エスキモーの国から

中谷宇吉郎




世はさまざまの話


 五月の末に日本を立って、米国の東海岸に面した避暑地ウッズホールで、三日間の会議をすませ、昨日グリーンランドのチューレへ着いた。そこから十四マイルばかり氷河のモレインの原を行くと、氷冠アイス・キャップにとりつく。そのすぐ手前のところに、タトウのベース・キャンプがある。
 ここは、グリーンランドでも、ずっと北の端近いところで、北極点までは、あと八百マイルくらいしかない。北極圏の中でも、ずっと北に寄ったところで、六月十二日というのに、まだチラチラ雪が降っていた。
 忙しい旅行を終えて、このタトウのベース・キャンプに落ちついたら、何だかホッとして、日本へ便りを書いてみる気になった。グリーンランドも三年目になると、大分北極ずれがしたようである。
 日本から持ってきた機械も全部無事届いたので、二、三日このベース・キャンプで準備をととのえて、近く氷冠上二百四十マイルの奥地にある観測地点へ出かけることにしている。
 この氷冠というのは、大昔から降り積った雪が氷化したもので、面積が日本の六倍、氷の厚さが平均して二千二百メートルという、とんでもない大きい氷の大陸である。タトウのベース・キャンプから観測地点まで、見渡す限りの雪の原で、黒いものは何一つ見られない。その中を、二百四十マイルというと、東京から米原くらいまでの距離を、そりにゆられて行くわけである。
 昨年までは、スイングという大型の橇を使っていた。橇つきの車輛を、列車編成にして、重油のトラクターを機関車にして引っぱって行くものである。これだと最良の状態でまる三日間、普通は五日間くらいかかる。今年は雪上車が改良されて、二十四時間で行けることになった。多分明日出発するはずであるが、うまく行けばよいがと思っている。
 この観測地点は、日本の六倍もある雪の原の中で、人間が定着しているただ一つの地点である。もっとも今年の夏は、氷冠の南方に、フランスとスイスの探検隊がやって来ているが、その連中との連絡などは、思いもよらないことである。
 日本を出てから、わずか十日ばかりしか経っていないが、その間にも、世界にはいろいろなことが起こっている。二十日鼠を人工衛星にのせて打ち揚げるかと思うと、ベルリンでは最後通牒とか何とかいう話が出ている。北極の氷の浮島へ行った男からは、暑くて困るという手紙がくる。英国の学者からは、日英協同謀議をもちかけられる。太平洋戦争のベテランは、ギルバート島に隠棲したいという。全く世はさまざまの話がある。氷の下のテントの中で、そういう話を書いてみるのもまた面白かろう。

日英協同謀議


 ウッズホールで、六月三日から五日まで、三日間国際会議があったが、これは雲物理学のシンポジウムであった。米国内はもちろんのこと、英、仏、独、スイス、スウェーデン、カナダなどから、この方面の専門家が、ほとんど全部集まった。日本からは、私と北大の孫野教授とが出席した。近年でも珍しく成功した専門的な会議であった。
 雲物理学の中では、雪の出来るときの気象条件と結晶の形との関係が、一つの重要な課題になっている。この問題は、人工降雨と関連して、近来脚光を浴びてきているのである。
 この研究は、結局人工雪の実験に落ちつくので、私たちの方では、もう二十年前から手がけている問題である。近年になって、英国、米国、カナダなどでも、この問題に興味をもち出して、似たような研究が始められた。
 そのうちで、一番熱心でかつ、しっかりした実験をしているのは、ロンドン大学のメーソン教授である。この男は、頭がよくて、実験も器用、その上口も八丁手も八丁である。「メーソンは、一人で雲物理学を全部やるつもりらしい」と、アメリカの連中など蔭口を叩いているが、一寸手に負えない先生である。
 このメーソンも、人工雪の実験をやって、気象条件と形との関係を示す図を出しているが、それはわれわれの図と大体似ている。しかし一部ちがったところがあって、それがかなり大切な意味をもっているのである。このことは、前から報告を通じては互いに知っていたが、会ったのは、今度が初めてである。
 会議の合い間にときどき話し合ってみたが、実験のやり方が少しちがうので、両者の差がどこから出てくるかなかなか話がつかない。こういう場合に、一番よい方法は、どちらかの実験技術を身につけた男が、先方の実験室へ行って、先方のやり方で実験をくり返してみることである。そうすれば問題は一遍に解決してしまう。
 ところがメーソンのところには、適当な男がいない。それで日本から誰かロンドンへよこしてくれないかということになった。それは非常によい考えであって、巧く行けば、数年来の懸案が一遍に解決されてしまうであろう。
 ここまでは話はたいへん巧いのであるが、その費用をどうしようかということになった。英国も日本同様、外貨には困っているので、彼の大学からは出せない。それで丁度この会議のスポンサーをした米国立科学財団の幹部の人がやって来ていたので、二人でこの留学の費用を彼の財団から出してくれないかと頼んでみた。
 そしたら彼も困ったような顔をして「それはイギリスと日本との間の話だ。どうもわれわれの政府の話ではなさそうだ」という。まさにそのとおりであって、これは日英協同謀議ということになりそうである。もっともアメリカには国際協力のための機関が別にあるから、その方へ斡旋あっせんしてみようという。どうなるかわからないが、一寸面白い話である。

