実験室の思い出

中谷宇吉郎




 実験室に於ける寺田先生のことを書こうと思うと、私はすぐ大学の卒業実験をやった狭い実験室のことを思い出す。
 それは化学の新館と呼ばれていた、小さい裸のコンクリートの建物の一階にあった狭い実験室である。震災の翌年のことで、物理の建物が使えなくなったので、化学の新館を借りていたのであった。この実験室の中で、寺田先生の指導の下で卒業実験を始めたのが、正式に先生の下で研究らしいものを始めた最初であった。
 その頃の思い出を書く前に、先生との機縁ということについて考えてみると、私は今更のように、世の中というものは、随分微妙なものだという気がする。今日北海道の一隅で、非常に恵まれた条件の下に、好き勝手な研究を楽しんでいる自分の生活をふり返って見ると、その出発点は、全く寺田先生にある。もし先生を知らなかったら、私は今日とはまるでちがった線の上を歩いていたことであろうと思う。それにつけて私は、生涯の岐路というものは何時もあって、その方向を決める要因が案外些細なものであることが多いのではなかろうかと、この頃時々考えている。というのは、私が寺田先生の学風の下に入った機縁は、全く友人桃谷君の長兄の簡単な言葉にあったのである。
 私たちの大学時代には、東大の物理学科では、学生が三年になると、理論と実験とに分かれて、実験を志望する連中は、各々その指導を願いたい先生の下で、一年間研究実験をして卒業することになっていた。それで二年の三学期になると、誰もが真剣になって、研究実験の選択に頭を悩ますのであった。
 ちょうど私たちが二年生の時に、大地震があった。大学もその災いに遭って、大抵の建物が使えなくなったので、三ヵ月近くも休みになった。そして冬近くになって、やっとバラックの中で講義が始められたような始末であった。この震災で私の家もすっかり焼けてしまった。その天災は私には物質的にも精神的にも著しい打撃であった。それで卒業後は今まで漫然と考えていたところの研究生活というものからすっかり縁を切って、理科系統の会社にでも入って、実際に物を作りそして金もうんと儲けようという決心を一時的にしたことがあった。
 今から考えれば、随分妙な決心をしたものであるが、その時は真面目にそのように考えたのであった。それで三年になってからの研究実験にも、応用物理学の中で近い将来に大発展をするような方面を選ぼうと思った。ちょうどその頃は真空管が我が国でも実用化されかけて来た時であったし、それに桃谷君の親戚に当たる関西のある大会社でも、その方面に力を入れようとしていたので、無線関係の題目を研究実験に選ぶことに一応考えを決めた。
 もっとも寺田先生のことは、冬彦の名を通じてよく知っていたし、時々御宅の方へ遊びにも行っていたので、事情さえ許せば、先生の下で研究実験の指導をうけたいという強い希望が心の底にはあった。しかし先生の教室で、煙草の煙のもつれ方や三味線の音響学的研究をしたのでは、金を儲ける方とはどうにも関係のつけようがないと思って、真空管の方を特に実際方面のことと関聯かんれんをつけて研究して見たらという気になった。
 桃谷君は高等学校時代からの友人で、一緒に物理へはいって来ていたのであるが、そういうつもりならば一応問い合わせて見ようと言って、その長兄の意見を求めてくれた。ところがその返事が、私には天啓であった。別に変わった意見が出たわけではないが、そういう偉い先生に個人的に接触する機会があるなら、それを逃すのは損だ、卒業してからのことはまたその時になって考えたら良かろうというのである。
 如何にももっともな意見なので、私はすぐ賛成した。そして三年になると、一も二もなく先生の指導の下で、研究実験をすることに決めた。誠に他愛のない話であるが、若い時の考えなどは、あの大震災くらいのことでも、随分影響されるものだと今になって思いみている。
 ところであの時桃谷君の長兄から、それは良い考えだから是非真空管をやって、卒業したらうちの親戚の会社の方へ行くようにし給えという返事があったならば、私は多分そうしたことだろうと思う。そしてそれから今日までの間に、私は今の生活からはまるで縁の遠い路を通って、現在の自分とは全く別の私が一人出来上がっていたことだろうと思う。巧く行ったら今頃は重役になっていたかもしれないが、そのかわり物理の本当の面白味というものは遂に知らず仕舞いに終わったであろう。
