科学ブームへの苦言

中谷宇吉郎




科学ブームの発生


 この数年来の科学の飛躍的発展は、今さら述べ立てるまでもない。人工衛星、原子力問題、人工頭脳、南極観測と……、この近年の新聞や雑誌に、科学関係の記事が、一つも載らない日は、まず無いといってよい。まさに科学ブームの時代である。
 二十五年ばかり前に、朝日新聞が、初めて科学欄をつくり、月に一回か二回、科学の記事を載せ始めたのは、当時としては、まさに劃期的な壮挙であった。それまでは、科学の記事といえば、社会面のトップに、いわゆる「世界的大発見」の記事が、一日だけあらわれて、すぐ消えて行く程度のことであった。まさに隔世の感がある。
 科学が今日のように発達してくると、政治も、経済も、科学を抜きにしては、動くことができない。従って科学関係の記事が、新聞の第一面や第二面、あるいは総合雑誌の巻頭にあらわれるのも当然なことである。これは何も日本だけの話ではない、世界的の現象である。しかしこの現象を、近年の日本の場合について考えてみると、この科学ブームが、必然性から産まれてきたものか否か、いささか疑わしい点がある。
 もちろんそういう現象が、現実に生じている以上、そこには、必然性があったことは、確かである。しかし必然性という言葉を、もっと狭義に考えて、今日の日本の科学ブームが、日本の政治なり、経済なりと、直接のつながりがあるか否かという点になると、大いに吟味を要する。
 ジャーナリズムにおける科学ブームは、科学振興の基盤となるものであって、その点では、大いに歓迎すべきことである。しかしそのブームが、国情と時代との必然性から産まれたものではなくて、誤ったジャーナリズム、すなわちその日その日主義の産物として、産み出された場合は、かえって科学振興の害になる。
 その弊害は、いろいろな形をとって、現われてくる。単なる民衆の好奇心に迎合する場合は、よく非難されるが、それはまだ罪の浅い方であるが、もっと悪質なのは、自己の主張を有利にするために、科学の一部の知識だけを引用し、大衆の科学知識の欠如に乗じて、ことを為そうとする傾向が出てくることである。
 もっとも、これは結果としての話であって、初めから、そういう意図をもってかかる場合は、滅多にないであろう。充分な科学知識がない場合には、いろいろな話を読んだり、聞いたりしているうちに、自己の主張に有利な事項だけが理解され、ついそれを引用することになり易いのである。
 平凡な結論になってしまうが、科学ブームを本当に活かすためには、国民全体の科学知識を向上させるより他に、よい方法はない。それについては、一般大衆の成人教育には、ジャーナリズム或いはマス・コミ以外に、現在のところ、道がないのであるから、関係者はその点を常に頭に入れておく必要があるであろう。それには、まず間違った記事を書かないという、基本的なことからはいって行くべきである。
 今日の大新聞の科学記事は、たいていは、かなり高級であって、専門的な知識も充分にとり入れてある。われわれ科学を職業としているものでも、大いに教えられることが多い。しかしときどき、一寸した卑近なことで、思い違いのあることもある。そしてそれが科学に対する一般の考え方に、案外に大きい影響をもたらす場合がある。話をわかり易くするために、実例について、話を進めよう。