人工衛星とゴルフ


 先日アメリカで、四匹の二十日鼠を人工衛星に入れて打ち揚げた話は、日本の新聞にも出たことと思う。その前に二匹の猿を長距離ロケットで打ち出し、しばらくの間、宇宙旅行と同じ条件において、無事地上に取り戻すことに成功した。それで今度は、本当の人工衛星に二十日鼠を入れて、それを無事地上へ帰らせて、スペース旅行の生理的影響を調べようとしたのである。
 ロケットを打ち出すときは、おそい速度で大気を通過し、真空に近くなってから、第二段、第三段の発射で、超高速度にする。この場合は、空気との摩擦は、大した問題でない。しかし地上へ回収するときは、超高速度で大気内へ突入するので、流星と同じように高熱になって燃えてしまう。それで生物を入れた人工衛星の回収は、非常にむつかしい問題である。しかしそれも現在では解決されている。
 ところで今度の二十日鼠の実験は、人工衛星自身の失敗で、不成功に終った。もし無事に生きたまま地上へ回収されたら、つぎはいよいよ人間を載せた人工衛星という段階になりそうであった。
 しかし此処で一つ大きい問題があることを忘れてはならない。それは現在の人工衛星打ち揚げ装置、すなわちロケットは、恐ろしく非能率的、したがって、非経済的なものであるという点である。
 二十日鼠というのは、一番小さい鼠で、四匹としても、手のひらに乗るくらいのものである。ところがそれを打ち出したロケットは、恐ろしく大きいもので、全重量は五十四トンあった。五十四トンもの重量のものを打ち揚げ、大部分は燃料であるが、それを燃しつくした揚句、ごく小さい人工衛星をつくり、その中に二十日鼠を四匹入れられるというのであるから、まるで話にならない。大砲で南京玉を打ち出すようなものである。
 人間を乗せられる人工衛星となったら、それこそたいへんなもので、小さい駆逐艦くらいのものを打ち出さなければならない。一回や二回は無理をしても、どんな大国でも、そういうものをどんどん打ち揚げることは、経済的にいって、とてもつづくまい。宇宙旅行となったら、そのまた何十倍何百倍ということになろう。
 それで何か動力源として新しいものを使うか、別の原則が発見されない以上、宇宙旅行が実際に可能になる見込みは、今のところ一寸ない。
 こういう話をしたら、或る友人から、それは学者の狭い考えだと、一蹴された。その友人の説は次のとおりである。
 五十四トンのロケットで、四匹の二十日鼠を打ち出すのと似たことは、現在すでに他にもたくさんある。
 その一例はゴルフである。何十町歩という土地を整地して、芝を植えて、毎日手入れをしている。そしてその広大な土地で、直径三センチの球を、小さい穴の中に転がし入れて喜んでいる。それが人間であるから、人工衛星の競技は今後もますます盛んになるであろうというのである。