 そういう風に考えて見ると、桃谷君の長兄は、自分では多分知らないでいて、非常な影響を私に残してくれたことになる。いつかゆっくり会って、御蔭で重役になり損ねましたと言おうか、御蔭様で生涯没頭して悔いのない面白い仕事にありつきましたと言おうかと思っているうちに、その人はもう亡くなってしまった。
 いよいよ三年生になって、研究実験を始めることになったら、同期の友人でほかに二人先生の指導を受けることになった。一人は桃谷君で、題目は霜柱の研究というのであった。もう一人は室井君で、この方は熱電気の実験をやることになっていた。そのほかに湯本君という一年先輩の人があって、ちょうどその年卒業して、大学院に残って、水素の爆発の研究をしていた。私は前から湯本君をよく知っていた関係もあって、一緒にその水素の実験をやるようにと先生から言いつけられた。
 先生は例の胃潰瘍の大出血後ずっと学校を休んでおられて、三年振りか四年振りかでやっと正式に大学へ出て来られたという時代であった。それで以前の御弟子の人たちは、一応途切れた形になっていた。そういう時期にちょうど私たちが当たったもので、その年度に、先生の直接の指導の下で仕事をしていたのは、この四人だけであった。後に先生が理化学研究所と地震研究所と航空研究所とに、それぞれ研究室を持って、若い元気な助手を十数人も使って、活溌な研究生活を続けておられた姿を思ってみると、誠に今昔の感にたえないものがある。
 ところが四人の実験室であるが、大震災直後のこととて、どうにも部屋の融通がつかないという話で、化学新館の狭い一つの実験室の中で、皆が一緒にやることになった。化学教室の実験室を借りての話だったもので、中には大きい作りつけの化学実験台が二つも備えつけてあって、それが邪魔になって困った。まずやっと身の置き所があるという程度の部屋であった。
 それでも生まれて始めて題目を貰って、自分で研究を始めるのであるし、実験台の片隅を自分の机とすることも出来るので、一同はすっかり物理学者の卵になった気持ちで有頂天であった。皆が急に勉強家になるのもちょっと可笑おかしかった。
 朝学校へ来ると、まず鞄をその机の上に置いて、身軽になって、ノートを一冊もって講義のある時だけ教室へ行く。それが高等学校時代からあこがれていた大学生の生活なのであった。講義は午前中二、三時間だけ聴いて、あとは実験室の片隅でやすりがけや盤陀はんだ付けで小さい実験装置の部分品を作ったり、漫談に花を咲かせたり、時にはビーカーで湯を沸かして紅茶を淹れて飲んだりしていた。
 時々法科方面の友達などがやって来て「君たちはいいな、僕の方は三百人も一緒に大講堂で大急ぎにノートを取るだけだから、とてもこういう感じは出ないよ」などと羨ましがるもので、益々いい気になっていた。そしてもう会社へはいって金を儲けてなどという考えは、何時の間にかけろりと忘れてしまっていた。
 一学期も終わって、そろそろ一同の装置が揃ってくると、部屋は益々窮屈になって来た。無理遣りに小さい実験台をいくつか押し込んで、三つの実験がやっと同時にやれるようになったのであるが、椅子などは邪魔になって仕様が無い。それで皆小さい円い木の腰掛けにとりかえてしまうという騒ぎであった。
 先生は毎日のように午後になるとちょっと顔を出された。そしてその小さい腰かけにちょこんと腰を下ろして、悠々と朝日をふかしながら、雑然たる三つの実験台を等分に眺めながら、御機嫌であった。
 その頃はちょうど藪柑子集や冬彦集が初めて世に出た時代で、先生の頭の中に永らく蓄積されていたものが、急にはけ口を得てほとばしり出始めたような感じを周囲に与えておられた。研究の方も同様であって、三年間の病床及び療養の間に先生の頭の中で醗酵した色々の創意が、のままの姿でいくらでも、後から後からとわれわれの前に並べられた。それらの創意は、皆その後数年の間に育て上げられて、後年の先生の華々しい研究生活の一翼をそれぞれなすようになった。一年間の研究実験を終え、その後引き続いて理化学研究所で三年間先生の助手を務め上げていた間に、私はこの偉大なる魂の生長をすぐ傍で見つめていることが出来たはずであった。しかし当時の私は唯眩惑されるだけであった。そして今頃になって、頭の片隅に残る色々な実験室内の場面を綴り合わせながら、おぼろにその輪廓をたどるような始末である。
