荒野の冬

中谷宇吉郎




 北海道の奥地深く、荒野の冬の姿といえば、『カインの末裔』の描写を思い出す人が多いであろう。
 鉛色の空が低くたれこめた下には、木も家も、吹きつけられた雪にただあだ白い凄気を帯びて静まりかえっている。そして一度吹雪が来ると、天地が白夜の晦冥とでもいうように、ただ一色に鼠色になる。そして人々は白堊の泥河の水底に沈んだように、深い雪の下で僅かに蠢きながら、辛うじての生活を保って行くのである。
 二十五年前に、有島氏によって描かれた、こういう荒野の冬は、まだ北海道の奥地では今日も見られるのである。北海道の冬といえば、ストーブをかこんでの団欒とか、銀嶺とスキーの話とかが語られることが多い。そして私なども、札幌の生活だけをしていたならば、開拓移民たちの経験する北海道の冬というものを、最後まで知らず仕舞いにすんでしまったことであろう。
 幸い、と言えるかどうかはわからないが、私の研究はこの十年ばかり、雪とか土地の凍結とかいう方面に傾いて来たので、仕事の都合上、よく原野の冬を訪れることがあった。そして『カインの末裔』の人々の生活を実際に見る機会にあって、いろいろと感慨をいだくこともあった。
 北海道の開拓民たちが、遙々と内地の村から移り入るいわゆる原野げんやのことを語ろうとするならば、まず北海道の広さについての正確な概念をつくる必要がある。
 それには一つ面白い話がある。前の冬、私は凍上の調査のために、二月の末から三月にかけて、八カ所ばかり奥地の支線の凍った土を掘って廻ったことがある。土地が凍ると、鉄道の線路でも家でも盛んに持ち上げられて困るので、その現象を凍上と称して、寒い学問の方では、一つの課題になっているのである。
 廻ったところは、帯広とか、野付牛とか、名寄とかいう街に近いところである。これらの街は、内地の方にもよく名が知られているので、札幌から程遠くないところのように思われているらしい。私の凍上の話をきいた友人の一人が、「札幌にいると、そういう研究には地の利を得ているね」と言ってくれた。それはそのとおりで、札幌にいなくては、一寸こういう研究は出来ない。しかしこれらの場所は皆、札幌から汽車で十時間とか八時間とか、かかるところである。それで日曜ごとに、こういう所まで凍った土を掘りに行くのは、丁度東京にいて、或る日曜には盛岡、次の日曜には新潟、その次には京都というふうに調べ廻るようなものだと話をした。そしたら友人が大変驚いて、北海道というところが、そんなに広いところとは知らなかったと言っていた。「日本の地図では、いつも北海道を切り離して、尺度スケールを小さくして別に描いてあるので、いつの間にか皆に北海道を小さく思わせているのでしょう」と話したら、なる程そうかもしれないと、友人も同意した。
 こういう北海道では、従って村という概念がまるでちがっているのである。一つの村というのに、詳しい数字は忘れたが、何でも神奈川県くらいの大きさのものが珍しくない。そしてその村の土地の大部分は、原生林や荒蕪地になっていて、ところどころに小さい部落がある程度のものが多い。その部落のうちで、要衝に当った所が、村役場だの、小学校だの、いろいろな店屋などがある場所で、これは市街地と呼ばれている。
 ところで、最近または現在、大規模に入植しつつある原野、たとえば、釧路や根室の原野などのことは私は知らない。普通では耐えられない悲惨な生活だという噂もあるし、更生の意気に燃えて北辺開拓の鋤をふるっているという話もある。見る人々の心持のちがいであろう。
 私が冬になるとよく訪れるのは、それ等の土地よりも、もう少し旧く開けた場所で、十勝とか、広尾とかいうところである。そのうちでも、もう四年前の話になるが、広尾線の豊似というところへ、雪質の調査に行った時の印象には一寸忘れがたいものがあった。
 広尾線というのは、帯広から南の方へ襟裳岬の突端に向って下っている線のことである。北海道奥地の多くの支線と同じように、三等車と貨車との連結したもので、客車にはストーブが焚いてあった。そして汽車は函ごとにそのストーブの小さい煙突を出して走っていた。非常に混んでいて、縞目もわからない程汚れ切った着物を重ね着した女だの、犬の皮をはおった土工ふうの人たちだのが、ストーブの上に押しかぶさっていた。そして誰の顔もひどく汚れ、すえたような臭気が車内に満ちていた。
 車窓の外には、見渡す限り広茫とした荒野が続いていた。
 雪は浅くて、ところどころに砂礫まじりの乾いた土が露出し、開墾のために立木を伐採したあとの切株が、雪原に点々と黒く残っていた。その株の大きさから、かつてはこの土地に亭々と聳えていた樹の姿も偲ばれて、いたましい気がした。それらの立木たちは、まだ雪原のかなたには残っていて、黒い林になっていた。そしてその林の上に、日高連峰のはげしい岩山の姿があった。すべての景色が、人間の生きるには、あまりにきびし過ぎるようにみえた。
 参謀本部の地図と見くらべながら行くと、荒蕪地が遠く続いている中に、点々と小さい部落の名が書いてある。見ると、越中部落だの、加賀部落だのという名がのっている。この地図の出来た時よりももっと以前に、こういう土地へ移り住んだ人たちが、この土地の激しい自然と戦い抜いて、今もなお居残っているのであろうかと、心探しに目をやってみたが、人間の住んでいるような形跡は見当らなかった。そういえば、地図の上には、何々牧場という名が沢山散らばっていたが、どれもそれらしいものは見えなかった。
