知られざるアメリカ

中谷宇吉郎




アメリカの中堅階級


 一九五二年の夏、家族をつれてアメリカへ渡り、二年あまり、シカゴの郊外に住んでみた。アメリカは、それまでに、二回訪ねたことがある。しかし家庭をもった普通のアメリカ人の生活というものを経験したのは、これが初めてである。
 外国の姿は、その土地に一応住みついて、いわゆる家庭づき合いをしてみないと、なかなかわからない。二年くらいの経験では、もちろん足りないが、それでも、以前の二回の旅行ではわからなかった、いろいろなアメリカの姿に接することが出来た。表題の『知られざるアメリカ』というのは、少し大袈裟おおげさであるが、ごく少数のアメリカ生活体験者をのぞき、一般には、アメリカの中流階級の生活が、ほとんど知られていないように思われる。私なども、今度の経験で、初めてアメリカというものが、少しわかったような気がしている。
 そういう意味で、「聖林ハリウッド映画の世界」、「ギャングの街」、「近代生産設備の権化ごんげ」などという言葉で、代表される以外のアメリカの話を、少し書いてみることにする。
 もちろんあの厖大で複雑なアメリカの社会機構の各断面について、そういう話をすることは、恐らく誰にも出来ないであろう。それで本文では、自分の狭い見聞の範囲内で、しかも中流階級の家庭と生活、という問題だけに限ることにする。
 もっとも中流階級といっても、幅は広いので、その上の方は、日本にしたら、大金持の部類にはいるかもしれない。五百坪くらいの庭がついた家に住み、主人はキャデラックをもち、細君も別の車をもっている、というのが、この階級の標準である。そういう仲間は、いわゆる高級住宅区域に住んでいる。私が今回の滞在中一番感じたことは、その連中の生活が、案外に健全だという点であった。
 中流階級の下の方は、学校を出てまだ間もないサラリーマンとか、小学校の先生とかいう人たちである。一戸建の家は持てないので、アパートに住み、自動車は一台というのが常識である。この階級の人たちについては、実によく働くということが、日本へもしばしば紹介されている。そのとおりであるが、その他に、今一つ注目すべきことがある。それは多分に計画的な生活態度を持っている、という点である。
 長期にわたって、生活に計画性をもたすことが出来れば、それが自然と富の蓄積にもなるし、また希望も持てる。羨ましい話であるが、一番の原因は、国情が安定しているという点にあるらしいので、今の日本では、その真似をすることは、なかなかむつかしい。いずれにしても、この計画的な生活態度というものが、この階級の人たちの生活を健全にしているようである。
 例外はもちろんあるが、一般的に見て、アメリカの中流階級は、上下を通じて、案外に健全な生活をしている。少し誇張していえば、今日のアメリカを背負っているのは、こういう中堅階級の人たちである。そしてアメリカの強味は、この中堅階級の幅が、かなり広いという点にあるように思われる。日本に翻訳してみたら、新制大学の新卒から、資本金一億円級の会社の重役くらいまでが、この階級に含まれているとみてよい。
 以上はいわゆるホワイト・カラー、といっても主として俸給生活者の話である。この他に、農家の人たちや、職工及び技能者の方面にも、もちろん中堅階級があるにちがいない。しかしその方は、見聞の機会がなかったので、今回はふれないことにする。

