パーティ物語

中谷宇吉郎




 アメリカの脊骨をなしている中堅階級は、案外に健全な生活をしている。しかしそれは何も、そういう連中が皆朴念仁ぼくねんじんであるという意味ではない。皆結構生活を楽しんでいるのであるが、その楽しみ方が甚だ利口なのである。その話について、まず正月向きに、少し柔らかいところから始めよう。それはアメリカにも芸者がいるという話である。
 たいていの日本の奥さん方は、「アメリカには芸者がいない」という話をきいて、たいへん羨ましい国だと思っておられるらしい。しかしそれは間違いであって、アメリカにも、ちゃんと芸者はいるのである。もっとも、鑑札をもったそういう連中はいないが、もっとれっきとした同業の女性が、沢山いるのである。それは良家の奥さんたち御自身である。
 考えてみれば当然な話で、アメリカだって、野郎ばかり十人も集まって、一晩話をしていたら、どうしてもあたりが殺風景になる。綺麗な着物を着た女性が、少しちらちらしていてくれた方が、気分がなごんで来るところであるが、女権が強くて、人件費の高いアメリカでは、日本の芸者のような職業は生まれて来ない。それで普通は、奥さん方が、その役をつとめるわけである。野郎ばかりで酒を飲む場合もあり、それが男たちには一つの息抜きになっているのであるが、その方は話が少し高級になるので、まず一般のアメリカ人の生活の話から入ることにしよう。
 アメリカは、中産階級の幅が広いのであるが、それを少し乱暴に大別すると、夫婦共稼ぎの階級と、女房を家に遊ばせておく階級との二つになる。この後者の場合、奥さん方は、一応はまことに結構な御身分である。家の中は、これでもか、これでもか、とばかりに、便利重宝に出来ているし、たいてい通い女中がいるし、半日も片付けものをしたら、あとは仕事がない。羨ましい話であるが、これも一生となると、少々退屈するものらしい。
 御亭主の方はといえば、これはなかなかたいへんである。アメリカという国は、可怪おかしな国で、月給の多い男が、早く出勤する習慣になっている。ロックフェラー級の話は別として、会社なら社長や重役、役所なら所長や部長が、平職員よりも少し早めに出勤して、仕事も沢山するというのが、当り前のことになっている。
 それで女房を家に遊ばせておく階級では、亭主は、朝早くから出かけて、夕方まできちんと働かねばならない。毎日毎日のことであるから、芯のつかれる話である。ところで夕方家へ帰ってみても、家中塵一つ落ちていないように整理されている。一年中函をさしたように整頓された家に住み、自分の椅子に腰を下ろすと、目の前の棚には、寸分位置をたがえないで、五年前の夏休みに買ってきた壺が載っている。紙屑でも落ちていてくれれば、一寸拾って屑籠に入れることも出来るが、そういうこともない。
 まあこういった調子で、何一つ不自由のない生活ではあるが、十年もつづいたら、こういう生活も、何となく草臥くたびれるものらしい。それに厄介なことには、アメリカの普通の家庭では、かなり上等の暮しでも、食い物の楽しみというものが少ない。食糧品が規格化されているからである。それで楽しみといえば、まずパーティが第一に挙げられる。
 アメリカ人、とくに御婦人方のパーティ好きは、日本に来ている連中の生活ぶりからもうかがえるとおりである。たいていは、カクテル・パーティであって、正式の夕食がつく場合は、三回に一回くらいの割合であろう。或いは五回に一回くらいか、それは付き合い仲間の層でちがう。
 何処かの住宅区域に住みついて、仕事の関係が落着き、家庭の付き合いが一とおり行き渡ると、週末は、たいていパーティに潰れることになる。今では役所や銀行関係ばかりでなく、たいていの民間会社でも、土曜と日曜と二日休むことになっているので、週末は金曜日の晩から始まる。そして感心なことには日曜日の晩は、あまり遊ばないことになっている。翌日に差し支えるからである。もちろん金土では足らなくて、あるいは何かの都合で、日曜の晩になることもあるが、通例としては、金曜の晩と土曜の晩とが、パーティの書き入れ日である。
 約束はたいてい一週間前くらいにするのが一般の習慣になっているが、時には三週間も先の話があり、手廻しのよいのに面喰うこともある。もちろん夫婦づれが原則であるが、稀には、亭主と細君とが、別のパーティに出るという場合もある。そういう時に、細君が一座敷つとめて、おそくなってから、亭主の座敷に顔を出したりすると、また座が賑やかになる。
