科学の限界

中谷宇吉郎




 今世紀にはいってからの科学の進歩には、まことに目ざましいものがあった。とくにこの十年以来、その進歩は、一大飛躍をなし、原子力の開放、人工衛星の打ち揚げなど、人類の歴史の上に、金字塔として残る幾多の事業を為しとげた。
 こういう華々しい科学の成果に幻惑された人々の中には、あたかも科学を万能のものとする考え方が、次第に一つの風潮となりつつある。そして科学がさらに数段の進歩をすれば、人間のいろいろな問題が、全部科学によって解決される日が来るかの如き錯覚に陥っている人もあるようである。宇宙時代というような言葉が流行し、それが何か人間を変えることのように思われているのも、その一つの現われである。月や火星の景色を見たり、其処にある資源が利用できる日が来ても、それは百年前に、北極や南極へ行ける日を夢見ていたのと、同じことである。今日では、北極へも南極へも、飛行機ならば、文明圏から、十数時間で行ける。しかしその時代でも、人間は、相変らず、戦争や貧困におびえている。
 科学が非常に強力なものであることには、誰も異論はない。しかしそれは、科学の処理し得る問題の範囲内での話である。一歩その範囲の外に出れば、案外に無力なものである。科学的とか、科学精神とかいうような言葉が、方々で使われ、人生問題や、政治の問題などにも、よく顔を出している。もちろん正当な意味で使われている場合もあるが、多くの場合は、それ等の言葉は、アクセサリーとして使われている。或いは「科学者の意見」として、ジャーナリズムに担がれている場合もある。
 その極端な例としては、この頃、宗教にまで、科学を取り入れようとする宗教家もあるようである。キリスト教では、マリアの処女懐胎が、信仰になっているが、生物学では、そういうことは認められていない。ところが、下等動物では、無性生殖といって、雌だけで子が出来るものもある。そういう知識をとり入れて、マリアの処女懐胎を説明しようとする人にも会ったことがあるが、こういう話は全然間違っている。宗教と科学とは、全く別のものであって、科学といくら矛盾しようが、そんなこととは無関係に存在しているところに、宗教の本質があるのではないかと思う。
 宗教に科学的な要素を採り入れようとする考え方の底には、科学の方を、宗教よりも有力なもの、あるいは確実なもののように考えているところがある。より優れたものと思えばこそ、それを採り入れようとするのであろう。
 ところが、その逆の場合もある。「科学を窮極のところまで勉強すると、最後は宗教に達するのではないでしょうか」というような質問を時々受けることがある。これも妙な話であって、この考え方では、宗教を科学よりも一段上としているが、これも宗教と科学とを、同一の線の上においている点では、前の考え方と同様であって、これも間違っていると、私は思っている。科学と宗教との間には、優劣とか上下とかいうような関係はないのであって、全く別のものである。従って、両者は比較のできない性質のものである。
 あまりうまくない譬えであるが、自動車とわらじとの優劣を論ずるようなもので、意味のない議論である。良い道路があれば自動車は便利であるが、山道はわらじでなければ通れない。自動車は速いし、また多くの荷物も運べるが、山道をわらじで歩かなければ、決して見られない景色もある。
 この譬えは、何も宗教との比較の場合だけに限った話ではない。科学は、人間をも含めた広い意味での自然現象の中から、科学の方法が適用され得る問題を選び出して、それを対象として発達したものであり、今後もその方向に進行すべき性質の学問である。そういう意味で、科学は非常に強力なものではあるが、その適用の範囲には、限界がある。その限界を見極めるためには、まず科学の本質を知ることが必要である。