ドライ・タウン


 私たちが住んでいたのは、シカゴ郊外の住宅地で、ウィネツカという町である。シカゴの市街は、ミシガン湖に面していて、郊外の住宅地は、湖岸に沿って、北の方へのびている。シカゴに隣接して、エヴァンストンという町があり、此処は、昨年世界基督教大会があったので、日本の新聞にも、たびたび名の出たところである。それにつづいて、ウィルメットという町があって、其処に私の通っていた雪氷永久凍土研究所が、新設されたのである。私たちの住んでいたウィネツカは、そのまた北方にあって、シカゴの中心からは、約二十マイルくらい離れている。住宅区域は、これからまだずっと北にのびているので、大体阪急沿線くらいの範囲にわたっていると見てよい。
 シカゴは丁度大阪に相当する街で、アメリカでも一、二を争う商工業の中心地である。銀行の人の話では、現金を二十万ドル以上銀行に遊ばせておく人の数は、シカゴの方が、ニューヨークよりも多いそうである。人口からいったら、ニューヨークの方が、比較にならないほど多いのであるから、シカゴは非常な金持の街といっていいわけである。
 シカゴにオフィスをもっている金持たちは、たいていこの北部の住宅区域に、住居を構えている。そういう意味でも、これは丁度阪急沿線に相当するわけで、私たちの住んでいたウィネツカの町は、いわば芦屋か六甲にあたるところである。もっとも家並みはずっとつづいているので、外観上は、シカゴが何処までものびて行っている形である。エヴァンストン、ウィルメットなどという町は、単なる行政上の区分である。シカゴの北部に、繁華街が一本あって、その通りの右側までがシカゴ、左側からはエヴァンストンという工合になっている。
 シカゴの方では、こういう町を合併したいのであるが、アメリカのこの種の隣接町村は、非常にプライドをもっていて、どうしても合併には応じないのだそうである。その点、日本とは大分気風がちがっている。
 行政上の区分で、一番目立つことは、エヴァンストン以北の住宅区域では、酒を売らせないという規則か申し合わせかがあることである。ウィネツカも、もちろんその厄を蒙っているので、酒を買うには、大いに苦労をしなければならない。酒屋がないばかりでなく、この区域一帯の料理店では、酒はもちろんのこと、ビール一杯も飲めない。いわゆるドライ・タウンであって、その範囲が、阪急沿線全般くらいに及んでいる。法的にはどういうことになっているのか知らないが、とにかくこの規則は、厳重に守られている。面白いのは、前にいったシカゴとエヴァンストンとの境界にあたる通りである。そう広くもない通りであるが、向う側は、ほとんど軒並みといっていいくらい酒屋が並んでいる。こっち側には、それが一軒もない。料理店でも、向う側なら一杯やれるが、こっち側では、水か牛乳を飲んでいる。
 こういうドライ・タウンは、他にもあるそうであるが、もとはキリスト教精神から出たものだろうと思う。その方は一向不案内であるが、いずれにしても、今日までこういう規則が厳重に守られていて、解除の気配もないところを見ると、皆その方がよいと思っているからにちがいない。まことに健全な話である。しかし時には大いに閉口することもある。突然客があった時など、酒が切れていると、シカゴまで酒の買い出しに行かなければならない。夕方娘に自動車を運転させながら、往復十里の道を、たびたび酒を買いに行った。その都度「日本だったら、どんな山奥へ行っても、こんなことはないなあ」と嘆いたものである。
 誤解があるといけないので、一寸書き添えておくが、ドライ・タウンといっても、その住民が酒を飲まないというのではない。酒精アルコール消費量からいったら、皆日本などよりも、もっとたくさん飲んでいる。ただそれは家庭内で飲むので、外では飲まない。そして外部から持ち込むのはよいが、町では売らさない、ということにしている。
 こういうことは、結局のところ、酒を飲むことは悪いことだという考えから来ているのであろう。この考え方は、ドライ・タウンと限らず、アメリカ全般に滲みわたっているようである。例えば、酔っ払って何か過失か罪を犯すと、素面しらふでやった時よりも重く罰せられる。少なくも皆の心証を悪くする。「酒の上だから勘弁してくれ」という文句は、アメリカ人には理解出来ないようである。同じことは「素面だから勘弁してくれ」といわなければならない。
 こういう考え方が基調にあると、酔っ払いが少なくなる。酒を飲むことは悪い、しかし人間は善いことばかりもしてはおられないから、他人に迷惑をかけなければ酒を飲んでもかまわない。要するに、酒は自他を楽しますか、或いは他に迷惑を及ぼさない範囲内で、自分が楽しむために飲むものなのである。酒精消費量は多いが、街頭や電車内では、酔っ払いをほとんど見かけないのは、こういうふうに解釈すれば、よく了解される。
 こういうことを書くと、「スラムへ行ってみろ、酔っ払いが街路にごろごろしている」といわれるかもしれない。しかしそれは数年前の上野の地下道に相当する話である。その問題は、また別の問題として考えるべきである。
 家庭では大いに酒を飲みながら、町としてはドライ・タウンの制度を厳守している。それは一見矛盾しているようにも思われる。或いは偽善という人もあるかもしれない。しかし考え方によっては、それが健全な姿であるといえないこともない。皆が酒が嫌いで飲まないのだったら、当り前のことである。好きではあるが、全部の人が聖人で、誰も酒は飲まない、というのだったら、そういう町には、私などは一寸住みかねる。ドライ・タウンの中で、こっそり家庭で親しい友人たちだけと酒を飲む、というくらいのところが、丁度よいので、それを健全といったわけである。
 健全か否かは別として、大阪から神戸までの間に、酒を売る店が一軒もなく、どの料理店でもビール一杯飲まさない、というようなことは、今度行くまで私は知らなかった。