北極が暑くて困る話


 北氷洋の中に、いくつかの氷の島がただよっている。
 それ等の島は、北氷洋中の海流にのって、ごくゆっくりと北極を中心にして廻っている。一廻りするのに約十年かかる。
 その中の一番大きい島には、T3という名がついている。ターゲット(的)三番の略称である。大部分のところ北氷洋は一面に海氷でおおわれているので、こういう氷島があっても、一寸見つけにくい。それに天気の悪い日が多いので、たいていの場合、レーダーで飛行機から見つけるのである。丁度的を射当てるのと似ているので、こういう名前がついたのだそうである。
 T3の島は、長さが九マイル、幅五マイル、厚さ七十数フィートというとんでもなく大きい氷の一枚板である。
 カナダの北氷洋岸エルズミュア島の氷河から流れ出した氷が、浅瀬のところに棚氷をつくっている。それが折れて流れ出したものが、この氷の浮島である。
 こういう氷島は、昔からたくさん知られていて、かつてソ連のパパーニンが越冬したのも、同種の氷島である。アメリカでも、五年くらい前からT3の上に観測所をつくり、そこで気象観測と海洋観測とをやっている。北氷洋の海洋観測には、これは絶好の場所である。船を一年間北氷洋に浮べておこうと思っても、それはできない相談である。この氷島なら、無料で何年でも使えるのであるから、まことに有難い話である。
 ところが、アメリカの場合、一つ困るのは、そういうところへ一人前の地球物理学者が、なかなか行きたがらない。稀に希望者があっても、夏の間暫く行くだけで、一年間越冬して、連続観測をやろうというような篤志家は滅多にいない。科学的には、そういう資料が大切なのである。
 昨年フランスのシャモニイで開かれた国際雪氷委員会の会議で、その話が出て、日本から科学者に二人行ってもらうことになった。それでこの四月、北大からK助教授とM助手とが、その島へ行って、もう観測を始めている。
 そのうちM君の方は、少なくも一年、できれば二年でも三年でも頑張るといっている。
 M君は妙な男で、昔から、北極か南極に住むことを、一生の念願にしていた。それで極地生活に身体を馴らすために、札幌にいても、冬中火の気のない部屋に住んで、湯は決して飲まず、水ばかり飲んでいた。そしてなまの肉や生の魚を食べる練習をしていたそうである。
 ところで先日、T3からM君の手紙がきたが、それによると、全く当てがはずれて困っているそうである。第一部屋の中が暑すぎて、全く北極の感じがしない。それに食べ物は、北海道では滅多に食べられなかった洋食を毎日くわされる。夜は映画もある。これでは何のために北極へ来たのか、わけがわからない。
 仕方なく朝の観測のときに、少し早く起きる。
 氷の島の遙か遠方まで歩いて行って、朝の冷たい空気を胸一杯吸って、辛うじて北極の感じを味わっているそうである。

グリーンランドと日本


 現在のところ、世界中で日本と一番縁の遠いところは、グリーンランドであろうと、昨年まで考えていた。
 ところがそのグリーンランドまで、日本の雑貨が進出しているのであるから、全く驚いた話である。
 グリーンランドには、飛行場が二つあって、そのうちの一つチューレには、まだ軍用機しか行っていない。しかし南方の北極圏へはいったばかりのところに、今一つサンダストロームという町があって、そこの飛行場には、民間航空機も立ち寄っている。欧州北部とカナダとをつなぐ航空路が、ここを中継地としているのである。
 グリーンランドの氷冠の研究には、アメリカの外に、欧州からも探検隊が来ているが、その方はサンダストロームを基地として、氷冠の南部を調査している。
 この探検は、フランスとスイスとが主としてやっているので、隊長はストラスブルクのバウアー教授である。もう三年前から始めている。
 昨年フランスのシャモニイで国際雪氷委員会の会議があったとき、バウアー氏は、十二、三歳になる男の子をつれて来ていた。その子供が、一寸変った絹のジャンパーを着ていたが、背中に白熊の刺繍ししゅうがあって、その上にグリーンランド、下にサンダストロームと、横書きにちがった色の刺繍がしてあった。
 バウアー氏は「これはサンダストロームから、この子供の土産に買ってきたものだが、ここを一寸見なさい」といって襟のところをまくって見せてくれた。そしたら Made in Japan という小さい札がついていた。サンダストロームなどという名前を知っている日本人は、ほとんどいないであろうが、日本の商品は、そういうところまで、どんどん進出しているわけである。まことにたくましいものである。
 チューレへ行く軍用輸送機は、フィラデルフィアの郊外からとび立って、カナダのグース・ベイ飛行場を中継地として、あとまっすぐにチューレまでとんでしまう。
 全飛行時間は、十二時間足らずであって、朝アメリカの物質文明の中心地を立つと、夕方には北極点から八百マイルのところに着くわけである。
 グース・ベイは、カナダのラブラドール州の真ん中にあるが、ラブラドールといえば、エスキモーが住民の多数を占めているところで、グース・ベイの周囲など、何十マイルという範囲内に、人間がほとんど住んでいないところである。そういうところに、飛行場をつくり、立派な街をつくって、皆家族づれで住んでいる。ここは民間航空路の中継地にもなっている。
 今度来るときは、チューレの天候が悪かったので、ここで一泊したが、夕食に将校集会所へ行ってみたら、その豪華さにはいささかあきれてしまった。食堂内部の飾り付けも、椅子、卓も、食事も、女給仕も、ニューヨークの一流レストラン級である。そしてめかし込んだ細君をつれた将校も大分来ていた。国防にこう金がかかっては、アメリカもたまるまいと思った。
 ところでこの食堂のナプキンであるが、これがまた全然日本画なのである。鵞鳥グースととど松と葦を墨絵でかき、黄色い太陽を配した図柄である。これは日本で印刷したものではなかろうが、一種の進出といえないこともない。

