百回の隨筆
中谷宇吉郎
七月の初めに、百回の隨筆といって頼まれた時には、百くらいの話題は、そうむずかしくはなかろうと思って、簡單に引き受けた。
ところが書いてみると、これはたいへんな重勞働であることがすぐ分った。三ツや四ツ書き溜めることは、初めのうちは何でもなかった。しかし少し經つと、大分種に苦しむようになり、それが重荷に感ぜられて來た。そうなると、やっと三ツ書き溜めたと思っても、少し仕事が忙しくなると、二日や三日はすぐ經つので、もう追っかけられることになる。
もっともこれは、初めから話が少し無理だったので、この百日間には、いろいろな計畫が前からあった。七月の末からは、高知の夏季大學に出かけた。これは十何年越しになっていた寺田先生の墓參りを果たす、という副目的があって、どうしても行かねばならない。
高知から八月三日に歸って來て、大急ぎで渡航手續をして、六日の晩には羽田を飛び出した。そして八日の朝から、シカゴの研究所へ顏を出し、すぐ實驗にとりかかった。前に二年間ここでやった實驗の結果を、昨年日本へ歸って來てから、纒めにかかったが、書いて見ると、いろいろ實驗の拔けたところが目について來た。
この研究には、アラスカの氷河から持って來た氷の單結晶を使うので、世界中を探しても、ここの研究所以外ではできない。それで補足實驗を、この機會に片附けてしまおうというのであった。
九月にはいって、ウッズ・ホールの學會が開かれた。これが表向きの渡米目的なので、まる四日間神妙に出席した。そして又シカゴへ歸って、殘りの實驗を片附けた。
九月二十四日の午前、最後のフィルムを乾かして、その晩たって歸途に着いた。歸り道にホノルルで一泊して、今後もしハワイで研究をしなければならないような場合が起きた時の、準備をして來た。桑港から飛行機で、夕方の六時にホノルル空港へ着き、その晩の七時半からのハワイ大學の公開講演に、間に合わせたような始末で、ワイキキの夜は、殘念ながら割愛せざるを得なかった。
日本へ着いて四五日して、札幌へ歸ったが、この頃は、羽田、札幌間を二時間で飛ぶので、今までの北海道とは、まるで觀念がちがってきた。
まあこういう始末の中で、百回の隨筆を書いたわけである。從って出來はよいはずはないが、取り柄があるとしたら、一回も途切れなかったというくらいのことであろう。
こう書いて見ると、慌ただしい夏だったように見えるが、本人は案外氣樂な旅をしたつもりである。交通が發達したばかりでなく、社會の組織がととのってきたためであろう。
底本:「百日物語」文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2025年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。