 一座敷つとめるなどと、少し下品な表現を使ったが、アメリカのパーティにおける夫人の役目には、たしかにそういう表現が適当していると思われる要素がある。日本には「アメリカでは、どんな会合でも、夫人同伴であるから、芸者や女給の出るような不健全な酒席はない」と思っている人が多い。そのとおりであるが、これを裏返しにしてみると、同伴の夫人方御自身が、芸者や女給の役割をつとめるという点も、かなりあるのである。
 パーティとなると、夫人方は大騒ぎである。なるべく上等のドレスを着て、出来るだけ化粧めかしこむ。厄介なことには、この階級では、同じ家へ、同じドレスを二度着て行くことはしない、という恐るべき習慣がある。日本でも、一流の芸者は、同じ座敷着を何日もつづけて着ることはないそうだが、それと似た話である。その上洋装の場合は、着物をかえると、色の関係上、ハンド・バッグも靴もかえなければならない場合が多いので、いよいよ恐るべきことになる。
 招かれる側よりも、招いた夫人の方が、一層たいへんである。それこそ一番上等のドレスを着て、せいぜい若作りをして、入口のドアのところで、来客とくに男性の方を、にこやかに迎え入れなければならない。もっともそれには、向うは夫人同伴であるから、薄手の嬌態しなをつくるわけには行かない。かなり高等な技術が要る。亭主の方は、女房のうしろに従いながら、女客のオーバーを受け取り、手袋を脱ぐのを待って、それと一緒にして、奥へ片付ける。普通は、寝室のベッドの上に並べておく。もう一段上流のところでは、男の召使がいて、オーバー類を受けとって、来客用のウォードローブに納めるわけであるが、その階級になると、話がまた別になる。
 ついでに片付けておくが、婦人用の手袋は脱ぐ時に魅力があるので、普段は大したものではない。従って脱ぎ方にも心得があるもののようである。あの手袋は、なかなか高価たかいものらしいが、十秒かせいぜい三十秒の演技のために、随分金をかけるものである。
 まあ、そういうことは、どうでもよいとして、お客が揃ってから、酒が出て、簡単な食事をして、食後の酒が出て、皆がいい機嫌に酔っぱらって、話に花を咲かせて、という段になると、普通短くても五時間くらいはかかる。六時頃から始めて、十二時に済めばよい方で、一時二時までかかることが珍しくない。日本だったら、二次会、三次会というところである。
 この間、芸者も女給もなくて、これだけの座がもてるというのは、招待側の主婦の手腕と、お客の夫人方の協力とのお蔭である。この協力がなかなか上手なもので、自分も結構楽しみながら、また実によくつとめる。まあ「武士はあいみたがい」というところであろう。
 女房にこういう大役があるので、亭主の方は、どうしても筋肉労働の方へ廻ることになる。第一に酒のサービスであるが、これは全面的に亭主の役目になっている。酒といえば、イギリスにはウイスキー、フランスには葡萄酒ぶどうしゅ、ドイツにはビール、中国には老酒ラオチュウ、日本には日本酒というふうに、それぞれの国に「国の酒」があるわけであるが、アメリカには、そういう酒はない。あるものは、それらの酒をごっちゃに混ぜたカクテルである。もっとも国自身がカクテルであるから、現在のカクテルが、アメリカの酒として、立派に通用するものである。通用するばかりでなく、ひょっとしたら、誇示していいものかもしれない。「カクテルか」などといって、軽蔑する人もあるが、そういう人たちは、世界連邦などを口にする資格がない、といわれるかもしれない。
 もっともアメリカでも、カクテルばかり飲んでいるわけではない。食前に出す酒としては、カクテルでは、マルチニとマンハッタンと、この二種類あれば、普通にはそれで充分であるが、それだけでは足りない。日本ではマンハッタンの方がよく知られているが、辛口に属するマルチニの方が、アメリカのこの階級では、格段に好かれているようである。マンハッタンを註文する客に較べて、マルチニ所望の方は、三倍ないし五倍と思っていい。余計な話であるが、マルチニは、ジンとイタリアの甘くないベルモットを混ぜたもので、オリーブの実を一つ入れて、ジンの匂いを消しておく。
