『竹の家』
中谷宇吉郎
この頃はだいぶちがって來たが、つい最近までの日本では、外國映畫が高級で、日本映畫は卑俗なものと、きめてかかる習慣があったように思はれる[#「思はれる」はママ]。
新聞や雜誌に載る映畫評を見ていると、日本の映畫批評家は、たいへんな勉強家のようである。あまり聞いたこともないような俳優の名前が、一杯並べられ、それらの逸話のようなものまでが、詳しく書いてある。世界中の映畫のことは、樂屋裏のすみずみまですっかり分っている點、まことに驚くべきことである。何か種本のようなものがあるのかもしれないが、それでもえらいものである。
ところで、アメリカでも、映畫に一隻眼をもっている人たちの中には、日本の文化人と全く同じようなことをいう人がよくあって、その點非常に興味がある。
そういう人たちが、第一番にけなすのは、ハリウッド映畫である。あのこけおどしの低級なハリウッド映畫を見ていると、頭が痛くなるという。ものを考えさせる映畫は、イギリスかイタリアのもの、それと最近の日本の映畫くらいのものである。それにしても、この近年の日本の映畫の進歩は實に目覺ましい。非常に哲學的である、というのであるから、全く恐れ入る。
この仲間には『地獄門』や『雨月物語』は、非常に評判がよい。しかし『竹の家』は下らないという。一番の理由は、ハリウッド映畫に似ているからである。とにかくこの連中には、アメリカ風なものはみな卑俗なのだから、話は簡單である。
しかし『竹の家』は、一般のアメリカ人には、かなり評判がよかった。よく顏を合わせる連中は、たいていこの映畫を見ていた。そして、「非常に面白かった。東京の街は美しいね(ビューティフル)」とか、「僕はあの映畫で東京見物をして來たよ」とか、いろいろお世辭をいう。まず例外なく褒めたといっていい。
ところが日本では、この『竹の家』が國辱映畫だということで、だいぶ問題になった。實は私はまだこの映畫を見ていないので、どこが國辱的なのかわからないが、アメリカ人があの映畫を見て、日本を侮蔑するということは、なかったようである。アメリカ人は氣樂だから、店先から色とりどりの布がぶら下っているところがたいへん美しかったなどと、妙なところに感心していた。多分お祭か何かの風景なのであろう。
日本の習慣とは、非常にちがったところがだいぶあって、その點が「國辱的」とさわがれるらしいが、少し神經質すぎるようである。下らない映畫であることは事實らしいが、そうだったら、わざわざ日本までロケにきて、そういう下らない映畫を作った「アメリカの國辱」になるだけで、日本側としては、アメリカ映畫の低級さを笑っていればよいのである。
底本:「百日物語」文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2026年3月14日作成
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