 桃谷君の霜柱の研究というのは、武蔵野の赤土に立つ唯の霜柱のことである。あの美しい、しかし誰も見馴れている霜柱などを、改めて物理の研究の対象として、本気で取り上げようとする人は今まで余りなかった。しかし霜柱の現象は実は世界的にかなり珍しい一つの自然現象なのであって、寒い伯林ベルリン倫敦ロンドンなどでも、われわれの知っているような霜柱を見た人は余り無いはずである。
 土と水の混合物から、水があのように完全に分離して氷の結晶として凍り出るのは、かなり微妙な熱的条件の均衡と、土質の特異性とによるものなのである。それは広い意味での低温膠質物理学の重要な課題の一つなのであって、そういうことも、実は近年になってやっと分かって来たのである。先生は桃谷君に、こういう日本に独特という程でもないが、とにかく顕著な自然現象を、日本人の手で解決することをすすめておられた。そしてこの現象は土の膠質的性質に起因するものであろうという見込みをつけて、まず膠質物理学方面の測定技術を修得するような実験を言いつけられた。
 近年になって、霜柱の研究も大分盛んになった。その中でも著しい業績は、自由学園の自然科学グループの人たちの研究で、その生成が土中に極微な粒子の存在することによるという点が明らかにされ、先生の見込みを確かめる結果を得たことである。先生の所謂いわゆる嗅ぎつける力の一つのささやかな例として見ても、この話は私には一種の懐かしさをもっているのである。
 それよりももっと重大なことは、この霜柱が、寒地の土木工学上大切な問題として、ごく最近に、低温科学の表面に浮き出たことである。極寒地では冬土が凍ると持ち上げられ、所謂凍上とうじょうの現象が起きる。この力は大変強いので、北満では煉瓦造りの家屋がその為に崩壊したり、それよりも困るのは、鉄道線路に凹凸が出来て汽車が走れなくなる。北海道などでも、ひどい所では一尺くらいも持ち上げられることがあって、その為に被る鉄道の被害は著しいものである。それが実は地下の霜柱によることを、最近に確かめることが出来たのである。
 実は昨年札幌鉄道局に、凍上防止の委員会が出来て、私もその物理的方面を担当することになった。初め色々現象をきいて見ると、霜柱と類似の点が多いので、それならば余り縁の無いことでもないと思って引き受けたのであるが、現場の発掘と低温室内での実験の結果とから、それがやはり地下の霜柱に起因することがわかった。私は二十年前の実験室内の光景を心に描いて、先生の着眼の程を思い見ると同時に、ある種の因縁のようなものを感じた。
 霜柱の隣では、室井君が熱電気に関する特殊な現象を調べていた。この方は調べるというよりも探していたと言った方が良いので、最後の目指すところは、地球磁気の根源を捉えようという話であった。とんでもない大問題を学生の卒業実験に課されたものであるが、先生の説明をきくとよく納得された。
 地球がどうして磁気を持っているかという原因については、色々な説が出ているが、結局のところは分かっていない。それで先生は、地球内部が高温になっている為に、熱は始終中心から地球表面に向かって流れている。それと地球の自転の影響とで、何か熱電流のような現象が起き、大体緯度線に沿って電流が流れて磁気を生じているのではなかろうかと思いつかれたのだそうである。大分後になって、同じような仮説を出した学者が亜米利加アメリカにも前にあったことが分かったが、そんなことは別に問題にする必要はない。
 室井君の第一の仕事は、針金に急激な温度傾斜を与えてそれで出来る電流即ちベネディックス効果を、色々な条件の下で測って見るというのであった。手製のアスベストスの棒に針金を捲きつけて、それを不細工な歯車か何かにとりつけた妙な装置が出来上がった。それに瓦斯ガスの炎をぶうぶうと吹きつけながら、室井君は歯車を片手でがらがら廻しては、検流計ガルバノメーターの望遠鏡を覗いていた。
 誰かが遊びにくると、よくあれは火事の実験かいと聞いた。そして今にあれで地球磁気の原因が分かるはずなんだと言うと、中には「正に団栗どんぐりのスタビリティを論じて天体の運動に及ぶ類いだね」という男もあった。
 この研究はその後、理研で筒井君があとを引き受けてずっと続けることになった。結局地球磁気の原因は分からなかったが、ある種の金属結晶体に縦に熱を流すと、それと直角の方向即ち横向きに電流が発生するという新しい現象の発見に導かれたのであった。この発見は先生の数多い業績の中でも特筆すべきものの一つであったが、室井君がぶうぶうと炎を吹きつけていた頃のことを思うと、傍観者たる私たちにも感慨深いものがあった。