 この二種類のカクテルは、略式にはあらかじめ作っておいて、冷蔵庫に入れて冷やしておく。その方が氷を使わないので、かえっていいという人もある。その他に少なくともスコッチ・ウイスキーと、アメリカのウイスキーを用意しておく必要がある。それも人によって、炭酸で割った方を希望する人もあれば、水で割る流儀もある。アメリカのウイスキーは、バーバンと呼ばれているもので、ケンタッキー州でつくられ、乾草みたいな匂いのするあまり上等でないウイスキーであるが、それが好きだという連中も、かなりある。
 カクテル・パーティといえば、酒が主な御馳走であるから、いちいちの客に、好みの酒をきくことになっている。それで、二種類のカクテル、スコッチ、バーバン、炭酸、氷で冷やした水、と少なくもこれだけの罎を、大きい盆に載せて、台所から運んで来なければならない。これはたしかに筋肉労働であって、亭主の役目である。ハイヒールをはいた女房が、こういう盆を運んで、途中で転んだりされたら、損害も大きいし、一帳羅の着物も駄目になる。
 酒がちがえば、もちろんコップもちがうので、各種のコップを、別の盆の上に、必要以上の数を並べて、それも運んで来る。そして一々の客に、好みをきいて、注いで廻る。少なくも初めの一回や二回は、亭主が全部これをやる。その間女房は、ソファの上に、泰然とスカートを円く拡げて坐り、油絵のモデルになったような恰好をしている。その傍へ行って、亭主は「貴女あなたは何を望むか」ときかなければならない。その時女房は、お客の方へみを投げながら、亭主の方へは振り向きもしないで、「マルチニ」と一言だけいう。こういうふうになれれば、新橋や柳橋の一流芸者の資格があるわけである。
 食前の酒のうちは、簡単なつまみ物が出る。ピーナツか、馬鈴薯を薄く切って揚げたものくらいですますことも出来るし、少し上等でも、クラッカーにペースト類を塗りつけて出す程度である。キャビアなどは、滅多に使わない。一寸しゃれたところで、ベーコンの皮をからっと揚げたものか、南瓜の種の塩煎りというところである。そういうものも罎入りで売っているので、別に珍しいものではない。いずれも、小皿を使わないで、食べられるものである。
 そういうつまみ物で、二、三杯酒を飲んでから、食事になるのであるが、正式の晩餐でない場合は、食事はきわめて簡単である。隣室の食堂の卓の上に、料理を盛った大皿を二つ三つ並べ、その周囲に、銘々皿だの、フォーク、ナイフ類だの、パンだのが置いてある。肉の煮込みなど、温かいことが必要な料理は、鍋のまま、アルコールランプの上にのせておく。これはまず一寸上等の方である。少し気のはる場合は、電燈を消して、蝋燭ろうそくを二、三本立てる。蝋燭の灯で食事をする習慣は、まだ案外根強く残っていて、晩餐と名のつく場合は、たいてい蝋燭である。
 食事サパーの用意が出来ましたといわれると、お客は銘々立ち上がって、食堂へ行く。一列になって、まず皿とフォーク類とナプキンとをとって、各人好きな分量だけ、料理をとって、自分の席へ戻って来る。食前の酒は、たいていその時までに飲み干しておくので、普通には食事の間は、酒を飲まない習慣になっている。もっとも本当は飲みたい人が多いらしく、家で日本料理など出す場合に、「日本料理ではフランス料理と同様、酒を飲みながらものを食う習慣になっている」というと、たいてい「それは非常に良い習慣である」と賛意を表する。
 客間は、居間と兼用になっていて、家の中で一番広い部屋である。たいてい玄関にすぐ続いているか、或いは外から直接この居間にはいるようになっている。大きい卓はおいてないので、二、三人の客ごとに、小さい卓を出して灰皿をおいたり、コップが一寸載せられるようにしておく。一人一人の客に小卓を出し、食事の皿がおけるようにするのが本式であるが、そういうところは比較的珍しい。多くの場合、客は料理を盛った皿を膝の上において、食事をする。そういうことは、案外気にしないようで、客の方ももちろん平気だが、主人側の方も、何もやきもきしない。先に座に戻った人は、後の客がまだ行列についているうちに、食べ始めても、かまわない。そういうことは、案外平気である。食べてしまって、まだ胃袋に余裕があると思ったら、また立って行く。このお代りをすると、大いに喜ばれる。
 こういう調子であるから、十人十五人の客をしても、それほどの騒ぎをしなくてもよい。料理の方は、まあ少し極端にいえば、普段にするものを、量を多く作ればよいことになる。アメリカ人の食事は質素だから、煮込みくらい作っておけば、結構御馳走で通る。普段はたいてい油でジャーッとやったものを食っている。理由はきわめて簡単で、その方が時間がかからないからである。
