北陸の民家

中谷宇吉郎




 郷里の加賀の片山津を出て、もう四十年になる。したがって、北陸の民家といっても、私の印象に残っているのは、四十年前の田舎家の姿である。
 もっともこの頃は、日本中どこへ行っても、新しく建つ家は、どれもこれも、似たり寄ったりのものである。そういう意味では、私の印象に残っている四十年前の北陸の民家の姿の方が、かえって意味があるかもしれない。
 今もその傾きがあるが、北陸と限らず、裏日本の田舎に共通した特徴は、その貧しさにある。農家は、もちろんわらぶきであって、広い土間をはいって行くと、板敷の広い部屋が一つある。この部屋には、大きいいろりが切ってあって、炊事も暖房も、この火で全部まかなわれる。雨の多い土地であるから、野良仕事に濡れた身体を暖めるには、いろりでの焚火が、絶対必要である。煙抜きがないので、この部屋は、天井も床も、煤で真黒になっている。その黒い板の上に、茣蓙ござを敷いて、それが居間にも、食堂にも使われる。寝るのもたいていは、この種類の部屋である。
 中農になると、その奥に、畳を敷いた、二間つづきぐらいの座敷がある。しかし硝子窓がなく、あるいはあっても小さいので、この座敷は、一日中暗い。そして、たいていの家では、この座敷は、日常生活には、ほとんど使われていない。
 土間は、取り入れ時に雨の多い北陸の農家では、大事な仕事場であり、かつ倉庫でもある。したがって、建坪の半分ぐらいは、この土間が占めている。普通、真ん中に幅のせまい板が通っていて、それが廊下の役目をしている。台所は、この土間の片隅の暗いところにあって、そこにかけいで水を引いている家が多い。流しは、土間に直接おかれているので、台所仕事は、しゃがんだままでする。食器なども、数が少なく、暗い流しの片隅に、飯茶碗と皿とが、いくつか白く見えている程度である。
 恐らく、徳川時代の一般の農家は、こういう姿であったのであろう。そして明治の末になっても、北陸の片田舎には、まだ徳川時代の面影が残っていたのである。この頃では、さすがにこういう農家は、非常に少なくなっていることであろう。しかし少し山村になると、まだ似たような生活が残っているのではないかと思われる。ただ写真などには出ないので、誰も知らないのであろう。
 町家も、一般庶民の家は、貧しいものが多い。まさぶきの屋根に石を載せて、風でまさが吹きとばされるのを防いでいる家は、今でも汽車の窓からよく見る風景である。鼠色に古びたまさと、同じような色の石との配合が、長い冬の間を雪の下で暮らす、北陸の人々のひっそりとした生活をあらわしている。
 中流以上の家になって、初めて瓦がふける。北陸の民家で美しいものは、この瓦である。雪の滑りをよくするためと、水がしみて凍ると瓦がこわれるので、うわぐすりのかかった瓦を使う。北陸の美しさは、瓦にあるといわれるが、あの瓦と同じ系統のものである。夕日に輝やくこの瓦は、非常に美しい。
 金沢ぐらいの街になると、瓦ばかりでなく、屋根自身も、美しい姿をしている。兼六公園から浅野川の方面を見下ろした眺めを、日本一の美しい街と激賞している友人もある。屋根の美しさであって、ごく普通の日本建築であるが、その本格的なものである。桂離宮や東照宮の話は別として、ごく当り前の日本建築で、その本格的なものを探すとしたら、案外北陸の民家の中に、見つかるかもしれない。
(昭和三十五年十一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「日本の民家第八回月報」美術出版社
   1959(昭和34)年3月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年2月25日作成
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