 ところで、科学の本質などというと、非常にむつかしいことのように考えられ易いが、何もそうむつかしいことではない。科学は、ごく平易な意味での真理の学問であって、本当か間違っているかを問題とする学問である。例えば、此処に或る法則があったとして、それが本当ならば、それは科学の法則であり、間違っておれば、法則とはいわれない。ところで、それが本当か否かを、何で判定するかというに、それにはくり返してためしてみるより外に方法がない。誰がそれと同じことをくり返してみても、いつでも同じ結果になる場合に、それを本当というのである。例えば、一番簡単な場合として、手許にある箸の長さを物指で測ったとする、そしてその長さは一九センチ五ミリだという。この場合、その一九センチ五ミリというのが、本当か間違っているかは、もう一度測ってみるより外に方法がない。誰が何回測ってみても、いつでも一九センチ五ミリと出れば、この測定値は本当だということになる。もし世の中に物指が一本しかなくて、それが一度測ればこわれてしまうものだったら、そういう物指で測った長さは、もう一度測ってみてたしかめることができないので、本当か嘘か、決定のしようがない。正確かどうかという問題ではなく、そういう測定は、原則として科学の対象にならないのである。
 それで科学が取り扱う真理というのは、いつでもその底に、再現可能という仮定がはいっている。即ち同じことをくり返せば、同じ結果になるということを仮定しているわけである。こういうと、次のような質問が出るかもしれない。同じことをくり返せば、同じ結果になるのは、当然ではないか、同じ結果にならなかったら、同じことをくり返さなかったのである。これは仮定ではなく、公理ではないか、という質問である。如何にももっとものようであるが、それは「同じことをくり返せば」という言葉の魔術にひっかかっているのである。
「同じことをくり返せば」と、口で言ってしまえばそれだけであるが、本当は、同じことをくり返すことが、可能であるか否かを、吟味してみる必要がある。これは深く考えてみる必要もないほどわかり切ったことで、「同じことをくり返す」ということは、実際には、不可能なのである。どんなに条件を一定にしても、少なくも時はちがっている。
 一番わかり易い例は、人生であって、これは二度くり返すことが出来ないことは、説明を要しない。しかしもっと簡単な自然現象でも同じことであって、普通には何度でもくり返してためしてみることが出来ると思われていることでも、本当は、全く同じことを二度とくり返すことは出来ないのである。
 箸の長さを物指で測るというような一番簡単なことでも、一度目に測った時と、二度目に測った時とでは、条件が違っているので、全く同じことをくり返しているのではない。その間に温度も違っているし、箸の材料である木材は、幾分かは伸縮しているし、物指だって極微量は狂っている。それで二度目の測定は、一度目の測定と全く同じ条件で、くり返して測定しているのではない。ただその差があまりにも極微量であるために、測定の精度の範囲内では、差が出て来ないだけのことである。一九センチ五ミリまでならば、いつでも同じ値に出るが、一ミリの百万分の一くらいまで測れる物指で測ってみれば、そのつどちがうにちがいない。
 物理学の方で、今までに知られた一番精密で正確な法則の一つは、ニュートンの万有引力の法則である。この法則に従って、日食や月食を計算すると、百年先の日食が、一秒以内の精度で予言出来る。この万有引力の法則は、地球上で石を落した場合にも適用される。石を或る高さにもっていって、手をはなすと、石は地面へ向って落ちる。これは地球とこの石との間に万有引力が働くからである。
 万有引力の法則は、非常に正確なものであるから、一定の高さから石を落すと、一定時間で地面まで落ちる。何度くり返して落してみても、全く同じ時間で落ちる。即ち再現可能であるように見える。しかしそれは普通のストップ・ウォッチなどで測れる範囲内で、いつも同じ値に出るので、少し精密に測ってみると、そのつど違った値になる。それは空気の抵抗があるためである。それでは真空の中で落してみたらどうかというに、これも精度の問題であって、一億分の一秒くらいまで精密に測れる時計で測ったら、一回ごとに違うにちがいない。万有引力が働くのは、石と地球との間だけではなく、月や太陽、その他の天体も、いくらかは作用している。一度目と二度目との間には月や太陽の位置も違っているし、一定の高さといっても、一ミリの一億分の一くらいまでの精度で、高さを決めることは出来ない。それでこういう一番簡単なことでも、同じことを二度くり返すことは、出来ないのである。
