シカゴの雉子

中谷宇吉郎




 今年のシカゴは、何十年ぶりとかの、雪の少ない年であった。おかげで芝生はもうすっかり緑の姿をとり戻し、新しい芝の芽が、春の光に生き生きと萌え出してきた。
 天気の良い日が、毎日のようにつづく。この頃土曜や日曜の朝は、おそい朝食のあと、ぼんやりと食堂の窓から、朝の陽光にえている芝生を眺めて、しばらくの時を過ごすことにしている。
 芝生には、いろいろな小鳥や、野生の動物がやって来る。妻が時々パンの屑を芝生にまいてやるので、それを食べに来るのである。小鳥は、いろいろな種類が来るので、名前はとてもおぼえられない。けだものの方は、普通は木鼠であるが、昨日の朝などは、突然、野兎が一匹、ひょっくり顔を出して、小鳥たちの仲間に入って、パン屑を拾い出したのには、一寸驚いた。腹の方が白く、背中が褐色で、猫くらいの大きさの兎である。
 こういう話をすると、よほど辺鄙なところと思われるかもしれないが、この辺のウィネツカという町は、シカゴとは町つづきで、東京でいったら、成城町くらいのところである。そういうところに、野生の兎がいたり、少し町はずれに出ると、林があって、雉子きじが、時々道路へ出て来て、自動車に轢かれることがあるそうである。先日妻が、グリンベイという、シカゴとその北部の住宅地帯とを結ぶ、一番賑かな通りで、雉子が轢かれて死んでいるのを見たと言っていた。新宿を一寸離れたさきの甲州街道、まず代田橋のあたりで、雉子が自動車に轢かれるような話なのである。
 こういうふうに、野生動物が、都会の近くにも沢山棲んでいることが、アメリカの一つの特徴である。政府が野生動物の保護に熱心であり、一般の人々も生き物に対して親愛の情を持っていることが、一つの原因である。その点については、公園内の木鼠や雀の例で、既によく言われているとおりである。しかしその他に、今一つもっと大きい理由があるように、私には思われる。それは国が新しいということである。アメリカという国は、案外に新しい国なのである。
 シカゴの街は、現在アメリカ第二の大都会で、日本でいえば、大阪に相当する街である。日本流に考えれば、少なくも四、五百年前から出来ていた街のように思われるかもしれないが、この街の歴史は、百年そこそこしかない。
 アメリカが今日のような国の姿になったのは、カリフォルニア州に金鉱が発見されて、いわゆるゴールド・ラッシュの時代が来てからあとのことである。黄金の魔力にひかれて、今まで東部に住んでいた人達が、西部の沙漠地帯を越え、非常な辛酸を嘗めながら、われもわれもと、太平洋岸に殺到した。それがカリフォルニア州の開発をうながし、大西洋と太平洋とに跨がる国になったもとである。政治的には、独立戦争以来、今日の形になっていたわけであるが、実際には、ゴールド・ラッシュが、今日のアメリカの姿を作ったと言ってもいいくらいである。
 シカゴは、東部の旧アメリカからいえば、西部の沙漠地帯にはいる関門にあたるところである。少し極端にいえば、支那大陸での玉門関に相当するところであったといえないこともない。シカゴが町らしい形になったのは、ゴールド・ラッシュの時代からである。ところが、そのゴールド・ラッシュの一番盛んであった年は、一八四九年であって、今からやっと百年ばかり前のことに過ぎない。
 シカゴでさえ、百年の歴史しかないのであるから、その郊外住宅地である此処ウィネツカの町などは、四、五十年くらい前までは、大体原始林か原野であったわけである。シカゴの急激な膨脹につれて、住宅地を郊外に求めて、そういう未開の土地を拓いたのであるから、まだ野生動物が残っていても、そう不思議ではないであろう。もっとも日本流にやれば、そういう動物などは、一年か二年のうちにとりつくしてしまうであろうから、野生動物の保護政策も、大いに効いているにちがいない。しかしその奥には、国がまだ新しいということが、一つの大切な要素として存在するように思われる。
 アメリカがまだ新しい国であるということは、中学校の西洋歴史でも教わったわけであるが、実際に住んでみて、初めてその点がよくわかったような気がする。そういえば、先日名古屋大学のS君が東部を見ての帰りに立ち寄って、面白い話をしてくれた。
 アメリカでも一番古い都市であるボストンを訪ねた時の話である。市内見物の遊覧バスに乗って、市内を引き廻されたのだそうであるが、バスのとまるところが、日本などとは全く調子が違っている。「この家はボストンで一番旧い靴屋で、一千何百何十何年に始めた家だ」とか、「ここは初めて八百屋が店を開いたところだ」とか言うのであるが、眺めてみても、うす汚い小さい店があるだけで、何の変哲もない裏通りである。
 そこでS君は、大いに悟ったそうである。「日本だったら、旧い建物でも、昔の道具でも、旧いものといえば、何らかの意味で美しいものということになっていましょう。ところがアメリカでは、美しくなくても、旧ければそれでよいのですね」と言っていた。これはなるほど一つの発見であって、アメリカ人が滅多に見せない隠れた劣等感の一つの現われかもしれない。
 劣等感ということが、日本人については、戦後になってとくによく言われるが、程度の差こそあれ、何処の国の人間にも、劣等感はあるものである。何百年前に開業した靴屋かは知らないが、裏通りの汚い店の前に、遊覧バスがとまるのは、どう考えても、少し変である。劣等感というと、少し言葉が強すぎるが、自分のもっていないものにあこがれる性質は、誰にもあるのであろう。
 アメリカは、国内に沢山の問題をもちながら、どんどん発展している。外交なども下手くそで、さんざん外国へ金だの物資だのを送ってやって、それでいて方々で悪口を言われている。極端な商業主義に徹しているかと思うと、個人の大部分は、ひどく親切である。何だかひどくちぐはぐな国ながら、生産はどんどん上がり、国力はひどく充実している。
 こういういろいろ矛盾した面を持ちながら、一つのまとまった国になっている。日本とはもちろん大いに違うが、同じ西洋といっても、欧州の諸国とも、ひどく違っている。要するにアメリカは新しい国なのである。良いところも悪いところも、みなこの若さから来ていると考えると、アメリカという国が、一応理解されるように思われる。
(昭和二十九年)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「百日物語」文藝春秋新社
   1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード