映画『人類の歴史』

中谷宇吉郎




 前から私は、妙な夢を一つもっている。それは『人類の歴史』という映画を作ってみたいというのである。甚だ唐突な話で、そんなことをいっても、何のことか全然見当がつかないかもしれないが、本人はかなりまじめなつもりなのである。
『人類の歴史』などというと、昔帝劇で十円の入場料をとって見せた『イントレランス』を連想されるかたがあるかもしれない。旧い話で、活動写真館といえば、二十銭くらいの入場料が相場だった頃のことで、この十円は大いに世人の度胆を抜いたものである。
 内容はすっかり忘れたが、なんでも古代、中世、現代と、三つの話の三部作になっていた。そして寛容の心のないことが、人類の悲劇の源であり、それは文明が進歩しても変らないというようなことを、テーマにしたものであった。今から考えてみれば、他愛のないものであるが、古代のところで、何千人という武装兵士が出てくるというのが、呼びものになっていた。たしかトロイの陥落だったかと思うが、当時としては初めての大スペクタクル映画で、大いに評判になったものである。それに、文明が進歩しても、人間は変らないというようなさわりが、当時の文学青年たちにはちょうど手頃であったらしい。それで大いに人気が出た訳である。
 その後ストリンドベリイの『歴史の縮図』を読んだ時に、これを映画にしたら、さぞ美しい夢幻的な映画が出来るだろうと、空想してみたことがある。とくに古代のエジプトやギリシャのところに、ひどく幻想的な場面が沢山あった。ああいうのをうまく映画化することができ、それを現代まで調子を落さずにもってくることができれば、立派な『人類の歴史』の映画が出来上がるであろう。
 しかし私が今ここで言いだした『人類の歴史』は、こういう種類の芸術的な映画ではない。ひどく殺風景なもので、初めから終りまで、世界地図が画面に出てくるだけのものである。すなわち線画だけで出来る映画で、金も仕掛けもそうかからない。もっとも着色にする必要はあるので、その点現在の日本では、まだ少し無理かもしれない。
 この映画の目的は、過去から現在にわたって、世界中のすべての国あるいは民族の消長を、地図の上で、時間的の変化として見せようというのである。まず各国をそれぞれ色わけして、地図の上に塗ることにする。原則的には、四色あれば、どんなに国境が複雑に入り乱れていても、隣り合う国を別の色にすることができるので、四色あればすむわけである。しかし一つおいた別の国が同じ色になったり、いったん消滅した国と同じ色の国が、すぐひき続いて出てきたりすると、まぎらわしいので、なるべく沢山の色を使った方がよいことは、もちろんである。
 現在の天然色またはテクニカラーの技術をもってすれば、三十色や四十色の容易に識別し得る色を出すことは、何も問題ではないであろう。もちろん濃淡を入れての話である。それで世界中の主な国を、それぞれ別の色で示すことは、そう困難ではない。われわれになじみな配色にするとしたら、日本は赤、中国は黄、イギリスは桃色、フランスは緑、ドイツは茶色というあんばいにすればよい。
 まず簡単なところから考えることにして、一つの国がほぼ一定の民族から成り、その国の領土が拡張したり、縮小したりする場合である。この時は話が簡単で、その国の色が、世界地図の上で拡がったり、縮まったりするだけである。民族の移動によって、新しい国が出来る場合、たとえば合衆国などだったら、十七世紀頃になって初めて東海岸に、イギリス、フランスなどの色がつき、それが独立戦争によって、現在の合衆国の色に変り、その色がだんだん太平洋側へ向かって拡がっていくというふうにする。
 むつかしいのは、民族の消長と、国家の盛衰とが一致しない場合である。中国は、漢民族を黄色で現わすと、少なくとも四千年以来、ずっと黄色でいいわけである。しかし明の末期に、満州のたとえば青色が、中国本土に侵入して来るとすると、清朝になったら、全国青色に変るとしてもいいはずである。元の時も同じことである。しかしこういう場合は、中国はやはり中国であると考える方が常識的であるから、青色が黄色にとけ込むことにして、黄色としてずっと続けた方がよいであろう。
