犬がなくとガラスがこわれるか

中谷宇吉郎




 今日は、科学の時代といわれる。
 宇宙ロケットがとび、人工頭脳がそれを操作する。原子力発電機が、北極の厚さ二千メートルの氷の上に設置され、生命をもったヴィールスが、結晶としてとり出される、まさに科学の時代である。
 しかし、これほど、科学科学とさわがれる世の中でありながら、それでは「科学とはなにか」ときかれると、きわめてあいまいな返事をされる人のほうが多い。ロケットも、人工頭脳も、原子力発電も、科学によってつくられたものであって、科学そのものとは、いいかねる。
「科学は、自然界にあるものを、ものとして取扱い、その本体と、いろいろなものの間にある規則性、すなわち法則とをしらべる学問である」といった方がよい。しかしこれでも、なんのことかよくわからない、と言われるであろう。わからない方がほんとうであって、こういう抽象的な言葉で、わかったような気になられると、かえって困るのである。
 それで、一つ例をあげて、説明してみよう。
 ここに、一筋の川があったとする。その川岸をいろいろな人が、おとずれてくる。ある人は、「これは流れもそう速くなくて、よい川だ。この付近に工場を建てたら、舟便が使えて、ずいぶん便利だろう」と考える。この人は実業家であり、この川を、営利的に見ているわけである。
 べつの人は、川岸に立って、あたりの景色をながめ、「ああ、いい景色だ。あのあたりの水の色がすばらしい」という。この人は画家であって、この川を美的に見ているのである。
 もう一人の人は、しばらく川岸にたたずんでいたが、やがてしゃがんで、手の先を水に浸してみる。そして子供のころ裏の小川で遊んだことをおもい出す。「もうあの川にも、えびはいなくなっただろうな」と心の中でひとりごとをいう。この人は詩人であり、この川を詩的に見ているわけである。
 ところが、これらの人たちとは、まったくべつな見方をする人もある。この川では、一分間にどれだけの水が流れているのだろう。表面と底とでは、流れの速さが、どれくらいちがうだろう。あのあたりの深い場所には、底の方に水が動かないところがありはしないか。あの浅瀬のところは、川底の砂が、かなり流されるだろう。こういう見方をする人は、科学者であって、この川を、科学的に見ているのである。
 科学的とか、科学とかいっても、なにもむつかしいことではない。川を川として扱って、その様子を、私情を入れないで、なるべくくわしく見るだけのことである。
 もっともこれだけでは、ものを知りたがっている人は満足しない。ものごとをよく知るためには、そのもの自身ばかりでなく、その動きまたは働きも見なければならない。そういう動きや働きのことを、科学では、現象といっている。いまの例でいえば、水はものであり、その流れは現象である。この言葉を使えば、科学は、ものの本性および現象の実態を見ることから始まるといえよう。
 本体についても、現象についても、一部だけ見たのでは足りない。なるべく全般的に見る必要がある。象の鼻だけ見て、象だとおもったら、まちがいである。また鼻がぶら下っているときだけ見たのでは、象の鼻の働きはわからない。
 川についていえば、流れの速さをしらべる場合、川の真中だけで測ったのでは、不十分である。川全体について測ってみると、まんなかが速くて、岸に近いところは遅いことがわかる。また、いろいろな深さについて測ってみると、底の方へゆくほど遅くなっている。いつ測っても、また場所をかえて測ってみても、いつもそうなっている。こういうふうに、川の流れには、ある規則性がある。こういう規則性のことを法則という。
 ところで、この規則性は流れという一つの現象の中にあるだけではない。水の流れと、川岸や川床の浸蝕というようなべつべつの現象のあいだにも、関連性がある。
 自然の川には、まっすぐな川は決してない。みなうねうねと曲っていわゆる蛇行をしている。そしてこの蛇行は、流速と浸蝕とのあいだに存在する規則性によって、川が自分でこういう形になるのである。
 日本では、北海道の石狩川が、よくこの蛇行の例にされているが、世界的にいえば、アラスカのユーコン河などがその雄たるものである。人界を遠くはなれた見わたすかぎりの荒野の中を、大河が壮大にのたうちまわっている姿は、いかにも自然の力をおもわせるものである。
 自然界には、まっすぐな川はないので、もしそんなものがあったら、それは人工的につくられたものである。火星にいわゆる火星人という地球上の人類よりも高等な生物がいるという話は、だいぶ前からあった。ことの起こりは、火星の表面にまっすぐな線がたくさん見えると、ある天文学者がいい出したことにはじまる。
 そういうまっすぐなものなら、自然にできたものではなく、人工的につくられたものにちがいない。たぶん運河であろう。それも、地球から見えるくらいなら、よほど大きい運河にちがいない。そんな大土木工事ができるようなら、われわれ人類よりも、もっと高等な生物であろう。高等な生物ならば、頭脳が発達しているにちがいないから、頭は大きいであろう。そしてなんでも機械でやるだろうから、手足は退化していると考えられる。食べものなども、消化がよくて栄養価の高いものばかり食べているから、胃や腸は簡単な構造のものでよかろう。したがっておなかも、地球上の人間のように、太いずんどうになっている必要はない。こういうふうに考えたあげく、火星人という生物を想像した。
 こういうふうに、いろいろ尾ひれがついて、そのほうが大きくなってしまったが、もとを正せば、まっすぐな線が見えたというだけのことである。その線自身も、その後の観測では、あやしくなってしまった。それにしても、火星人の唯一の根拠が、火星のスケッチ一枚だったということは、ちょっとおもしろい話である。通俗科学の知識が、ときには、フィクション以上のフィクションである場合もある。このごろ大流行の宇宙旅行の夢の中にも、これに類したことが、たぶんあるであろう。
 地球上の話にもどって、川が曲っているところでちょっと注意してみると、いつでもカーヴの外側の岸近くは、内側の岸近くよりも、水がはやく流れている。陸上競技のトラックで、一列横隊で走るとしたら、外側を走る選手は、遠まわりになるので、はやく走らなければならないのと同じことである。
