墨並びに硯の物理学的研究

中谷宇吉郎




 前文に於て墨流しの現象の物理学的研究を紹介した。その研究では墨を磨る時の水の成分のことは詳しく調べてあったが、用いた硯は普通市販の一定の硯に限られていた。それで寺田先生は次に、色々の墨を色々の硯で磨った時に、墨汁の膠質的性質が如何に変わるかという問題にとりかかられたのである。
 墨汁の色々の性質特に墨色などが、墨の良否によるばかりでなく、硯の種類によっても著しく左右されるということは、画家及び書家の間では常識となっている。古来名硯と称せられるものの色々の特性については、伝説的な説明が沢山ついているが、それらの主張は主として古代の支那文献から伝わったものである。例えば良い硯で墨を磨ると、ちょうど熱した銅の上で蝋を磨るような手触りであるというような説明がある。従来の大抵の記載はこの種の主観的なものが多いのであるが、この実験で墨と硯との間の摩擦係数、墨のおり方、粒子の大きさなどを調べて見ると、墨汁の物理的性質は硯によってもまた著しく異なるということが、客観的に実証されたのであった。

墨を磨る装置


 墨と硯との関係を定量的に決めるには、第一に磨り方を一定にする必要がある。一定の墨を甲乙二つの硯で磨って得た墨汁を比較する時、磨り方が異なっていたら何もいうことは出来ない。それで、墨の底面が一定の圧力で、垂直に硯の面に圧しつけられながら、決まった距離を決まった週期で、反覆的に動くような装置を作る必要がある。第一図はその目的の為に作られた装置である。
「第一図」のキャプション付きの図
第一図

 図中Vが硯で、Sが墨である。Hは墨をはさむ筒で、それがKなる外側の鞘の中を垂直に上下するようになっている。Wは重量である。KとHとの間のすべりをよくして置くと、墨の硯に対する圧力はWで決まる。Mがモーターで、プレーPとクランクCとを用いると、墨を一定速度で一定距離磨らすことが出来る。この実験ではWは1.36キログラムのものを用い、往復運動は一分間に百回の割合で、硯上を墨が動く距離を五センチとした。この装置では硯の海だけに水を入れて置いて、時々墨がその中から水をとって来て磨るというわけには行かない。それで硯の縁まで一杯に蒸溜水を入れて、水の中で磨ることとした。墨色などをやかましく論ずる時には、この磨り方ではよくないという議論も出るかもしれないが、今の実験ではその点には触れないこととする。実際に人間の手で墨を磨るのと全く同じ機構を、機械的にやらすにはなかなか面倒な装置が要るのである。
 この実験では、以上の装置で三十分間磨らせて、その墨汁の色々の物理的性質を調べることとした。三十分で墨は硯の上を総計三百メートル動いたこととなる。

使用した墨と硯との種類


 墨も硯も特殊のものは用いず、普通に手に入るものについて調べた。墨は四種類で、その大きさ、密度などは第一表に示す如くである。墨の組成は同じ種類のものでも、一本一本について少し異なることは考えられるし、また一本の墨についても端の方と真ん中とでは違うので、磨って行くうちに性質が異なって来ることも考えて置く必要がある。しかしこの実験の精度の範囲内では、その点まで心配しなくても良いことが分かった。
「第一表」のキャプション付きの表
第一表

「第二表」のキャプション付きの表
第二表

 次に硯は第二表に示すような四種類のものを用いた。この中真鍮及び鉄の硯は、理研の工場でこの研究の為に作ったものである。硯の形及び大きさは第二表に示した如くである。表中abc…等は第二図にあるように、硯の各部分の長さである。Vは硯の縁まで一杯に水を入れた時の容積を示す。金属製の硯は従来ほとんど使用されていないので、何か欠点があるのだろうという見込みで、わざわざ作って調べて見たのであるが、やはり色々な点で石の硯より劣っていた。その結果は後に述べる通りである。
「第二図」のキャプション付きの図
第二図

 次に硯の乾かし方が問題になる。特に摩擦係数の測定の際にはその影響が大きいので、硯がほんの少し湿っていても測定結果がまちまちになるのであった。それで硯を一度使用する毎に、まず水道の水で十分洗い、次に蒸溜水で洗って、それを大きい硝子器に入れ、その内部を低度の真空にして、その中で乾かした。こういう風にすると、塵の心配もなく、測定結果も一定の値が得られた。