深海探測機


 昨年の六月にフランスの深海探測機バチスカーフが、日本へやってきて、三陸沖の日本海溝で、深海の探測をした。朝日新聞とフランス海軍との協同事業とかで、朝日新聞は、第一面のトップ記事として、大々的にこれを扱った。その時には、たしか十何回か潜水したが、そのうちの一回に、日本の佐々木博士が同乗した。
 佐々木博士は、この時に、深海における海水の流れを調べたが、三千メートルの海底でも、毎秒約二センチの流れがあることを、目測によって確認した。深海の底でも、海水は徐々に動いていることは、前からわかっていたことであるが、太平洋の底での実験は、今までなかったので、これは一つの収穫であった。その点では、この調査は意義のある調査であったが、新聞記事となると、それが次のような形に取り扱われていた。
 六月二十一日の第一面トップ記事として、五段抜き初号活字の扱いで、
「深海の底の海水は動いていないというのが、これまでの海洋学の定説であったが、バチスカーフによる観測で、根底から覆えされた。海洋学は新しく組み変えられなければならない、また原子力時代の放射性廃棄物の処理法にも重大な影響を及ぼすと考えられる」
 と書いてあった。「海洋学を新しく組み変える」ような「大発見」をした当人? 佐々木博士は、恐らく、苦笑したことであろう。深海の水の流れは、大西洋でも調べられ、またペターセン教授のアルバトロス号による太平洋の深海の泥土の研究でも、よくわかっていたことである。ペターセン教授は、近年までスウェーデンの国立海洋研究所長をしていて、世界的に有名な海洋学者である。ノーベル賞銓衡委員の一人で、一昨年日本を訪れたときは、天皇陛下や皇太子にも会っている。
 日下実男氏の『海洋の秘密』にも「四、五千メートルという深い海の底にも、深層流とか、極底層流という海流がある。そして深海の水は、これらの海流にのって、ゆっくりと動いているのである」と書いてある。これは教養文庫の一冊で、中学生または高校生程度を目標とした普及書である。そういう本にも出ている程度の周知のことである。こういうふうに、動いているのが定説なのに、動いていないのが定説というのであるから、これは全くの思い違いであろう。ところで、興味のあるのは、そういう思い違いが、何処からきたかという点である。もちろん新聞記者は海洋学者ではないから、知らなくても、ちっともかまわない。ただこれについて、一つ面白い話がある。それはこの記事が出てから間もなく、たしか阿部真之助さんだったかと思うが、週刊誌に、この記事の批評を書かれたことがある。その中に、次のような意味のことが書いてあった。
 今度の深海探測機の観測で、深海の底でも海水が流れていることを発見したそうである。そしてそれで、従来の海洋学の定説がくつがえされたという話であるが、十分間か二十分間、一寸見ただけで、すぐくつがえってしまうようなことが、学界の定説であったというのは、少しおかしい。海洋学の定説というのは、そういう程度のものなのであろうか。
 まあこういう意味の言葉であった。
 これはたいへん面白い話である。さすがにベテランのジャーナリストというものは、偉いものである。一寸見ただけで破れるものが定説であったのはおかしい、というこの見方が、一々の科学知識よりも大切なのである。阿部さんは恐らく海洋学のことは、何も御存じないのであろうが、それでもこの記事が間違っていることは、すぐわかったのである。ジャーナリストは、科学のすべての面にわたって、正確な知識をもっている必要はない。科学者にも、それはできないことである。ただ「はてな」という気持の眼さえ開けていれば、疑問は出せる。疑問をもつことができれば、それで充分である。きく人はいくらもいるから、電話一本ですむ話である。
 この例なども、いわば一寸魔がさしたというのであろう。そしてその魔の秘密は、どうも「放射性廃棄物の処理法」にあったのではないかと思われる。放射能ときくと、すぐにぴんとくるので、忽ち「海洋学を新しく組み変える大発見」が産まれたのではないかという気もする。この邪推は、次の日の毎日新聞の短評欄を見たときに、ふと頭に浮んだことである。

