もう二十年以上も昔の話であるが、寺田寅彦先生が、墨流しの研究をされたことがある。この研究は、墨と硯との研究に発展し、東洋の墨は、非常に不思議な性質を持っていることがわかった。
この研究は、先生の晩年のいろいろ多方面にわたる研究の中でも、とくに注目すべき業績である。しかしこの研究が完成を見ないうちに、先生は亡くなられてしまった。
一番惜しい点は、この研究が、日本の普通の墨と硯だけについて、行なわれたことである。シナの名墨や、端溪などの
こういうことを思いついたのは、先生が亡くなられた直後のことである。そのころ私は、伊豆の伊東で、二年ばかり療養生活を送っていたが、その暇つぶしには、丁度手ごろの題目である。
ところで墨の研究ならば、実験室だけでできることであるが、墨色とか、溌墨とかいう話になると、どうしても、紙の上に塗ってみなければならない。すなわち南画の勉強をしなければならないことになる。
そうなると、硯だ、紙だと、いろいろな要素もはいってくる。第一、名墨の研究だったら、名墨自身が必要であることに気がついた。
しかしそんなことをいっていたら、いつになったら始められるか、見当もつかない。それで子供の硯と墨とを借りて、さっそく墨色および溌墨の予備的研究にとりかかった。
ところが世の中はよくしたもので、こういうことをやっていると、同情者がぼつぼつ現われて、二、三年のうちに、嘉慶墨の名品だの、白端溪の硯だのという貴重品がいつの間にかわが家に集まってきた。中には、夫婦げんかをして買ったものもあるが、たいていは
こうなると欲が出て、形のあるものを描いてみたくなる。そうでないと、ほんとうの墨色はわからない。大分話が高尚になってきた。
それで南画を始めたわけであるが、われわれがどれだけ勉強しても、美術学校の落第生以上に巧くなることは、絶対にない。それくらいのことはわかっているので、第一原則として、先生には一切つかないという主義をとることにした。昔、油絵を少し描いていたころ、寺田先生から「少しでも油絵を習った人なら、こうは描くまいというふうに描いてあるので、たいへん面白い」と褒められたことがある。それを思い出したからである。
先生につかないとすると、写生をするより他に道がない。それで手当り次第に、いろいろなものを描いてみたが、不思議なことにはものが上等でないと、絵も面白くない。このごろは、よその座敷へ行っても、土産物店をのぞいても何も彼も、みな画題に見えるようになった。「これは絵になる」と思ったものは、描いてみると、果して面白い。もっとも自分で面白いと思うだけである。つまらないという人は、美術的眼識がないのだから仕方がない。
この八幡馬も、先日八戸市へ行ったときに、駅の売店で買ってきたものである。このごろは、旅の楽しみが、また一つふえた。
科学的の方も、その後大分進展して、シナの昔の松煙墨の名品は粒子が球に近い形をしていることがわかった。電子顕微鏡で、一万倍くらいに拡大してみると、それがわかる。しかし印刷では、その墨色が出ないのが残念である。
(昭和三十四年四月)