墨のおり方の測定


 以上の装置で墨を三十分間磨って、その時水の中へ溶け出た墨の実質の目方をQとする。Qは墨の目方を予め測っておいて、磨り減ってからまた測り、その差を見れば分かるはずであるが、実際には磨っている間に水を吸収するので、後の目方を測るには注意が要る。それでQを測るのに二つの方法を用いた。第一は、墨を空気中に放置した状態で前の目方を測っておく。次に磨り減らした後に、墨汁をよく拭いとって天秤の皿に載せて放置し、時々目方を測る。するとだんだん乾燥して行くので、目方が少しずつ軽くなる。それを曲線に描いて、その終局の値を推定すれば、磨り減った後の墨の空中での乾燥状態の目方が分かる。それで前の目方との差をとればQが分かるのである。第二の方法は、墨を磨る前も後も、いつでも目方を測る前には、真空中で二、三時間乾燥させてそれから測定するのである。この二つの方法を試して見たら、大体一致した結果が得られたので、これらの方法で磨り減った量をかなり精密に測定することが出来ることが分かった。
 このようなことをくだくだしく説明するのは、不必要と思われるかもしれないが、実際のところ磨り減った墨の量を測定するという簡単なことでも、実際にはなかなか厄介なのである。墨の目方は相当あり、磨り減った量はごく少ないので、前後の目方の差から磨り減った量を測るには、色々な注意が要るのである。ちょうど甕の目方を測っておいて、それに水を一滴入れてまた目方を測り、前後の値の差から水滴の量を測定するというような場合と似ているからである。

墨と硯との間の摩擦係数の測定


「第三図」のキャプション付きの図
第三図

 摩擦係数は静止の状態から動き始める時の値、即ち静摩擦係数を測った。同時に硝子と硯との間の摩擦係数も測定して両者を比較した。墨と硯との間の摩擦係数をμsとし、硝子と硯との場合をμgとした。μsの測定には第三図のような装置を作り、墨片Pが滑り落ち始める時の角θを測って、μs=tanθによってμsを求めた。Pは墨 No.1から切り取った四角の片で、1.7×1.2×1.1立方センチの大きさで、目方3.4グラムのものを用いた。μsの測定には硯上の墨の位置を色々かえ、二十回の観測の平均を採った。この測定の直後、墨片を硝子の円板(直径1.4センチ、厚さ0.6センチ、重量3.1グラムにかえて、前と同様にして硝子と硯との摩擦係数μgを測定した。
 普通に摩擦係数というと、堅い固体の表面間のものしか研究がして無いので、墨と硯のように一方が磨り減る場合には、問題がずっと難しくなる。それで硝子の場合も測定しておいて、それと比較しようというのである。

墨粒子の直径の測定


 墨粒子の大きさの測定には、上述の装置で三十分間磨って得た墨汁は濃すぎるので、測定に適するように薄めて用いた。普通三百倍ないし三千倍に薄めてちょうどよかった。即ち墨汁の濃度を1.6×10−5ないし3.5×10−6グラム立方センチくらいにして、前文の説明のようにツァイスの格外顕微鏡で粒子の数を算えた。墨汁の10−9立方センチをとって、その中にある粒子数を数えたのであるが、算えた数は150くらいの場合から2300にも達した場合があった。この数から墨の密度を1.4として前文と同様にして粒子の直径を算出した。

磨墨による硯面の変化


 一定の墨を一定の硯で、第一図の装置を用いて、一定の条件の下で磨っても、墨のおりる量Qはその都度異なる。即ち磨墨の為に硯の面も幾分磨り減って滑らかになることが分かった。この関係を調べる為に、硯の面を細かい砂紙で大体一定の条件の下で磨いて、各系の実験の始めに於て、硯の面を同じような粗さにしておく。そして第一図の装置で三十分間磨ってその際墨のおりた量Qと、その墨汁の粒子直径Dとを測定する。それから硯を洗って、真空内で乾かして、摩擦係数を測る。次に硯の面をそのままにしてまた三十分磨って見る。すると今度はQが少し小さくなることが分かった。そういうことを二十回ばかり繰り返して一系の実験を済ませる。次には硯の面をまた砂紙でこすって新しくしもとくらいの粗さにして、別の墨で全く同様な実験を繰り返すという具合にして実験を進めた。
「第四図」のキャプション付きの図
第四図

