無知

中谷宇吉郎




 人間の幸福をはばむ最大のものの一つに、無知がある。ギリシャの哲学では、その点を強調して、知らないで犯した罪の方が、知って犯した罪よりも重いとした。罪の悪と、知らないことの悪と、二重の罪を犯したことになるからである。
 こういう考え方は、一見、われわれの感情とは、ひどくかけ離れているようにみえる。知らないで犯した罪は、情状酌量すべき余地があるが、悪いことと知りながら犯した罪は、罪状がずっと重い。これが、われわれの普通の感じである。理性の上では、あるいはギリシャふうな考え方に、理窟があるかもしれないが、人情としては、知らないでやったことなら、しかたがないと同情する方が、人間的である。
 おそらくわれわれ日本人の考え方では、ほとんどの人が、こういうふうに感じていることであろう。しかしこの考え方は、もっと深く掘り下げて検討してみる必要がある。無知の恐ろしさということについて、従来あまり深い考慮が払われていなかったからである。
 無知の罪悪について、まず今言ったような感情的な面から考えてみよう。すぐわかることであるが、同情論としても、全く逆の考え方も成り立つのである。
 悪いことと知りながら、何か罪を犯すのは、たいていの場合、よほど切羽せっぱつまった事情にあるからである。その極端な例としては、数日間食うものが無くて、餓死一歩手前にある人間が、一切れのパンを盗んだ場合が挙げられよう。この場合は悪いことと知りながら盗んだわけであるが、大いに同情すべき余地がある。
 もちろんそうでないように見える場合もたくさんある。たとえば、ギャングなどが、周到な準備をととのえて銀行を襲撃するとか、子供を人質にとってそれを殺すとかいう場合は、同情すべき要素が全くない。しかしよく考えてみると、これらは、悪いことと知りながら犯したというよりも、むしろ知らないのではないかという気がする。
 アメリカの暗黒街に巣くっているギャングたちの世界は、日本の昔の博徒たちの世界と、一脈通ずるものをもっている。悪いことはするが、彼らなりの仁義もあって、派手な銀行襲撃事件などは、スポーツ的興味もかなり伴なっているようである。普通人とは、別の世界に住んでいるので、したがって、三流映画で見るようないわゆるギャング事件は、しだいに過去の話となりつつある。
 およそ考え得る犯罪の中で、一番凶悪なものは、人質にとった子供を殺す場合で、これは全然同情の余地がない。アメリカなどでは、死刑の執行は、どんな場合でも、一応は大問題になるが、子供を殺した場合は、無条件に死刑で、それには誰も異存がない。そういう最悪のことを、いかに凶悪な犯人でも、悪いと知らないわけはないと、一応は考えられる。しかしこれは、言葉のあやになるかもしれないが、本当には悪いと知らないから犯す行為ともいえる。幼児を殺しても、自分には何の利益にもならない。生かしておいても、別に損はしない。足取りが知れるおそれはあるが、それも大したことはない。たいていの場合、自分の家へ連れて来ているというようなことは、めったになかろう。そんなことをすれば、アパート内の人にすぐ感づかれてしまう。
 自分には損にも得にもならないことで、先方の親にとっては何ものにも代えられない被害を与える。これくらい理窟に合わない話はない。これは精神が異常なのであって、無知の最大なものである。無知は精神病の一種であって、やっかいなことには、日常の生活で、精神病院に強制収容するほどの症状を見せない点が、困るのである。
 人間の精神には、健康状態から、いわゆる精神病患者まで、連続した各段階の状態がある。肉体において、頑健な身体から重病人の状態まで、健康の度が、連続的に存在するのと、同じことである。筋骨薄弱でろくに働けないというようなことが、肉体についてはよく言われるが、それと同じことが、精神の場合にもあって、無知の中には、この精神薄弱症的要素がたぶんにある。もっともここでいう精神薄弱は、普通に使われている精神薄弱児童などの場合とはちがう意味である。ものを考えようとする意力が非常に弱いという意味である。
 身体が弱いのにも、生れつきの人と、不摂生から来る場合とがある。精神が弱い場合も同様であるが、この方は、「不摂生」が原因であることが多いように思われる。「知らなかった」とよくいうが、本当は「知ろうとしなかった」場合がかなり多いのである。
 ここでまず無知の定義を考えておこう。無知は単に知らないということとは、少しちがうのである。
「知らなかったものですから」と弁解する行為は、たいてい自分の欲望の線に沿った行為が多く、自分の不利になるようなことは少ない。もちろんそれを承知してやったことではない。承知しての方が、まだ始末がよいので、意識に上ったところでは、本当に知らなくて、識閾しきいきの下で欲望に甘えている点が困るのである。識閾の下にあるものを、ちゃんとした意識の形にもって来るには、精神力を必要とする。その精神力を使う労を惜しむ、あるいはそれを逃げる弱さが、無知の本質ともいえよう。精神薄弱症的な要素があるといったのは、このことである。