 ところで、はやく流れている水はたいていにごっている。洪水のときは必ず濁流である。これは、はやく流れる水は土や泥をもってくるからである。山奥の渓谷では、きれいな水の急流もよく見られるが、これは川底の土や泥がすでにみな洗い流されていて、運ばれる土砂がなくなっているからである。
 ところが、にごった水をくんでおくと土や泥は下に沈んで、水は澄んでくる。流れが止まればもちろんであるが、流れがおそくなっても、土や泥の一部は沈澱する。それで川は流れのはやいところで川床を削り、おそくなったところに土砂を堆積する。
 川が曲っている場所では、カーヴの外側の岸は、流れがはやいために岸も川底も削られやすい。岸の方は流れがつきあたるためにとくによく削られる。ところが、内側のほうは流れがおそいので、上流からもってきた土砂が堆積する。その結果、カーヴの内側がだんだん埋められて、外側が削られてゆく。したがって、川の曲ったところでは、カーヴが自分でだんだん発達する。
 天然の川は、はじめから少しはうねうねしている。絶対にまっすぐな形の川ができるような地形はない。ところが、いま述べたような理由で、そのうねうねは、しだいに自分で発達する。それで、現在われわれが見る川は、みな蛇行をしている。これは、流速と浸蝕という二つの現象のあいだの規則性によって起こるのである。こういうふうに、いろいろの現象のあいだには規則性が存在するが、それがすなわち科学の法則である。
 川にはこういう性質があるから、皆さんが、もし川沿いの土地を買われる場合は、なるべくカーヴの内側すなわち川に向ってつき出た側の土地を買われるほうがよい。何年かするうちに、だんだん土地がふえてゆく。もし反対に、カーヴの外側の土地を買ったら、孫の代くらいには、大分せまくなるので、損をする。
 いま誰かが、川岸に立って川の姿を見ているとする。そして、この蛇行の原理におもいあたって、なるほどそうかと、一人で合点したとすると、その人は、科学者である。ところでその人が、それでは内側の土地を買ったほうがよいと考えたら、とたんに実業家にかわるわけである。
 そのほかにも、川の流れのことをしらべているうちに、ちょっと周囲をながめて、ああ美しい景色だなとおもったら、科学と芸術とが共存していることになる。ついでに土地の値段のことも考えたら、商業もその中にはいりこんでくる。
 科学は、人間の精神活動のなかの一つの部面であって、芸術とか、営利とかいう外の活動面と衝突したり、矛盾したりするものではない。また科学はそれ以外の精神活動を支配するものでもない。科学を生活の中にとり入れる場合には、このことをよく知っておく必要がある。
「科学とはなにか」ということを知らないと、むやみと科学をありがたがったり、あるいはその逆に科学を不当に軽視したりすることになる。いまの時代に、科学を軽視する人などいるはずがないといわれるかもしれない。しかし、そんな人はたくさんいるので、科学振興とか、科学的政治とか、という言葉を振りまわしながら、ちっとも科学を使おうとしない政治家たちなど、その代表的な人たちであろう。

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 科学はものの本体を知るばかりでなく、そのものの動き、すなわち現象を見て、さらにいろいろな現象の間にある規則性を探る学問であると前にいった。
 これはそのとおりであって、まちがいではない。しかし、ここで一つ注意しておくべきことがある。本体や現象を知るとはいったが、そのすべてを知るという意味ではない。もし科学がそんなものであったら、それはあまりにも強力なものになるであろう。
 人間も、自然界に存在しているという意味では、ものであり、精神作用もつまるところは、現象である。科学がもし、ものの本体と現象との真の姿を、全部解明するものであったら、その発達の究極では、科学は万能になるであろう。そうすると、人間の全生活が、科学によって支配されることになるわけで、これは恐ろしいことである。しかし、その心配はいらない。
 科学は一瞬に百万人の人間を殺す水爆をつくることができる。そういう意味では、非常に強力なものである。しかし、現代の科学の全知能を集結しても、一人の恋人の心をとらえることはできない。そういう意味では非常に微力なものである。
 科学には、こういうふうに、強力な面と、微力な面とが入りくんでいる。その理由は、科学は自然現象のすべてを対象とするものではなく、自然現象の中のある部面だけを取扱う学問であるからである。ここでも、また今後も自然現象という言葉は、ひろい意味に使っているので人間もふくめての話である。
 科学には、非常に強力な面と弱体な面とが、入りまじっているのであるが、ふつうには、強力な面だけが、人々の注目を浴びやすい傾向がある。そして弱体の面が見逃されるので、科学が万能のように、おもわれがちなのである。
 この点については、きっと異論が出ることであろう。恋人の心をとらえるというような、人間の精神作用についてはそうかもしれない。しかし自然現象に対しては、科学は非常に強力なもので、どんな問題でも、科学の力によって解決されるはずだという考え方である。
 この問題は、「はずだ」という言葉の意味のとり方で、どうにでもなるが、じっさいには、解けない、あるいは解決の非常に困難な問題が、自然現象の中にもいくらもある。そのよい例が、第一回目のアメリカの人間ロケットである。人間を大気圏外の空間スペースにまで打ちあげ、それを無事に回収したのであるから、これは科学の強力さを、いかんなく示した大実験であった。しかしこの実験で、注目すべき点が一つあった。それは天候不良のために、第一回の発射が、途中で中止されたことである。
 発射の準備が全部完了して、いよいよ最後の秒読みにとりかかった。カプセルの中にはいっていたシェパード中佐は覚悟のほぞをきめて、一秒一秒を、じっと待っていたにちがいない。ところが発射直前になって、天候悪化の気配があったので、発射は急に取りやめになった。これは取りやめてよかったので、その後十五分か二十分したら、はげしい雷雨が襲ってきて、雷鳴がとどろきわたるという悪天候になった。