北極で流星をつかまえる話


 昨年西堀さんが南極から帰って来られたときの土産話に、昭和基地では、流星球が、非常にたくさん採集されたということであった。
 流星が大気中にはいって燃えるとき、全部燃え切らずに、きわめて小さい鉄の球のままで、地上に達することがしばしばある。顕微鏡の下で見ると、完全な球形をしていて、表面が金属光沢をもっていることが多い。そういう球を流星球といって、昔からよく知られているものである。
 もっともこれと全く同じものは、金工場や実験室でも容易につくることができる。鉄の刃物を廻転砥石でとぐときに、火花がとぶ。あの火花を軟らかい紙に受けて顕微鏡で覗くと、球形の鉄の球であって、流星球と全く同じものである。
 それでこういう鉄の小球が見つかっても、それが流星球であるか、鉄工場や製鉄所で出来た人工ものか、区別ができない。
 それが初めて確認されたのは、太平洋の深海の泥土の中から採集されたからである。旧い話で、ダーウィンが、ビーグル号で世界一周をしたときに、太平洋の深海から泥土を採って調べたところ、この鉄の小球が見つかったのである。
 陸地から海にはいるものは、大陸棚に沈澱してしまうので、大洋の深海までは届かない。
 それで太平洋の底に沈んでいるこの鉄球は、流星球と考えられるのである。その後スウェーデンのハンス・ペターセン教授が、太平洋と大西洋と、両方の深海の底から、たくさん流星球を見つけて、この方はもう確かめられている。
 陸地でこの流星球をつかまえようと思ったら、南極か北極が一番よい場所である。鉄工場の心配がないばかりでなく、万年雪の中に、昔からその流星球がたまっているからである。それで雪をとかして水をつくるときに、容器の底に流星球がたまることが考えられる。
 西堀さんが集められたのは、まさにそういうふうにされたのであるが、一つ不思議なことは、その量が非常に多かったことである。太平洋の深海の泥土は、非常にゆっくり沈澱するので、少し長いコアをとると、何十万年の昔からたまった流星球が、そのコアの中にあることになる。ところがその数はそう多くないので、プリンス・ハロルド海岸は、よそと比べて桁ちがいに、流星球が多いのである。
 これは昭和基地ばかりでなく、南極点をはさんで反対側にあるアメリカの基地でも、たくさん流星球が採集されている。極地に流星球が多いのなら北極でも同様なことが観測されてもよいはずである。
 ところが今までそういう話はきいたことがない。
 それで今度グリーンランド滞在中に、道楽半分に、北極の流星球をつかまえてみようかと思っている。この氷冠上の観測所では、毎日莫大な量の雪をとかして、生活用水にしている。昨日そのタンクの底の排水口から、少し水を出してもらって、その沈澱物を顕微鏡で調べてみた。
 鉄の容器であるし、それに人間が住んでいるための塵埃が多くて、流星球はなかなか見つからなかったが、今までのところ二つだけそれらしいものが見つかった。少しひまが出来たら、完全に人間の生活から隔絶された場所の雪をとって、それをとかして調べてみたいと思っている。

