社交税
中谷宇吉郎
シカゴの街は、ミシガン湖に沿って、南北にずっとのびている。このミシガン湖にすぐ沿ったところが、シカゴの銀座通りであって、豪華なホテルや、高級品を賣る有名な店が、たくさん竝んでいる。シカゴには、もちろん高島屋や三越に相當するデパートも、立派なものがいくつかあるが、それ等は、この湖岸通りから一段内側の大通りにある。そういうデパートなら、われわれ日本人も、たまにははいることも出來るが、海岸通りの店へは、決して足踏みしてはならない。其處はとんでもないところなのである。
實は、知人の夫人で、裁縫が非常に巧くて、この高級服裝店へ勤めている人がある。先日話のついでに、娘たちが來たら、一枚くらいは、そういう店で作った餘所行きも必要でしょうかね、と聞いてみた。そしたら、とんでもない、一寸したスカート一枚でも、三百弗はとられますよということであった。スカート一枚十萬圓以上もしては、なるほどこれは別の世界の話である。
もっとも話をきいてみれば、それも當然なのであって、こういう店は、服裝店というよりも、むしろ娯樂場なのである。まずドアを開けてはいると、黒い服を着た男と、その助手の女とがとんで來て、一室に招じ入れる。この二人は、最後までつききりなのである。たいていは、顏見知りの番頭がつくのだそうであるが、この點は、昔の日本とよく似ている。
ところで、多くの場合、別に何が必要だというのではないので、まあこの頃の流行は、というような、話をしているうちに、マネキンが、御客樣の氣に入りそうな服を着て現われる。それがいろいろなポーズをしてくれるのを、見ているうちに、自分がそのマネキンのような姿の良い美人になったような錯覺に、次第に陷って行く。そこで隣りの料理店へいいつけて、高級葡萄酒と、つまみものとを持って來させ、その葡萄酒を、番頭にも、マネキンにも振舞いながら、次ぎ次ぎと新流行の服をマネキンに着せてみて、何時間でもねばるのだそうである。
こういう風にして、十分遊んだら、最後にどれか一着註文することにして、御歸館ということになる。こういう店でも、初めから身體に合せて註文ということは少いらしく、たいていは、半製品になっているらしい。もちろん巴里の型などを參考にして、初めから仕立てさせることもあるが、そういう場合は、假縫いの時に、こういう場面が展開されるわけである。
日本では何というか、最後に身體に合せて、少し形を變更する仕事、即ちオートレーションの部に、この友人の夫人は勤めているわけであるが、服がその部へ廻って來ると、ことの如何に拘らず、一着について、五十弗チャージすることになっているそうである。極端な場合は、袖を一寸ちぢめるだけでOKという時でも、五十弗、即ち二萬圓近くここでとられてしまう。もっと極端な場合は、巴里で買って來た服を、念のため今一度オートレーションに來る場合などは、壁に一週間ぶら下げておくだけで、五十弗とるそうである。どうせちゃんと身體に合せてあるのだから、何も手を加える必要はないのであろう。もっとも御本人は、巴里で買って來た最新流行の服を見せたいのであろうから、見せ賃に五十弗拂うと思えば、それでいいわけである。
こういう話を聞いても、私は、何もアメリカの金持は贅澤過ぎるというような感じが起らない。むしろたいへん結構なことだという氣がする。こういう連中がいてくれるので、いい月給を貰える仲間が、たくさんいるからである。一人が絹を何百反と使うわけではないので、同じ物量に對して、十倍も金を拂って、それで自分でも滿足しているのなら、結構なことである。この十倍の金は、けっきょく、一種の威張り賃なのであろう。威張るといっては言葉が惡いので、他人から認めて貰いたい氣持という意味である。もちろんこういう店のものは、何處となくすっきりしている。その點は確かであるが、その「すっきり」代が、たいへんなのである。
アメリカのいわゆる社交界に出るには、こういう税金がかかるわけである。そしてこれだけの高い税金を拂って、得るところは、皆が一寸ふり向いて見てくれるだけのことである。しかしそれで御本人が滿足なのであるから、何もはたから言うことはない。
底本:「百日物語」文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2025年11月21日作成
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