ディズニーの人と作品

中谷宇吉郎




一 ディズニーの風貌


 昭和三十年の話であるが、シカゴの近郊に住んでいたころ、ハリウッドの映画賞授賞式の模様をテレビで見たことがある。その時、ディズニーは四つの賞はいをもらった。
 広い豪華な会場が、映画関係の人たちでいっぱいになっている。半分以上は、美しいドレスを着飾った女優たちで、まるで花園のような風景である。その中で、いろいろな女優や男優の名前が、次々と呼び上げられる。そのつど、映画雑誌でおなじみの御当人が壇に上がって、賞牌を受けとる。そして何か一言挨拶をして、満場の会衆の喝采を浴びる、という段取りになっていた。
 ディズニーは、いろいろな賞を貰ったので、たびたび壇上へ呼び出され、そのつど喝采を博した。そして最後に、四つ目の賞牌に、ディズニーの名前が呼び上げられた時には、満場熱狂的な大喝采になった。
 その騒ぎの中を、ディズニーは、少々きまり悪げな足取りで、静かに壇上にあの長身を運び、四番目の賞牌を受け取った。そして会衆の方に向かって、はにかんだような微笑を見せながら、「ことしは私の引退の年でしょうか」と言った。いかにも嬉しそうであった。その大写しの顔は、なかなか端麗で、頭の髪はだいぶ薄くなっているが、まだ若い純情の詩人という面影があった。
 ディズニーの映画の底流には、彼独自の詩がある。彼の映画が、全世界の子供たちにはもちろんのこと、大人の人の心にも、純粋に溶け込んでいるのは、多分にこの詩情によるものと思われる。詩人としてのディズニーの片鱗を語る、ちょっと面白い挿話を、最近聞いた。今度この稿を書くについて、ディズニーと親交のある大映の永田雅一氏に、先日会った時の話である。
 ディズニーは非常に頭がよく、話のきゅう所をよくつかんで、ぐんぐん掘り下げていく型の人だそうである。そしてそういうところへくると、急に熱がはいってくる。ふだんはあまり煙草をのまないが、話に熱中すると、ときどきひょいと一本煙草をつまむことがある。しかしすぐには火をつけない。ぽつんと会話を打ち切って、黙って一、二分、じっと煙草を見つめている。その様子はいかにも、「今この煙草が口をきいたら、どんな言葉をしゃべるだろうか」といぶかっているように見えるそうである。
 この話はディズニーの人柄をよくとらえた話である。ディズニーはいつまでも童心を失わない型の人らしい。もちろん、芸術家とか詩人とかいわれる人たちは、誰でもこの型に属するものとみてよい。しかしディズニーには、とくにこの傾向が著しく、日常身辺の器物、煙草でも、コーヒー茶碗でも、鉛筆でも、すべてのものが、ときどき彼に話しかける。ちょうどどんぐりや、名もない草の赤い実が、宮沢賢治に話しかけたように。そういう意味で、シカゴで育った宮沢賢治とでもいったら、彼の人となりの一面が、よく表現されるであろう。ディズニーは、シカゴで高等学校の課程をおえ、そのあいだ夜学に通って、好きな絵の勉強をした人である。
 しかしディズニーの偉大さは、こういう詩人としての性格だけにあるのではない。それと一見矛盾する性格、すなわち企業家としての優れた才能を、あわせて持っている点にある。ハリウッドのディズニー・プロダクションは、病院のように清潔で、精密機械工場の内部のように、よく整頓されている。漫画の原画を描く絵描きさんだけでも、数百人を超え、全世界の各地へ派遣されている百名に近いカメラマンからは、ぞくぞくと撮影済みのネガが送られてくる。こういった巨大な組織と人とが、彼の頭脳を通して渾然と融合し、一つの有機体として生きているのである。