 ところで湯本君と私との水素の爆発に関する研究であるが、この方は、実は湯本君がもう一年前から始めていたので、装置は大体出来ていた。それで私たちの方は直ぐ測定にとりかかれた。
 この研究は飛行船の爆発防止の問題に関聯して始められたものであった。あの頃は日本ばかりでなく、外国でも飛行機が今日のように発達していなくて、飛行船がまだかなり有望視されていた。それで私たちも時々軟式の飛行船が、少々怪しげな恰好で東京の空をとぶ姿を仰いだものであった。
 飛行船の事故は時々あった。そのうちでも当時から二年ぐらい前に一台の海軍の飛行船が原因不明で爆発してしまったことがあった。それで先生が海軍から頼まれて、爆発防止の研究をされることになり、この水素の爆発に関する実験というのが、その基礎的研究として採り上げられていたのである。前の題目にしても、この水素の話にしても、学生の卒業実験としては、かなり大きい問題を課せられたものであった。しかしどんな難問題でも先生の手にかかると、妙に易しい話になってしまうので、気軽にどんどん実験を進めて行けるのが不思議であった。
 水素の爆発の研究は、勿論世界各国で、ずっと前からも沢山されていた。しかしそれらの研究のうちの多くのものは、水素と酸素とがちょうど爆発に適するような割合に混合された場合について調べたものであった。先生の研究はその反対と云っていい場合についてであった。水素に少し空気が雑ざったり、逆に空気中に水素が少量混入した時に、爆発がどのような形をとって伝播するかを見ようというのであった。
 実験は細い硝子管に、適当な割合の混合気体を入れて、上端で火花をとばせて見るのである。例えば水素中に空気がだんだん余計に雑ざって来ると、ある割合のところで火がつく。しかし混入した空気の量が少ないうちは、その燃焼は点火した場所の附近だけに止まって、すぐ火が自分で消えてしまう。そしてもう少し空気を多くした時に、初めてその燃焼が管の中に伝播して行くようになり、所謂爆発が起こるのであった。
 実験のやり方は決まっているのであるが、硝子管の太さと長さとを色々にかえ、混合気体の割合をまた色々にかえて調べて行くので、やることはいくらでもあった。とうとうそれだけに一学期と夏休みがほとんど潰れてしまった。「水素と酸素とを混ぜて火をつければ爆発するにまっている」と思っていたのであるが、実際やって見ると、管の太さや長さによって、爆発の途中で火が消えたり、消えそうになって更に第二段の燃焼が起きたり、意外なことが沢山出て来た。なるほど実験物理というものはこういうものかという気がした。
 夏休み中、三十度以上の蒸し暑い狭い実験室で、毎日汗だくになって燃焼量と管の形との間の関係をグラフに作って暮らした。室井君が横で無闇むやみ瓦斯ガスの炎をぶうぶうやるので閉口した。水道の水を冷却用に使っていたのであるが、水温が余り高くなってしまって用をなさなくなったこともあった。そういう日は勿論実験はお休みで、午後半日紅茶を呑みながら無駄話をして遊び暮らした。
 先生は夏になると割合元気になると言いながら、どんな暑い日でも毎日一度は実験室へ顔を出された。胃が悪いと手脚が冷えて困るので、夏になると割合元気になるということをこの頃になって私も経験した。
 先生は一わたり三つの実験を眺め渡して、一言二言ちょっと示唆的な注意を与えられる。それで指導の方はもうお仕舞いである。あとはヴァイオリンや三味線の話が出たり、幽霊や海坊主の話になったりした。先生はずっと前に尺八の音響学的研究をされて外国人を驚かされたことがあったが、引き続いて三味線の方を調べたいという希望をずっと持っておられたのである。しかし三味線ときくと皆が尻込みをするので、適当な実験助手が得られなくてそのままになっていた。「誰か耳の良い学生の人がいないかなあ、三味線はきっと面白いよ。それにあんなものわけなく弾けるようになるんだから。僕だって『松の緑』くらいなら弾けるよ」と先生は言っておられた。これは本気の話であって、先生の学校の部屋の隅には、赤い袋に入った三味線が暫く置いてあったが、結局誰もその方を志願する者がなくてお仕舞いになってしまった。今から考えて見ると惜しいような気もする。