放射性廃棄物の処理


 六月二十一日の朝日新聞に、あの記事が出た翌日、毎日新聞の『余録』の欄に、この問題が取り上げられた。
「二十日の潜水では、金華山沖で三千メートルの海底に達した。(中略)二十日の潜水では、わずかながらも海底の水が動いていることが確認された。これは実は大きな意義を持っている。
 深海の底の水は、動かないものと思われていた。そこで原子炉などから出る放射性廃棄物の捨て場として、この日本海溝が一つの候補地となっていた。しかし水が動くとなれば、話は違ってくる。たとえわずかでも動いていれば、長い年月には、放射性物質が拡がっていくわけだ。廃棄物の中には、半減期が非常に長いものがあるだけに、危険きわまりない。
 知らないということはおそろしい、捨ててしまってからでは間に合わない。この調査では、廃棄物を捨てるのに反対する有力な立証が得られた。バチスカーフ号は、日本の救いの神といえるかもしれない」
 こういう記事である。一寸読むと、読者の中には、なるほどと思われる方があるかもしれない。しかしこれはまことに妙な話なのである。放射性廃棄物というと、すぐ死の灰を思い出し、まるで、東北地方の海上に、撒き散らすようなつもりで、書かれた文章のようである。
 きたるべき原子力時代では、放射性廃棄物の処理が、世界的にいって、一つの大きい問題であることには、間違いがない。それでこの方面の学者たちは、いろいろな案を出しているが、その中に、深海へ捨てるという案もある。日本海溝とはいっていないが、もっと深くて、陸地からもっと遠い海はいくらもある。
 ところで、その捨て方であるが、それは何も灰をそのまま捨てるのではない。頑丈な金属の容器に密封して捨てるのである。そうでなかったら、第一、船へ積み込むこともできない。
 ところで秒速数センチというのは、流速計にもかからないくらいの遅い流れである。そんな流れでは、石ころも流せない。岩乗な特殊鋼の大容器に、廃棄物がいっぱい詰められたものが、そんな微弱な水流で流されるとは、到底考えられない。とくに深海の底は、厚い泥土で蔽われているので、容器は泥土の中にもぐり込むはずである。
 問題は、長年月の間に、容器が海水で腐蝕されて、中身が流れ出さないかという点にあるが、今日の発達した金属物理学をもってして、海水の腐蝕に耐える金属くらい、できないはずがない。問題があるとすれば、如何にしてそういう合金を安価につくるかという点にあるので、バチスカーフとは、関係のない話である。「日本の救いの神」などとおだてられては、ウーオ艇長も苦笑するより他にはないであろう。
 放射性廃棄物の処理の問題には、科学者たちが、それぞれ頭をひねっているので、一寸した思い付きで、賛成したり、反対したりできる問題ではない。昨年の九月、フランスのシャモニイで、国際雪氷委員会の会議があり、世界十六カ国から、雪氷学者が、六十人ばかり集まった。そのとき、グリーンランドの氷冠の上に、廃棄物入りのドラムかんを捨てる案が出された。
 グリーンランドの氷冠は、面積が日本の六倍もあって、氷の厚さは、平均して、二千メートルもある。この日本の六倍もある広いところに、住民は一人もいない。この上に捨てられた廃棄物は、氷のきわめて緩慢な運動に乗って、まず氷冠の底近くまで沈み、やがて海岸へ向って押し出されてくる。これは極端におそい運動であって、氷の粘弾性から計算して、約十万年かかると推定されている。十万年が五万年でも、これならば大丈夫である。
 この案は、勧告案として採択されて、ウィーンの国際原子力局へ提出された。しかしグリーンランドは、デンマーク領であるから、デンマークが承知するかどうかもわからない。また日本からわざわざグリーンランドまで、廃棄物を運ぶのも厄介である。日本としては、将来は、やはり太平洋の深海を選ぶ方が、実際的ではないかと思っている。北海道へ捨てるなどというのは、反対である。
 バチスカーフも「廃棄物を捨てるのに反対する有力な立証」など、とんだお土産を残して帰って行ったものである。これは笑い話としてすませてもよい程度の話であるが、その底にあるものが問題なのである。それは放射能に対する過敏症という点である。
 原爆の恐ろしさとか、その非人道性とかいう点については、誰も異論はない。ただその点を強調するあまり、原子力そのものを恐れる風潮が漲ることは、日本の将来に、悪い影響を与えるであろう。好むと好まざるとにかかわらず、エネルギー源を原子力に求める、いわゆる原子力時代が、将来にはやってくることは確かである。そのときに、日本がエチオピアになるのは困る。