 こういうふうに考えてみると、無知というのは、ものごとを知らないことではなく、考えようとしないことなのである。そういう意味では、合理主義の逆が無知であるといってよい。以下こういう定義の下に無知という言葉を使うことにする。知らないことは罪ではないが、考えようとしないこと、そしてそれが他の人に対して迷惑になる場合は、明らかに罪悪である。無知を罪悪の一つとしたギリシャふうな考え方は結局こういうところにあるのではないかと思われる。
 日本の社会には、こういう意味での無知がまだたくさん残っている。無知を合理主義の逆とすると、日本で合理主義というものは、明治以後西欧から輸入された考え方であるから、まだ無知がたくさん残っていても、不思議ではないわけである。
 社会の各層に浸み込んでいる考え方を探すには、格言のようなものを見るのが、一法である。格言として残るものは、長い年月にわたって、社会の各層に通じた考え方である。その一例として「おのれの欲するところを、人に施せ」という格言を取り上げて、その内容を吟味してみよう。
 お断りしておくが、これと同じ意味の格言は、西欧諸国の中にもあるかもしれない。しかしこの言葉が、日本人の生活の中でどういう形で生きているかを問題とするのであるから、外国に有るか無いかは、別の話である。
 この格言のことを初めに言い出したのは、名古屋大学の教授である。先年アメリカにしばらく住んでいた頃、S教授が、欧州訪問の途中立ち寄った時に、この話を持ち出した。「外国ではどこでも、他人ひとの欲するところを、人に施すのだから工合がいいですね。日本のは、己の欲するところを、人に施すんだから、どうも」という話なのである。
 まさにそのとおりであって、日本の社会には、互いに己の欲するところを人に施そうとする風潮が、未だに相当根強く残っている。これは封建時代の悪い面の残滓ざんしであり、そういう残滓を温存することによって、社会を暗くしている点が、相当ある。そしてこういう風潮の基盤をなしているものについては、あまり考えない。その不合理性を考えないこと、あるいは考えようとしないことも、無知の一つである。
 その例として、比較的罪の浅い話からはいろう。日本の酒席では、盃の献酬という風習がある。この頃の大都会では、さすがにそういう風習はすたりつつあるが、地方へ行くと、まだまだ依然として根強く残っている。中には、酒の嫌いな人に、無理矢理に盃をさして「俺の盃が受けられないのか」などと、からむ連中もある。
 盃をさす方は、酒が好きな人にちがいないから、これなどは、己の欲するところを人に施す、一番端的な例である。体質によっては、酒が身体の毒になる人もある。それでこれは、自分が欲することならば、他人に毒薬を無理に飲ましてもよいという風習なのである。その不合理さは、小学校の生徒程度の頭脳で、簡単にわかることである。問題はそういうわかり切ったことが、なぜいつまでも続いているかという点にある。その理由は、結論を先にいえば、無知のしからしめるところである。
 無知というのは、小学校の生徒にもわかるくらいの簡単なことがわからない、という意味ではない。酒が身体に悪い人に対して、無理に酒を飲ませてはいけないことくらいは、誰も皆知っている。それにもかかわらず、こういう習慣が依然として幅をきかせているのは、その奥にある本当のことを知らない、あるいは知ろうとしない点にある。すなわち無知から来たものである。
 それでは、奥にある本当のことというのは、何であるかといえば、酒の好きな人が酒を飲むのは、自分の楽しみのためであるということである。これもわかり切った話で、それくらいのことは、誰でも知っていると思われるかもしれないが、それが案外にわかっていない。というのは、これだけわかっていれば、酒に関するすべての問題は片づいているはずである。
「酒を飲むのは、自分の楽しみのためである」と、これだけ知っていれば、自分の楽しみのために、他人ひとに迷惑をかけることは悪いという結論が、直結して出て来るのが当然である。酒の好きな人が、酒を飲むのは、ちっともかまわない。しかし他人の犠牲において、自分が楽しむことは、これは悪いことである。それだけわかれば、酒の嫌いな人に、盃をさすような習慣は無くなっているはずである。もっとも献酬くらいのことは、大した問題ではない。上手に盃洗はいせんに棄てればすむ話である。しかし亭主は外で酒を飲み、家では女房は酒代の十分の一の食費にも苦しんでいる、というような例はいくらでもある。妻子の生活を犠牲にして、自分は自分だけの楽しみを求める。これはどう考えてみても、決してよいことではない。
