小林秀雄と美

中谷宇吉郎




 先年、小林秀雄と、清荒神へ鉄斎の絵を見に行ったことがある。そのときは、一日中かかって、奥の広い座敷で、百幅近い鉄斎を見た。
 天気のよい日で、白い障子が明るく、室内は森閑としていた。この部屋は、鴨居にたくさん折釘がついていて、十幅くらいの掛物が、ずらりと掛けられるようになっていた。
 次の間に、軸箱がたくさん積み上げてあって、小僧さんが、大事そうにそれをもって来て、一幅一幅かけて行く。小林秀雄は、その前にきちんと正座して、じっと絵に眺め入る。二、三分で、もういいというふうに、一寸眼で合図をして、次の絵の前へ行くこともあるが、ときには、十分以上も、黙ってじっと見入っていることもあった。
 小林秀雄は、普段でも横顔がいいが、こういうときは、とくに美しい顔になる。眼を凝らし、頤をぐっとひいて、食い入るように、あの鋭い視線を絵に注いでいる。終始一言も口をきかない。はたから見ているものには、それが非常に長い時間に感ぜられる。そして最後に「これはいいです」とか「美しいですね」とか、一言いう。それを言うと、急に眼がやさしくなり、思いなしか身構えもぐっと楽になって、ほれぼれとした顔つきで、絵を眺めている。
 ときには、二、三分も見ないで、すぐ「これはつまらない絵ですね」ということもある。主人の方が慌てて「それでも、これは昭憲皇太后さまのお手許にあったもので、間違いのないものなのですが……」というような弁解をする。「そうですか。それでも、絵はつまらないものです」と、落着きはらったものである。
 小林秀雄の絵の批評は、たいていの場合、きわめて簡単明瞭である。「美しいね」と「つまらないものです」との二種類しかない。小学校の生徒のような口のきき方である。いつか、ピカソの絵の話が出たときに、「ああいう絵はどうもわからない」と言ったら、「あれはつまらないものです。わからないなどと皆が言うからいけないので、つまらないもんなんです」とたしなめられた。
 どうも口のきき方がよくないのである。「よい」と「つまらない」との代りに、「好き」と「嫌い」という言葉を使っておけば、まだ無難なのであろう。そうしておけば、ピカソの礼讃者たちに、憎まれる度合も少なくなる。自分の気に入らないものは、何でも「つまらない」というのは、独裁者流で、非民主的である。
 今日のような民主主義の世の中になると、芸術の世界でも、大衆性ということを、重視しなければならない。その点では、小林秀雄のようなことを言うのは、甚だよろしくない。しかし芸術と民主主義との調和は、なかなかむつかしい。フランス革命のあと、自由と平等とが叫ばれたときに、一番喜んだのはセーヌの道端で絵を売っていた画家たちだったそうである。「明日から、俺たちの絵も、ルーベンスと同じ値段で売れることになるんだ」と、皆で大いに祝杯をあげた。しかしなかなかそうは行かなかった。
 それでは芸術の世界では、大衆性を無視してもかまわないかというと、それは明らかに間違いである。極端な場合を考えてみれば、すぐわかることで、世界中の人間の全部が、その美を認めない作品は「どんなに優れたものでも」立派な芸術品とは言えない。というよりも、芸術の範疇には、はいらないもので、「優れた」という言葉自身に意味がない。
 そうかといって、大勢の人が、美しいといっても、それだけで、立派な芸術品であるとは限らない。もっとも芸術の定義の問題であるが。例えば、雪舟の山水長巻と、下町の銭湯で見る富士山のペンキ画とを竝べて、どっちを美しいと思うかという国民投票をしたら、恐らく富士山の方が勝つであろう。写楽の浮世絵が一束何十銭で買えたこともある。しかし何といっても、山水長巻の方を優れた芸術品と見る方が妥当である。
 それで問題は、美に普遍妥当性があるか否かという、哲学青年の初歩の問題に帰することになる。これは、そういう普遍妥当性を認めなくては、美は存在しないので、いやでも認めざるを得ない。即ち九九・九九九パーセントまでの人間が認めなくても、〇・〇〇一パーセントの人間が認める「本当の美」があると仮定していることになる。
 こういうふうにいうと、世界中の全部の人間が認めないものは芸術ではないといった前の言葉と矛盾するようであるが、そうではない。〇・〇〇……といくら小さい数になってもよいが、それはゼロであってはならない。零を考えると、別の議論になってしまうからでる[#「しまうからでる」はママ]
 科学の世界における真の妥当性は、たいていの人が承知する。しかし芸術の世界での美の妥当性には、いろいろ議論があるようである。その理由として、科学では、測定値にしても、法則にしても、誰が再検討してみても同じ結果になるから、普遍妥当性がある、と一般に思われている。しかし法則は常に進化しているし、測定値も、本当は同じ値は二度出て来ないのである。測定には必ず誤差が伴なっているので、どんなに精密に測っても、その精度の極限のところには誤差がある。機械がもっと精巧になっても誤差が先へ進むだけで、真の値は決して得られない。それで必要とする精度の範囲内の測定が出来れば、それを本当の値として、皆で認めておくのである。
 ところが実際の測定値は、観測者によって皆ちがう。測定の誤差がはいるからである。それ等をどう調節して、「皆で認める」値を出すかというに、一番簡単なやり方は、各測定値の平均値をとる方法である。すなわち民主主義が、科学の場合にも、その基調には、はいっているのである。
 しかし資料が完全に揃っている場合には、単なる平均はとらず、「重みをつけた平均ウエイテッド・ミーン」をとることになっている。すなわち二倍の信用度のある測定値と、一倍の信用度のものとを平均する場合は、前の値を二倍してそれに後の値を加え、その合計を三で割ったものを、平均値とする。信用度は一つの測定についての誤差の分布状態から決める。選挙でいえば、特定の人に、二票なり三票なりを与えて、投票させるようなものである。
 美の世界についても、同様なことが考えられそうである。山水長巻とペンキ画の富士山とについて、投票させる場合、ウエイテッド・ミーンをとれば、山水長巻の方が勝つ場合も出て来るであろう。
 事実、これは決して大衆性と矛盾する考え方ではない。雪舟にもペンキ画にも、どっちにも実はあまり興味はないが、どっちかといわれれば、まあペンキ画の方という一票と、もし家屋敷があったら、それを売ってもこの絵を買いたいという人の一票とには、ちがった重みウエイトをつける方が、むしろ自然である。
 買いたいと思うかどうかは別問題として、何らかの方法で、各人の鑑賞度にウエイトをつけることが出来れば、その平均値をもって、美的価値を測る尺度とすることが出来そうである。
 こういうことをいっても、実は言葉の遊戯に過ぎないので、そういうウエイトをつけるとなったら、抽象的なものしかない。美を求める精神力の全精神力に対する割合というようなものしか考えられない。けっきょく小林秀雄のような男の言うことを聞いているのが、一番の早道ということになってしまう。
 美というものは、けっきょく感じとるより仕方のないもので、その深さは、生まれつきの能力と打ち込む精神力の量との積できまる。小林秀雄の天賦の能力については、人によって評価がちがうであろう。それは測定し得ないものであるから、何といおうが、ちっともかまわない。しかし絵と限らず、文学でも、音楽でも、凡そ美に関する限り、小林秀雄ほど、その精神力を惜しみなく打ち込んでいる人間は珍しい。ああいう人間が生きて行けるのだから、日本は、まだまだ有難い国である。
(昭和三十一年四月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「小林秀雄全集月報第五号」新潮社
   1956(昭和31)年4月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年3月27日作成
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