二 芸術の企業化


『白雪姫』や『ピーター・パン』などの長編漫画は、いずれも一時間から一時間半の上映時間になっている。普通の漫画映画は、原画の数を減らすために、一秒間に十二くらいにしてあるが、それではどうしても、絵がちらちらする、ディズニーは、速い動きには、普通映画どおりに二十四、遅いものでも十六ぐらいにしているので、平均二十になる。すなわち平均して、一秒間に二十枚の少しずつ違った絵を見せるわけである。
 それで上演時間一時間の長編では、七万二千枚の原画が要ることになる。一時間を越える大作になると、ざっと十万枚の絵を描かなければならない。これはたいへんな数で、二百人の絵描きが、手分けをして描いても、一人五百枚描くことになる。アメリカでは、普通一年に約二百日働くので、毎日二枚ずつ描いても、一年半かかる勘定になる。
 ところで厄介なことには、この十万枚の絵は、色も形も、或る一人の画工が、まったく同じ調子で描いたようなものでなければならない。一カットの中ではもちろんのことであるが、次の場面になると、ピーターパンの顔つきが少し違ったのでは、問題にならない。
 それでディズニーのところでは、絵描きは画家であってはだめなので、ぜんぜん同じ絵の描ける画工である必要がある。数百人の画工は、ぜんぶ精密工業で作られた一定の歯車のように、誰をどこへはめ込んでも、ぴったりとはまるように、仕立てあげなければならない。事実、ディズニー・プロにいる数百人の画工は、全部ディズニーと全然同じ署名ができるそうである。アメリカの金融界で通用しない小切手は、ディズニーのものだけである、ということになると、話は面白いが、これは私のつけた尾鰭おひれである。
 精密機械の歯車のような画工を、数百人も養成し、その数をいつまでも保っていくにはちゃんと組織が出来ている。シカゴに住んでいる私の友人の子供が、絵が好きで、ディズニー・プロの画工を志望した。初めにちょっとした試験があって、すぐ採用になるのであるが、これは「見習工」としてである。
 詳しいことは忘れたが、なんでも、見習工時代は、自分の家にいて、先方から送ってくる絵の写しを作るのだそうである。それを送り返してやると、次の絵がくる。簡単なものからだんだん複雑な絵になって、これは見込みがあるということになると、初めて本式の画工として採用され、出勤をすることになる。見習工のうちは、少しばかりの手当は出るらしいが、もちろん大した額ではない。通信教育と、徒弟制度とを、巧く近代の経済機構に取りいれた形であって、企業上の一つの発見といっていいであろう。
 フォードは、人間を機械の一部として使うという着想をたてて、現代の大量生産工業を樹立した。ディズニーの長編漫画は、芸術の世界にまで、この着想を拡げたものと、見れなくもない。もっとも、従来にも、これと似たようなものがあり、たとえば管絃楽の指揮者などは、類似の性質のものとみてよいであろう。しかし全く同じ絵の描ける画工を、数百人も養成することは、それらとは量的に著しい差がある。量の差も、ある程度以上大きくなると、それは質の差である。

三 企業家としてのディズニー


 漫画と限らず、近年の『自然の驚異』や『自然の冒険』のいわゆる記録映画のシリーズでも、まったく同じ傾向が見られる。この場合、役者は自然界の野生の生き物であるから、こっちの註文どおりには、芸をしてくれない。それで無暗と沢山の場面を撮り、その中から、使える場面を拾い出して、それを編集するわけである。カメラマンの忍耐心のほうがより重要で、個性のはいる余地は比較的少ない。
『砂漠は生きている』が、その良い例であって、九巻六千二百フィートのこの長編記録映画も、実は全撮影フィルムから見たら、その五十分の一が使われただけだという。これの四十九倍のネガフィルムは、棄てられたのである。少し極端にいえば、この撮影のために、アメリカ西部の沙漠地帯に派遣された、数十人のカメラマンは、その滞在期間、満二年有余の間、盲めっぽうに沙漠の生物の写真を撮っていた、ともいえる。
 ディズニーは、新しく『民族と自然』というシリーズも企画している。それと『自然の冒険』シリーズとのために、現在、百名に近いカメラマンを、世界各地に派遣しているそうである。その点について、ディズニー自身が「現在、すでに多数の地理学、自然科学、民族学の専門家たちが、天然色カメラを携え、炎熱のアフリカや酷寒のアラスカ、さらに南半球の果までも旅行して、今までに皆様が見たこともないような新形式の映画を作るための材料を集めつつあります」と言っている。
 これらのカメラマンは、おそらく盲めっぽうといっていい程度に、無暗とカメラを動かしているに違いない。『砂漠は生きている』の中に、アメリカでも大評判になった、山猫君失敗の愉快な場面がある。いのししの群に追われた山猫が、さんざん逃げ廻った末、やっと高いシャボテンの木に逃げのぼるカットがあるが、これなどがその良い例である。
 幹の途中でちょっと下を見ると、猪はのぼってこられない。それで山猫は得意そうに悠々とてっぺんまでのぼって、やれひと安心という思い入れをする。ところが、その名演技のとたんに、シャボテンの頭が折れて、山猫は猪の群の真ん中に落ちてくる。猪も驚くが、山猫の慌てかたもたいへんである。珍妙無類な恰好で、どぎもをぬかれた猪の群を突っきって逃げて行く。この場面では、満場がどうっとくるのであるが、こういうカットはまったく偶然に撮れるものである。初めから、シャボテンの折れることが、わかっているはずはない。それどころか、山猫がシャボテンに逃げのぼることすら、予期できない事件である。
 要するに、偶然を狙うよりないので、無暗とフィルムを走らせることになる。したがって使用量の五十倍ものフィルムが、集積されるわけである。『砂漠は生きている』一本でも、全撮影フィルムをひととおり見るだけで、六十時間近くもかかる。こういう映画が、五、六本くらい平行に製作されつつあるわけであるから、その編集、特殊焼付、録音と考えてみただけでも、並み大抵のことではない。そういう巨大で複雑な企業を、整然と軌道にのせて、それを順調に運行させている。その上、年ごとに、非常な勢いで発展させて行っている。ディズニーは企業家としても、フォードに比すべき天才であると言っていいであろう。
 詩人であり、天才企業家であるディズニーは、普通にはその両者のいずれとも相容れない、いま一つの面をもっている。それは彼は技術者でもある、という点である。漫画に立体的の感じを与え、また原画製作の時間を節約するために、彼は多層式撮影機を発明した。それは漫画映画に新しい技術を導入したものと言われている。

