雪男

中谷宇吉郎




 ヒマラヤの山奥に、人間に似た怪獣が住んでいるという伝説は、ずっと昔からあった。ヒマラヤの住人たちは、この怪人をヤティ(縁起の悪い雪男)と呼んでいるそうである。
 この怪人のことが、急に問題になり出したのは、今から四年前に、英国のエヴェレスト登山隊長シプトン氏が、その足跡の写真を発表したのが、きっかけである。
 エヴェレストに近いメンルンツェ氷河の上で、雪の上に、長さ一フィートばかりの、人間の足跡によく似た足跡が残されていた。少なくとも二頭以上が打ち連れて通ったと思われるものであった。
 この写真は早速動物学者たちの間で問題になった。そしてその鑑定では、多分ラングール猿の足跡だろう、ということに落ちついた。しかし当のシプトン氏は、この鑑定に不服で、反対意見を発表した。ラングール猿は菜食動物であるが、標高一万九千フィートの氷河の上で、どんな植物があり得るか、またラングール猿の足跡は、どんな大きなものでも、長さ八インチを超えるものは、今まで知られていない。ところが今度の問題の足跡は、十二インチ以上もあった、というのである。
 結局、この話は、だんだん忘れられて、それ切りになってしまった。皆があまりに忙しくて、ヒマラヤの人獣のことなどに、かかわり合っていられなかったからであろう。
 ところが、最近になって、また新しい資料が出て来た。今度は英国の空軍省の発表で、ヒマラヤ遠征隊が、またこの雪男の足跡を発見したということである。今度のは「長さ一フィート以上で指も五本あり、二本足で歩いた痕跡」というのであるから、いよいよ雪男らしくなってきた。
 この新聞記事で思い出したのは、鈴木牧之の『北越雪譜』にある雪男の話である。牧之は越後塩沢の人で、この本は天保十三年の刊行である。牧之は生涯を雪国に送った市井の達人で、雪国の生活や人々の話を、折にふれて書き集め『北越雪譜』七巻を遺した。
 その第七巻の初めに『異獣』という章がある。堀内より十日町へ越える七里の山中で、竹助という人夫が、この人獣に遭っている。「猿に似て猿にもあらず、頭の毛長く背にたれたるがなかばはしろし。丈は常並の人よりたかく、顔は猿に似て赤からず、眼大にして光りあり」という異獣であった。
 シプトン氏の案内をしたヒマラヤ住民の一人も、ヤティに遭ったことがある。「それは半人半獣の怪物で、背丈は五フィートくらい、全身赤味がかった栗色の毛で蔽われていたが、顔だけは毛がなかった」という話である。もし本当にこういう雪男が現世の地球上に生きていることが確認されたら、四巨頭会談以上の大ニュースであろう。





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「百日物語」文藝春秋新社
   1956(昭和31)年5月20日発行
初出:「西日本新聞」
   1955(昭和30)年7月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年10月27日作成
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