私の信条

小倉金之助




 ご自分の仕事と世の中との繋りについて、どうお考えになっておられるか?
 この問につきましては、私の仕事と世の中との関連について、ただ現在の感想を述べますよりも、自分の成長過程において、その関連状態がどう発展してきたかを語った方が、当を得ているように考えられるのです。そしてもし私に一貫した信条といったものがあるとすれば、かような成長過程を通じて、その裡から見出されることでしょう。
 私が二十二歳のころ、自分の仕事として数学を選ぶようになりましたのは、全くその当時の境遇と科学研究の興味からきた結果で、何も数学の研究によって世の中のためになろうと、とくに意識したわけではありません。それよりも、むしろ数学を職業として、生活の道が立てられるものならという希望の方が、強かったのです。その当時は郷里にあって、いくぶん家業を手伝っていたときなので、はやく家業を止めてしまいたいという気分からも、反抗的に、純粋な学問の世界に入りたい、と念願していたわけです。
 数年の後には幸にして、ほぼ希望に近い生活に入ることが出来ました。そして「数学のための数学」という心境にあこがれながら進んだのですが、そこまで達することが出来ないでしまったようです。それといいますのも、私は二十一歳から四年の間、学生生活の代りに、ごく現実的な商人生活の一端に触れていましたので、学究としての生活に入った後も、ドイツ観念論のようなものを、現実の地盤の上に立たない、何か空な論理のように考えて、心から受入れることが出来なかったのです。その上に、私は早くから数学の上で、思想的にフェリックス・クライン(一八四九―一九二五)の影響を受けていました。クラインはドイツの学者としては、珍らしいほど理論と応用、直観と論理の統一を心掛けた人で、「純粋数学と応用数学との間にできた溝に橋を架けた人」、また「形式主義の世界的流行に抗して、直観の正当性のために永く戦った人」といわれ、大体において唯物論者に近い自由主義者といえましょう。(現にクラインを自然発生的唯物論者と規定する学者もいるのです。)こういう傾向のクラインの思想は、私を観念論風の著作から遠ざけてくれたのでした。
 しかしそのころは幸徳秋水らのいわゆる「大逆事件」の直後で、「社会」という名のついた出版物は、すべて禁止された時期なので、私は社会上の問題について、殆ど考えたこともなかったくらいでした。その中に、象牙の塔に立てこもっている自分の仕事が、社会のために何の役に立つのか、といった疑問が、ぼんやりと浮びはじめるようになったのは、第一次大戦中の一九一六年ごろからです。それは多分、そのころから始まった、デモクラシー運動からの刺戟による、と思います。
 それ以来、社会ということが私の意識の中に、だんだん明確になってきた過程を示しますため、私の書き残したものの中から、なんらかの意味で、社会に関連のある(またはありそうな)言葉を、拾いあつめて見ましょう。(年号は執筆の年を示します。)
一九一三 健実なる国民を養成。
一九一四 国民の一員として、国民教育、国民の養成。
一九一九 国家のため、一国の経済、近き将来における国民の養成、人本主義の戦士、人生と時代とに触れた教育、生のための数学。
〔一九二〇、二一の二年間は、第一次大戦後のフランスで送りました。〕
一九二二 社会各方面の人々、社会問題。
一九二三 極端に神聖視された国家組織、一般人民、人道主義。
一九二四 社会状態、人間社会の生活、近代社会、近代社会力。
一九二五 社会、社会生活、社会化、社会的目的、社会科学。
一九二七 社会意識、社会科学。
〔一九二八年から数学史に興味をよせ、ついに専らその方面の研究に向うようになりました。〕
一九二九 社会組織、社会的経済的規定、階級社会、支配階級の利益と関心、科学の社会性、数学の階級性、階級社会の算術。
〔これより以後については、一々掲載の必要がありますまい。〕
 この表によりますと、留学以前でも、一九一九年ごろになると、社会が、潜在意識として、考えられていたとも、いえるようですが、はっきりと私が社会という言葉を使用しはじめたのは、フランス留学から帰った直後であること。そして「階級社会」というはっきりした言葉は、数学史の研究をはじめてから使用し出したことが判るのです。一九二二年から一九二九年に至る期間は、あらゆる意味で、私の学問的転換期でした。