 実際に作るとなったら、こんな例は問題ではなく、いろいろな疑問が沢山出てくることであろう。現在の欧州諸国についてみても、それぞれの建国時代にさかのぼってみたら、ずいぶん混迷したものであろう。いわんや古代の近東諸国の錯綜した歴史などは、「国家あるいは民族の」などという言葉でごまかして、色で塗り分けるわけにはいかないかもしれない。しかしそういうことは、ぜんぜん畑ちがいの話であるから、立ち入らないことにする。本文では、何か便宜的な解釈のもとで、各国の勢力あるいは領土の消長を、色で地図の上に塗り分けたとして、話を進めることにしよう。くわしい内容のことは、各方面にわたる大勢の歴史の専門学者に教示を仰ぐよりしかたがない。
 まずそういう地図の塗り分けができたとして、時間をどういうふうに縮めたらよいかが、第一の問題である。この種の映画としては、思いきった長尺物を作るとして、まず一時間半というところが、極限と思われる。この一時間半のうちに盛りこむ内容として、いつ頃から始めるかというに、エジプトというものがある以上、少なくも一部はどうしても採りいれる必要があろう。そうすると、古代エジプトの中世期、バビロン、中国の草※そうもう[#「くさかんむり/奔」、U+83BE、108-下-16]時代という年代が、第一頁になり、それから現代までの世界の変遷を盛り込むというのが穏当である。まず四千年というところであろう。
 ところで、四千年を、一時間半に縮めることにすると、一世紀は二分十五秒、一年は一・三秒ぐらいになってしまう。あまりあっけなく思われるかもしれないが、そのくらいあっけなくしないことには、人類の歴史を、一気に見るわけにはいかないのである。逆にいえば、人間がとにかく文明といわれるものをもってからのちでも、それほどの長い年月が経っているのである。
 この映画は、初めのうちは、ちょっと間のぬけた形になるおそれがある。というのは、エジプトを中心として地中海のクレータやクノッサスの文化、近東のバビロンやヒッタイトの文明など、質からいえば相当立派なものであっても、世界地図の上では、地域としては、ごく一部に限られている。アリアン系の古代インド、夏時代の中国、それに蒙古の祖先を入れても、世界地図としては、余白があまりにも多すぎる。
 それで初めのうちは、エジプト、地中海、近東地方を大写しにして、一応の変遷を見せたところで、アジア大陸までカメラをひいて、古代インドや中国を包含し、漸次、世界全体に及ぶというふうにする方がよいかもしれない。新大陸の方は、マヤの文明が花を開きかけた頃から、画面の中へ入れるようにするのも、一案である。
 一応旧大陸の方で国家間および民族間における弱肉強食の錯綜した動きを充分見せたところで、新大陸を登場させる。すると大部分がまだ余白のところに、中米のマヤ王朝、北米の先史民族などが、すでに色塗りした地域を占めている。インカの先蹤せんしょうなど、もうこの時代に、それだけになっていたのかと思わすのも、ちょっと面白いであろう。コロンブスのアメリカ発見などというのは、映画が終る十分くらい前になって、やっと出てくるので、それまで新大陸の登場を待つわけにもいかないであろう。もっともそういう点には、ここではあまり深入りしないことにしよう。くわしい内容のことは、次の問題として、多少あるいは大いに無理でも、とにかくこういう映画を作ることができたとして、話をすすめよう。
 まず日本であるが、先史時代のことはわからないから、初めは白くしておくよりしかたがないであろう。一時間半の映写時間のうち、初めの一時間近くは余白、魏志倭人伝ぎしわじんでんの頃から、赤い点が現われることにしよう。その色がときどき朝鮮の方へちょっとのびることもあるが、だいたいとしては、本州、四国、九州の三つの島が赤く染まっただけで、いつまでもじっとしている。そして最後の三分くらい前になって、北海道が、この中にはいる。ついで台湾、樺太の南半分、朝鮮が次々と赤くなる。このあたりから音楽がクレッセントになり、最後に金属打楽器がガンガンと鳴って、「大東亜」がぱっと真赤に染まる。かと思うと、四秒くらいでまたその色がひゅっと縮まって、もとの四つの島だけに戻り、それで映画が終るわけである。