 この点が非常におもしろいところであって、人間ロケットは飛ばし得ても、数時間後のお天気の予報はできなかったのである。けっきょくまた初めからやりなおしで、燃料を入れかえ、機械の調整をし直して、天候の回復をまって、第二回目の発射に成功したわけである。
 第二回目は成功したのであるから、それでよいじゃないか、といわれる方もあろう。しかしこのやりなおしというのは、たいへんな仕事である。燃料の一部に液体酸素を使うのであるが、これは俗に液体空気といわれるもので、沸点は零下百八十三度である。それで機体はすっかり冷えてしまうので、出したあとには、霜がいっぱいつく。それを暖めてすっかり乾かして、また入れなおすのであるから、たいへんな仕事である。また時間もかかる。いったん中止したら、二度目までに、二日間もかかったが、それくらいはかかるであろう。第一回目の準備に、何千人という人間が、数日間ほとんど不眠不休で働いたあとであるから、なおさらのことである。
 もしあの雷雨が、一日か半日くらい前に予報できていたら、こういう無駄はしなくてもよかったのである。それで、あのときの予報はしなかったのではなく、できなかったと解すべきである。事実、現在の天気予報では、台風がだいたい何時ごろ、どの地方へやってくるかとか、関東南部は明日は雨とかいう予報は、かなりよくできる。
 しかし、ある時刻における、ある地点の天気を正確に予報することは非常にむつかしい。とくに雷雨やひょうのような場合は、まず不可能である。雹が通ったあと、ある畑はめちゃくちゃになっているが、隣りの畑にはまったく被害がないことがよくある。あの場合どっちの畑がやられるか、現在の科学では予報できない。
 人間を宇宙空間に打ちあげ、安全に生還させることはできる。これは科学の強力な面である。しかし発射基地の天候を半日前に予報することはできない。これは科学の弱体な面である。そして、じっさいに科学を使う場合にはこの両者が入りまじってくる。
 これに対しても、疑問をもたれる方があるかもしれない。この実験では人間ロケットの回収が、功績のほとんど全部であって、天気予報のほうはこの成功に百万分の一くらいしか貢献していないであろう。天気のほうは、悪かったら、待てばいいから、問題にするまでもない。こういう意見がきっと出ることであろう。しかしこの点については、さらに一歩すすめて考えてみる必要がある。
 こんどの場合は、二回目に無事カプセルが回収されたからよかったものの、回収現場でちょっと気象異変があったらどうなったかわからない。たとえば、カプセルをヘリコプターで拾いあげたときまでは、搭乗員は中で元気でいたとする。そうすれば、人間ロケットの実験は九九・九九……パーセントまで成功したといえよう。
 ところが、最後にそのカプセルを軍艦上へ運ぶときにちょっとした突風があって、ヘリコプターがぐらりと揺れ、カプセルが軍艦の艦体にガタンとあたったとする。そのショックで、中の搭乗員が脳震盪を起こして死ぬ場合も絶対にありえないとはいわれない。もしそんなことが起こったら、この実験は結果においては、失敗したことになる。ロケットの性能がいくらよくても、局地の天気予報ができなかったら、全体としては意味をなさなくなる。
 アメリカは、この人間ロケットに九百億円というとんでもない多額の金を使ったそうであるが、その世紀の大実験が、最後の一瞬で失敗する場合もありうる。そういうふうに考えてみると、時刻と地点とを指定した天気予報というような地味な問題も、非常に大切な意味をもってくる。
 しかしそういう方面の科学は、なかなか進歩しない。現に第一回の発射はそのために中止になったわけである。それではなぜそういう方面の科学が進歩しないかというと、その理由は二つある。
 第一に、局地的の天気予報が非常に困難だという点があげられる。原理的にいえばロケットよりもむつかしいのである。たいへん突飛なことをいうようであるが、原理自身はロケットの場合は簡単である。その点については、後にまたくわしくのべることにしよう。時刻と地点とを指定した天気予報は、まえに雹の例でのべたように、不連続性があり、また変動がはげしいので、その変動の一つをつかまえることが、非常に困難なのである。
 第二に、天気のほうは人間ロケットのような場合には、逃げれば逃げられるという点がある。少し待って天気が落ちついたときにやれば、こういう問題には触れないで、目的を果すことができる。雹害のような場合は、逃げられないが、まれにしか起こらない現象であるから、あきらめてすませているわけである。
 この逃げれば逃げられるという点が、おもしろいところで、けっきょく今日の科学は自然現象のなかから、自分のやり方でうまく処理できる現象だけをひろい出して、その方面に発達した学問である。それで、ある方面には非常に強力であり、ある方面では弱体であるということが起こるわけである。

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 現在の科学のやり方で処理できるとかできないとかいうことにも、意味が二つある。現象が非常に複雑で、しかも稀れにしか起こらないような場合、たいへんな大設備をし、うんと金をかければ解決できるはずであるが、それだけやる値うちがないからやらない場合もある。
 しかしその外に、原則的に科学の対象になりえない、あるいはなりにくいという種類の問題もある。このほうが科学の本質を考える場合に大切である。科学もけっきょくは人間の頭脳でつくられるものであるから、この問題を考える場合には、頭のはたらきを検討してみる必要がある。
 人間の頭のはたらきは、多種多様であるが、その中で、科学に使われている考え方はいくつかに限られている。そのなかでも基本的なものは三つあって、因果律、分析と綜合、統計的考察の三つがそれである。たいへんむつかしいことのようであるが、平たくいえば次のとおりである。
 まず因果律から説明しよう。
