであるが、夜中に眼をさますと、骨の節々がひどく痛み、身体中の骨ががっちりと固定されたような感じで、身動きも出来なければ、寝返りもうてない。やっとそのままの姿で小便をとってもらってじっと我慢していた。それでも有難いことには、翌朝は起き上がれるようになり、一日くらいで大体旧にかえった。人間が死ななくて、虫が死ぬリミットというものは、あまり気持のよいものではない。
 それから二、三日して、便を検査してもらうために、例の懇意のお医者さんのところへとどけた。そしたらしばらくして、そのお医者さんが、えらい勢いで家へかけ込んで来て、「先生、お芽出度うございます。卵は一つも見付かりません。不思議ですなあ」という騒ぎになった。本当に芽出度く「科学で病気が治った話」が出来上がったわけである。その後二、三カ月して札幌へ帰って、遠心分離器で便の集卵をやってもらったが、やはり完全に卵は見えなくなっていた。これくらいで、私も自分の病気を放免してしまった。
 その放免が間ちがいでなかった証拠には、その後健康には全く気をつかう必要がなくなり、十年あまりの年月が無事に経過した。その間に今度の大戦があって、いわゆる戦時研究にずいぶん無理な身体の使い方もしたが、何事もなかった。終戦後の混乱時に、毎月のように、超満員の東北線で東京通いもしたが、それも何事もなかった。けっきょく憎らしいくらい丈夫になったわけである。
 ところで、肝臓ジストマも、胃周囲炎も、ともになるべくはかからない方がいい病気である。私の場合は、途中一度も故障なく、順調に治癒したのであるが、それでもまる六カ月かかった。敗戦後のこの気ぜわしい時代には、不向きな病気である。胃周囲炎の方は、原因はよくわからないから仕方ないとして、肝臓ジストマの方は、銀座の某店でふなの刺身を食ったからである。だからああいう危いものは、食わない方がよい。
 銀座の某店に罪を帰したのは、次のような調査にもとづいた結論である。第一に私も小林君もともに某店で鮒の刺身を食い、二人ともジストマにとっつかれた。それが第一の理由である。その時はほかにも食った人があったので、その人の便をもらって、小泉さんに調べてもらったところ、無罪であった。ただし鮒によって中間寄生をしているのといないのとがあるので、これは否定の資料にはならない。運が悪いと、刺身の一切れで百匹も二百匹もいる場合があるそうである。
 もっともこれだけでは不充分である。伊東の海魚は時に川にもはいって来るので、ひょっとするとジストマをもっているかもしれない。それで私と同じものを食っている妻の便を調べてもらったが、これには卵はなかった。
 今一つ疑問がある。それは肝臓ジストマは七年くらい寿命があるそうであるが、私は郷里の加賀へ帰ると、鮒の刺身が好きで、よく食ったものである。加賀地方にはジストマはいないということになっているが、それも怪しいものである。ところで巧い人を思いついたのであるが、妻の兄で金沢に住んでいて、釣が好きで鮒の刺身を常食のようにしている男がある。それでその兄の便を取り寄せて調べてもらったが、これにも卵は全然見付からなかった。
 以上の結果から、金沢の鮒でもなく、伊東の刺身でもない確率が大きく、銀座の某店の鮒である確率が非常に大きいという結論に達したわけである。こんなつまらぬ調査をしなくても、今後鮒の刺身さえ食わねばいいはずであるが、二カ月もミルスの注射をしながら身体をアンチモンに馴らしている間の退窟しのぎに調べてみたことである。
 この話の中では、人を殺さないで、虫を殺すリミットの薬とその薬量とは、もちろん科学であるが、患者を実験材料だと心得て診察を行うところの方が、もっと科学的である。科学と非科学との差は、器械を使うか使わないかにあるのではない。何ごとにあれ、眼を開いてものを見るか、眼をつぶって見るかのちがいである。
 この話はもう十年以上も昔の話であり、医学のことは専門外であるから、病状の説明や、薬の名前などは、多少ちがっているかもしれない。記憶ちがいの点ももちろんあるだろう。しかしそういうことは、科学とは本質的に抵触することではないと思って、図々しくこういうものを書いたわけである。
(昭和二十四年)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第二巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年8月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年9月30日第2刷発行
底本の親本:「日本のこころ」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月15日発行
入力:砂場清隆
校正:岡村和彦
2020年8月28日作成
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