 この四秒間のために、大変な数の人が死に、皆が草の粉を食うようなひどいめに会ったわけである。ばかばかしいといえば、これくらいばかげた話もないが、しかし考えてみれば、これはなにも日本だけのことではない。ヨーロッパでも、全く同じような現象が、同時に起こっている。ドイツが、二秒間くらいのうちに、爆発的な膨脹をして、ほとんど全ヨーロッパに拡がる。しかしあっという間に、またもとのドイツに縮んで、今度は二つにちぎれてしまう。しかもドイツの場合は、これの四十秒くらい前に、すでに同じようなことが起っていて、今度は二度目だから、とくに印象が強く残るであろう。
 こういう急激な変化、いわば天文の方での新星の出現に類似した現象は、歴史の上でも、何も珍しいことではない。古代から現代にかけて、世界中至るところで起こっている。遠く西紀前八世紀に遡って、すでにアッシリア帝国の急激な勃興ぼっこうがあり、ついでダリウス帝のペルシャ帝国の建設がある。そのペルシャが三分間くらいのうちに、みるみるしぼんでいき、アレキサンダー大王のマケドニア帝国が、当時の「世界」いっぱいに拡がるかと思うと、それも二分と経たないうちに、風船玉のように縮んで、ローマ帝国が、それにとって代る。このローマはだいぶ続くが、そのうちに今まで欧亜の一隅にじっと蟠居ばんきょしていた蒙古族が、むずむずと動きだす。そして日本の北九州と出雲とに、初めて赤い点が見え出す頃には、この蒙古族は、アッチラの欧州遠征を出現させる。これなどは、拡がりかたも縮まりかたも、映画にして見たら、なかなか華々しいであろう。このアッチラの帝国は、二、三分間のうちに消えてしまうが、八百年後には、ふたたび息を吹きかえし、ジンギスカンの欧亜にまたがる大帝国の建設として、また大爆発をする。
 要するに人類の地図は、生きものである。歴史が始まって以来今日まで、絶え間なく、のたうち廻ってきたわけである。太平洋戦争の四秒間は、日本にとっては、もちろん建国以来の大事件であったが、世界の歴史からみれば、あの程度のことは、始終起っていたのである。
 現にドイツなどは、一分間以内に、同じことを二度も繰り返している。だから日本もといってはいけないので、そんなことの無いように、こういう映画を作って見せる必要があるわけである。もっともそういう意味の効果があるか無いかは、あまり確信がない。しかしこの映画が面白いものである点には間違いないであろう。
 何十という色分けした地域が、複雑微妙な形に、互いに入り乱れている。そのうちどれかが、まるで爆発でもするように、急激な膨脹を始める。単なる拡大ばかりでなく、渦を巻いたような形になることもあるかもしれない。
 ジンギスカンや、アレキサンダー大王が出てくると、その国がみるみるうちに、巨大な形をとってくる。まるで古代の化石動物が出現したかのように、奇怪な形をしてふくれあがって行くであろう。そして目を見張っているうちに、あっという間もなく、それが急激にしぼんでくる。時にはそのまま消滅してしまうこともあろう。
 そうかと思うと、どこかには、小さい国が新しく点々と生れてきて、それらがいろいろな経過をとって生長して行く。場所的にも、また時間的にも、変化はきわめて複雑である。とくに時間的の変化は、緩急さまざまであって、リズム的な移り変りをすることもあろうし、モダン音楽のように、不協和音的な変化をする場合もあろう。
 こういう映画を作ってみたいと言いだしたのは、もう五、六年も前の話である。これといま一つ『人の一生』という映画と、その二つを、同時に思いついた。『人の一生』の方は、もっとすばらしいのであるが、この方は、今はおあずけにしておく。構想は順次進むので、時々教室の昼食のあとで、若い研究者諸君に御披露をした。みんな世界の歴史など、僕よりも知らない連中ばかりだから、いい気になって煙に巻いたわけである。