 われわれは、日常よく「何々だから何々になった」という表現を使う。はじめの何々はいわゆる原因であり、あとの何々は結果である。何か、こと、すなわち結果があると、その原因を考える。茶わんが割れたのは落したからである。昼のつぎに夜がきて、また昼がくるのは、地球が廻っているからである。こういうふうに、原因があると結果がでてくるという考え方を、因果律という。原因結果の法則ともいわれているものである。
 つぎに、分析と綜合という方法であるが、これもわれわれが、日常しじゅう使っている考え方である。自然界にあるものは、いろいろな性質の組合せから成っている。それを一度に見たのでは、なんのことかわからなくなるので、性質の一つ一つを分けてしらべてみる。
 たとえば、ここに一つの壺があったとすると、まずその形はどうか、目方はいくらか、釉薬うわぐすりはどうか、色は……というふうに、各性質に分けて、そのひとつひとつについてしらべる、これが分析である。そしてその分析によって得られた知識をまとめたもの、すなわち綜合したものをもって壺全体の性質とする。これが分析と綜合である。
 そんなことなら、わかりきっているじゃないか。分析と綜合というようなむつかしい言葉を、使うまでもなかろう。こういう抗議がきっと出るだろうとおもうが、それは皆さんの頭がすでに科学化されているからである。自然現象のなかには、この分析と綜合の方法が適用されるものと、されないものとがある。そのうちで適用される現象だけが今日の科学の対象とされている。
 最後に、統計的考察であるが、これもむつかしいことではない。電車は毎日大ぜいの人を運んでいる。たまには人を轢くこともある。しかし、誰も電車は人を轢く機械であるという人はいない。電車の機能は九九・九九……パーセントまで、人を運ぶところにある。それで百万分の一くらいの誤差は無視して、電車は人を運ぶ機械であるという。この大部分の性質をもって、そのものの性質であるとすることを、統計的考察というのである。
 科学の法則は全部、大部分の性質をいっているので、厳密にいえば統計的の意味しかないものである。科学の真理に完全無欠の真理はない。必ずいくらかの誤差をともなっているものであって、その誤差の少ないほど、その法則の科学的価値が高いのである。
 しかし、いくら誤差が小さくても、その誤差自身についていえば、それはあくまでも、法則からはずれたものである。そういう全体のなかの個の問題には、統計は意味をもたない。したがって、統計に基礎をおく科学ではそういう問題は解けない。ここにも限界があり、これは、科学と宗教との関係を論ずる場合に、大切な意味をもっている。
 以上で明らかになったように、科学は自然現象のなかで、因果律とか、分析綜合とか、統計的考察とかいう考え方があてはまる現象だけを取扱っている。したがって、ある問題については非常に有力であるが、ある問題については、全然無力であるというようなことが起こりうるのである。
 皆さんのなかには、ここで一つの疑問をもたれる方があるかもしれない。因果律を考え方とするのはおかしい。原因があってこそ結果がでるのであって、原因結果の法則は、人間とは無関係に自然界に実在しているではないかという疑問である。分析綜合や、統計的考察についても、おなじような疑問をもたれるかもしれない。
 しかし、そういう疑問がでるのは、考え方がすっかり現代の科学の考え方になっているからである。よく考えてみると、これらは、いずれも人間の頭のなかにある考え方であることがわかるのであるが、その点について、まず因果律のほうから吟味してみることにしよう。

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 原因および結果というと、ふつうには原因というものがあって、それから結果というものが出てくるように考えられやすい。しかし、それはまちがっている。自然界にあるいろいろな現象のなかから、二つのべつべつの現象をとり出して、それを原因結果という筋で考えた場合に、現象がよく説明されるとか、新しい知識が得られるとかした場合に、一方を原因といい、他を結果というのである。この筋は人間の頭の中にあるので自然界のほうにあるのではない
 それについて、少し極端な例を一つあげてみよう。
 犬があまりほえるのでその犬に石をぶつけた。ところがその石がはずれて、ガラス窓にあたりガラスがこわれたとする。この場合犬がほえたことが原因で、ガラスの破れたことはその結果であるというような議論がよくなされる。しかしこれは、よく考えてみると妙な話である。
 犬がほえても石をぶつけなければこんなことは、起こらなかったはずである。それで、原因は石をぶつけたことにある。しかし、石がガラス窓にあたらなかったら、こわれなかった。そうすると石がガラスにあたったことが原因である。しかしあたっても、石のぶつかる力が弱かったらガラスはこわれなかったはずである。
 それでは原因はどこにあるかということになるが、その点を明らかにするためには、石があたってガラスがこわれるという現象が、どういう現象であるかを知らなければならない。まずこわれるということであるが、ガラスを構成している分子が、たがいにくっつき合っているうちは、それは一枚のガラスである。ところが、外からある力がはたらいて分子間の引力を引きはなしてしまうと、ガラスはそこでこわれる。
 石がガラスにあたると、ガラスは歪みを受ける。簡単にいえば瞬間的に少し凹むわけである。たいていの固体には弾性があって、外から力が加わると少し凹む。ゴム球とおなじことであって、ただ凹む量が少ないだけのちがいである。凹むということ、すなわち歪みを受けることは、ガラスを構成している分子がその正常の位置からずれることである。
 分子間の引力は、ある一定の強度をもっている。それで外からある力が加わっても、この強度に達しないうちは、分子が正常の位置からずれるだけですむ。すなわちガラスは、歪みを受けた形に止まり、こわれはしない。
 それで真の原因は、ガラスにこわれるだけの歪みを与えたことにある。「こわれるだけの歪み」というのは、分子が引きはなされるということ、つまりこわれることである。それでつきつめてゆくと、こわれることが、こわれることの原因だということになる。原因と結果とは、おなじ現象を両面からいっていることになってしまう。