 もっとも話はそんな題目ばかりとは限らなかった。時には実験の心得について、稀世の名教訓が出たり、現代の物理学の限界を論ぜられたりすることもあった。もっとも幽霊の話でも、どんな重大な問題の議論でも、先生はいつも同じ口調で話されるので、最後は大抵は先生の所謂「大気焔」になることが多かった。二、三十人も人が集まると、先生はもうもぞもぞと口の中で話されて何のことか分からないのであるが、二、三人の弟子たちを前に置いてその大気焔を揚げられる時は、非常な雄弁であった。毎日のことながら、いつも少々毒気を抜かれた形で一同が神妙にきいていると、先生は少しきまり悪そうににやにや笑いながら「どうも僕が来ると、実験の邪魔ばかりするようだね」と言って、上機嫌で帰って行かれた。
 水素の実験は、その後湯本君がずっと続けて、湯本君にとってはほとんど半生の仕事となった。私はその後爆発の方とはちょっと縁が切れていたのであるが、数年前、北海道の炭坑でメタン瓦斯ガスの爆発が頻々とあって、それを防止する意味をかねて、メタンの爆発の研究をしたいという人が出て来た。炭坑の爆発はその後もかなり頻繁にあって、時局柄重大な問題なので、私もその人と一緒に少し手をつけて見たことがあった。考えて見ると、条件は飛行船の爆破の場合とよく似ているので昔の実験を思い出して、水素をメタンに置き換えるだけで直ぐ仕事にとりかかることが出来た。
 結果は水素の場合とよく似ていて、唯色々な燃焼伝播の特性が、メタンの場合にはもっと著しく現れることが分かった。十五年前にあの暑い実験室の片隅で毎日採っていたグラフと質的には全く同じ結果を、今日北海道の実験室で熱心な助手の人が、炭坑の爆発に関聯した問題として得ている姿を見て、ここにも因縁のようなものを感ずる機会があった。
 水素の爆発の研究には、ちょっとした劇的挿話があった。それはちょうどその頃SSという航空船が、飛行中全く原因不明で、霞浦の上空で爆破したことがあった。乗組員は全部焼死して、黒焦げの機械の残骸が畑の中で発見されたのであった。その重大事件には早速査問会が開かれて、先生もその一員に加えられたのである。問題は以上の材料、即ち爆破の場所と時刻、それに器械の残骸と、これだけの資料から爆破の原因を究明して今後の対策をはかるというのである。この恐ろしい難問を、先生は真面目に引き受けられたのである。
 冬の初めのある日、水素の仕事も大分進捗していた頃のことである。先生は珍しく少し興奮されたらしい顔付きで、実験室へはいって来られた。そして湯本君と私とに以上の目的を話して、一応今までの水素の仕事を中止して、飛行船爆破の原因探究に必要な実験をするように命ぜられた。もっとも水素の取り扱いには馴れていたし、火花による点火装置なども揃っていたので、仕事にはすぐ取りかかることが出来た。
 この飛行船爆破の原因を調べた話は、『球皮事件』という題で書いたことがあるので略するが、先生の科学者としての頭と眼、芸術家としての勘、愛国の至情などが渾然として一体となり、このどうにも手のつけようのない難問を数ヵ月のうちに美事に解決されたのであった。その話は科学的研究方法の模範であり、ちょっと探偵小説風な興味もあって、非常に珍しい話なのである。
 私たちも初めのうちは、まさかそんなことが分かるわけもなかろうと、ぼんやり言い付けられた実験をやり始めたのであるが、暫くすると先生の快刀乱麻を断つような推理の冴えに魅せられて、夢中になってその実験に没入した。それは本当に没入したと言って良いので、湯本君も私も熱に浮かされたように、毎晩十二時すぎまで問題の飛行船の皮であるところの球皮ととり組んでいた。色々な秘密がつぎつぎと見えて来た。それを先生は、まるで嚢中に物を探るようにとり出して並べて行かれた。私は、その後も、あの時ほど自分の頭の振り子が最大の振幅で動いた経験を持たない。
 いよいよ爆破の原因が無線発信にあったことが分かったのであるが、査問会の方はある事情でそれをなかなか認めない。その事情というのが先生を興奮に導き、私たちを駆って原因探究の実験に熱中させる一つの要因でもあったのである。査問会の物々しい席上にも私たちまで顔を出し、最後に立会実験までもした。偉い方々を例の窮屈な実験室へ招いて、模型飛行船、と云っても他愛ないものであるが、それを無線発信の際に出る小さい火花で爆破させて見せるというような騒ぎにまでなったのである。
