あすへの話題

中谷宇吉郎




重力を絶ち切る話


 このごろ、あまり意外なことが、つぎつぎと出て来るので、たいていのことには、そう驚かなくなった。ところが、最近全く奇想天外な話をきいて、大いに度胆を抜かれた。それは重力を絶ち切る研究の話である。
 宇宙旅行は、目下、世界的なブームであるが、現実味が少しでもある話は、皆ロケット、あるいは類似のものである。
 しかしロケットでは、もう古くなったので、空想小説や、いわゆる科学空想映画では、重力を絶ち切る装置を造って、それで自由に空間スペース飛翔ひしょうする話が、ちょいちょい出て来ている。
 話としてはちょっとおもしろいが、これはもちろん架空の話で、重力を絶ち切るなどということは、現代の物理学では、夢にも考えられないことである。それで「宇宙征服」流のこの種の映画に対しては、科学関係の人間は、単におもしろがって、笑ってすませて来たわけである。私なども、もちろんその一人で、その可能性如何についてすら、考えてもみなかった。
 ところが、アメリカでは、大真面目になって、この研究をやっている科学者がいることを、最近知って、大いに驚いた。グレン・マーチンというアメリカ屈指の大航空機会社が、マリランドの大学へ、この委託研究を出している、という話なのである。
 もちろん「重力を絶ち切る研究」という題目ではない。目的は、アインシュタインの統一場理論に実験的指示を与えるような現象を探すということになっている。
 アインシュタインは、二つの大きい理論を出しているので、その一つは、有名な相対性原理である。この方は、あまりにも有名になっているが、この理論を出してから、二十年近く、アインシュタインは、沈黙を守っていた。そして突如として、第二の理論、すなわち統一場の理論を発表したのである。たしか一九三〇年ごろのことである。
 相対性理論の一つの大きい収穫は、物質とエネルギーとの転換であって、それが原子力の解放をうながした。ところが、そのほかにいま一つの大きい収穫があって、それは、重力を空間のゆがみとして説明したことである。
 ところで、電気と磁気の方は、ファラデーとマックスウェルとによって、空間のゆがみであることが明らかにされ、それが電波の存在によって、実証された。今日のラジオもテレビも、みなその基礎はここにある。
 ところで、電磁気も重力も、ともに空間のゆがみとすると、この両者を統一した場の理論があってもよいわけで、それが統一場の理論なのである。
 アインシュタインは、その理論を作り上げたが、それは単に数式の上での話で、実験的には、その根拠がまだ確かめられていない。それで、もしそれを実験的に支持する現象が発見されたら、重力にも人間が手をつけることができ、やがては、重力を絶ち切る方法も見つかるのではないかという話なのである。

登呂の硝子玉


 よい機会があって登呂の遺跡を見たが、非常におもしろかった。
 弥生式の後期の時代で、約千七、八百年昔の遺跡だという話である。昔の日本歴史によると、景行天皇から神功皇后にかけたころの遺跡と思っていいであろう。
 登呂のことは、今まで専門家の手によって、たびたび書かれているので、私などが何もいうことはない。しかし今度の訪問で、ひどく驚いたことは、発掘品の中に、硝子玉ガラスだまが七、八個あったことである。
 いずれも緑色か青色のきれいな硝子玉で、大きさは、小指の先くらい。孔があけてあって、ひもを通して装身具にしたものにちがいない。ほとんど透明なみごとな色硝子である。考古館の人が、「初めて出て来た時は、誰か見物に来た人が、落していったのではないかと思ったくらいでした」といっておられたが、まさにそのとおりの品なのである。
 登呂の遺跡は、寿命が短く、約百年程度つづいただけで、そのあとは、洪水か何かで、埋れてしまった、と考えられている。それであとからまぎれこんだものではない。
 古墳時代の以前に、鉄器がやっと入って来たころに、こういう硝子玉があったことは、まことに驚くべきことである。もちろん支那か朝鮮から渡来したものにちがいないが、それが、当時の大和朝廷からほど遠いこの土地まで渡って来ていたことが、驚くべき事実と考えられるのである。
 戦後に、「紀元二千六百年」の反動で、科学的歴史が、大いにはやり出した。そして日本の古代史というと、魏志の倭人伝が、大いに幅をきかすようになった。蜀の陳寿の撰で、西紀三世紀ごろにつくられたこの本には、九州北辺と考えられる耶馬台ヤマタイ国の人民の生活が、かなり詳しく述べられている。
 これは日本の古代史には、重要な文献であるから、それにもとづいて、歴史を「科学的」に書くことはよい。しかし少し偏重の傾きがあるように、私たち素人には感ぜられる。
 倭人伝によると、当時の日本人は、顔に入墨いれずみをして、ほとんど未開人に近い生活をしていた。そして中国にたびたび入貢して、生口(奴隷)を献上していた。政治はシャーマン教の司である女王卑弥呼ヒミコによって統べられ、それはたしかに半未開人の協同体社会であった。
 しかし倭人伝と同じ時代、あるいはそれよりも少し前の時代に、静岡の一隅の原始農村で、硝子玉の飾りをつけていた人もあったのである。
 小、中学校の歴史や社会の教科書に「景行天皇や神功皇后の時代」の説明として、人民は入墨をして水に潜って魚をとっていたことだけを、なんだかうれしそうに書くのは、少し考えものである。それもよいが、同時に、登呂の硝子玉のことも書いておくべきではなかろうか。当時の硝子玉は、今のダイヤモンドに比較すべきものではないかと考えられる。

