いよいよ世紀の日食が近づいて、この半月ばかりというものは、札幌の街は日食で大分賑かであった。新聞では日米科学戦というような言葉が盛に使われ、街では講演会や放送がたびたび行われた。
この頃急に忙しくなった私は、とても日食どころの騒ぎではなかった。しかし都会に住んでいて、居ながらに皆既食が見られるようなことは滅多に無いし、それに今度の機会を逃がすと、もう一生見られないかもしれないと思うと、何とかしてお天気になってくれればよいと皆で願った。
しかし北海道の二月の朝八時に、日食観測に適する晴天を望むことは、甚だ無理な注文である。果して二、三日前から、弱い不連続線が北海道の西北部にかかって、札幌はかなりたくさんの雪の降る日が続いた。やはり駄目かなと思っているうちに、不思議と前日あたりから天気が好転してきた。そして夕方には久しぶりで、太陽が
五時半頃から子供たちに騒がれて、やれやれ厄介な日食だと思いながら起き出てみると、東の全半天が青磁色に晴れわたっている。急に元気が出て、大急ぎで朝飯を食べている間に、地平線のあたりがどんどん茜色に染まってくる。観測陣の人たちは、こんな呑気な話ではなかろうと思っているうちに、いよいよ日の出直前になると、急に薄い雲がいくつもの層になって東の空に現れ、その雲底が真赤に照り出した。この前の
家を出たころちょうど真赤な太陽が大きく地平線の上に現れた。北国の風の無い朝に特有な薄い煙霧が、地平線近いところに静かにたなびいている。その煙霧を通して見える太陽は、真赤な月のように大きい。黒
道々、雪のなかに立ちつくして煤硝子で
大学構内にも国民学校の児童の一隊がいる。さらさらの粉雪のなかに散開したこの元気な一隊も、みな白い紙を持っている。そして先生らしい人が、時計を片手に何か大きい声で号令をかけている。子供たちは皆真剣な顔付きである。もう九分近くも虧けたのに、辺りはまだそう暗くない。見渡す限り軟い粉雪の世界であるせいもあろう。もっともその雪は澄んだ裏葉色に静まりかえり、これから天地静寂のひとときに入ろうとする心構えは見えていた。
皆既の一寸前にやっと間に合って屋上へ出た。南限界線に近いので、三日月は糸のように細い半円弧にはならず、ある程度細くなると、それからはだんだん短くなってゆく。そして最後の一点が太陽の右下のところで、案外長くいつまでも眩しく輝いていると思う瞬間に、太陽の形がコロナに縁どられながら、黒く浮き出てきた。ちょうど細い白金の指輪に、大きなダイヤモンドが一つ燦めいているままの形である。その瞬間、私はコロナに囲れた黒い太陽を、自分の眼のハレエションかと疑ったくらいであった。それほど突如として黒い太陽が現出したのである。それも一瞬のことであって、最後のダイヤモンド・リングの一点が突如消えると、コロナの輝きが増し、急に長いコロナが虚空にのびでたように見えた。空は案外暗くならない。夜明の水色に澄んだままである。そしてコロナが白茶色の薄絹を張ったようにじっとかかっている。
すぐ横の真白の工学部の建物をちらと見ると、それも薄青磁色に染まりながら、寂として立っている。音のない一瞬であったが、どこか遠い街の方から、わーっという大勢の人声が低く響いてくるような気がした。皆既は思ったよりも短く、三十秒もなかったように思われた。すぐまた右下の一点が輝きだすと見る間に、それが太陽の縁に沿ってずんずん伸びて、また三日月に還った。そしてもう肉眼ではただの眩しい太陽に還ってしまった。
これで日食がおわったのである。呆気ないといえば呆気ないものである。そして天文学は、この一時の現象にわれわれが生きているうちには再びめぐり会えないと教えてくれる。無邪気に喜んでいる子供たちも、これからの長い生涯のうちに再び見られないであろう。私はなんだか、時の運行というものを見たような気がした。
(昭和一八年二月)