 こういうふうにいうと、なんだか、ごまかされたようにおもわれる方もあることであろう。現に犬がほえたから、石をぶつけたのであるから、犬がほえたことが原因にちがいないじゃないか、といわれるかもしれない。しかしその流儀でいえば、犬を飼ったことが原因、その主人がいたことが原因、その母親がその人を産んだことが原因、と際限なくさかのぼってゆくことができる。それでこの議論は、地球上に生命が現われたことが、このガラスのこわれたことの原因である、という議論になる。
 しかし、まさかそういう議論をする人もあるまい。もっとも、なにかことがあると、それは誰のせいだ、彼のせいだという人があるが、そういう人だったら少しあやしいかもしれない。
 これでわかったように、原因と結果とは、そういうものが、べつべつに自然界にあって、それが一本の糸でつながっているものではない。人間が原因結果という順序立てをして、ものごとを考えるということである。
 この順序立てによって、なにか新しい知識が得られる場合は、因果律が適用されるといい、そうでない場合は、されないというだけのことである。風が吹けば桶屋がもうかるという、日本のむかしの笑話は、この間の消息を巧みについている寓話である。風が吹くことと、桶屋がもうかることとを、順序立ててみてもなにも新しい知識は得られない。こういう場合には因果関係はないというのである。
 風と桶屋の笑話をご存じない方があるかもしれないので、念のためにちょっとつけ加えておく。風が吹くと、ほこりが立つ。ほこりが立つと、それで眼を悪くする人が多くなる。すると盲目めくらになる人もふえる。盲目は三味線ひきか按摩になる。したがって三味線がたくさん要る。三味線の胴皮は猫の皮であるから、猫がたくさん殺される。すると鼠がふえて桶をかじる。そうすれば桶屋がもうかるというわけである。
 しかし、自然現象のなかには、因果律で整理してみると、役に立つ知識が得られる場合がたくさんある。たとえば天気について、われわれはいろいろな経験をする。ある日は雨がふり、ある日は天気がよい。また気圧を測ってみると、ある日は高く、ある日は低い。こういう知識をたくさんもっていても、それは役にも立たないし、また科学にもなっていない。
 ところが、そういう知識をたくさん集めて整理してみると、たいていの場合は低気圧がくると天気が悪くなる。それで、天気が悪くなるのは低気圧がくるからであると考える。この場合は低気圧と天気という二つの現象を因果的に考えると、新しい知識が得られる。すなわち因果律が適用される。そういう現象は、科学の対象となり得るので、こういう筋の上に立って、気象学が成立したわけである。
 ものごとを、原因結果的に考えるのは、なにも科学ができてから始まった話ではない。これは人間が生来もっている考え方の一つであって、それを科学にとり入れただけのことである。「親の因果が子にむくい」というのは、科学輸入以前の言葉である。なにか不幸なことがあった場合、それを結果とみて、その原因を親の所業へもってゆく考え方である。
 このように、因果的な考え方は科学以前の、もっと普遍的な頭の作用である。しかし、それを科学にとり入れる場合には、少し限定された形になる。科学では測定し得ないほど微少あるいは微力のものは、ないということにしている。あるはずとまではいえるが、「存在する」というには、それが測定にかかるものであることが必要である。それで科学のほうで因果律を適用する場合は、原因および結果にあたる現象が、ともに測定にかかるものでなければならない。この条件は、重大な意味をもっているので、つぎの章でくわしく述べることにしよう。
 その点は別問題として、今日のわれわれには、因果律的な考え方が、みなの頭にすっかり浸みこんでいる。「こうだから、こうだ」と考えるのは、当りまえのことであって、この「から」を抜きにしては、精神活動がないようにおもっている人もたくさんある。しかしそれは、知らずしらずのうちに、科学の影響を受けて一種の錯覚におちいっているのである。ほんとうは「から」などのはいり込む余地のない頭の作用がいくらもある。
 ここに、一人の若い青年がいて、あるお嬢さんを好きだという。この場合彼の精神は非常に活動するが、そのなかには、「から」がはいっていないのが、ふつうであり、そのほうが正当である。
「家が金持だから好きだ」とか「親が社長だから好きだ」というのは、論外であるが、もう少し純粋な場合「美人だから好きだ」というのも、あまり内容のない言葉である。美人というのは鼻の高さが一センチ何ミリ、眼の縦横の比が一コンマ何々、その配列の幾何学的配分がどう、色がオストワルドの色表の何番と何番というような、いろいろの要素の組合せである。それで「美人だから好きだ」というのは、その組合せがどうだから好きだということになる。
 じつは、そんなことはないので、ただ好きなのである。「から」は、はいってくる余地がない。「美人だから好きだ」というのは、てれかくしにいう言葉であって、ほんとうは「から」などは、はいっていないのである。
「何々だから」という考え方が、科学のいちばん大切な頭の使い方である。それで、そういう考え方のはいらない精神活動には、科学ははいりこむことができない。したがって、科学がいくら進歩しても、こういう問題まで、科学に支配される心配はない。
 もっとも、一つその懸念がないこともない。それは人間のほうが、変形する場合である。すべての人間の頭のなかから「ただ好きだ」という感じがなくなり、どんな場合でも「何々だから好きだ」と感ずるようになったら、人間が科学に隷属する日もくるであろう。問題は科学の側にはなく、人間の側にあることを忘れてはいけない。
 これは「好きだ」という場合だけに限った話ではない。「嫌いだ」というのは、マイナス符号のついた好きのことであって、おなじ次元にぞくする。したがって、なにかが嫌いな場合も何々だから嫌いなのではなく、ただ嫌いなのである。
 新聞によく、家庭相談欄というものがあるが、その解答には、つまらないものが多い。たいていの場合、ただ嫌いなのに、それに「何々だから」をつけ足そうとするので、おもしろくなくなるのである。