 紫雲石の硯について四種類の墨を調べた結果は、第四図に示す如くである。即ちQの値は大体対数曲線的に減じて行くが、最後になるとほとんど一定の値になる。硯を手入れせずに長く使っている場合ならば、この最後のQの値がその墨のおり具合の遅速を示すものとなる。この結果で見ると、おり方は墨によって著しく異なり、墨 No.2が一番速くおり、No.4はその三分の一以下しかおりないことが分かる。簡単に云えば No.4が一番堅い墨ということになる。これは第一表に示すように、比較的旧い墨であるが、年代が経つと堅くなるのか否かはこの一例では決定出来ない。色々の材料があれば、その点を確かめることが出来るはずである。曲線の初めの部分即ち急に減少する部分は大体同じ形であるが、No.4の場合だけは著しく急に減少している。即ち堅い墨で磨ると硯の面の磨り減り方が速いことがよく見られる。
 この曲線をごく大ざっぱに見て対数曲線とすると、
Q=Q0θ−kn
 という式で表せる。ここでnは磨った回数をあらわし、kが硯の面の磨り減り方を示す係数となる。kが大きいと速く磨り減るのである。

各種の硯の比較


「第五図」のキャプション付きの図
第五図

 各種の硯を用いて一定の墨を磨り、前と同様の実験を行うと、硯の性能の比較が出来る。第五図は墨 No.1をそれぞれ紫雲石、雨端石及び真鍮の硯で磨った場合の結果を示すものである。鉄の硯も真鍮の場合とほとんど同じ値を示すもので、混雑を省く為に図では鉄の場合を略してあるが、真鍮とほとんど同じ曲線になると思って差し支えない。第五図の結果で著しいことは、雨端石の硯は、非常に速く磨り減るということである。即ちこの硯では面が粗い間は相当よく墨がおりるが、その面はきに平滑になってしまって、暫く使っていると紫雲石の場合の十分の一も墨がおりなくなってしまうのである。真鍮や鉄の硯も雨端石と全く同様であった。即ち硯のおり方を問題とすると、紫雲石が優れて良く、雨端石や金属の硯は非常に悪いということになる。もっとも後述の如く、Qが小さい場合にはDも小さいので、細かい粒子の墨汁が欲しい時には問題は別になる。

磨墨による摩擦係数の変化


「第六図」のキャプション付きの図
第六図

 墨と硯との間の摩擦係数μsもQと同様に磨っているうちに減少する。その様子は第六図に実線で示す如くで、初めはかなり急激に減少するが、後にはほぼ一定の値に落ち付く。ここで注意すべきことは、紫雲石の硯ではμsが0.37くらいに落ち付くのに、真鍮ではどんどん減少してしまうことである。即ち真鍮の場合には、表面がすぐ磨いた状態になってしまうが、紫雲石の場合は、なかなかそのような状態にはならない。従って墨のおり方もいつまでも速いのである。端渓などの場合には、表面に所謂いわゆる鋒鋩ほうぼうと呼ばれる堅い微小石粉が露出していて、それが墨のおり具合を容易にしていると云われているのであるが、鋒鋩の研究なども、このように物理的に行ったならば、もっと確かなことが分かるであろう。
 同時に硝子と硯との摩擦係数を測った結果も、第六図に描きこんである。この場合は、紫雲石では初めμgが増して行き、ある値以上のnになると一定の値となる。真鍮ではそのような傾向は認められず、徐々に減少するばかりである。摩擦係数がこのように妙な変化をすることは、ちょっと類例の少ない現象で、寺田先生は色々の考察の結果、次のような説明を下された。石の硯と墨との場合、表面が粗いと、突出部が墨の膠に機械的の力を及ぼして、その附著力ふちゃくりょくが一見μsを大ならしめている、それが磨墨につれて突出部が少なくなりμsの固有の値になる。硝子と石の硯との間では、表面に吸着している水か有機物の薄膜かが、硝子を密着させてμgを大ならしめているので、表面が粗い間はその影響が少ないから、少し磨いた状態で却ってμgが大きい。金属の面ではそのような現象は起きなくて、石の場合に特別な現象であるというのである。端渓が手触りが冷たいとか、濡れたような感じであるとかいうようなことも、熱伝導の問題と簡単に片づけず、表面膜の性質まで調べたら、色々面白いことが分かるだろうと思われる。