 普通の日本の家庭で、十人の客をしようと思ったら、大騒ぎである。中流の階級では、ほとんど不可能といっていいであろう。従って、外で食事をする機会が多くなる。それには、家が狭いとか、食器が足りないとか、という物質的の理由もあるが、そればかりでなく、会食の形式が拙いという点もある。もっともそのまた奥には、他人の思惑を気にするということもあるようである。
 出来る範囲内で、歓待をしたのだから、皿の一つくらい一寸欠けていても、気にすることはない。かえって愛嬌があっていいくらいに思っている方が、客を遇する道のようである。もっともこれは少し下級の話で、上級のところでは、そんなことはないが、それでもまた別種の「欠けた皿」があって、それが打ち解けた雰囲気をつくるのに、一役買っているようである。
 食事がすみ、コーヒーをのんで、それでおしまいではなく、これからが、本舞台にはいるのである。日本でいったら、二次会というところであろう。改めて酒が出るのであるが、依然としてマルチニとか、バーバン・ウォーターとかいう、節操の固い連中もあるが、リキュールか、シェリー或いはコニャックに切り換える人もある。夫人連中は概してよく酒を飲むので、平均したら、御主人たちに劣らないかもしれない。初めは一寸驚いたが、考えてみたら、その方が当然かもしれないという気もして来た。女の人が酒を飲まなかったら、とても五時間六時間という座は持てないからである。酒を一滴も飲まない芸者は、陽気な座敷には向かない。
 ところで、アメリカでは、日本の酒席のように、隠し芸をやるというようなことは、ほとんどない。少なくも強要することは、絶対にない。その家の娘さんか、来客の中に、ピアノでも弾く人がいれば、何か一つ二つ弾くくらいのものである。それも比較的珍しいことで、終始一貫、座もちは、会話一本槍である。
 これはなかなかの技術であって、アメリカの女たちは、随分お喋りであるが、あれはどうも多年の修練によって、身につけた技能らしい。酒が廻って、皆が上機嫌になって来ると、話をますますはずますように、もって行かなければならない。それには、世界中何処も同じことで、少しお色気のある話が、一番有効なようである。たいてい男の役目であるが、大分高級なおちがついているらしく、私などにはわからないことが多い。しかし夫人連が嬌声をあげて喜ぶところをみると、大分お気に召すらしい。相槌の打ち方、眼玉の動かし方など、なかなか堂に入ったものである。
 この頃になると、亭主どもばかりではなく、夫人連も、そろそろ神輿みこしをあげて、サービスを始める。コップが大分あいていると、「もう一杯如何いかがです」と、勧誘に来る。アメリカでは、酒はすすめないというが、それは強要しないという意味で、すすめ方はなかなか上手である。すこし手持ち無沙汰な様子を見せる客があると、その傍へ坐り込んで、いろいろ話をもちかけ、酒も飲ませ、上手に遊ばせるようである。
 日本のバーの女給さんのことは、不幸にして、まだよく知らないが、多分こういうふうにして、よろしく遊ばせてくれるのではないかと思う。もしそうでなかったら、細君や子供たちに、人間以下の生活をさせながら、自分だけバーなどで、酒を飲んでいるというようなことは、一寸考えられない。それほど馬鹿な人間だったら、現代の社会に、サラリーマンなどという地位を保って行けるはずはないから、女給さんたちは、これだけの無理を強行させるのに相応するサービスをしているにちがいない。といっても、奥さん方は、何も眼に角を立てる必要はない。たいていの場合こういうサービスというのは、話術でもって、果敢はかないサラリーマンの救いのない生活に、ひと時の灯をともしてくれるだけの話である。

 こういうふうに考えてみると、どうもアメリカの御夫人たちの方が、大分利口なようである。バーの女給たちや芸者諸君のことを、とやかくいうよりも、自分でそれにとってかわるわけであるから、なかなか頭のいいものである。もっとも自分一人では、マンネリズムに陥るので、同性の友だちを狩り集めて、相互扶助をやっているわけである。