 私は留学中、特にフランスの社会状態について調べたわけでもなく、そういった点では、二年間を殆ど無意識に過したのでしたが、しかしいつの間にか、いろいろの意味で、デモクラティックな感化を受けたものらしい。それは文章でもわかります。留学前には邦文の学術論文を、私は殆ど全部文章体で書いていましたし、外に何か口語体で書いたものがあるにしても、ごく堅苦しい感じのものでしたが、帰国後になると全部口語体となったのです。実際の仕事としましては、数学の研究の外にも、科学の大衆化や、数学教育の改善のために努力し、そのために相当多くの時間を割くようになったのです。それからはわが社会の烈しい風雲の動きを眺めながら、二、三年の間、病床で日を送ったのでしたが、恢復の後に、間もなく取りかかったのが、数学史の仕事でした。
 それから後は、いつでも社会との関連において数学を見るようになり、特にそういう立場から、数学史を研究したり、数学教育や数学の大衆化について、ささやかな仕事をつづけて来たのでした。もっとも日華事変以来終戦にいたるまでは、言論束縛のために、十分に突っ込んだ数学史の研究・発表は不可能となりましたし、また敗戦後は不健康のために、十分まとまった仕事が出来ないでおるのですが……。
 そういう点を一応考えに入れました上で、そんなら、はっきりした社会意識をもってからの仕事と、それ以前の仕事を比較しますと、価値の上でどういう変化が起ったでしょうか? この問は、――私の場合にかぎらず、一般に――学問に志す人々にとっては、相当重要な課題であると思います。ただ残念なことに、私の場合には実は比較や評価が困難なのです。なぜかと申しますと、第一に、前の方は数学の研究なのに、後の方のは数学史の研究であって、非常に性質の違ったものなのです。第二に、数学についても、また数学史についても、私が力を注いだ研究と同じ種類や傾向のことについて、特に研究している人々は、その数が極めて少いので、真面目な批評に接する機会が非常に少いのです。(こんなことを自身で語るのもおこがましいことですが、力学と幾何学の両方に跨がった、一九一八―一九年の一連の仕事など、世界中で何人の人が読んでくれたでしょうか?)いずれにしても立派な大研究なら、こんなことはないはずですが、私のようなささやかな研究では、それが当然なのかも知れません。そういうわけですから、社会意識にふれた以後の仕事が、――ただ純然たる学問だけの立場からでは、――果して以前の仕事にまさるかどうか、自分には何とも判断が出来ないのです。けれども、もっと広い立場から、私としては、現在のような仕事の方が、自分の仕事としてふさわしいと考えております。その方が少くとも民衆の科学として意義があり、民衆の幸福のためになるのではないか。こういう考えの下に、仕事を進めているのです。
 ところで科学史がほんとうに意義のある、生きた科学史であるためには、決してただ昔の話としてではなく、現代の課題と十分のつながりを持った、批判性の高いものでなければならないはずですが、半封建的な日本の科学界では、まじめな科学批判は禁物だったのですから、私はしばしばタブーを冒さなければなりませんでした。たとえば私は、一九〇二年日本最初の厳密な国家的教育統制が行われたとき、数学界の元老たちがどういう役割を果したかについて、徹底的な批判を行いましたが、それはかような批判をしなければ、大正以後におけるわが数学教育のおくれを説明することが出来ないばかりか、かような国家的統制の失敗を明かに伝えることなくして、何の数学教育史ぞや、と考えたからです。
 また今日でも大多数の知識人は、日本近代の数学といえば、すぐに菊池大麓からはじまるかのように思っていますが、それはちょうど憲法といえば、すぐに伊藤博文からと考えるようなもので、それこそ実証性を欠いた迷信に過ぎないのです。私たちは東京大学関係の人々が、数学界を独占する以前における、海陸軍関係や民間の数学者たちが行った、基礎工事を無視してはならないのです。こういった基礎工事はある意味では、ちょうど自由民権運動――国会開設への基礎工事――に相当するもので、十分に注目すべき事実なのに、誰もやる人がおりませんので、私は自分で少しばかり調べて見ました。明治以来の科学史といえば、ただ研究上恵まれた科学者たちの礼讃だけに終りがちなのは、甚しい偏見であるばかりでなく、庶民的感覚を全然失ってしまったような科学史なら、ほんとうの歴史の名に値しないのではないか。――こうも思われるのです。