黒い雲


 英国の天文学者フレッド・ホイルの名は、日本にもよく知られている。新しい宇宙論の提唱者かつ解説者として彼の名は、英国でベスト・セラーになり、世界各国語に翻訳されて、広く読まれている。
 彼の説によると、太陽は死滅の道程にはなく、反対にだんだん熱くなり、将来は地球も火の球になってしまうというのであるから、おだやかでない。
 もっとも何千万年か、何億年か先のことである。
 それよりも印象的なのは、この全宇宙には、地球とよく似た自然条件の惑星が、少なくも五十万個はあるという彼の説である。太陽系だけが、宇宙で特殊の地位にあるとは考えられない。
 それで自然条件が同じであれば、生物も似たものが発生し、そこにはわれわれの人類と同じような人類が棲息していると考える方が、科学的である。
 この地球上では、何十億という人類が、やれ原爆だの人工衛星だのといって、いがみ合っている。
 そういう人類がこの地球の外にも、五十万種族くらいいるというのであるから、まさに人生観にひびく科学論である。
 ところがこの天文学者が、二年ばかり前に科学小説を書いてそれが大分評判になり、最近その普及版も出ている。表題は「黒い雲」というのである。ベスト・セラーの科学普及本を書き、今度は科学小説も書くというのであるから、いわゆる科学ジャーナリストの一人と考えられるかもしれない。
 しかし本人は正統な天文学者で、ケンブリッジで数学を講義し、アメリカの大学で天文学の講義もしている。
 今度グリーンランドへ来る途中、同行のアメリカの連中の一人が、この「黒い雲」に熱中していて、面白いから読んでみろといって貸してくれた。
 ホイルの科学書の方は前に読んだことがあり、たいへん面白かったので、今度の小説にも、一寸興味があった。それで氷冠上の長い旅の退屈しのぎに読んでみたが、結論を先にいえば、やはり科学者には、小説は書けないということに落ちついた。
 この本は、内容も着想も非常に面白いのである。
 宇宙空間にきわめて稀薄な気体があることは、現在一般に認められていることであり、それが彼の専門でもある。ところがその気体の比較的濃い気団が、宇宙の一部にあって、それが太陽系へやってくる。そして地球の軌道内にはいってしまう。そうすると太陽が完全に遮閉されるので、地球に天変地異が起こり、その後に酷寒が訪れ、生物の大部分は死滅に瀕する。
 この着想は、未知の天体が太陽系へやってくるという従来の類似本よりも、一段優れている。
 現在の科学と著しく矛盾しない未知の現象を導入した点が、みそである。その上その黒い雲が太陽系へはいったことを、天空写真と惑星の軌道異変から発見するところなど、大いに専門的であって、なかなか面白い。
 しかしいよいよその黒い雲がやってきて、地球上に大騒動が起こる顛末になると、もう書けない。「熱帯地方では、住民の三分の二まで死んでしまった。暖房設備と燃料の準備があった国では、少数の死者ですんだ」という調子の記述しかできない。
 要するに小説の部分になると書けないのである。
 後半はその黒い雲に生命があることがわかって、それと通信をするというので、奇想天外のようであるが、サイバネチックス患者の妄想であって、少々馬鹿げている。