 人間の頭のなかには、ほんとうのことをきくと、ピンと共鳴する線がある。その線が鳴ったときに、ほんとうのおもしろみを感ずる。ほんとうでない話には、どんなにうまく組みたててあっても、この線は共鳴しない。それでおもしろくないのである。家庭相談欄にも、おもしろい解答もあるが、それはまれである。世界中の人間が、あのつまらないほうに共鳴するようになったら、人間が科学に隷属する日もくるであろう。科学万々歳である。

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 ある山奥に美しい盆地があって、周囲の山々は、うっそうたる原始林におおわれ、盆地のなかは、緑の牧草が毛せんを敷いたように密生している。水にも恵まれていて、水晶をとかしたような流れが、この牧草の原のなかをゆるやかにぬっている。気候も申しぶんなく、春さきになると、雪は早く消え、太陽がきらきらとこの流れに映えている。
 中国の昔話にある武陵桃源とは、こういうところのことだったのであろう。ここでは、人々も、家畜も、みな幸福に暮していた。ただこの別天地には一つ不思議なことがあった。それは、この土地ではどうしても牛が育たないことである。なんとかして酪農をやりたいとおもって、丈夫なよい牛をたびたび入れたのであるが、数カ月のうちに、しだいに弱ってきて、やがて死んでしまう。
 いろいろ手をつくしてみても、どうしても、牛が育たない。気候が悪いせいでもない。また牧草が悪いせいとも考えられない。りっぱな牧草ができるところで、現に馬や羊は非常に発育がよい。念のために、大学へ牧草を送ってしらべてもらったが、栄養価満点という折紙がついてきた。
 それで村の人たちは、すっかり弱ってしまって、とうとう牛を飼うことはあきらめることにした。しかし念のために、いろいろ昔のことを調べてみたら、一つおもいあたるふしがあった。それは大昔に、この村に気の荒い庄屋がいて、外からつれてきた牛を残酷な方法で殺したことがあるという記録が出てきたことである。その牛の怨霊おんりょうがたたって、その後この土地には、牛は育たないことになったのであろう。これでわけがわかったので、村人もなっとくして、酪農はあきらめてしまった。
 この村の人たちの頭のなかにも、ちゃんと因果律の考えがあったのである。牛が育たないという結果があったので、その原因をいろいろと考えてみた。しかし原因は、気候にも、牧草にも、水にもないことがわかった。そこへ牛の怨霊という、原因と考えられるものが出てきたので、それを原因として、この問題に一応の解決を与えたわけである。
 ただ、この素朴な村人の因果律は、科学で使われる因果律とは、少しちがったところがある。前にもちょっといったように、科学の世界での因果律では、原因も、結果も、ともに観測しうるものであることが必要である。牛が死ぬという結果のほうは、観測というまでもなく、明白な事実である。しかしその原因とされた怨霊のほうは、観測にはかからないものである。したがって、この結論は、広義の因果律にはかなっているが、科学にはなっていない。怨霊だから非科学的であるというのではなく、観測あるいは測定にかからないものを、原因とする点が、非科学的なのである。
 しかし、ほかに考えうる原因がないのに、牛が育たないという結果は実在している。これは事実である。この事実を科学的にはどう説明したらよいかというに、それは簡単である。「なにか原因はあるのだろうが、わからない」と、これだけでよいのである。というよりも、それよりほかにいいようがない。なにか科学らしくこじつけると、かえって非科学的になる。
 これはおもしろい問題なので、もう少しつきつめて考えたいが、それには、原因および結果という言葉を、いま一度整理しておいた方がよい。前に、自然界には、原因そのもの、あるいは結果そのものはないといった。その点には、まちがいがない。
 しかし自然界には、二つの現象を、原因結果的にならべてみると、その関係がはっきりすることがらが、たくさんある。以下本書では、こういう場合に、一方を原因といい、他を結果ということにする。そして両者をならべてみて、それから新しい知識が得られることを、「原因結果的に扱える」ということに定義する。
 ところで科学の話をする場合は、どうしてもいくつかの術語を知っている必要がある。料理の話をきくときに「三枚におろす」とか、「油でいためる」とかいう言葉を知っている必要があるのと同じことである。その術語の一つに無限小および有限という言葉がある。ここでその言葉の意味を、ちょっと説明しておく。
 物理学では、無限小という言葉をよく使うが、これは「ない」という意味ではなく、観測にかからないほど微小または微弱という意味である。無限小のものは、ないとはいわないが、取扱いではゼロと同様にみなす。それに対して、観測にかかるものは有限という。一ミリグラムの百分の一ていどの微量でも、測定にかかれば有限である。
 われわれが日常知っている自然現象には、原因も、結果も、ともに有限であるような問題が多い。そういう現象を対象として、今日の物理学が出来上っているといえよう。原因が無限小で、結果も無限小という現象もあるが、これは話が簡単である。無視して、ほうっておけばよい。
 ところが、もう一つやっかいな現象がある。それは原因が無限小で、結果が有限の場合である。前の牛の怨霊の話が、その例である。なにか原因はあるのだろうが、それは無限小であって、結果だけが、牛が死ぬという有限の形で出てくる。この場合はわからないというのが、いちばん科学的な説明である。
 ところで、この牛の怨霊の話であるが、じつをいえば、そんなところは、日本にはない。しかし外国には、ほんとうにそういう実例があるのである。山崎文男博士の「原子力の平和利用」という本にその話が出ている。そして、この長い間の懸案が、原子力の応用によって、ついに解けたのである。いままでは測定不可能であった超微量のものが、同位元素の利用によって、測定可能になったためにこの懸案が解決された。
 近年、原子力の研究がすすんで、同位元素を用いる分析の方法が出てきた。同位元素というのは、このごろよく新聞にでてくるが、おなじ元素で原子の目方のちがうものである。同位元素の説明は略するが、この新しい方法を使うと、一億分の一とか、十億分の一とかいう超微量のものまで、分析することができるのである。
 この方法を使って、怨霊のついた牧草の組成をしらべた結果、この牧草にはコバルトが不足していることがわかった。コバルトの人工同位元素で、質量数六〇のものが、手ごろな放射線を出すので、こういう場合によく使われる。新聞などによく出るコバルト六〇といわれるものが、これである。このコバルト六〇を使って研究をすすめた結果、非常におもしろいことがわかった。
 コバルトの含有量が、一億分の四以下になると、牛は食慾を失ってしまうということである。一億分の四などという超微量のものは、化学分析ではどうしても出てこない。分析しても出てこないものならば、ないというより仕方がない。そういう超微量のものが、牛に感ぜられることは、まことに不思議であるが、現に感ぜられるのであるから仕方がない。馬は牛より鈍感らしく、コバルトのない牧草でも平気で食う。それで馬は育つが牛は育たないのである。
 これは非常におもしろい話である。蛋白質や、含水炭素や、その他知られている栄養素が全部そろっていると、「栄養的には完全」と、ふつうにはいう。しかし、それはまちがいである。そういう栄養素が必要なことは、もちろんであるが、それは必要条件である。十分条件ではない。そういうものが必要だということと、それだけあれば十分だということとは全くちがっている。注意すべきは、なまじっかの栄養学の知識で、自然を律しようとすることである。これは栄養学ばかりでなく、科学全般についていえることであろう。
 運動とか、体温の保持とかいう問題は、比較的物理化学的現象に近い現象である。そういう問題の場合は、無限小のものが、有限の影響をもたらすことは、まずあるまい。しかし、食慾のような精神作用の場合は、測定にかからないくらいの微量のものが、全身の機能に影響しても、ちっとも不思議ではない。
 牛にこういう鋭敏な感覚があるのは、ちょっと考えると不思議なようであるが、人間の感覚はもっと鋭敏とおもわれるふしがある。
 人間の五感は鈍感なもので、機械の方が精密だと、一般にはおもわれている。そういう場合もあるが、機械や分析では識別できないような、ごくわずかの差を、人間ははっきりと区別できる場合もある。
 暮しの手帖の59号に、ものがくさる研究の話が出ていたが、その研究で、匂いを利用してくさり始めをしらべたのは、非常におもしろい着眼とおもわれる。鼻や舌くらい敏感な機械はちょっとないからである。
 匂いについて考えてみるに、樟脳の一片を室内にしばらくおくと、樟脳の一部は、昇華蒸発をして、室内の空気中にまじる。この場合、樟脳の目方の減少を測ってみても、せいぜい一ミリグラムの十分の一か百分の一くらいであろう。
 そのわずかの樟脳の蒸気が、八帖間一杯の空気とまじっている。一度に鼻の孔にはいる空気の量を一立方センチとしたら、そのなかにある樟脳の量は、一グラムの一兆分の一くらいになる。どんな機械を使ってもとても測れる量ではない。それが人間には、一瞬にしてわかってしまうのである。
 匂いの量的な研究では、もっとくわしいことがわかっているにちがいないが、しかし、そういう研究を知らなくても、人間の鼻がいかに敏感なものかは、これで想像がつくであろう。ところが、犬だったら、もっと敏感である。
 明石の鯛がうまいとよくいわれるが、明石の鯛とほかの土地の鯛とを、いくらくわしく分析してみても、とてもその差は出てこないであろう。
 牧草中のコバルトの場合、牛にわかることが、精緻をきわめた化学分析で、どうしてもわからなかったのは、おもしろいことである。もっとも、同位元素法によって、牛の怨霊のなぞがとけたのであるから、やはり科学はおそるべきものである。
 しかし、ほかに怨霊はいくらでもある。その一つ一つをときあかしてゆくのが、科学の任務であるが、全部をときあかす日は、永久に来ないであろう。これは科学を軽蔑した言葉ではない。自然の神秘は無限であり、科学はあくまでもそれを追及してゆくものである、という意味で、科学をたたえる言葉である。

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 ひと昔まえの教養のある若夫人のなかには、栄養学の知識を大いにふり廻された方がある。
 そういうお仲間は、たいてい「色と形で食べさせる」日本料理はお気に召さず、栄養価の高い西洋料理がお好きであった。松茸の好きなご亭主が、たまには松茸くらい食わせろよなどといっても、なかなかききいれられない。「松茸なんか、カロリーはゼロよ。高いだけで、栄養価はぜんぜんないのよ」と一しゅうされてしまう。
 カロリーが栄養上必要なことは、科学的に立証された事実である。松茸にカロリーが非常に少ないことも事実である。この二つの事実から、ゆえに松茸には栄養がないという結論が出てきたのは、いかにも科学的なようであるが、一番かんじんな点だけが抜けている。
 ところが、そのころから、ビタミンというものが、はやり出した。はじめて理化学研究所から、ビタミンAが売り出されたころは、肺病の薬だというので、当時としてはひどく高価だったこの薬を、無理して買った人が大分あった。ビタミンAを含んだ食品は、いくらもあって、その方が安いのであるが、抽出して薬瓶に入れたものだけが効くように思って、わざわざ高いものを買ったのも、科学崇拝のせいであろう。あげくの果ては、ビタミンAの過剰症というような副産物もあった。
 その後ビタミンには、ABC……と何十種類もあって、それぞれ効果がちがうことがわかったので、ビタミン流行時代にはいった。そのころまでには、この若夫人もだいぶ成人して、「ビタミンDの補給には、松茸がいいんですってね」と、さかんに松茸を食わすようになった。このけろりとしているところは、大いに科学的である。前にもいったように、私情をまじえないで、ものをものとしてみるのが、科学である。