墨のおり方と粒子の直径との関係


「第七図」のキャプション付きの図
第七図

 磨墨につれて墨のおりる量Qが減少することは、上述の通りであるが、その際粒子の直径Dも段々小さくなることが、実験的に確かめられた。即ちDとnとの曲線を作って見ると、第四図または第五図と似た形になった。このことはQとDとの間に簡単な関係があって、墨の速くおりる時は、粒子が大きいということになる。QとDとの関係を図示すると第七図のようになる。ここで面白いことは、紫雲石と雨端石とが同一直線上に載り、真鍮と鉄とが別の直線上にあるということである。即ち石の硯と金属とでは、墨の粒子の大きさが断然違うのである。
 この関係を直線と見ると、
D=D0+aQ
 なる式で現すことが出来る。この直線はOなる原点を通っていないので、Q=0の時も粒子直径は0なる値を持つことになる。この0が墨の粒子の最小の値を示すもので、石の硯の場合は十万分の一ないし三ミリ、金属の場合は十万分の八ミリないし一万分の一ミリである。金属の硯で磨った時に、墨の粒子がこのように大きくなるのは、色々の考察の結果、金属から多価のイオンがごく少量出て来て、それが膠質の凝集を起こす為だろうという説明がしてある。
 石の硯に就いて見ると、用いられた硯二種墨三種の色々な組み合わせが、皆同一直線上にある。
 前述第五図に於て雨端石と真鍮とが共に墨のおり方が悪いという結果になっていたが、今度の第七図で見ると、雨端石の方は粒子が小さくなるのでおりる量が減るのであるということが分かる。真鍮の方はこれに反して、墨のおりる量は少なくして、しかも粒子は大きいのである。その点雨端石と真鍮とは著しく異なるのである。

墨のおり方と摩擦係数との関係


「第八図」のキャプション付きの図
第八図

 墨のおり方Qと摩擦係数μsとの関係は、第八図に示すようになる。図中の曲線から紫雲石の硯と金属の硯とが著しい性質の差を示すことが見られる。金属の場合にはμsが0.15くらい以下になるとQがほとんど零になり、それ以上ではQとμとの間には直線的関係が成立する。即ち、
Q=A(μs−μs0
 なる簡単な関係が成立する。ここでμs0はQがほとんど零になる時の摩擦係数で、即ち金属面が十分に磨かれた状態になった時の値である。その値は真鍮の方が鉄の場合よりも大きい。
 紫雲石の場合は、μsは第六図に見られるように、磨墨によっては0.37以下には減少しない。硯の面がそれより少し粗くなると、Qは初めは金属の硯よりも徐々に増すが、面が十分粗くなると、即ちμsがある値以上大きくなると、Qが急に増大する。
 以上の結果から見て、金属の硯の方が石よりも悪いということが明瞭に分かる。従来金属の硯というものがほとんど用いられなかったのももっともである。即ち石の硯では磨墨によって面が完全に平滑になることがなく、何時までも一定の粗度を保つことが、摩擦係数の実験から分かる。このことが墨のおり方を速くするのである。金属の硯はこれに反し、磨墨によって直ぐに面が平滑になり、墨のおり方が非常に悪くなる。それも墨汁の粒子が小さくなる為におり方が少なくなるのならば、その点で使用目的があるが、この場合は粒子もまた大きいのである。