動力協定の騒ぎ


 放射能過敏症は、ジャーナリズムの世界ばかりでなく、政治の面にも、かなり浸み込んでいるように思われる。少し旧い話の方が、毒気が少ないので、やはり昨年の六月の議会の話を例に引こう。
 それは原子力発電についてである。きたるべき原子力時代にそなえて、日本でも、早く原子力発電に着手しなければならない。それには動力炉を外国から輸入するより他に、今のところ道がない。という見解が通って、政府は、英国及び米国から、違った型のものを、それぞれ一基ずつ輸入することに決めた。ところが、此処に問題が一つあって、それには輸入先の国と、動力協定を結ばなければならない。
 それでまず問題になったのは、米国との動力協定である。米国の動力炉は、濃縮ウランを使うので、これは電力を出させたあとの副産物として、プルトニウムが相当量出来る。このプルトニウムは、原子爆弾の原料になるものである。
 問題は、このプルトニウムであって、米国は、濃縮ウランを輸出する条件として、出来たプルトニウムは、日本で平和利用に使う分だけを除いて、残部は米国へ売り渡すという協定を結ぶことになっている。これは米国としては、無理もない話である。せっかく苦心して研究をし、厖大な国費を使ってつくった濃縮ウランを、外国へ輸出して、先方で原子爆弾をつくられたり、またはソ連や中共へ再輸出されては困るわけである。
 日本の場合は、自分で原爆をつくる意志はないし、こっそりソ連へ密輸出しなければならない義理もないから、出来たプルトニウムを、アメリカが買い戻す点に、反対する理由はない。ただ一つ問題は、このプルトニウムで、アメリカが原爆をつくったら、日本が間接的に、アメリカの原爆製造に協力することになる。この点は、原爆の被害国として、国民感情上、到底同意することができないという議論が出てきた。
 それで日本政府は、プルトニウムの買い戻しには賛成するが、それを米国でも、平和目的以外には使わないと保証してくれ、という注文をつけた。ところがアメリカの方には、その意味がよく通じない。この動力協定は、既にトルコ、ブラジルその他の国と結んだ協定と同じ内容のもので、国際的な標準規定であるから、日本だけを除外例とする理由がわからないというのである。ワシントンの国務省での第一回交渉のときには、米国側から「いったい日本は濃縮ウランが欲しいのか、欲しくないのか、どちらであるかを明らかにしてくれ」と聞かれて、返答に困ったそうである。
 しかしやっと先方にも日本政府の立場が了解され、買い戻したプルトニウムは、平和目的以外には使わないという、アイゼンハワー大統領の覚書をつけることになった。本当のところは、先年の覚書を確認したわけであるが、話の本筋としては、同じことである。ところが、そういう覚書では信用できない、というのが議会で「大問題」として、論議されたのである。少なくとも新聞面では、大問題としての取り扱いであった。
 六月十七日の議会で、社会党の代議士と、藤山外相との間にやりとりがあったが、外相では不足だというので、二十四日の議会では、岸首相との質疑応答ということになった。要するに、覚書に日付がないから法的に有効でないとか、大統領が考えを変えるかもしれない、とかいう流儀の論議であった。
 こういう論議自身を悪いというのではないが、現在の日本には、もっと差し迫った、そして日本国民の生活に直結した問題で、大いに議政壇上で論議をつくしてもらいたい問題が沢山あるように、私には思われる。というのは、私には、日本側のこの注文が、客観的には無意味のように思われるからである。主観的には、大いに意味があっても、客観的に無意味なことは、どうしようもない。
 客観的には無意味という理由は、きわめて簡単である。プルトニウムは、米国でもたくさんつくられているし、また米国と動力協定を結んだ日本以外の国からも、将来どんどん買い戻される。それらのプルトニウムは、アメリカで、いわゆる平和利用と原爆製造用とに使われる。それで日本から買い戻したプルトニウムを、平和目的用にあてれば、米国及び他国産のものは、それだけ浮くわけである。その分は原爆の方へ廻されるであろうから、結果は同じことである。日本側の注文が、動力協定に入れられても、入れられなくても、間接にアメリカの原爆製造に協力することになるという点では、同じことである。
 覚書が信用できるとか、できないとかいう議論は、どうも無意味なように思われてしようがない。
 これは覚書などの問題ではないので、動力協定を結んで、プルトニウムを買い戻させる以上は、間接に米国の原爆製造に協力することになるのである。日本の立場として、国民感情の上から、それはできないというのなら、採るべき道は、ただ一つしかない。そんな動力炉を、米国から買わなければよいのである。国会の論議としては、米国の原爆製造に間接的に協力することになるから、動力協定に反対、従って動力炉買い入れに反対というのなら、その立場として、意味のある議論である。しかし覚書が有効かどうかという議論は、意味のない議論である。
 金貸しから金を借りて、利息を払う場合に、借金の辛さが身に沁みたから、この利息の金をまた他の人に貸さないでくれ、貴方あなたの生活費だけに使ってくれ、と頼んだとする。その金貸しが真面目な男だったら、そんなことはできないというであろう。ずるい男だったら、承知したといって、そのとおりに実行するであろう。利息の金を生活費に使って、生活費を次の貸金の元手にすればよいからである。
 こういう笑話に類したことが、国会の壇上で、堂々と論議され、外務大臣や総理大臣が、真面目くさった顔付で答弁にあたっている。六カ月経った今日からふり返ってみれば、他愛のない話である。しかし問題は、そういうことが、大真面目に論議される日本の姿の蔭にあるものが何か、という点にある。原爆反対はよいが、それを錦の御旗とすることには、弊害が伴ってくる。科学の知識の一つだけを自分に都合のよいように、ふりかざす傾向が出てくると、せっかくの科学ブームが、科学振興の面で、逆効果をもたらすおそれがある。