ウィネツカの町


 ウィネツカは森の町である。
 シカゴの方から、街つづきではいって来る時は、そうひどく感じないが、西側の開けた土地から見ると、まるで森であって、その中に人家があるとは一寸思えないくらいである。
 この町と限らず、この付近の住宅区域には、立木が非常に多い。開拓されたのが、まだ新しいことで、もとの原始林をそのまま残してあるからだそうである。とくにウィネツカは、その代表的なもので、少し極端にいえば、森の中に住んでいる、といった感じである。
 人口は一九五〇年の統計で、一万二千五百人となっているから、人口からみると、きわめて小さな町である。しかし金持が多いので、どの家にも広い庭がついている。それで面積からいえば、日本の人口十万くらいの市程度の規模になっている。何か特殊の自治組織をもっているらしく、水道と電気は町で経営し、それが巧く運営されているそうである。新版の大英百科辞典にも、この町の名が出ている。その中にこの自治組織のことが記載されているが、それよりも、進歩的な普通教育で世界的に知られている町、ということになっている。
 学校は、公立の小学校、中学校、高等学校と、三種とも揃っていて、その他に私立の学校もある。アメリカでも、この頃の日本と同様に、大都会では、私立の学校の方が上等で、公立は設備や生徒の質の点で、少し劣るというふうに、思われている。その代り、私立の方は、授業料がべら棒に高く、公立は無料ただみたいにしてある。学都といわれているボストンなどでは、いわゆる上流社会の子弟がはいる私立の小学校で、授業料が一年五百ドル(十八万円)くらいというところがある。公立ならば、五ドルか十ドル程度である。思い切った差をつけて、平気でいるところが、一寸面白い。
 ところがウィネツカでは、公立学校の方が上等なのである。そのうちでも、クロー・アイランドという小学校と、ニュー・トリアという高等学校とは全米的にも知られている学校である。
 この二つの学校とも、実は子供がそれぞれ行っていたので、比較的よく内情がわかった。少し私事にわたるが、取材の資料を明らかにするために、三人の子供のことを、一寸書かしていただく。三人とも女の子であって、上はエヴァンストンにあるノース・ウエスタン大学へ転入学させてもらった。次の娘は、英会話練習のために、一年間だけ、ニュー・トリア高等学校の四年のクラスにはいった。下の娘は、当時小学校の三年生だったので、クロー・アイランド小学校の三年にはいり、五年生になるまでいたわけである。
 こういうふうに、工合よく、三人の子供を、大学と、高等学校と、小学校とに、それぞれ配置することになったので、アメリカの教育を内部から一通り見ることが出来たわけである。
 各学校の内情についての詳しい話は、また別に書くことにして、ここではウィネツカという町の性格を物語る、二、三の事柄だけを紹介しよう。第一に月謝であるが、クロー・アイランドの一年間の月謝は、僅か五ドルである。公立学校であるから、それが当然なのであるが、設備も先生も、一年間の月謝五百ドルの私立学校よりも、さらに上等なのである。学校経営の費用は、全部寄付金と町の経費とで賄われているが、それが並大抵の額ではない。年間の全費用を、児童数で割ってみると、四百七十ドル(約十七万円)になるそうである。
 ニュー・トリア高等学校となると、全米で一、二を争う高等学校といわれるだけあって、建物も立派であるし、またたいへんな設備である。生徒の数は、二千数百人あり、先生の数も多い。経営費は生徒一人あたり六百九十ドル(約二十五万円)くらいかかるそうであるが、町民の子弟の授業料は、年に九ドルである。六百八十一ドルは、寄付金と町とで負担するわけである。人口一万二千の町にある公立高等学校に、生徒が二千何百人といるのは、一寸変だと思われるかもしれない。しかし可怪おかしくはないので、非常にいい学校ということになっているので、シカゴからも、他の町からも、沢山生徒が来るからである。ウィネツカ住民以外の生徒は、九ドルよりは少し高い月謝を払わねばならないが、その額は聞き洩した。高いといっても、公立学校のことであるから、多寡がしれていて、六百ドルなどということは、決してない。
 要するに、教育には、町が非常な力を入れ、生徒の父兄には、負担をかけないようにしている。そして公立学校の費用で、高級私立学校以上の教育をしているわけである。人口僅か一万二千の町で、こういう学校を経営出来るというのは、一応は町に金持が多いからという理由で説明される。しかしこういうことは、金だけで出来ることではなく、精神的の面が、もっと重大な要素である。アメリカ人には、善いことと思い込んだら、そのとおりに実行してみるという、理想主義的な面がある。それが時々行き過ぎて、昔の禁酒法実施というような、滑稽なことにまで行く場合もある。しかし時々そういう失敗をしながら、依然として理想主義的な面を保持しているところが、アメリカの善い方の一つの特徴である。
 ウィネツカの町などが、その代表的な一つの例である。住んでみて、一番初めに驚いたことは、この町全体に、映画館が一つもないという点であった。週に一回、金曜の晩から土曜の午後にかけて、町の公会堂に、映画がやって来る。子供たちは、それを大いに楽しみにしているわけである。誰かが選定するらしいので、たいてい文部省推薦映画といった感じの、世道人心を裨益する映画であるが、それで結構皆が満足している。どうも驚いた話である。日本では、週に一回だけ、村役場へ映画がやって来て、それを皆が楽しみにしているというような風景は、北海道などでも、よほど辺鄙なところへ行かないと、一寸見られない。
 もっとも皆自動車をもっているので、映画を見たければ、一走りすればよいから、町には映画館はいらない、という見方も出来る。それも確かにあるが、その他に、何か理想主義的な匂いがあるようにも思われる。
 映画館がないくらいだから、パチンコなどは、もちろん一軒もない。ネオン・サインも、ほとんど無いといっていい。とにかく人口一万二千の町で、しかも皆消費度が高いから、一部には、立派な商店街がある。其処には、小さいデパートもあり、銀座風な高級専門店がずっと並んでいる。それで店名を知らすネオン・サインくらいはあるが、広告用のいわゆるネオン・サインなるものは、全くない。
 夜は八時頃になると、町中真暗になって、人通りはもちろんなく、自動車もほとんど通らない。薬屋ドラッグ・ストアは普通夜中まで店をあけている習慣になっているが、此処では、九時になるとしまってしまう。妻などは、来て一月も経ったら、「せっかくアメリカへ来たのに、映画も見られないし、街は真暗だし、これでは何のために来たのかわからない」とこぼしたくらいである。それで夜のシカゴを見物に連れて行った。さすがに大シカゴだけあって、ネオン・サインが絢爛と輝いて、全くの不夜城を現出している。妻は大いに満足して「ああ綺麗だ、まるで東京へ帰ったようだ」と、すっかり御機嫌になった。ウィネツカの町は、まずこういう調子の町である。