 しかし、科学史の中で一番大切なのは、何といいましても、現代史に相違ありません。ぜひ、そういうものに手をつけたいのですが、ある程度まとまった資料が手近かになければ、それも出来ないことです。それで私は自分にできそうな範囲の仕事として、ちかごろ病間を見ては、二十世紀の数学教育について、まとまった著述をやりだしております。もちろん、かような仕事をやる以上、そこには当然批判がはいりますので、それについての一切の責任は、自分で負わなければならないし、他人の感情や自分の利害を考えては、やれる仕事ではありません。私は覚悟をきめて、仕事を進めております。
 終りに政治的立場の問題について、一口だけ申しましょう。今日では、政治的に絶対的無色だとか、政治的関心を持たないなどという立場は、事実上、あり得られないことです。ところが自然科学者の政治的自覚は、ひどく立ち遅れていますので、私はどうしても自然科学者の政治的関心を高めなければならないと考え、ずい分長い間微力ながらも、私にとって出来るだけのことは、やって来たつもりです。それと同時に、ほんとうに学問の研究に従事するものは、どうしても精神的に自由を得なければならないと考えます。少くとも私自分としては、本能的にといってもよいほど、精神の自由を愛していると考えております。
 最後に、私は、社会への関心というのは、決してただ社会を知ることばかりでなく、結局、もっとよい新しい社会建設への関心を意味する、という根本精神だけは、どんなことがあっても決して忘れないで、一生を終りたいと思います。

 この世で何を失いたくないもの、残しておきたいものと考えられるか?
 この問には、具体的な形では、とても答えられませんから、ただそれについての、極めて大ざっぱに一般的な、普遍的原則を挙げるに止めましょう。
 世の中というものは、各時代の社会状態を反映しながらも、案外うまく自然の間に淘汰をするもので、永い間には結局残るべき意味のあるものが残り、意味のないものが滅ぶというのが、一般的な事実であろうと思います。それですから、
 (1) 制度や組織や精神的なものの中、社会や科学技術の進歩につれて、自然に滅んで行くようなものは、特に残しておきたいとは思いません。
 (2) もちろん、一方では戦争や暴力革命などから来る被害は、避けたいものです。また支配階級の都合ばかりによって、(あるいは無理解から、あるいは意識的に)、制度、組織や精神的なものや物質的なものを、滅ぼすことのないようにしたいものです。その時期には有害無用と思われるものが、後になって大いに必要となることが、実際いくらもあるのですから。
 (3) 物質的なものは、出来るかぎり、あらゆる種類にわたって、保存したいと思います。国宝とか重要美術などという物ばかりでなく、特に庶民の生活を伝える物品を、――各都市町村でそれぞれに――永く保存したいものです。物にはどんなものにも、皆それぞれの価値があります。物を損わしたり燃やしたりするのは、易いことですが、もとに戻すことは不可能なのです。それに後世になって、どんな人が、どんな目的で、どんな物を見たいのか、調べたいのか、研究したいのか、それを今から予想するのは、ほとんど全く不可能なことです。
 こういう意味で、私は喜んで偉大な吝嗇漢でありたいのです。





底本:「現代日本記録全集9 科学と技術」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「世界」岩波書店
   1953(昭和28)年発行
入力:sogo
校正:持田和踏
2023年9月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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