ラジウム温泉についての疑問


 科学ブームに伴い易い今一つの弊害は、科学万能という新興宗教が産まれる可能性がある点である。そしてジャーナリズムでつくり上げられた科学ブームには、とくにこの傾向が起き易い点を、注意しておく必要がある。
 人工衛星や核融合などのビッグ・ニュースを、始終聞かされているうちに、たいていの人は、科学の成果に幻惑される。そして科学は自然現象の全域にわたって、非常に高度な発達を遂げたと思い込んでしまう。したがって科学者が、科学的な言葉を使って何か言うと、「偉い科学者の言ったことだから」と、無造作に信用することになる。
 しかし現代の科学は、或る方面には、非常に高度の発達をしているが、全体としては、まだそれほど進歩していない。科学の学説などは、どんどん変ってきている。今後もまた変って行くものである。それについて、今まで放射能の問題を例にとってきたので、今度も放射能の害に関する科学者の意見を、例とした方が、話がつづくであろう。
 今日の新聞や雑誌から得られる知識では、放射能はいくら少量でも害がある、ということになっている。それは科学者が、科学的に研究した結果にもとづいたもので、動かし得ない真理である、と言っている。そして、「科学者」の言うことであるから、一般国民は、そのまま信用している。
 ここで断わっておくが、私は医学者ではないから、この説の当否にはふれない。ただ一つ疑問とするのは、十年前までは、やはり「科学者」が、少量の放射能は人体に有効だと言っていた点である。十年と言わず、五年くらい前までは、ラジウム温泉は、万病に効くというのが、温泉医学の常識であった。ラジウムは別と思う方があるかもしれないが、そうではなく、ラジウム温泉は、放射能のある温泉なのである。大学の教授で、偉い医学博士の先生たちが、皆そう言われたので、方々の温泉地では、当温泉の放射能は、何十マッヘなどと、大いに宣伝したものである。
 私は加賀のラジウム温泉地に生まれ、そこで育った。マイクロ・マイクロ・キュリーという放射能単位で測ると、四六五単位ある温泉に毎日はいり、入湯毎にその温泉を飲んで、育ってきた。当時の学説では、温泉は飲むと効くと言われていたからである。そして今でも私はそうだろうと思っている。当時でも、多量の放射能が人体に有害であることは、よく知られていた。しかし少量ならば、かえって薬になるというのが、温泉医学の「真理」とされていた。日本だけでなく、世界中どこでもそうであった。ところでそれが、今度は、いくら少量でも、人体に有害であるということになった。もしそれが本当なら、私などは、だまされていたことになる。もちろん私だけでなく、世界中では、恐らく何千万人という人間がだまされていたわけである。
 先日、このことについて、或る大学の温泉医学の方に、たずねてみたことがある。そしたら答えはまことに意外であって、ラジウム温泉はやはり効くと思うということであった。人間の身体の細胞の一部は、始終死んで、新しい細胞が出来ている。このいわゆる新陳代謝によって、健康が保たれて行くわけである。放射能は、細胞を殺す、或いは痛めるという点では、有害であるが、そのことが新陳代謝を促進させる場合もあり得る。すなわち死にかかった細胞を早く始末して、新しい細胞の生成をうながすということも考えられる。もしそうだったら、ラジウム温泉が効くということも説明される。