ポール・キャット


 先日、航空に関する或る集まりで、日本の航空輸送の将来についての話が出たことがある。問題は鉄道との競争にある。
 国鉄が技術的に近年躍進をつづけているので、たとえば新東海道線が完成された暁には、東京大阪間の航空便は、あまり意味がなくなる。これは将来は、福岡までのびるかもしれない。
 こういう悲観的な考え方は、現状をそのまま先にのばしたところからくるのであって、原則的にみて、空中を行く方が、地表を走るよりも、時間的にはずっと有利なはずである。
 それが或る場合には、あまり効果を示さないのは、都心から飛行場までの輸送の問題が等閑視されているからである。
 この問題と限らず、いわゆる「小運搬」の問題が後廻しにされがちであることは、何処でも同様である。極端な例になるが、アメリカからグリーンランドまでの旅行は、この頃は十二時間の飛行ですむ。
 しかしそれはフィラデルフィア郊外の飛行場から、グリーンランドのチューレまでの話である。
 私たちは、そこから氷冠上を二百二十マイル奥地へはいったところにある観測地点へ行くのであるが、その旅行は、昨年までは、橇列車であった。絶好の気象条件のときで、まる三日間、一寸天気がくずれると、五昼夜かかった。
 札幌を出てから、本当に飛行機が千歳をとび立つまでの時間は、千歳仙台間の時間とほぼ等しいが、それよりももっと悪かったわけである。
 ところが今年きてみると、わずか一年のうちに、事情がすっかり変っていた。貨物はやはり橇列車で輸送しているが、人間の方は、ポール・キャットと呼ばれる新しい雪上車で運ぶことになっていた。
 それだと一昼夜以内で行けるのである。著しい進歩である。
 ポール・キャットは、カタピラ式の軽トラクターが、やはりカタピラ式の客車を一輛ひっぱって走る型のもので、雪のよいところは時速十二マイル、平均して十マイルの時速で走るようになっている。雪上車は非常にゆれるもので、平均時速十マイルを出して、そう大して動揺しないのは、たいしたことである。昔の汽車くらいの性能であるから、極寒地の雪上輸送の問題は、一応片づいたといってよい。灸所は、客車もカタピラにした点にあるのではないかと思う。
 こういう場合、従来は橇付にしたのであるが、それだと動揺がひどくて、人間が参ってしまう。
 この例に限らず、最近雪の処理に関する技術は、著しい進歩をとげている。積雪地の飛行場では、滑走路及び誘導路の除雪が、一番の問題であるが、それも実際に役に立たせるためには、迅速にやる必要がある。少し立て込んだ飛行場では、数分毎に大型機が離着陸しているからである。
 それについて、昨年スイスでつくった除雪車の中には、ロータリー式で、一回の除雪の幅が五メートル、一時間の除雪量は、公称八千トン、五千トンまでは確実に保証するというのがある。それだと相当な大飛行場でも、三十分くらいで除雪されてしまう。
 驚いた話である。
 こういう話は、日本でも雪の降らない土地の人には、興味がないかもしれない。しかし飛行場では、除雪可能だけでは駄目で、迅速に除雪することが必要である。輸送では「小運搬」が大切である。こういう点、すなわち第二近似まで行って、科学技術が本当に役に立つものであり、世界の現状はそこまできているという点は、一般に参考になる話であろう。

エスキモーとまちがえられた話


 外国を旅行すると、私などもいろいろな国の人間にまちがえられるが、そのうちの傑作は、エスキモーにまちがえられた話である。
 昨年の夏、二度目のグリーンランド観測で、大分様子もわかり、ベース・キャンプにいるときは、よく近くのチューレの町へ遊びに行った。
 そこの将校集会所にバーがあるので、仲間の連中と、ときどき気ばらしに出かけたわけである。
 ところで或る晩、カウンターのところで、二、三杯のんでいたら、隣りに腰かけていた空軍の将校が、話しかけてきた。二言三言何かいっているのであるが、どうもよく話がわからない。仕方なく生返事をしていたら、その男が、「君はグリーンランダーだろう」という。それでやっとわかったのであるが、エスキモーとまちがえていたのである。
 グリーンランドは、デンマークの領土になっているが、住民のほとんどはエスキモーである。もっとも数は少ないので、日本の六倍半もあるこの島に、全部で二万数千人しかいない。
 このエスキモーは、昔カナダの北氷洋岸から流れて来たもので、現在デンマークの政府は、この連中のことを公けには、エスキモーといわず、グリーンランダーと呼んでいるのである。統治政策の一つであろう。
 エスキモーとまちがえられたのは、さすがに初めてであって、このときは一寸びっくりしたが、考えてみれば、ちっとも不思議なことではない。
 それほどエスキモーは、日本人とよく似ているのである。
 だいたい日本人の考えているエスキモーは、あざらしの皮を着て、氷の家に住んでいるエスキモーである。しかしこういう風俗は、現在では、ほとんど見られない。ごく北の方に、わずかにその名残りがのこっているくらいである。もっとも氷の家というのは、昔でも、あざらし狩に行ったときの臨時の住居で、普段は泥炭の家に住んでいたのである。
 デンマークの外務省が出版した「グリーンランド」という本があるが、五、六名の専門家が分担して書いたもので、小冊子ながら、非常に要領よくまとめられた、正統的なエスキモーの紹介書である。以下の話は、この本の受け売りであるが、現在のエスキモーの中には、居間で安楽椅子にひっくり返って、テレビを見ながら、パイプをくゆらしている連中もいる。
 この本の中には、その写真も出ている。エスキモーは、非常に器用で、また頭もよく一寸教えると、何でもすぐおぼえてしまう。ラジオの技師もいるし、モーターの修繕もする。エスキモーとまちがえられたといって、すぐ氷の家を連想するのは、「日本には汽車があるか」ときく外国人と似たていどの認識である。
 それよりも驚いたのは、この本の中にあるエスキモーの風俗写真である。その中に出てくる人たちは、裏日本の農村や漁村で、私たちが子供の頃に毎日見ていたどこそこのおじさんやおばさんと全く同じ顔をして、同じような服装をしている。
 赤ん坊を背中にせおって、おんぶばんてんをはおった若い母の写真など、黙って展覧会に出したら、誰でも日本の農村風俗と思って見逃がすにちがいない。
 顔はうりざね型で日本式の美人である。
 老人たちも潮風にきたえられた顔の皮膚に、深いしわが刻み込まれていて、北海道や東北の漁村で見られる老人たちと、全く同じ顔をしている。もじりのような着物に、ズボンをつけて、ゴム長をはいた姿など、そっくりである。
 ヒマラヤの住民に、日本人の祖先を求めるよりも、エスキモーに求めた方が早道かもしれない。
 それで私をエスキモーにまちがえた男は、なかなか眼が高いと内心感心しているわけである。