岩絵具


 日本画で岩絵具を使うことは、日本では常識になっているので、誰もあまり関心を持たない。しかし外国人にはひどく珍しく響くらしい。先日娘が日本画を少し習っていて、アメリカの友人への手紙の中で、岩絵具のことをちょっと書いたら、折返し返事がきた。「岩石の粉ロック・パウダーで絵を描くなんて、実にすばらしい。今度くるときに、少し持ってきて見せてくれ」といってきたそうである。その絵具を買いに上野のP軒へいくというので、ついていってみたが、なるほど、「すばらしい」ものであった。タナに並べてあるだけで、ざっと見たところ、三百種くらいもあっただろうか。実に千差万別の色があって、不思議なトーンの中間色が、むやみとたくさんある。パステルの色なども、実にたくさんあるもので、昔ベルリンでそのセットを買ったときに、ひどく驚いた経験がある。しかし日本の岩絵具の色の豊富さは、それ以上である。あんなに多くの色を、使いこなせるものかと思ったくらいである。
 岩絵具には天然のものと、人工のものとがあって、人工のは、陶器のウワグスリを粉にしたようなものだという話である。千度以上で焼いてあるので、どんなに熱をかけても大丈夫だと言っていたが、なるほどそうであろう。絵具にはまったくの素人がこういうことに興味を持つのは、ちょっとわけがあるのである。私の教室を出たO博士が、現在芸大で物理を教えているが、岩絵具の物理的研究を思い立って、先日いろいろな絵具を送ってきた。私たちの教室にある電子顕微鏡で、粒子の写真をとってくれというのである。
 岩絵具の色は、化学的性質だけでは決まらず、粒子の形や大きさもいちじるしく関係する。たいていの物質は、非常に細かい粉にすると白くなる。ガラスでも岩石でも粉にするとみな白くなる。群青と白緑とは、化学的性質は同じか、あるいは非常に似ているが、白緑の方は、粒子が細かいので、白味を帯びているのだそうである。艶などは粒子の形がきくのだろうと思う。そういう意味で、岩絵具の物理的研究はなかなかおもしろい。朱、黄土、群青……など二十種ばかりの電子顕微鏡写真をとって送ったが、画家の先生が非常に喜んだそうである。
 もっとも粒子の研究だけでは、名人と、へぼ画家との差には立ち入れない。ほんとうはそこがおもしろいので、一定の絵具を大先生に塗ってもらった場合と、われわれが塗った場合との差が、物理的に出てきたら、初めて科学も少し芸術の面に参与できることになるであろう。全く見込みのない話ではないので、たとえば粒子の画面上での配列に差があれば、それを識別する科学的な方法はある。閑があってそういう研究だけしていたら、楽しみなことであろう。
(昭和三十一年五月―十一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「日本経済新聞」
   1956(昭和31)年5月〜11月
※初出時の二十九篇から編集時に三篇が選ばれたものです。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年12月27日作成
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