 ところが、案外にみな鋭いところがあって、なかなか賛成してくれない。第一に、そういう色分けができるとしてという仮定が怪しいという問題が出てきた。
 たいていの場合は、国家の単位にして塗るのであるが、目的は勢力範囲を示すにあるから、植民地など、どうしたらいいか、迷う場合が多いはずである。たとえばインドなど、四千年の昔から、現在まで、インドであるに違いないが、英国支配下のインドを、どう現わすかという問題がある。植民地獲得時代の英国の発展を示すには、インドを桃色に塗る方がわかりやすいが、まったくインドの色を無くしてしまうわけにもいかないであろう。何か巧い方法を探さねばなるまい。窮策としては、インドの色の地に桃色のしまがはいりこむというようなすべもあるが、いかにもまずい。何かもっといい方法がありそうである。インドと限らず、この植民地の問題は、古今を通じて、世界中至るところにあるので、この映画としての表現法を研究する必要が、大いにあるわけである。
 ヨーロッパについてみても、シャルルマーニュの大王国が出来るまで、またそれが分解して現代の欧州諸国が出来てくる過程にも、色をぼかし合わせたり、また分離したり、いろいろ工夫をする必要がありそうである。それに東の方からはサラセンがはいりこんでくるし、ビザンティン帝国は、変転きわまりないし、自分が作らなくても、考えただけでうんざりである。
 そういうわけで、これは思い付としては面白いが、実行不可能ということにして、一時すっかり忘れてしまっていた。それを今頃になって、また採りあげて、こういう随筆などに書くのは、ちょっとわけがあるのである。というのは、最近、アメリカで面白い図を見て、以前の夢が再燃したからである。
 それは、歴史図ヒストマップという図表であって、シカゴの本屋から出版され、アメリカでは一部で評判になっているものである。すでに六版を重ね、五万部も売れたという話であるから、日本へも、もうとっくに紹介されているかもしれない。へたをすると、もう日本版も出ているかもしれないが、最近の事情はわからないので、まだあまり知られていないものと仮定して、ちょっと説明を加えておくことにしよう。
 この図表は、長さ六尺ばかり、幅一尺あまりの色刷の図である。縦軸に年代をとり、横軸に世界各国の「勢力」を、色分けにして塗ってある。年代は西紀前二千年から現代までにわたっている。すなわち四千年の人類の歴史を、一枚の図表にしたものであって、前の映画で範囲を四千年にとったのは、この図表のまねをしたわけである。
 縦の年代の方は、半世紀ごとに刻んであって、おのおのの半世紀に、その国で起こった主なこと、あるいは活躍した人名が書いてある。「死者の書」とか、「リグ・ヴェーダ」とか「万里の長城」とか「ハンニバル」とかいうふうに、書きこんであるので、この方は話が簡単である。
 問題は、横軸に各国および民族の勢力を色分けにするという点にある。初めは国家としては無理なので、エーゲ、エジプト、ヒッタイト、アモリット、イラン、インド、フン、支那と八つの民族に分けてある。すなわち八つの色の帯が出来ている。年代が進むにつれて、この八つの民族の勢力が消長する。それを色帯の拡がりと縮みとで見せようというのであるが、それは「比較的勢力レラティブ・パワーを示す」のだそうで、多分に主観的なものと思われる。その上、いつの間にか、この民族の分類が、国家の分類に移り変っていて、その国家間の相互勢力を、また勝手に主観的に決めて、広くしたり狭くしたりしたものである。専門の歴史学者の眼から見たら、「学的」とはおよそ遠いものであるにちがいない。
 しかしわれわれアマチュアにとっては、これでなかなか楽しめるものなのである。地中海文明が拡がってくると、エジプトが少ししぼむ。しかしテーベに都を定めた頃から、またエジプトが盛り返してくる。同時にギリシャの祖先が出現してくるので、ミノア文明は、挾撃を受けた形になって、みるみるせばまっていく。そして二世紀くらいのうちに、消えてしまう。しかし一度盛り返したエジプトも、アッシリア王国の膨脹によって、急速に縮まっていく。やがてエチオピアが独立し、おなじみのシェバの女王の時代にはいる。その頃に、隣の方を見ると、ヘブライはすでに独立していてそこには、ちゃんとソロモン王が控えている。バビロンは最盛期に達していて、東方諸国の交易の中心であり、遠く支那では、周の文化が栄えている。