 この事件は、私に研究の面白味を十分に味わわせてくれたばかりでなく、物理学というものに強い信頼をおく機縁にもなった。そして私はこういう機会に遭遇することの出来た自分の幸運を本当に有り難かったと思っている。御蔭で三年の後半期の試験の方は滅茶苦茶になってしまって、随分成績も悪かったらしい。講義なども半分近く失敬したようである。この方は先生に知れると叱られるので、なかなか苦心をした。成績簿という帳簿の上で、私の名前の下に優という字が書かれても、それが良という字になっても、自分の本質にはそんなことは全く何の関係もない。おまけに有り難いことには成績は秘密ということになっている。そんな隠した場所にどういう字が書いてあるかまで苦心して詮索することは、全くつまらぬ話である。しかしこれだけの大研究の御手伝いをとにかくしたという自信の方は、その後の私の研究生活に無限の力強い支援となっているように思う。この頃のように大学の組織や制度が完備しては、ああいう無茶な学生の存在は許されまいし、実験の方でもああ出鱈目でたらめな勝手は出来ないことであろう。
 この話にもちょっとした続きがある。二、三年前、私は海軍からの委託研究のことで、航空廠長という偉い人に会ったことがある。暫く話をしているうちに、先方から、何だか君は見覚えがあると言い出された。話して見たら、その方は昔この問題の査問会の委員の一人だったということであった。「ああそうだったのか、随分大きくなったものだね」と言われて放々ほうほうていで逃げ出したが、あの頃は随分生意気な小僧だったことだろうと思いみていささか辟易した。それにしても世の中のことは、何時までも後を引くものである。
 以上のように書いて見ると、あの狭い一部屋の実験室では、随分意義のある研究が、沢山並行に為されていたことになる。ちゃんとした助手などは一人もいないし、装置も学生の練習実験程度のものしか無かったのに、あれだけの研究がとにかく進行していたのは、やはり先生が余程偉かったからであろう。
 霜柱の研究といっても、まず手始めにコロイドの性質に馴れようというので、桃谷君の仕事は、硝子板の上にゼラチンを流して、リーゼガング環を作ることから手をつけることになった。この方はそれで、硝子板とゼラチンのほかに薬壜が四、五本並べば、もう仕事が始められたのである。
 室井君の「地球磁気の根源に関する」大研究も、検流計が一つとあとはアスベストスの棒と手細工のがらがら廻る歯車とが出来上がれば、とにかく実験が始められた。こういう風にして始められた研究が、その姿のままで続けられて立派な結果を得たのではないが、この程度ででもよいから、とにかく始めなければ、決して後年のような実は結ばなかったであろう。
 水素の方の仕事は、この中では比較的大がかりであったが、それでも水素のボンベと目盛りした硝子のU字管と、小さい変圧器くらいの設備で、どんどん曲線は採れて行った。そうしてこの仕事をしていなかったら、飛行船爆破の原因探究という実験も出来なかったであろうという気がする。
 機械や設備が立派に揃えばそれに越したことはないが、そんなものが無くてもある程度の研究は出来るということは、よく言われる通りである。しかし実際にはあの当時の設備と人員とで、とにかく研究を始めて、それをある程度まで進行させるということは、そう易しいことではない。この頃になって私もやっとそういうことが分かって来た。立派な機械を使ってつまらぬ仕事をすることは易しいが、その反対の場合はむつかしい。それは当たり前のことであるが、自分が一人立ちの立場に置かれて、実際に事に臨んで見ると、改めて考えさせられることが多い。
 今から考えて見ると、あの頃私たちは、寺田先生のああいう研究のやり方を、そう特別困難なこととは気がつかないでいた。むしろ研究というものはこういうものと初めから思い込んで、唯面白いという念だけに駆られて、実験に打ち込んでいた。そういう意味で先生の研究指導振りは、天衣無縫の域に達していたと言えよう。
 ある日こんなことがあった。