 しかしそれでは学問のつくりようがないので、自然界の中から、なるべく再現可能に近い現象がないかと探してみる。幸いなことには、いわゆる自然現象は、大部分が再現可能に近いのである。別の言葉でいえば、再現可能という原則の上に立って、学問を組み立てて見ると、かなり良い精度の範囲内で、うまく現象の説明が出来るのである。それを「現象がわかった」という。現象の内容がわかれば、こういうことがあれば、次ぎにはどうなるかという予想が立ち、その範囲内での予言が出来る。また湯気が鉄瓶の蓋をもち上げる力の内容がわかれば、それをどう使えば、機関車を動かすことが出来るかという工夫が立つ。そういう予言や工夫を、人間生活に役立つようにもって来ることが、即ち科学が役に立つこととなるのである。
 以上の話で大切なことは、再現可能という原則の上に立って、学問を組み立ててみると、かなり良い精度の範囲内で、うまく説明出来る現象が自然界に多いという点である。しかしこれは全部の自然現象がそうだというのではない。此処で自然現象というのは、前にもいったように、人間なども一つの自然物と見て、その中に含めた広い意味である。
 人間を含めた場合は、話がむつかしくなるが、もっと手近な自然現象の中でも、科学の手におえない問題がいくらもある。たとえば、目の高さから一枚の塵紙を落してみる場合、紙は右左にひらりひらりとして落ちて来るが、何度くり返しても、全く同じ落ち方をすることは決してない。それで紙がどういう落ち方をするかを、あらかじめ予言することは出来ない。紙がひらりひらりとするのは、空気中に出来る渦によるので、渦は不安定な現象である。現在の科学は、不安定な現象の解明には役に立たない。人工衛星などは、再現可能の原則がもっとも精密にあてはまる力学の原理によっているものである。それで強力なものであり、実現には非常な困難を伴うが、しかしその困難さは、富士山を掘り崩して、駿河湾を埋め立てる困難さと同じ性質のものである。それに比して、一枚の紙の落ち方が解けないという困難さは、科学の本質から来るものであって、困難さの性質がちがっている。火星へ行ける日が来ても、テレビ塔の上から落ちる一枚の紙の行方はわからないのである。
 此処で科学の限界の一つが、はっきりして来たわけである。即ち科学の取扱える問題は、再現可能の原則が近似的に適用される現象に限るということである。物質間に起こるいろいろな現象や、生命によって生起されるいろいろな現象のうちでも、物理化学的変化などは、この範囲に属するので、科学の問題であり、そういう問題の解明には、科学は有力である。しかし生命自身とか、本能とか、いわゆる人生問題とかには、再現可能の原則が、近似的にも適用されない。そういう問題には、科学は無力である。というよりも、無縁であるといった方がよいであろう。
 今までくわしく述べたように、再現可能の原則は、厳密にいえば、どの現象にも適用されない。ある精度の範囲内で、それは適用されるのであって、精度ということが、科学では本質的な意味をもっている。科学は、ものの本質とか、実体とかを調べる学問であると思われ易いが、本当はそうではない。実体自身は知ることが出来ないので、その中の測定し得る性質だけを知る学問である。いろいろな性質の中で、測定の容易な性質がくわしく測られるのであるが、それでも常に精度の限界がある。長さや目方などが、一番くわしく測り得る性質であるが、それでも天秤にも、顕微鏡にも、精度の限界があって、ある程度以上は測れない。
 小さい石ころをとって、普通の棹秤さおばかりで測ると、六四グラムと出る。天秤てんびんで測ると、六五・二八グラムと出る。精密化学天秤で測ると、六五・二八三五グラムと出る。原子力の研究などで使う特別製の超精密天秤で測ると、六五・二八三五一三グラムと出る。ずいぶんくわしく測ったわけであるが、最後の一三の次ぎがどうなっているかはわからない。今後天秤がさらに改良されて、その先幾桁か測れるようになっても、そのまた先は測れない。要するにものの本体は永久にわからないのである。しかしそれでちっともかまわないので、科学はものの本体を知る学問ではなく、またその必要もない。ある性質について、必要とする精度の範囲内で、その値を知り、その範囲内でこれを利用する学問なのである。こういうふうに、科学はその学問の範囲を、自ら限定したので、今日の発展を来たしたともいえよう。