 ビタミンが流行してよろこんだのは、薬屋であった。いろいろなビタミン剤が、雨後のたけのこのように出てきて、どれもさかんに売れる。こういう、長期間つづけてのまないと、効き目のわからないものは、薬屋にとってはありがたい。なかには、ずいぶんインチキなものがあって、戦後数年のころは、市販のビタミン剤の半分以上も、ほとんど効果のないものであったという。
 こういうビタミンは、全部天然の食品のなかにあるものである。しかし錠剤になって、瓶にはいり、その表にビタミンと書いたレッテルが貼ってないと、効かないような気がする。それがこうじると、レッテルにビタミンと印刷してあれば、中身はなんでもいいというふうになりやすい。そういう意味では、天然の食品の方が安全であるが、この方にも、むつかしいところがある。
 ふつうには、ほうれん草には、ビタミンAがあり、みかんにはCがある、というふうにいわれている。もちろん大体としてはそうであろうが、おなじほうれん草でも、ものによって非常にちがうのではないかと思う。北大農学部のT博士が、高山植物のビタミン含有量を研究されたことがあるが、その結果は、非常に意外であった。おなじ種類の植物でも、土質により、環境によって、ビタミン含有量は、いちじるしくちがう。北海道には、いたるところに、とりかぶとが生えているが、熊を殺せる毒素のあるのは、銭函と日高のどことかのものだけである。品種がちがうわけではなく、環境の差であるが、アイヌはそういうことを知っていたのである。
 それよりも意外だったのは、採取時刻によって、ビタミン含有量がひどくちがうことである。おなじ場所に育ったおなじ品種でも、「朝と昼と夕方とでは、まるでべつの植物かとおもうくらいちがう」そうである。だから、少し良心的な学者は、なかなかはっきりしたことは、いってくれない。
 みかんにビタミンCがあるといっても、それは新鮮なときだけである。ビタミンCは、酸性のうちは安定であるが、正月すぎに食べる甘いみかんなどでは少なくなっているそうである。夏みかんのすっぱいやつは、その点有利であって、私みたいに、すっぱい夏みかんの好きな男には、ありがたい話である。
 ビタミンも何十種類と出てくると、いかにも栄養学の進歩が頂点に達したようにみえる。それでカロリーとビタミンとで、栄養の問題が全部片づいたようにおもった人も多かった。ところが、こんどは鉱物質ミネラルが登場してきた。カロリーとビタミンだけでは不十分で、少量ながら、鉱物質が絶対に必要だという。カルシウムのことは、だいぶ昔からいわれているが、燐や鉄なども、案外たくさん要るらしい。アメリカの老人用牛乳では、一日の使用量のなかに、燐八百ミリグラム、鉄一六ミリグラムがはいっている。燐や鉄の補給には、牛乳が一番いいらしいが、にんじんにも鉄が多いというので、アメリカの婦人たちは、さかんに生のにんじんをかじっている。
 日本人は頭がよいので、ミネラルが必要だとなると、すぐミネラル剤が、何種類も一ぺんに市場に現われる。こういう傾向を、悪いというのではない。科学を信用することは、奨励すべきであるが、現在の知識だけで全部が片づいたと思うことだけは、注意しておく必要がある。
 カロリー、ビタミン、ミネラルと、全部そろっても、食慾がなかったら、仕方がない。ところがその食慾には、化学分析にかからないくらいの超微量物質が、一役買っているらしい。それも、やっと、牛の場合から示唆が得られたというていどで、そういう超微量のものが、何種類必要なのか、それがどういうふうに効くのか、そんなことは、まだ全くわからない。
 けっきょく新鮮でうまいとおもうものを、なるべく多種類にわたって食べることが、いちばん安全ということになる。しかしこのうまいという味だって、なかなか簡単ではない。池田菊苗博士が、古来いわれている五味、すなわち甘・酸・鹹・苦・辛の五つの味をどう組合せても、うまいという味は出てこない、うまいというのは第六味である、と喝破されたのは、たしかに卓見である。
 この創見から味の素が生まれたわけである。味の素の発見は、料理に一紀元を画したものではあるが、これでうまいという味の問題が片づいたわけではない。味の素は、グルタミン酸ソーダであって、昆布のうまみの主成分である。その外にも、天然には、鰹節だの、椎茸だの、いろいろちがったうまみがある。それで、鰹節の味の主成分イノシン酸ソーダや、椎茸の味のグアニル酸ソーダなどを加えた調味料も売り出されてきた。
 このほうが、もちろん味は複雑になり、一進歩にはちがいないが、それでも、うまさの問題が、これで全部解決されたわけではない。第一に、これらの化学製品は、ある食品のうまみの主成分であって、そのうまみのすべてではない。複合調味料についても、同じことがいえる。
 それよりも大切なことは、こういう調味料と食慾との関係である。味の素の料理をうまいという人もあるし、しつこいといっていやがる病人もある。いやがるほうが、病理的の現象か、うまいとおもうほうが、人工調味料にならされて、舌が味盲になっているのか、簡単には断定できないであろう。もちろん使い方にも、問題がある。
 食慾の問題は、栄養学のなかでも重要な部面とおもわれるが、あるえらい医学者の話では、この方面は、現代の医学ではほとんど未開拓の分野であるということである。食慾をそそるものは、なにか身体が必要とするものを含んでいる、と一応は考えてよかろう。しかし、病的にかたよった嗜好という場合もあろう。そういうことは、医学には専門外の私などがいうべきことではない。
 ただ、科学の一般論として、プラグマティズム(実用主義哲学)の創始者、ウィリアム・ゼームスの次の言葉を引用しておこう。
「科学はなにが存在するかはいい得る学問であるが、なにが存在しないかはいい得ない学問である」。これは科学の本質を巧みにいい現わしている言葉のように私にはおもわれる。





底本:「極北の氷の下の町」暮しの手帖社
   1966(昭和41)年7月1日発行
初出:「暮しの手帖 昭和36年第3号」暮しの手帖社
   1961(昭和36)年7月5日発行
入力:砂場清隆
校正:kompass
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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