 何かの用にあてるために、砂を菓子箱の蓋に一杯入れて、実験台の隅にのせてあった。先生は午後の御茶の時間に、例のように上機嫌で一同を煙に捲きながら、その紙箱をいじっておられた。砂を入れたその紙箱は、横側を押される度に歪んだ。すると中の砂はさらさらと崩れて、何本かのひびがはいった。何も珍しい現象ではないので、火鉢の中に灰匙を立てて左右に動かすという悪戯をして見た人は、誰でも灰に罅がはいって崩れることを知っているであろう。先生はじっと砂の表面に見入りながら、急に黙り込んで何時までも箱の側面を引いたり押したりしておられた。皆もちょっと手持ち無沙汰な恰好で砂の割れ目を怪訝そうに見ていた。
 大分経ってから先生は口を切られた。「君たち、この現象をどう思いますか。砂が崩れる時に出来た罅は、こうして逆に押し戻しても埋まらなくて、しわになって盛り上がるでしょう。こういう不可逆的イルレバーシブルな現象は、摩擦が主な役割を演じている場合に限るので、これは大変面白い現象なんです。一つ断層の研究を始めようじゃありませんか」という話であった。
 先生の断層や地殻の変形に関する色々な研究というのは、その起こりはここにあったのである。そしてこの研究に芽生えた思想は、粉体の特殊な性質の研究や割れ目の理論を経て、遂に先生晩年に於ける『生命と割れ目』の論文まで、発展して行ったのである。
 菓子箱の蓋の「実験」があって間もなく、ちょうどその頃私たちの実験室へ遊びに来ていた宮部君が、この実験を本式に始めることになった。本式といっても、その装置というのは紙箱の一側面を硝子板にして、その隣の面を移動出来る壁にしただけである。その中に砂を深さ五分ばかり入れてならし、その上に白砂糖を薄くいてまた砂を入れるという風に何段にもして、砂を一杯入れるのである。白砂糖の層は横の硝子板から見ると、白線になってあらわれ、これが断層の目印になるのであった。壁を引くと、砂はいくつもの断層になって崩れるのが綺麗に見えた。そして一度崩したものを押し上げると、今度はちがった面に断層が出来て盛り上がるので、白線は地殻の褶曲しゅうきょくに似たような形になるのであった。
 この実験はその後、宮部君によって理化学研究所の実験室で数年続けられた。色々な性質の粉について調べる必要があるというので、白玉粉だの小豆粉だの砂糖だのと沢山買い込んだら、理研の会計の人から、これじゃまるでお汁粉の研究ですねと言われたそうである。
 こういう話を書いておれば切りがない。大学の一年間と、その後引き続いて理研の三年間とは、私にとっては楽しい思い出の泉である。もっとも理研の第一年は、ちょうどその年から先生が理研に研究室を持たれた年であった。航空研究所や地震研究所での活溌な研究生活もまだ始まらない前で、私は随分忙しい思いもした。しかし千載一遇の良い訓練を受けることが出来たのであった。いつも感謝の念をもって当時を思い返すことの出来る自分は幸運であった。
 先生が亡くなられて、自分は他の多くの弟子たちと同様に、随分力を落とした。そして今日のような時勢になると、切実に先生のような人を日本の国に必要としていることを感ずるのである。科学の振興には、本当に科学というものが分かっている人を必要とするからである。
 北海道へ来て、一人立ちで仕事をさせられて見ると、私は先生の影響を如何に強く受けていたかということを感ずるのである。それと同時に、時たま仕事が順調に運んだ時などには、先生のおられないことをしみじみ淋しいと思う。
 二、三年前、やっと懸案の雪の結晶の人工製作が出来たあとで、先生の知友の一人であった中央気象台長の岡田先生に御目にかかったことがあった。そしたら岡田先生が「折角人工雪が出来たのに、寺田さんがいなくて張り合いがないでしょう」と言われた。私はふっと涙が出そうになって少し恥ずかしかった。
(昭和十六年一月)





底本:「寺田寅彦 わが師の追想」講談社学術文庫、講談社
   2014(平成26)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦の追想」甲文社
   1947(昭和22)年4月30日初版発行
初出:「婦人公論」
   1941(昭和16)年2月1日
※〔 〕内の編集部による注記は省略しました。
※初出時の表題は「寺田先生の追憶」です。
※初出時の副題は「――大学卒業前後の思い出――」です。
入力:砂場清隆
校正:津村田悟
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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