 ものの本体は知らなくてもよいが、なるべく本体に近い値は知る必要がある。即ち精度が高いほど良いことはもちろんである。その方が利用の範囲が広いからである。利用というのは、実用だけでなく、学問の、次の進歩に貢献するという意味も含まれている。
 科学の中にはいっている精度の概念は、石ころの目方を測るというような、個々のものについて、精度を高めて行く場合だけに、適用されるのではない。科学が役に立つのは、個々の知識を積み上げ、組織立てて、複雑な現象の解明に資するところにあるが、其処にも精度の概念がはいってくる。
 実際にある自然現象、人間も含めての広い意味での自然現象は、非常に複雑であって、その中には、無限に近いほどの多くの要素がある場合が多い。そういう時に、一々の要素についてくわしくその性質を調べ、それを積み上げて、とやっていたら、一つの問題を解くのに、何百年とかかってしまう。それでも解けない場合が多いであろう。
 そういう努力は、結局、ものの本体を知ろうとする努力と、一脈通じたものになる。科学は、本体を知ろうとしてはいけないので、処理し得る性質を、近似的に知るだけで満足しなければならない。この場合、近似の度が高いほど良いことは、もちろんである。
 こういう複雑な現象、それが現実の世界では大部分であるが、それを処理するには、一つの方法がある。それは統計的な方法と呼ばれているものである。個々の性質には立ち入らないで、ある群を、群全体として取扱い、その方法の範囲内で得られる知識だけで満足する、というやり方である。もちろん、すべての性質はわからないが、ある性質だけでもわかって、それが役に立てばよいのである。
 例えば、人間の寿命は、個人個人については、なかなか決められない。現在の医学では、全然わからないといってよい。しかし生命保険会社が、保険料の率を決めるには、現在の日本人が、年齢別に、どれくらいの死亡率になっているかを知る必要がある。保険料をあまり安くすると損をするし、高くすると、儲かりすぎて困る。
 それで死亡率をちゃんと調べ、三十代の人ならば、一万人について何人の割合、四十代の人ならば何人というふうに調査して、保険料を決める。そして実際に経営してみると、大体計算どおりに死ぬので、適当に儲けて経営が成り立つのである。この場合、誰が死ぬかということは知る必要がないので、全体として、何人死ぬかがわかれば、それでよい。それで保険会社には、こういう統計的な方法が、非常に役に立つ。しかし個人の家については、家の者が死ぬか死なないかが、大問題であって、よその家で、一万人に何人の割合で死のうが、死ぬまいが、大した関心はもたない。要するに、科学と一口に言っても、問題によって、方法をちがえなければならない。
 ところで、科学を実際に使おうとすると、統計的方法が適用される場合が非常に多い。それに群全体としてみると、科学の適用可能な範囲が広げられるという利点がある。例えば薬の効き目などというものも、人間が一人だけいて、一回だけ病気する場合は、効き目の判定のしようがない。薬を飲んで治った場合、飲まなくても治ったかもしれない。飲んでも死んだ場合、飲まなくてもやはり死んだかもしれない。一人の人間について、飲んだ場合と、飲まなかった場合とを、同時にためしてみることが出来ないので、判定のしようがない。即ち、こういう場合には、科学が適用されないのである。
 普通ある薬が効くというのは、何回もくり返してみて、いつでもその薬を飲んだ時には熱が下がる、というような場合をさしている。此処にも、何回もくり返すという、即ち再現可能の原則がはいっている。もちろん一度目と二度目とでは、身体の調子が少しちがっているから、厳密な意味でのくり返しではない。しかし近似的に再現が可能なので、科学が適用されるのである。ところが効き目といっても、厳密なくり返しではないから、そのつど、効きぐあいが少しちがう。しかしこの場合にも、前述の精度の概念が適用出来るので、十回中九回まで治る薬の方が、十回中六回治る薬よりも、精度が高い、即ち良い薬なのである。
