寅彦の作品

中谷宇吉郎




 明治大正の時代については、いろいろな見方もあるが、日本民族が、精神的の飛躍をした時代であることには、間違いがない。西欧文明を急速に摂取して、日本が近代世界の仲間入りをした時代である。
 この時代の文化人は、今日の文化人とは、教養の質と量とにおいて、大分違うようである。鴎外や漱石が、すぐ例に出されるが、日本人としての精神的骨髄が非常にしっかりしていて、その上に、西欧文明の深い学識を身につけていた。
 寅彦先生にも、この傾向が強く見られる。漱石の評語「神経質な仙人」というのが、まさにあたっている。神経質は、西欧のの自覚の産物であり、仙人は神仙道を通じての東洋精神の具象である。その上寅彦には、同時代の知識人の教養に付加するもの、即ち科学があった。
 今から考えてみても、依然として不思議である。専門の物理学以外は、いわば副業的教養であるが、その学識が私たちの常識を逸脱している。外国語は、英仏の外に、電車の中でカントの純粋理性批判をドイツ語で読み、夕食後ツルゲネーフをロシア語で読んでおられた。
 東洋的教養は、漢学よりもむしろ、純粋に日本的なものに傾いていた。明治以後において、俳諧を最も深く味わった人は、寅彦かもしれない。「心の涼しさを現わす言葉」として、風流を解していた。
 漱石を通じてかと思われるが、英国流のユーモアも、何気ない形で、方々にはいっている。ジャーナリズムの魔術を論じて、「例えば忠犬美譚で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語が方々から出て来て、日本中犬だらけになり……」といった調子である。
 日本の教養、西欧の文化、近代の科学、とこの三要素が、一人の人間の中に融合し、その全体を柔らかい情緒と深い愛とで包んだものが、寅彦の作品である。鴎外や漱石が、半ば古典的に感ぜられる若い読者には、寅彦がよく、明治大正の精神の一つの型を物語ってくれるであろう。
 寅彦の随筆集は、初めの形では、今日容易に手に入らない。全集また然りである。手軽に入手出来るものは、岩波文庫の『寺田寅彦随筆集』五巻であろう。この中から三冊をとることも、全巻百数十編の随筆中から、三編を選ぶことも意味がない。それで寅彦を読んで見たいと思われる方には、この五巻をお奨めしたい。小宮先生の編まれたもので、よく寅彦の全貌を伝えている。
 手引の意味で抒情詩人としての寅彦が最もよく現われているものを探せば、まず初期の作品が挙げられよう。少年の日のやるせない哀感を唄った『龍舌蘭りゅうぜつらん』と、若くして逝った可憐な最初の奥さんの追憶『團栗どんぐり』とは、ともに美しい散文詩である。小学生時代から大学にかけての若き日の追想を、花に托した『花物語』も、これ等に劣らぬ美しい詩である。
 中年の胃潰瘍の吐血は、その後の寅彦の生涯を決定したものであるが、『病院の夜明けの物音』『病室の花』『春寒』などに、当時の心境がよく現われている。死の深い淵を覗きながら、詩人の心境はますます冴えて来る。後年になって、この詩情は昇華して、『子猫』『備忘録』『B教授の死』のような形に生長するが、底に流れるものは、若き日の寅彦の悲哀である。
 寅彦の西欧的な深い学識と、高い識見とを垣間かいま見るには、初期の作品では、『丸善と三越』『蓄音機』『案内者』などが適当であろう。後年のものは、日本の国への愛情が、かなりはっきりとその裏打をしている。『烏瓜の花と蛾』『北氷洋の氷の破れる音』『天災と国防』などは、愛国者寺田寅彦の筆になるものである。愛国の嫌いな方は、これ等は読まれない方がよい。
 寅彦の作品の中で、著しく特異なものは、連句即ち俳諧を通じての映画論である。高次の次元ダイメンションの世界における連想で事件を進行させるのが、連句の手法である。そして近代の映画のモンタージュは、まさにそれである。日本の映画界の先達森岩雄氏も、寅彦の映画論に傾倒されているそうである。この方面に興味のある方には、『連句雑俎れんくざっさん』『俳諧の本質的概論』『映画芸術』『映画雑感※(ローマ数字1、1-13-21)※(ローマ数字2、1-13-22)※(ローマ数字3、1-13-23)※(ローマ数字4、1-13-24)』をお奨めしたい。
 この文庫版の有難い点は、とかく敬遠されがちの科学的な文章が、相当たくさん収載されている点である。研究論文は、ほとんど全部英文で発表されているので仕方がないが、この集に収められている『物理学と感覚』『ルクレチウスと科学』『日常身辺の物理的諸問題』『自然界の縞模様』などを読まれるだけでも、寅彦の物理学に対する考えがよくわかるであろう。
(昭和三十年二月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「毎日新聞」
   1955(昭和30)年2月
※底本のテキストは、没後残された原稿によります。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年11月27日作成
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