今度アメリカで本を出してみて、校正のやり方が、まるで日本とちがっているのに、一寸面喰らった。
実は、三年ばかり前に、米国気象学会で、『気象学要綱』という本を出した時に、その一章を書いたことがある。それと、この春ハーバード大学出版部から『雪の結晶』を出したのと、経験は二回だけである。しかしその二回とも、やり方は全然同じだった。それでこれが少なくとも学術関係の出版では、通則と思われるので、その方法を説明しておこう。
まず校正の回数であるが、これは、著者に見せるのは、二回だけである。第一回はギャリイ・プルーフといって、ページの配置と関係なく、文章だけの校正である。二尺五寸ばかりの長い紙に、文章をいっぱいに刷ってある。もちろん幅は本刷の幅で、行換えなども、原稿どおりになっている。
この校正が出来上がったら、適当な長さに切って、写真や図版と睨み合わせて、各ページを作って行くのである。それを出版社の方でやって、ページ・プルーフとして著者のところへ送って来る。この時は、図版や写真の入るところは、白く余白をとって、ページの体裁になっている。余白の下には、図の番号や説明が印刷されている。
このページ・プルーフでは、図版の位置の入れ換えや、行の送りなどをする。しかし原則として、文章の校正をしてはいけないことになっている。ページ・プルーフがすむと、今度は写真や図を入れて、本式の本としての最後の校正をする。その最後の校正は、普通は著者には見せないようである。
要するに、アメリカの校正は、非常にはっきりしていて、文章および文字の校正一回、ページ内での配置の校正一回、というふうにわかれている。日本でのいわゆる校正は、ギャリイ・プルーフ一回だけしか、著者にはやらせてくれない。ギャリー・プルーフは、日本でいえば初校にあたるが、それで校了にするわけであるから、大いに、慎重にやる必要がある。
日本流に考えたら、初校で校了ということは、一寸想像もつかない。しかしそれにはちゃんと手段がとってある。何でもないことで、校正というものを、文字どおりに、印刷職工の間違いを直すことに限定し、文章や文字の訂正は認めないのである。
実行方法としては、原稿とゲラとがちがっている場合は、青色で直し、校正の時に原稿自身の間違いに気がついた時は、赤色で訂正する規則になっている。文章や文字を校正の時に直したい場合も、もちろん赤色である。そして青色の訂正は無料、赤色の訂正は有料ということにしてある。
青色の方は印刷屋のエラーであるから、これを直すのは無料、赤色の方は、著者のエラーであるから有料、というのであるから、理窟には合っている。有料分は、普通は著者の負担で、印税から差し引くが、契約によっては出版社で引き受ける場合もあるらしい。ところで、問題はこの有料分の金額の算定であるが、それは、その分の訂正に要した職工の時間数で計算する。一字挿入したりすると、その以後ずっと文字がずれて、改行のところまで行くわけであるから、たいへんなことになる。印刷工は労銀が高い、一時間三ドルくらいが普通であるから、大いに痛いわけである。
こういう規則になっていると、著者は原稿に大いに注意をはらう。スペリングの間違い一つでもすぐ印税にひびくわけである。もっとも英文の場合は、タイプライターを使うので、原稿を完全なものにすることは、その気さえあれば、比較的容易である。初めのタイプに筆を入れて、それをタイピストに浄書して貰い、それにまた筆を入れて浄書する、というふうにやるので、本屋に渡す時は、ほぼ完全な原稿になっている。従って、赤字の訂正は、一般には、ごく少なく、初校で校了ということも、そう困難ではない。
日本では、初校で、字句や文章の一部を直すことは、普通のことになっている。私なども初校を草稿くらいに考えていたので、大いに恐縮している。タイプライターでの浄書を、ゲラでもって代用していたわけである。
ギャリイ・プルーフで、文章の校正は済むので、ページ・プルーフの時は、比較的簡単である。図版の配置などは、出版社の方に専門家がいるので、著者の容喙する余地はあまりない。一番の問題は、
そういう場合は、出版社の方で、そのページに一行余分をとっておいてくれる。そして原文の意味を損ねない程度の言葉を、二、三語入れるように注意書きがしてある。それを挿入すると、前の文章が次の行の初めのところで終り、一行ちかい余白が出来て、改行ということになる。そうすると、字面が綺麗になるわけである。この分の組換えは、出版社が負担してくれるようである。
アメリカの校正は、以上の如く、終始一貫甚だ合理的で、すべて計算の上に立っている。著者と出版社との間には、人情味などはあまり無いようである。しかしこの非人情のお蔭で、校正は二回ですみ、印刷の能率は大いに上がる。したがって印刷工の労銀も、高くなるわけである。
印刷の能率が上がることは、非常によいことで、日本も、こういうふうにしたら、と一寸考えてみたこともある。しかしそれは当分不可能のことと気がついた。これを実行するには、日本における学者尊重の善風をこわす必要があるからである。著者が書いたとおりに、職工が活字を忠実に拾う。しかし出来上がった初校を、著者は平気で直して、別に意に介しない。それは学者の精神労働が、植字工の肉体労働に比して、甚だ高尚なものと考えられているからである。
アメリカふうの校正は、最後のところは、著者の精神労働と、植字工の肉体労働とを、同列に見るというところに、その基盤がありそうである。そうだとすると、日本の場合には、このやり方は、参考になるというくらいのところであろう。
(昭和二十九年十月)