美しいという言葉を、人々はふだん何気なくつかっているが、考えてみると、美しさにはいろいろな種類のものがある。
絵や彫刻や音楽など、いわゆる芸術の世界では、美がその対象であるから、話は簡単である。目で見たり、耳で聞いたりして、美しいと感ずれば、それが美である。その感じの内容や、どういうところに美を感ずるかという話は、その先の問題である。
ところで一般には、芸術は美を対象としているし、科学は真を対象としている、といわれている。もちろんそのとおりであるが、この考え方は、誤解を招き易い。というのは、科学は美と無関係であると思われ易いという点である。
抽象的には、科学は真を対象としているが科学の内容には、美の要素が強くはいっている。それで美の立場から、これを見ることもできるのである。
その例として、雪の結晶を、顕微鏡で
山を埋め、野を蔽っている白一色の雪が、こういう天工の芸術品であることを、人々は知らないで、暮している。これは科学によって、初めて人間が知った美である。
雪の結晶の場合は、完全な六次の対称があるので、その規則正しい形が、美の感じを与えると思われ易い。しかしそればかりではない。
それは名もない雑草のどの部分でもよいから、一度顕微鏡で覗いてみれば、すぐわかることである。それはごく普通の細胞が並んでいるだけでも、そこには、一面に生命が満ち溢れている美しさがある。色彩が美しいのでもなく、形が美しいのでもない。それは「自然の調和」の美しさである。こういう種類の美は、科学の目を通じて、初めて感得される美しさである。従って、科学と無縁の人には、この美がわからない。ちょうど
そのもっとはっきりした例は、数学のもつ美しさである。ニュートンの式の中には、天体の整然とした運行の姿が秘められている。アインシュタインの相対性原理の短い式の中には、自然の
目も耳も完全な人は、絵画や音楽を楽しむことができる。その上、科学や数学の素養があれば、それらのもつ特殊の美を味わうこともできる。しかし科学や数学を引き合いに出すまでもなく、絵や音楽でも、同じことである。すぐれた芸術を本当に鑑賞できるのは、その道に年期を入れた人に限られている。やはり自分の精神力を注ぎ込まないと、本当の美しさはわからないのではないかと思われる。
(昭和三十三年六月)