 長い距離を走って、汽車は名ばかりの停車場へ着く。すると貨車の入れ換えで、十分や二十分はゆっくり停車する。それでもやっと豊似には着いた。
 豊似の手前で、あとで聞いてわかったことであるが、前年に入植したばかりの人たちの家が点々とあるのが見えた。家といっても、名ばかりの小屋で、何処で手に入れたか、焼けトタンらしい古鉄板と、木の板とでつぎはぎの屋根をふいてあった。それが妙にいたましく見えた。それでもストーブの煙突らしいものはついていて、少しばかり煙が出ていた。
 雪は残っていなかったが、寒風が広いこの荒野を吹きつらぬいていた。その中で、ただ一人木を伐っている男の姿が見えた。一番心に残るのは、その小屋の一つに、赤ん坊の襁褓むつきらしいものが少し乾してあったことである。同車の土工らしい男、それも油煙と泥とで汚れた顔をした男であったが、誰に言うともなく「へん、馬鹿な奴らだ。こんな火山灰の所、何もとれやしないのに」と、つぶやくにしては大き過ぎる声で言っていた。
 豊似の市街地へ着いて、仕事の都合で、また一里半ばかり鉄道を離れた土地へ入った。雪不足の道、といっても名ばかりの道であるが、それを馬橇ばそりで行った。少し行くと、もう人煙を遠く離れたという感じの景色になった。馬橇の男は道々この土地に住むことの辛さを、一人語りに話してくれた。
 調査は案外はかどって、早く豊似へ帰って来たのであるが、午後一時半の汽車におくれたので、次の汽車は夜の八時近くまで待たねばならなかった。駅できいてみると、宿屋はあるということで、其処で休むことにした。
 宿屋は案外綺麗で、一寸意外な気がした。もっとも綺麗といっても、畳がちゃんと敷いてあって、襖もとにかくはいっているという程度であった。何も置いてない、がらんとした寒い部屋が四つばかり並んでいた。
 荷物を置いて、外へ出て見た。市街地というものの、道の両側に一並び家があるだけで、戸数からいったら、五、六十戸というところであろう。それでも驚いたことには、いろいろな雑貨商は勿論、呉服屋だの、病院だのというものまでがあった。何処から、どういう人が出て来るのかはしらないが、やはりこの荒野の彼方の何処かには、相当な人数の人々が、それぞれの人生を送っているのであろうと考えてみた。そして市街地という言葉が、或る意味では、大変ぴったりした言葉だという気がした。
 少し行くと、すぐ街はずれに出た。夕方近くなって、風が落ちたので、急に周囲が物静まって来た。三月の末近い日だったもので、風が止むと、さすがに夕近い空には春の兆しの色が見えていた。冷たい淡青磁色の空も、地平線近いところは薄紫を帯びていた。しかし地の上にはまだまだ長い冬が残っていて、水ぬるむ春がいつ来るかもしれないというふうにみえた。かしわの大樹らしいのが、まばらまばらに立っていて、その細い枝が網のように空に交錯しながら伸びていた。その小枝にも新しい芽の気配は感ぜられなくて、ただ梢の上に、寒い弦月がかかっているだけであった。
 宿へ帰って夕食をしながら、いろいろ話をきいてみた。案外に顔立のととのった健康そうな娘さんが給仕に出て、こんな家でも毎日二、三人はお客さんがありますとか、この街にも豆腐屋が二軒ありますとかいう話をしてくれた。もっとも皆半農の生活をしているということで、米は採れない土地だということであった。
 加賀団体とか、越中団体とかいう人たちはまだ少し残っているが、牧場は一つもなくなってしまったという話であった。私には、無くなった牧場のことよりも、まだ少し残っているという加賀や越中の人々のことの方が、何となく身に沁みて考えられた。
 こういう所を廻ってみると、気候学の範囲とか、拓殖の方針とかいうものについても、いろいろな問題が心に浮んで来る。しかしどうもこういう土地に住む人たちの人生ということに、頭がとらわれ勝ちになっていることが、自分でも気がつく。それではとても大規模な拓殖計画などは立てられそうもない。やはり為政者としてやる場合には、入植者何百名、開墾地何千町歩というふうに、実際の開拓の人々の人生や生活から抽象した或る種の数字だけで、万事を切り盛りするより仕方がないのであろう。
 私はそういう問題には立ち入ることを止めて、此処ではただ自分の研究もでき、そのかたわら、いろいろな人生を知ることもできた点だけで、充分有難いと思うことにしよう。
(昭和十五年十一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第一巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年6月20日発行
底本の親本:「第三冬の華」甲鳥書林
   1941(昭和16)年9月25日発行
初出:「短歌研究」
   1940(昭和15)年11月
入力:砂場清隆
校正:室瀬皆実
2021年6月28日作成
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