ウィネツカの住民

 町の説明は、これくらいにして、次は住民の話にはいろう。
 これまでの話だと、何だか皆がつんとすました「ざあます」階級の連中ばかりのように思われるかもしれない。しかし実際につき合ってみると、案外に人がよくて、適当に野性もあって、底抜けに親切で、気持のよい連中が多かった。僅か二年ばかりのつき合いであったが、帰る時には、妻などは、親しくしていた夫人たちに抱きつかれて、双方ぼろぼろ涙を流しながら、別れて来たものである。
 初めは、東洋人が来ることは歓迎しない、というような風説もあって、少し気を悪くしたが、それはデマだということが、すぐわかった。事実は、このあたりには、借家というものがほとんどないので、風来の人間が割り込む機会は、非常に少ないのである。私たちの場合は、全くの偶然で、軍関係の人が、二年間東京駐在になるのと、丁度ぶつかったので、その留守の間、家具付の家を借りることが出来た。
 最初に印象をよくしたのは、この家主B夫人の心にくい振舞である。今まで二人暮しだったのであるが、今度私たちは五人だときいて、まず食器類の不足分を買い足し、娘たちが使うべき部屋は、カーテンを桃色にとり換え、台所の戸棚の中には、約一週間分の罐詰類をとり揃えてあった。英語のしゃべれない奥さんが、初めのうち困るだろうという心遣いである。
 アメリカ人は、何でもものごとをきちんと片付ける癖があって、八月から借りるという契約になると、七月三十一日の夕方家をあけ、八月一日の朝借り手が乗り込むという段取になるのが普通である。私たちの場合も、そのとおりであった。そしたら、八月三日頃に、屑籠と今一つ何だかを、知らない店屋から届けて来た。B夫人から「手が廻らないから、あとでこれ等を届けてくれ」といわれたから、という口上付であった。
 一番滑稽だったのは、庭の芝刈事件である。この家へはいって半月くらい経った頃、若いアルバイト学生風の男が、庭へはいってきて、矢庭に芝を刈り出した。折悪しく皆留守で、妻が一人家にいたのであるが、丁度その前に、アメリカの労働力は非常に高いということを聞かされていたので、これは大変だと思ったらしい。「ノー・ノー」といって、手を振って見せたが、その見知らぬ男は、にこにこして挨拶しながら、どんどん芝を刈って行く。何という図々しい男だろうというので、妻は勇敢にも庭へ出て行って、談判を始めた。もちろん英語でやったのである。
 その内容の詳細はわからないが、妻の方は、うちには人手が多いから芝は刈って貰わなくてもよい、と言ったつもりにちがいない。その男の方も、いろいろ説明したが、その中に、B夫人の名がたびたびくり返されたそうである。それで勘のよい細君は、これはひょっとしたら、B夫人がこの男に頼んでいったのかもしれないと思って、勝手に芝を刈らすことに度胸をきめたそうである。
 結局、刈り終って、その男はさっさと帰って行った。その時も金は請求せず、またあとになって手紙もよこさなかったところを見ると、細君の勘はあたったらしい。それ以来、すっかり向米一辺倒になって、「本当にいい奥さんね、アメリカ人はえらいわ、私たちも……」という工合に、すっかり兜を脱いでしまった。
 細君に米化されると、一番迷惑するのは、亭主である。それで「なあに、日本人だって、もう少し暮しが楽になれば、朝鮮人に家を貸す時に、皆そういうふうにするさ」といって見たが、「さあ、どうですかね」と、なかなか承服しない。どうも簡単な性質なもので、すぐ買収されてしまうらしい。