 ソロモン王のもとを辞したシェバの女王が、魔法の指輪をかざすと、何千何万という小鳥がやってきて、女王の頭上に、生きた天蓋をつくる。その動く天蓋の下を、女王は静かに沙漠のかなたへ去る。おなじ頃に、中国本土の一隅では、あの怪奇な形象の周銅を鋳ているのである。
 こういう調子に、四千年間をやるわけだから、後の方になった頃には、とっくに前の方のことは忘れている。それで何度でも繰り返して楽しめるわけである。毎晩床についてからこの図を拡げて見る。こうなると、学的の正確さなどあまり気にはならない。結構一週間分や二週間分の催眠剤の役目は果してくれる。もっとも私は催眠剤などあまり飲んだことがないので、催眠剤の効きめは、こういうものだろうと、想像するだけである。
 以前に、世界歴史年表というものを、「催眠剤」に使ったことがある。編者の名前も、書名も忘れたが、西洋、東洋、日本と三段に分けてあって、同年代の事件を同じ行に列記したものである。内容としては、この方がずっと詳しいし、また年代なども正確であるに違いない。なにぶん、一方は三百ページ程度の一冊の本であり、こっちは紙一枚なのだから、内容の点では問題にならない。しかし効果の点では、この歴史図の方が著しく有力である。年表を読みながら、頭の中で作り上げていった映像とは、まったく趣きの異る印象を与えてくれる。目に見えるようにするということは、確かに一つの有力な教育方法である。これも視覚教育の一つであって、学者を養成するためには、そう役に立たないが、一般の人達に、ひととおりの知識と興味とをもたせるには、この歴史図のようなものが、大いに役に立ちそうである。得られるものは、催眠剤的効果に過ぎないであろうが、普通には、それでも結構なのではなかろうかと思う。
 ところで、この歴史図と、映画『人類の歴史』との関係についても、似たようなことがいえそうである。こういう歴史図が出来ている以上、わざわざ映画を作らなくても、この図を上から下へ読み降っていけば、映画と同じことになりはしないかとも考えられる。もっともこの歴史図の示す幅は、相互勢力という抽象的な量であって、地域の広さとは、直接の関係はない。
 映画の方では、この国家あるいは民族の勢力を示すものとして、領土の広さを採用するわけであって、歴史図とは、その点が、根本的に違っている。相互勢力という抽象的な量を、面積という客観的な量で置き換えようというわけである。もっともどちらが良いか、すなわちわれわれが頭のうちに持っている国家の盛衰という観念を、どちらが比較的よく現わすかは、ちょっと疑問である。しかしまず領土と植民地、それに征服した土地でやってみることにしよう。そうでないと、初めからこの話は成りたたない。
 そうすると、この映画のひとこまひとこまは、その時代の世界地図になるわけである。中学校の歴史の教科書に、唐時代の東洋の地図とか、ギリシャ時代の近東の地図とかいうものが挿入されていたが、ああいうものを、連続的に作って、写していったものが、この映画『人類の歴史』ということになる。問題は、四千年前のそういう歴史地図を作るのが厄介だというだけにすぎない。たいへんな仕事ともいえるが、ディズニーの漫画のことを思えば、たいしたことではない。
 ひどく大がかりに話をもち出したが、結局のところ、沢山の歴史地図を作って、それを連続的に写すというだけのことである。それならば、映画にまでしなくても、相当沢山の歴史地図を作って、それを順次に見ていけば、同じ効果が得られるであろうと思われるかたがあるかもしれない。しかしこの場合にも、歴史年表と歴史図との違いに似たところがあって、映画にしてみたら、まるで違った印象を受けるのではないかという気がする。