 これには反対論が出るかもしれない。今日の日本には、楽しむために酒を飲むような結構なご身分の人は、数えるほどしかいない。妻子を泣かせながらも、一杯の焼酎をひっかけないではいられないような、切羽せっぱつまった生活をしている人が大多数だという抗議である。
 しかしこの議論は少しおかしい。生活が物質的あるいは精神的に、酒を飲まないではいられないほど苦しいのならば、酒を飲むことは、その苦しさを忘れる、あるいは軽減することになる。大きいマイナスを零か、あるいは小さいマイナスにすることで、これも「楽しむ」ことの中に、当然はいって来る。
 本人が、それほど切羽つまった境遇にあるのならば、その家族はもっと追いつめられた生活をしていることであろう。その方には眼をつぶって、自分の感情に溺れるのであるから、同情される点はあっても、大威張りでなすべきことではない。もっとも私は道学者ではないから、そういう苦しい生活をしている人々に、最後の救いである一杯の酒を止めろというのではない。ただ、これで自分は、家族の犠牲において楽しみを得ているのだということを、知っていれば、それでよい。実はうすうすそれは感じているのであるが、それを意識の上にもち出すことを回避しているのであって、これは卑怯な精神である。この知ろうとしない精神が原因なのであって、すなわち無知が原因であるといって差しつかえない。
 何だか、酒を目の敵にしているようであるが、無知の問題を論ずる場合は、一番わかりやすいので、これを例として話を進めるわけである。この場合、本当は、酒そのものよりも、それに付随しているいろいろな社会的な雰囲気、およびそれに対する考え方が、重要な問題になって来る。
 日本は西欧文明を輸入してから、既に百年になる。「輸入文明だから」とよくいわれるが、百年も経てば、決して根が浅いとはいわれない。事実この間に、物質面は立派に一流文明国の姿に変った。今日の東京の街や、生産工業の面を見れば、欧米諸国とそう違わない状態になっている。しかし西欧文明の精神的な面は、ちっともはいっていない。もちろん表面的にははいっているが、その根本精神たる合理主義が、ほとんど取り入れられていない。そんなものは取り入れる必要がないので、従来の日本に足りなかった物質文明の方面だけ輸入すれば充分だというのは、和魂漢才的な考え方であって、今日の文明は、その域をとっくに脱している。物質文明を本当に生かすためには、その物質文明の基調である精神も、同時に採り入れる必要がある。自動車だけ輸入しても、ガソリンを輸入しないと、車は走らない。
 欧米と日本との考え方における根本的なちがいを見るのにも、酒の問題が、はなはだ好都合である。日本では、酒に酔って何か間違いを起こし、他人に迷惑をかけた場合、「酒の上のことだから」といって謝る習慣がある。本人も酔っていたことが、弁解の理由になると思い、相手もたいていは、それで勘弁してくれる。しかし欧米では、これは逆であって、酒に酔って何か間違いを起こした場合は、素面で同じ間違いを起こした場合よりも、罪が重いとされている。一番はっきりした例は、酔って自動車を運転した場合であって、何か事故を起こすと、一も二もなく体刑を課せられる。
 酔って精神がもうろうとしていたということは、情状酌量の要素とはならず、逆に罪を重くする方にはたらく。何だか少し酷なようであるが、酒を飲むのは、自分の楽しみのためである、という原理を認めれば、欧米ふうな考え方が至当である。自分の楽しみのために他人に迷惑をかけることは、悪いことである。
 二、三年前に、浅草かどこかで、トラックの運転手が酔っ払って、人混みの中を暴走し、子供を二人だったか轢き殺したことがあった。留置所で酔いがさめた運転手は、「酔っていて何もわからなかったが、すまないことをした」と詫びたと、新聞は報じた。それに対して、被害者の親だったかが、「人は憎みません。酒を憎みます」といった言葉が、やはり新聞に出ていた。
 これなど、被害者側としては、悲嘆のあまり、何か感傷的な言葉で、自分を慰めざるを得ない心境にあった点は、充分同情出来るが、本当は「酒を憎みません。人を憎みます」と言ってもらいたいところである。自分の楽しみのために、子供を二人轢き殺すようなことをされては、一般の善良な庶民は、たまったものではない。
 それではこれほどわかり切ったことが、日本ではなぜ社会通念にならないかという点が、大きい問題である。これは献酬の習慣がなくならないことと、つながりがあって、社会全体に浸み込んでいる無知、すなわち合理的精神の欠如に由来している。そしてこの合理的精神の欠如は、本当は、知らないことに起因しているのではなく、自分に不利なことを曖昧に胡麻化そうとする、あるいは労力不相応の利を求めようとする、無意識的な意志が、その陰にかくされているのである。