 もっともそれには座敷着が相当たくさん必要である。中流家庭のややいいところ、即ち女房を家で遊ばせておける階級では、たいていクローセットに、四、五十着のドレスがぶら下がっている。ドレスといっても、夜会服やスーツだけを指すわけではなく、日本では普通にいう余所よそ行きという意味である。それでも大した金目になるが、これ等は長い間に溜めたものである。流行はもちろんあるが、アメリカの中産階級は案外健全で、自分に似合う色や型を選んで、服飾に個性をもつ人が多いので、日本の銀座人種ほど、流行に追い立てられていないようである。同じく金がかかるにしても、バーで使うことを考えたら、金額もずっと少なくてすむし、またこの方は富の蓄積になる。どうもアメリカ人は、心底から、蓄積型に出来上がっているらしい。
 十人か十五人くらいの客を招んで、そう恥しくないパーティを催し、夜中の十二時過ぎまで徹底的に飲んで、二次会分まで済ませて、みんながいわば歓をつくして帰る。ところでそれに要する費用と労力であるが、それが日本の場合と較べたら、お話にならない少額ですむのである。
 酒が主な支出であるが、ジン大瓶一本、ヴェルモット二本、スコッチ一本、バーバン一本、リキュール類合計半本分、シェリーとコニャック計一本分、とこれだけ飲めば、十五人くらいの客が、心ゆくばかり飲んだことになる。全部一級並みの酒を揃えて、まず二十ドルか二十五ドルというところであろう。
 料理の方は、七面鳥を一匹蒸して、あとは野菜のつけ合せ、それに摘みものくらいですむので、十ドル一寸くらいとみておけばよい。合計三十五ドル程度の予算を立てておけば、普通のパーティには充分である。料理人を臨時に雇うというのは、このまた一段上の階級のことで、この話の中には入れないことにする。
 そうすると、一人当り二ドル一寸という計算になるが、二ドル半になったとしても、アメリカの生活程度からみたら、ずいぶん安いものである。円価に直して、一人当り九百円に当るわけであるが、日本で、芸者か女給をはべらせて、一晩徹底的に飲み、二次会までやったら、とても一人前九百円ではあがらない。女房に、一シーズン一枚や二枚の着物を買ってやっても、まだまだたいへんなおつりが来る。
 本当は、円価に直した値では、あまり意味がないので、収入額の比率でみた方が、わかりよいのである。この階級だと、たいてい月に八百ドルから千ドルくらいの収入であるが、一晩に三十五ドル使うとして、まず三十分の一である。日本で三万円の月給取が、月に一晩くらい、大ぜいの友だちを集めて、総計千円の豪遊をするのだったら、そうやかましく言わなくてもいいであろう。
 ところが、この「千円」は、実は一晩のことではなく、五晩か六晩分の会費なのである。というわけは、パーティに招ばれたら、原則として、また招び返す習慣になっている。それで五組の客をしたら、あと五遍は招ばれる権利がついたようなものである。高等数学を用いるまでもなく、結局パーティといっても、費用の点からいったら、自分の家で自分と女房とで酒を飲むだけの費用に落ちつくわけである。それならば安いのは当然である。
 待合やバーで飲食する分を、自分の家でやれば、費用は五分の一か十分の一ですむ。それくらいのことは、日本でも知らない人はないであろう。それにもかかわらず、敗戦以来、ますます待合やダンスホールは繁昌している。敗戦から今日までの間に、この種の消費施設に投ぜられた資金と資材とは、優に日本の全電源の開発に必要な額と匹敵しているそうである。全電源というのは、もちろん経済的に開発可能な、という意味である。
 それで政府の方では、貯蓄奨励とか、消費経済の規正とか、いろいろいかめしいお達しを出しておられる。しかし現在の日本の社会状勢では、芸者や女給のいない「健全な」社会は、とうてい出来そうもない。しかしそれをやらなければ、生産の方へ金も物も集められない。其処に悩みがあるわけである。本当は、この問題は、道徳教育の徹底によって、解決すべきものであるが、次善の策としては、アメリカ流のやり方を輸入するのも一方法であろう。
 実行方法はきわめて簡単である。令夫人たちが、芸者や女給を賤しむことを止めて、自らそれにとってかわる決心をすることが、第一歩である。男女同権の原則からいえば、これは女性に対して、随分失礼な話であるが、その程度のことは、今の日本の実状から見たら、まだましな方であろう。
 決心がついたら、まず亭主たちに、外で飲食することを止めてもらう。そしてその金で流行の着物をつくらせることにする。この間一寸猶予期間があるので、男性の方はしばらく我慢をしなければならないが、革命にはいつでも多少の犠牲を伴うので、それくらいは止むを得ないであろう。