 ここで問題は二つに分かれる。この旧い学説が間違っていたのかどうかで、結論は別になる。もし間違っていたのならば、放射能が新陳代謝を促進することはない、という実験結果をまず示すべきである。そして「従来こういう有害なものを、有益と言っていたのは、すまなかった」と一言ことわってもらいたい。
 もし今でもやはり、ラジウム温泉が効くのであれば、「いくら少量でも、人体に害がある」という言葉は、もう少し科学的な表現にした方がよいであろう。たとえば、細胞を痛めるというような記述にした方が、誤解を招くことが少ない。
 専門外のことであるから、そのいずれであるかは知らない。しかし科学の本質から考えて、「いくら少量でも」などと言い切ることは、非常にむつかしい。生命現象は非常に複雑であって、現在の科学で手の届かないところが沢山ある。カロリーさえあれば栄養がとれると思っていたら、ビタミンが出てくる。ビタミンで充分と思ったら、ミネラルが必要ということになる。近年は同位元素の利用で、牧草中のコバルト含有量が、一億分の四以下になると、牛は食慾を失って死ぬというようなこともわかった。化学分析にはかからない微量のものが、生命を支配するのである。夢にも考えなかったことが、つぎつぎと出てくる。そして今後も出てくるであろう。「いくら少量でも」とか「絶対に」とかいう言葉は、よほど自信の強い科学者でないと使えない。
 ところで、それほど自信があるのなら、同時に、放射能温泉地に、国民保健施設をつくることなどにも反対すべきである。人体に害のあるところに、税金を使って、施設をつくり、大勢の国民を、そんなところに誘うことは、どう考えても可笑しい。「いくら少量でも、放射能は有害」という記事と、「○○ラジウム温泉に××保健施設きまる」という記事とが、同じ新聞に並んで出るのは、どうも矛盾している。内容の当否は、研究者でないとわからないが、二つの事柄が矛盾しているか否かは、内容を知らなくてもわかる。
 ところで問題は、こういう奇妙な現象が、日本のジャーナリズムの中に、どうして起こっているかというに、それは原爆問題が、その背景にあるからであろう。原爆が人道上の罪悪であり、多量の放射能が人体に有害であることには、誰も異存がない。放射能の害を、できるだけ強く国民に印象づけることによって、幾分でも原爆戦争阻止に役立てればよいという考えが、識域下にあるためではないかと思う。意図がよければ、少しくらい不充分な学説でも大々的にとり上げた方がよいのかもしれない。しかしそれは政治としての見方である。科学にとっては、それは邪道である。
 不充分と言ったのは、間違っているというのとは違う。とにかく最近まで有益と言っていたのを、今度は有害と言うには、前の学説の何処が違っていたかということを、まず指摘して、それから新しい学説を提供する形にしなければ、学説として不充分であるという意味である。これならば、広義の論理学に属する話で、専門外の者にも言えることである。
 こういうわかり切ったことが、日本のジャーナリズムでは、何故問題とならないかという点については、本文ではふれない。それよりも、こういう風潮が進むと、何かジャーナリズムの方で期待している方向に、科学の方が迎合する傾向が出てこないか、という点が、少し心配である。