 たとえば献酬の風習などは、初めは毒味の意味から発生したものかもしれないが、後世になっては、相手を酔わすための手段になり、今日でもその手段として残っている。それでは何のために酔わすかというと、第一は歓待の意味である。これは日本の貧しさに起因するので、普段は酒を充分に飲めない、それでこういう機会に充分に飲まそうというので、比較的純粋な行為である。しかしそれが献酬という形になるのは、客に遠慮というものがあるからである。
遠慮ということが全然無ければ、各自勝手に好きなだけ飲めばよいはずである。ところが、本当はもっと飲みたいのに、「もう結構です」と言っておいて、あとになって、「あの家では、酒のすすめ方も知らない」などと言う。したがって、主人側も、献酬のような形で、歓迎される「無理い」をせざるを得ないことになる。
 ところで、遠慮という作法が、なぜ発生したかというに、これは自分の能力以上に自分を認めてもらいたいという心情に根ざしたものと思われる。欲しい時に、欲しいというと、相手はどう思うかということを、無意識的に計算するところから、遠慮というものが生まれて来る。そして困ることには、この無意識的な計算は、心の非常に深いところでなされるので、たいていの人は、それに気がつかないのである。
 第二の要素は、相手を酔わすことによって、自分も心おきなく酔おうとする点にあって、これが最も無邪気な面である。しかしこの場合は、自分の楽しみのためという点が、最も強調される場合であるから、献酬の好きな人たちだけが集まり、家計に大した影響を及ぼさない範囲内でやる、という場合だけに限らるべきである。
 第三は、相手を酔わし、自分も酔うことによって、親近感を深めようとする点である。この場合、直接の取引はしなくても、たいていは、これで得られた親近感を、何かの場合に利用しようという下心がある。「酒を呼んで、われなんじに到る」は、匹夫のすることである。「御高話拝聴致し度く」と丁重きわまる文面で、人を酒席に招き、酒が廻ったところで、「われ」「なんじ」の間柄になる。招かれた方も心得たもので、適当に乱れてみせ、暗黙のうちに了解が出来上がる。こういう現象は、今の日本では、日常茶飯事になっていて、それが社会の進歩を妨げ、国民の幸福を阻害している。これは、社会一般の無知に乗じているばかりでなく、やっている当人たちも無知なのである。ということは、それらの人々は、自分のしていることの本質を、考えてみようとしないからである。
 第四は、最も下等で、それだけに簡単な場合である。それは相手を酔わせて、そのすきに乗じて、何らかの取引を、有利にとり結ぼうとする場合で、これは説明を要しない。
 いずれの場合にも、合理的精神の欠如の陰には、何らかの形での不正がかくされている。すなわち、無知には、無意識のこともあろうが、ある種の胡麻化しか不正かが伴なっているとみて、さしつかえないようである。そういう意味で、人間の幸福をはばむ最大のものの一つとして、無知を挙げることは、そう見当ちがいではないであろう。献酬の風習などは、瑣細ささいなことであるが、問題はその基調をなしている合理的精神の欠如である。こういう風潮が社会を支配している国では、待合政治はいつまでも無くならないであろう。
 酒の問題などは、最もわかりやすい例で、あまり議論の余地はない。しかし今日の日本に蔽いかぶさっているいろいろな問題、とくに思想を背景とする諸問題は、非常に複雑であって、なかなかその本質をつかみ得ない。こういう問題について、考えようとする努力を怠り、瑣細な感情に甘えていると、その無知に乗ずる人間も出て来るおそれがある。無知が罪悪である所以ゆえんは、当人の不幸というほかに、それを利用しようとする人々に機会を与えるという点がある。この後者が、実は重要な問題なのであるが、それは一応本文の範囲外としておく。
 本文の主旨は、無知の本質を明らかにする点にあって、知らないこと、および考えてもわからないことは、無知ではない。考えようとしないこと、そしてその陰に潜在悪がある場合が、無知なのである。
(昭和三十二年一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「現代教養講座第二巻 幸福と自由」角川書店
   1957(昭和32)年1月10日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年9月26日作成
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