 用意がととのったら、さてパーティを始めるわけであるが、此処に一つどうにもならない難関がある。それは家が狭いことである。この点は、人数を制限することによって、解決するより仕方がないであろう。六畳間がある家だったら二組、八畳間がある家だったら三組、というくらいのところから始める。もっとも銀座裏のバーなどで、狭い薄暗いところに、ぎゅうぎゅう押しつめられて、その方がかえって感じが出てよいなどと、悦に入っている連中もあることだから、客種によっては、もっと詰め込んでもよい。しかしその方は、照明も加減しなければなるまいし、接客技術にも、やや高等な修練を必要とするから、大分上達してからでないと、一寸無理かもしれない。
 もっとも最小限度二組としても、自家を入れて三組になるので、この六人の酔払いが、互いに相手を喜ばせ、自分も充分御満足になるには、相当の訓練が必要である。男性の方は既に修行済であるから心配ないが、女性側は今までそういう下等なところは御存じないから、初めは一寸骨が折れることであろう。一番安易な方法は、亭主と一緒に、いわゆる歓楽の巷を訪ねて、実地見学をすることである。手管などといっても、たいていは小学校くらいしか出ていない御連中のやることだから、教養の高い令夫人が見られたら、一遍ですっかり会得が行くにちがいない。それもいやだったら、この頃の芸術的な小説を読まれたらよい。たいていは、こういう技術の紹介であるから。
 少し真面目な話としては、子供の問題がある。子供の前で、母親が芸者の真似をして見せるわけには行かない。この問題は、アメリカでは、簡単に解決されている。というわけは、子供たちは夜の七時か、おそくも八時には、必ずベッドにはいらなければならない、という鉄則があるからである。お客が揃って食前の酒が一わたり出たくらいの頃に、子供たちは、皆パジャマに着かえて、両親とお客様方に「お休み」をいって、寝室へ行ってしまう。たいていは、両親から頬っぺたに接吻をしてもらって、にこにこして、ベッドへ行く。
 この習慣は、赤ん坊の頃から、泣いても騒いでも、時間になると、ベッドに放り込んでおかれる、というきびしい訓練から生れたものである。日本のような民主的の国で、このアメリカ流の非民主的な習慣をつくることは、困難にはちがいないが、何とか工夫するより仕方ないであろう。もっと卑近なことで、洋風のドアの部屋と、日本のふすま一重の部屋とでは、寝室といっても、話がちがうという点がある。こういうところに、案外に深刻な問題があるのであるが、其処までは、とても考えが及ばない。この種の事情は、家庭によって皆ちがうので、それぞれの事情によって、工夫を凝らすより仕方がない。どうしても出来なかったら、亭主の道徳教育によって解決するか、従来どおりにしておくしかないであろう。
 まずこの話の要点は、人間というものは、何処の国でも、またいつの時代でも、そうひどく変っているものではない、というところにする。日本とアメリカとでは、現在の生活様式の上では、ひどいちがいがあるが、それは形式上の差であって、本質的には、そう大きい懸隔はない。人間性というものは、どの民族でも同じものである。ただ或る国では利口にやっているが、他の国では下手糞だというちがいがあるだけである。
 そういう議論は、どうでもよいとして、今の日本では、家庭内での妻子の生活程度と、外での夫の消費生活とに、あまりにも差があり過ぎる。その幅を、もう少し縮める方法がないものか、と考えただけの話である。「われわれに、芸者や女給の真似をしろなどとは」と、柳眉を逆立てられないように願う次第である。
(昭和二十九年十一月)





底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
   1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
   1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「知られざるアメリカ」文藝春秋新社
   1955(昭和30)年5月25日発行
初出:「オール読物」
   1955(昭和30)年1月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年10月27日作成
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