水中の電解質の影響


「第九図」のキャプション付きの図
第九図

 電解質を含む水で墨を磨った時の墨のおり方Qと粒子直径Dとを調べる為に、色々の濃度の苛性加里液及び塩酸水溶液で墨を磨りその時のQとDとを測って、蒸溜水の場合と比較して見た。その結果は、酸の時はQもDも蒸溜水の時より大きく、アルカリの時は逆に小さいということが分かった。酸もアルカリも膠を軟らかくする性質があるから、もしその為とすると、両方共Qは蒸溜水の時より大きくなる必要がある。ところが実際はアルカリの場合は蒸溜水よりもQが小さいのである。それで次のようなことが考えられる。墨の粒子は負に帯電していることは分かっているので、酸のイオンがこれを中和する為、粒子が凝集を起こし易く、その為Dが大きくなる。アルカリはOHイオンがある為に凝集を妨げて、粒子は小さいと考えられるのである。それでQとDとの関係を図にして見たところが、第九図のような結果を得た。これと第七図とを比較して見ると、Q―Dの関係は、酸アルカリの如何を問わず、蒸溜水と同じ直線上に載るのである。換言すれば酸の点○は硯の面の粗な方に相当し、アルカリの点●は硯の面が平滑な方と一致しているのである。故に酸の場合墨が速くおりるのは、墨からとけ出す粒子が大きい為であり、アルカリの場合はその逆になるということが分かったのである。この現象は膠質学の方面からも重要な問題である。

以上の実験結果の吟味


 以上の実験で墨のおりた量Qとして測ったものは、硯の面上五センチの距離を墨が往復三千回した時の量である。墨のとけ方が終始一定と仮定すると、墨が一センチ動いた間にとけ出た量はQ/3[#「Q/3」は分数]×10−4グラムとなる。墨の磨り口をSとすると、墨が硯上を一センチ動いた時に一平方センチからとけ出る量qは、
q=Q/3S[#「Q/3S」は分数]×10−4
 となる。墨の密度をsとするとこの時とけ出た墨の体積はq/sである。このq/sの値がちょうど墨が一センチ動いた時に磨り減る層の厚さhになる。今Qを一グラム、Sを二平方センチ(第一表)、sを1.4とすると、計算によるhの値は120×10−7センチと出て来る。ところが第七図に於てQが一グラムの時のDは約100×10−7センチで、大体hと似た値である。即ち墨が硯上一センチ動くと、約100×10−7センチ(一万分の一ミリだけ削りとられ、その時墨はその削りとられた厚さと同程度の直径の粒子となってとけ出るということが分かるのである。
 墨が磨り減る厚さと同程度の大きさの粒子になることから考えて、これは墨の磨り口の表面に、顕微鏡でも見えぬくらいの細かいひびが沢山出来る為であろうという考察がされてある。硯の面には細かい不規則な小突起が沢山あって、所謂鋒鋩をなしている。それが墨の磨り口面に不規則に配分された力を及ぼすので、表面に罅が沢山入る。この罅が墨の内部へ入り込む深さは、力の配分の不均整度により、換言すれば硯の面の粗さによる。これらの罅は墨の動くにつれて段々沢山出来て来て、一センチくらい動くうちに、罅の深さと同程度の間隔になるくらい、磨り口の表面に罅が一杯出来る。この状態に於て墨の表層は、罅の深さhと同程度の直径の粒子に崩壊して水中にとけ出るのであろう。
 寺田先生は前に粉体の物理的性質の研究をされたことがあって、粉体の層に罅が入る時には、罅の深さと同じくらいの間隔で、沢山の割れ目が入ることが分かっている。それで墨の場合にも同様な現象が、超顕微鏡的規模で起きているのであろうという解釈を下されたのである。

附記
 最後の論文墨汁のカタホレシスに関する研究は未完成であり、また今の場合直接の興味も少ないので省くことにした。
(昭和十三年一月)





底本:「寺田寅彦 わが師の追想」講談社学術文庫、講談社
   2014(平成26)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦の追想」甲文社
   1947(昭和22)年4月30日初版発行
初出:「畫説」東京美術研究所
   1938(昭和13)年1月
※初出時の表題は「墨と硯との關係の物理的研究」です。
※「第一表」「第二表」の図は、底本をもとに入力者が作成しました。それ以外の図版は底本の親本からとり、入力者が文字を活字に置き換えました。また、第八図は底本通り縦軸に「→μs」を追加しました。
※〔 〕内の編集者によるとおもわれる注記は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:津村田悟
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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