科学ブームに迎合してはならぬ


 科学者が、暗黙のうちに、ジャーナリズムに迎合することは、必ずしも悪いとはいえない。社会の要求する方向に、科学が進んで行くという意味では、それにも意義がある。しかしそれは、ジャーナリズムが、しっかりしていて、日本の社会の要求を代表している場合のことである。近年の日本における、移り変りの速い、つくられた科学ブームの波に、科学者が乗ることは、よほど注意しなければならない。
 戦後、日本の資源問題がやかましく論ぜられた頃は、TVAを範とする総合開発が、一時天下を風靡した形であった。新潟県へ行くと、新潟のTVA、岩手県には、岩手のTVA、鹿児島にも、北海道にも、といった工合に、全国に何十というTVAが計画された。
 これは、もしできれば、非常によいことであって、水資源は、日本の貴重な資源の一つである。この豊富な水資源を充分に利用すれば、電力の方でも、また灌漑の面でも、まだまだ生産が上がるはずである。また洪水による巨額の被害と、人命の損失もまぬかれることができる。
 この方面の調査や研究も、大分進んで、これからという頃に、急にブームは、原子力発電の方へ移ってしまった。同時に、総合開発などという言葉は、ほとんどジャーナリズムの世界から消えてしまった。そして動力協定がどうのこうのというような、いわば空な議論が、世の中を騒がす時代になった。
 動力協定がいやなら、動力炉などアメリカから買わなければよい、と前にいったが、私はそれを別に暴論とは思わない。原子力発電が、何か日本の動力の救世主のように、一般に思われているが、これもジャーナリズムにあおられた結果である。原子力でも、石炭でも、水力でも、出来た電気は、同じものである。この一番肝腎なことを忘れさせるように、科学ブームが作用しては困る。しかも当分の間は、原子力の電気が一番高いのである。
 水力が開発しつくされ、石炭も化学原料として使う分しか残っていなくなった将来では、動力源は原子力にたよるより仕方がない。しかしそれはまだ大分遠い将来のことで、現在のところは、プルトニウムの行方について騒ぐよりも、水力の開発と、火力発電所の近代化を考えた方が、ずっと利口である。もっともこれは動力炉のことであって、実験炉の方は、話は別である。これは大いに輸入して、研究を進め、この方面の専門家を養成して、きたるべき原子動力時代にそなうべきである。
 電力需給の何年計画とやらで、五年後には五十万キロとか、百万キロとか足りなくなる、日本でも原子力発電を云々というようなことが、いつかの新聞に出ていた。電力が足りないのなら、水資源の利用と、火力発電の熱効率を上げる方が、先決問題である。日本の水力は、水を非常に粗末に扱っているので、合理化をすれば、現在の倍くらいまで出せると、専門家は言っている。電気を起こしても、水は無くならないのであるから、灌漑用水、工業用水、飲料水などの諸問題の解決にも、水資源の総合開発は重大事である。東京地域の工業用水、飲料水の不足は、目前に迫っている。
 石炭が足りないと言っていながら、現在の無駄な石炭の焚き方には、案外無関心である。日本の火力発電の熱効率は、平均二〇パーセントを一寸出るくらいであろう。米国では、四〇パーセントが常識になりつつある。火力発電設備の近代化をしただけでも、現在と同じ量の石炭を焚いて、電気は二倍出るのである。
 動力炉をいくつ造るよりも、この方が、安い電気が多量に得られる。原子力発電は、その次の問題である。原子力発電もよいが、どうも孔のあいたバケツに、遠くから、かけいで水を引いてくるような恰好である。まずバケツの孔を塞ぎ、手近な井戸の水を汲み込むことが、先決問題である。
 南極ブーム、人工衛星ブーム、原子力発電ブーム、オートメーション・ブームと、猫の眼のように変わる、近年の日本の科学ブームは、どうも足が地についていない感じがする。そしてこのブームの流行の激しい変化には、ジャーナリズムが、一役買っているような気がする。科学者は、そんなブームなどに超然として、自分の仕事に没頭していればよいわけであるが、現実には、やはりその方に引きずられ易い。
 少なくとも、心理的には、影響を受ける。第二次的のことであるが、ブームの波に乗っていれば、研究費の予算がとれるというようなこともある。
 しかし何といっても、日本の国情に即した、もっと地味な仕事の方が、ずっと大切である。ジャーナリズムが、そういう方向に、じっくりした科学ブームを起こさせるように、協力して欲しいものである。
(昭和三十四年四月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「文化の責任者」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年8月20日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年4月
入力:砂場清隆
校正:津村田悟
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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