英会話の心得


 私は非常に運がよくて、大学を出てから、三年目に外国へ留学することができた。当時は、今の原子物理学の勃興時代で、ドイツの物理学が、全盛をきわめていた。しかし私はケルヴィンやレイレーの伝統をついでいる英国の物理学が好きだったので、ロンドンに行くことにきめた。
 ところが噂にきくと、ロンドンくらい英語の通じないところはないという話である。英国人はプライドが高いし、それに外国語の苦労を知らないから、外国人の英語に理解がない。とくにロンドン人がいけなくて、自分のひどいロンドンなまりが、世界中の人間に通じるものと、はじめからきめてかかっている。
 こういう話をきくと、急に心細くなってきた。それで送別会に田中館老先生も出席して下さったので、言葉の通じない人間の洋行の心得をきいてみた。
 当時国際会議といえば日本代表はいつも先生ときまっていて、何十回となく外国へ出ておられたからである。
 先生は、いつもの磊落な調子で、「そんなこと、君、心得も何もないよ。今ここでこの話が通じなかったら殺されると思えば何でも通ずるよ」と言われた。これはまことに名言であった。
 まさにそのとおりであることが、行ってみてよくわかった。
 この頃若い日本の科学者が、どんどん外国、といっても主として米国へ招かれて行くが、そういう人たちの中には、英語が喋れないことを、ひどく気にしている人もある。しかしそれは全く見当ちがいの心配であって、先方は何もそういう人たちの英語をあてにしているわけではない。
 アメリカでは、乞食でも英語は喋れるのであるから、英語が達者に喋れることは、何も自慢にならない。向うが期待しているのは、その人たちの学問なのである。そしてその方は田中館先生流にやれば、何も心配はいらない。
 もっとも英語が通じないと、アメリカの生活が、ひどく殺風景になる。また国情や人情もわからないし、よい友達も出来ない。それで英語が自由に通ずるに越したことはないが、それはいわば自分の楽しみのためである。学者は学問さえできれば、何も心配はいらない。言葉のことを気にするのは、つまらない劣等感である。外交官や商売をする人のことは別の話になる。
 それについて、一つ妙な話をしよう。英語を喋ったために軽蔑された話である。私が前に二年間ウィルメットの雪氷永久凍土研究所を手伝っていた頃のことである。或るときカナダと米国とで雪氷研究の打合わせ会をこの研究所でやることになり、それに是非出席しろという。
 普段は会議はごめんを蒙らせてもらっていたのであるが、このときはカナダの空軍将官もやって来ていたし、カナダのやり方も一寸興味があったので、出席してみた。ところがその将官と少し話してみたが、いやに尊大ぶっていて気に食わなかった。
 それでいい加減にして、お茶をにごしておいた。
 その晩所長の家で、カナダの連中のためのパーティがあって、私たちの家族も招かれて行った。そしたらその将官が「君は何処から来たのか」ときく。それで「日本からだ」といったら、ひどく驚いた顔をした。そして「実は君が英語を喋るので二世かと思っていた。さきほどはたいへん失礼した。日本からきた科学者なのか」とまるで打ってかわって丁寧になった。
 二世なら軽蔑するというのは怪しからんが、この場合、その点は別の話とする。
 そこで日本から来られる若い科学者の諸君に、心得を一つ。
「英語はなるべく上手に喋らないこと」
(昭和三十四年九月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年9月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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