 一人の人間の場合だと、何回もくり返してみなければならないが、この時間的系列を、一度でためしてみることも出来る。それには大勢の病人に、同時に、ある薬を飲ませてみればよい。これだと一回で判定が出来る。一〇〇人中九〇人も治ったら、たしかに効いたと言ってよい。甲乙二つの薬を、二つの群に飲ませて、甲は一〇〇人中九九人治り、乙は一〇〇人中六五人治ったとしたら、甲薬の方が精度が高い。個人でなく、群として取扱うと、一回だけの試験で、こういう判定が出来、精度もわかる。即ち一回の場合にも統計が適用出来るのである。この場合は、百人の人に一回施行することによって、一人の人に百回くり返すことの代用をつとめさせたので、やはり近似的に再現可能という原則がはいっている。
 しかしこれは群として取扱っているので、その結果は、統計的なものしか得られない。即ち、九九パーセントまで効くか、六五パーセントしか効かないか、ということしか言えない。百人のうちの誰が治り、誰が治らないということはいえない。しかしそれでも充分役に立つので、九九パーセント効く薬ならば、それは良薬として推奨しなければならない。
 ところで、極端な場合として、一〇〇人中九九人は治るが、一人は死ぬという薬は、どう扱うべきか、という問題が出て来る。九九パーセント効くのであるから、その点では名薬である。しかし死んだ一人の人にとっては、一パーセント死ぬのではなく、まるまる死ぬのである。その人にとっては、この薬は非常な悪薬である。それならば、販売を禁止すべきかというと、そうとも言えないところに問題がある。
 ペニシリンのショック死が、その良い例である。死んだ人には非常に気の毒であり、また一人の人間の生命は、全地球よりも尊い、というのも、そのとおりである。しかしそれならば、ペニシリンの販売を禁止すべきかというと、それは間違っている。ペニシリンは非常な名薬で、この薬の出現以来、肺炎の死亡率が激減している。肺炎で死ぬ人が日本に何人あったか知らないが、かりに十万人あったとして、死亡率が半減すれば、五万人は助かることになる。ペニシリンのショックを恐れて、販売を禁止し、肺炎による死亡率がペニシリン出現以前の値に戻ったとすると、一人の人の死を防ぐために、五万人の人間を殺すことになる。ペニシリンを使わなかったために、肺炎で死ぬ人は、ショック死ほどはっきり目立たないので、見逃され易いが、計算からは、こういうことになる。
 そうかといって、死んだ一人の人にとっては、その生命は、全地球よりも尊い。ここに深い矛盾があるのであって、この場合、科学としては、九九パーセントの方を選ぶより仕方がないのである。科学というものが、その本質上再現可能の原則の上に立ち、その役目には統計的な意味しかないのであるから、せいぜい統計上の「精度」を高めるよりほかに道がない。
 科学の効果には、統計的な意味しかない、というのが、科学の限界についての後半の説明である。科学がこういうものだとすると、科学的な考え方は、政治には適用される。最大多数の最大幸福というのは、統計的なものであるから。しかし個人の幸福という問題になると、再現可能の原則が、全然あてはまらない面が、かなりの部分を占めているので、その面へは、科学は無力である。そこに残された広い分野がある。
 宗教や芸術や哲学のことはよく知らないが、たぶんこの残された分野の中に、それ等の働く場所があるのであろう。そうすると、科学とそれ等の人間の精神活動とは、人間の精神生活の両面であって、お互いどうしは無関係であるが、人間を通じて、それは融合すべきものではないかと思う。従って科学と宗教や芸術とは、初めから両立すべきもののように思われる。
(昭和三十三年七月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「心」平凡社
   1958(昭和33)年7月
初出:「心」平凡社
   1958(昭和33)年7月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年6月26日作成
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