 もっとも英語などを習うには、簡単な性質の方がよいらしく、一年もしたら、もう井戸端会議なんかに出席して、マッカーシイがどうのこうのという話を、家まで持ち込んで来るのだから、驚いたものである。アメリカにも井戸端会議があって、ウィネツカのような有閑夫人の温床では、それがなかなか盛んなようである。
 町全体にも、また各通りにも、婦人有権者倶楽部ウイメンス・ヴォータース・クラブという会があって、時々集まって、昼飯の会をしたり、お茶の会をしたりする。亭主どもは、毎日正味八時間オフィスで働いているが、共稼ぎをしなくてもよい階級の細君連は、日中大分閑があるらしい。家の中は、至極便利重宝に出来ていて、台所で暮す時間など、日本の主婦の五分の一もあるかなしである。従って婦人有権者倶楽部などという、厳めしい名前の井戸端会議が、方々で開催されるわけである。
 アメリカでは、婦人の票が得られないと、どんな選挙にも、当選の見込みはない。女は半分いるのだから、その連中に結束されては、男はたまったものではない。男の方は、職業上および生活環境上、どうしてもいくつかの政党にわかれざるを得ないからである。それでいろいろな方面から、こういう婦人の会合には、講師が出て来るらしい。それも相当ちゃんとした人が来るらしく、仏印の休戦条件だの、パキスタンの現状だの、という話を夕飯の時に持ち帰って亭主を悩ますわけである。
 ただ一つ感心なことは、こういう井戸端会議では、近所の人の噂は決してしないそうである。軽佻浮薄でも、とにかく、何か新しい知識を、始終注ぎ込まれているので、女がだんだん男よりも、利口になる虞れが充分ある。男の方は、年柄年中、馬車馬のように働かされているからである。
 こういうふうに利口になった夫人たちは、だんだん日本人に近くなる。即ち哲学的な文庫本を、電車の中で読むような風潮に染まって来る。いわゆるハリウッドものの映画などは決して見ない。「あのハリウッドの映画が、世界中へ行って、これがアメリカの文化だと思われたら、たいへんだ。考えただけでも汗が出る」という。顔付からみると、どうも本気でそう思っているらしい。
 ネオン・サインなどもこの流儀で、あれは盛り場にあるものと思っている。何処の国でも、それはそうにちがいないが、この連中は、そういう場所を、自分たちとは全く無縁のものと思い込んでいる。一寸徹底したところがある。
 この調子であるから、初めは、外国人などは、あまり受け付けない。私たちの場合は、幸いにして、子供が学校で友だちを作るので、子供同士の付き合いから、だんだん知り合いが出来たわけである。そういう意味でも、子供たちを連れて行ったことは、親たちの見聞を広くするのに、大分役立った。

 以上は、知られざるアメリカ、本当は私が今まで知らなかったアメリカのほんの一部である。やや、特殊部落の趣きがなくもないので、これをアメリカ全般におし拡めることは、もちろん出来ない。しかしジャズと、ドルと、ギャング以外に、こういうアメリカの面もあることは事実である。世界各国からの移民の寄り合いが、とにかくあれだけの強大な国を保持して行っているのは、何か支柱があるにちがいない。本文でその片鱗を語ったアメリカの中堅階級などが、その支柱の一つではなかろうかと思う。
(昭和三十年一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「知られざるアメリカ」文藝春秋新社
   1955(昭和30)年5月25日発行
初出:「心」平凡社
   1955(昭和30)年3月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年9月27日作成
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