四 ディズニー映画の秘密


『水鳥の生態』や『ビーバーの谷』などで代表される、野生動物の中編記録映画には、映画技術の粋がつくされている。『砂漠は生きている』は、もちろんのことである。これらは、前にいった材料の豊富さだけで、出来ているものではない。それに加えるに、ありとあらゆる特殊焼付の技術が総動員されて、あの芸術的な雰囲気が、醸し出されているのである。
 音楽効果もまた、ディズニー映画のひとつの特徴で、たしかこれでも賞牌を得たはずである。劇映画と違って、野生動物の動きに、巧みな音楽効果を与えるには、特殊の編集技術が要る。ディズニーの映画の一本一本には、現代の科学文明の粋がこめられているのである。そういう技術の実施には、それぞれの部門に、優れた技術者がいることはもちろんであるが、それらを統合しているものは、ディズニーの技術者としての才能である。
 普通の映画は、たいていネガから密着で、ポジを作る。すなわち密着焼付の写真である。厄介なことには、映画のフィルムは、大きさが一定しているので、密着では、画面は最初に撮る時のネガできまってしまう。トリミングによって、巧い画面を構成することはできない。それでカメラマンは、大いに苦労するわけである。
 それでも劇映画ならば、修練によって、初めから美しい構図になるように、撮影することができる。しかし動物は、そう巧く画面のちょうどよい場所で、喧嘩をしてくれない。それでどうしても、トリミングをして、巧い構図にする必要がある。すなわち欲しいところだけを引き伸して焼かなければならない。それには、光学焼付機オプティカル・プリンターというものがあるが、絵がどうしても汚なくなり易いので、日本ではなるべく使わないことになっている。少なくも数年前まではそうであった。
 ところが、専門家の話によると、『砂漠は生きている』などでは、少なくも半分は、この光学焼付機を用いているようである。光学焼付機を使うというだけならば、そう驚くべきことではない。しかしディズニーの記録映画は、初めに十六ミリの天然色フィルムに撮り、それを三十五ミリに拡大したものである。沙漠の中に大型の撮影機を持ちこみ、それで野生の動物を追っかけ廻すことはできないからである。十六ミリを三十五ミリに拡大し、そのまた部分を引き伸して、画面がちっとも荒れないばかりでなく、あの色調の美しさを保っている。まことに驚くべきことで、現像焼付技術の極致と言っていいであろう。この技術の進歩によって、配置および引き伸しが自由にできることになった。すなわち空間的に、図柄を自由に変化させることが、可能になったのである。
 そのうえ映画では、時間の伸縮という、他の手段では夢想だにできないことが可能である。微速度および高速度撮影によって、花をみるみるうちに開かすこともでき、また鳥を極めてゆるやかに飛ばすこともできる。これらの技術はすでに充分よく知られているので、何も目新しい話ではない。現在ではそれよりも一歩進んで、一つのカットの中で、すなわち一定廻転で撮ったフィルムの中で、一部を速く、他の部分を遅く見せることも可能なのである。
 一秒二十四こまで撮ったネガの一つを、二回ずつ焼き付けると、一秒に十二しか進行しない。すなわちものの動きが、半分の速さになって映写される。二回一回と焼くと、三分の二の速度になる。実行するとなると、これはたいへん面倒なことであるが、ディズニー映画では、至るところに、この手法が用いられている。『水鳥の生態』の終りに近いところで、ある鶴の一種が、ラプソディのリズムにのって、悠々ゆうゆうと飛ぶところがある。画面いっぱいに羽を拡げて、空中の一点にとまったまま、天女の羽衣の舞いのように、静かに羽を動かしている。それにラプソディの伴奏が、ぴったりと合っている。科学の極致が、文学では達しられない、新しい幻想の世界に、われわれを導いてくれる。これなども、空間と時間とを、音楽に合わせて、自由に変化させるという技術によって、到達されたものである。もっとも鶴の飛行自身に、だいたいこれに似かよったリズムがあり、音楽の方も少し妥協させてあるから、こういう夢幻の世界が作り出せたのであろう。

 ディズニーは、詩人の心と、企業家の腕と、科学者の頭と、それに本文では割愛したが、温かい人間愛と、普通には両立しない各種の才能を兼ね備えた、稀な天才の一人である。個性を滅却することによって、次元の高い個性をつくり上げ、新しい芸術を創造したともいえよう。
 映画は綜合芸術であると言われるが、ディズニー映画は、その最もわかり易い、そして優れた好例である。チャップリンは今世紀最大の芸術家と言われ、またそのとおりであるが、ディズニーは、チャップリンに次ぎ、チャップリンを乗り越えた芸術家であるように思われる。乗り越えたというのは、近代科学の粋を、余すところなく採り入れたという意味である。
(昭和三十年一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「黒い月の世界」東京創元社
   1958(昭和33)年7月5日発行
初出:「週刊朝日」
   1955(昭和30)年1月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年11月27日作成
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