 映画には、時を見せるという、他のものにはない力がある。時というものは、まことにふしぎなもので、頭の中で、これを把握することは非常に困難である。映画のひとこまひとこまを見たのと、これを映写した場合とは、まるで違った知覚を感ずるものである。ここでは、ベルグソンの純粋な時間というような、哲学的の意味でいっているのではなく、動きの感じかたという卑近な意味でも、静止した絵をつぎつぎと見たのでは、なかなか動きの実体はつかまらないものである。理窟からいえば、映画にしても、残像だけの問題で、結局、静止した絵を矢継ぎ早に見るだけであるから、絵を次々と見ても良いはずである。しかし実際には、なかなかそうはいかない。
 それについては面白い話がある。昔、藤原咲平先生が、渦に凝っておられた頃、学生の卒業論文として、雲の渦動の研究を言いつけられたことがある。同窓のO君がこの問題をうけもって、何秒おきかに雲の写真を沢山撮って、その形のずれから、渦動を調べることを始めた。雲の中から識別できる定点を選ぶことは、そうむつかしくない。それで引き伸した一枚の写真の上で、そういう定点をいくつか拾いだし、その変位から、渦の動きを測ろうとしたのである。いかにもなんでもなくできそうなことに見えて、これは非常に困難な仕事であった。O君はたいへんな勉強家で、よくやったのであるが、結局結果は非常に複雑なものになって、目ざす渦動はつかまらなかった。
 その後十年くらいかもう少したってからのことである。たしか高橋喜彦博士だったかと思うが、富士山麓で、雲の動きを、微速度映画に撮ったことがある。今では常識になっている微速度映画が、まだ珍しかった頃の話である。ところで、その映画を写してみると、何のことはない。雲はまるで渦のかたまりで、ねじれ合い、もつれ合って、ぐるぐる廻っている。この映画を見られた藤原先生も、あまりにも雲が、自分で考えていたとおりの運動をするので、ひどく驚かれた。「映画というものはふしぎなものだ。映画で見れば、いっぺんにわかってしまう。それにしても、あれくらいはっきりした現象が、写真の上の測定では、出てこないのだから妙なものだな」と述懐しておられた。
 私も同じような経験を、海霧の移流について、味わったことがある。動きの実体を、静止の連続で見ようとするのは、非常に簡単な運動の場合以外は、かなり本質的な無理があるようである。それでもし『人類の歴史』を映画にして、それを映写してみたら、歴史地図の並列からは得られない、何か新しい感動が生れてくるように思われて、しかたがない。間違っているかもしれないが、こういうことは、作ってみなければ決してわからないものである。ありとあらゆる形をした、何十という国が、たがいに相接している。それらが皆違った色に塗られていて、おのおのの形が刻々に変わって行く。これは色と形との交響楽であって、そのテンポにはきわめて、複雑な変化がある。
 歴史ということを離れても、これ自体が何か素晴らしい交響楽になりそうな気がする。その上こういう交響楽を、人類が四千年かかって演奏してきたのだと思えば、いっそう感銘が深いであろう。十億の人間が、四千年かかって実演してきた音楽など、これ以外には、ちょっと考えられない。まさに人類最大の交響楽が出来そうである。半分は冗談であるが、半分は本気で、誰かこういう映画を作ってみないかなと、この頃考えている次第である。
(昭和二十九年四月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「黒い月の世界」東京創元社
   1958(昭和33)年7月5日発行
初出:「心」平凡社
   1954(昭和29)年5月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年11月27日作成
2021年12月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「くさかんむり/奔」、U+83BE    108-下-16


●図書カード