簡約医学史

A Concise History of Medicine

ウィリアム・オスラー William Osler

水上茂樹訳




 過去3世紀のあいだに英語を話す人たちが平均的に働く一生は2倍になった。一部の人たちは現在と同じであって、人によって強く運が良い人たちは長期間にわたり能率の良い労働力を持っていた。しかし一般人の一生は現在の中年になると使い尽くされてしまった。シェークスピア(1564-1616)の時代に50才は立派であった。「由緒あるランカスター家のジョン・オブ・ゴント老(1340-99)」がそのように呼ばれたときには58才であった。コリニー提督(1519-72)は暗殺されたときに53才であったが当時の伝記作家は非常な老人と書いている。今では60才代で死んだと聞くと、まだ若く活気があり、そんな年で無いのに倒れたと直感的に感じ、80才でも死神の鎌に丁度良いかなと思う。このような変化を起こしたのに3つの要素があり、肉体的な快適さの進行、医学とその小間使いの衛生の女神、および外科学である。そして、恐ろしい実際の苦痛、今日までのどの時代にも拷問である肉体的な苦痛、および前世紀まで殆ど和らげられていない苦痛、を緩和するのに医学は比べものなく先頭に立っている。
 確かに前世紀に良い基礎が置かれて、人々は真の科学的精神で働いた。偉大な教師たちは前提になる本質的な問題すなわち身体の構成と機能を研究するように後継者を激励した。オランダの力強いブールハーフェ(1668-1738)は臨床観察に革命を起こした。イタリアのモルガーニ(1682-1771)は(ウィルヒョウ(1821-1901)の言葉によると)「解剖学的な考え方を医学に導入して」1世代後にドイツのハラー(1708-77)が生理学で行ったのと同じことを病理学で行った。その頃にジョン・ハンター(1728-93)は外科手術に基本的な改良を行っただけでなく、解剖学および生理学の問題を研究した。しかし推測や観察の不完全な解釈にもとづく古い理論の影響は、開業医の身体の上に重くのしかかっていた。18世紀の主な一般理論はエディンバラ大学のウィリアム・カレン(1710-90)とその弟子で助手のジョン・ブラウン(1736-88)によるものであった。前者は古い「体液」理論から大きく前進して正しい進路の上に乗って神経系を病気の座(場所)にした。後者はすべての病気を2つに分けた。亢進ステニアすなわち過剰な興奮によって起きる安静で治療するものと、無力アステニアすなわち興奮が低いと起き刺激により治療するもの、の2つであった。ヨーロッパ大陸ではライプチヒに住んでいて1795年から1810年にかけて偉大な学説を提起したハーネマン(1755-1843)はすぐ後に「ホメオパシー」(*患者の症状と同じ患いを起こす薬剤の使用)によって反対を受けた。この「ホメオパシー」は後にこの名前で呼ばれたものと非常に大きく違うが、根本的な基礎は残っている。その昔にヒポクラテスが述べていた「似たものは似たもので治る」という彼の理論は別として、理論をまったく否定して、見ることができない病理的変化について何かを知ることは不可能であると宣言した。我々は症状だけを知ることができるのであって、もしも症状が取り除かれたら必然的にそれを作った病気もまた無くなったことを示している。彼はまた健康な人にある症状を起こす薬量は病人にも多すぎることの明らかな証明であると主張した。さらに治療能力を持つ薬量は感覚や化学分析で知ることができないほど少なければならないとした。磨り潰すこと、すなわち希薄にしてよく混和すると分子変化が起きて効力が無限に増すと主張し、彼はこれを「ダイナマイゼイション」(動力化)と呼んだ。症状と経験を極端に重視したのは、根拠の無い理論に頼る当時の傾向への反作用であり、無限に少ない薬量のパラドックスは、バケモノのような丸薬と飲み薬で患者が害を受けていることへの反対であった。両方の反対はともに有用なではあったが、彼はさらに丸薬を近くに置くと子供は眠っているあいだに治ると宣言するところまで進んだ。
 しかし想像による理論も手探りの経験主義も極端な方法として支配するのは終わり、最初の大打撃はこの世紀の最初の年に現れた。他の国が群がっていたが、フランスは先頭になった。数学者クリフォード(1845-79)が34才で亡くなったと同じように31才で死去した天才ビシャ(1771-1802)は死去の前年(1801)に一般解剖学の著書を刊行して、諸臓器は共に膜と組織を持ち、従って病気の座は臓器そのものではなく構成している組織にあるのを示すことによって医学全体を再構成した。これはアルファベットが象形文字を簡単にしたように解剖学と生理学を簡単にしただけでなく、病理学的変化の研究を完全に新しい道筋に導いた。この仕事と並行してモルガーニの足跡を追った人たちは彼の病理解剖すなわち臓器の外見の研究を行っていた。これもまたビシャの発見にもとずいて形を変えていった。1808年と1816年にパリのブルセ(1772-1838)は価値ある著作を刊行した。彼の理論はブラウンのステニアとアステニアの考えに過ぎなかったが、病理解剖学および局所病変の研究を新しいものにした。打診法はウィーンのアウエンブルガー(1782-1808)により1761年に考案され、パリのコルヴィザール(1755-1821)はこれを復活させた。しかしコルヴィザールの弟子でブルターニュ人であるパリのラエンネック(1781-1826)の聴診法の導入は大きな効果を産んだ。彼は聴診器を発明して肺、心臓、腹部臓器が動いているときの音の変化によってそれらの病気を診断した。そして彼がこれを使ってこれらの臓器の病気を観察したことはブールハーフェ以来の臨床における最大の進歩であり、現代の臨床医学の基礎を作ったと言うことができよう。1827年にロンドンのリチャード・ブライト(1789-1868)はブライト病とも呼ばれている腎臓の病気(*糸球体腎炎)の本性の認識および腎臓病の一般的性質ついて刊行した。これは腎臓病についての我々の知識の基礎である。
 この世紀の最初の半分における特別な研究と解析は、長く続く発熱を鑑別することであった。新しい医学が興隆して以来、開業医および理論家にとってもっとも活発で気がかりな戦場であった。ここで発疹熱とマラリア熱はよく鑑別されていた。最初に鑑別されたのは腸チフスでありパリのルイ(1787-1872)によって行われた。彼の弟子であったフィラデルフィアのW・ガーハード(1809-72)およびアルフレッド・スティレ(1813-1900)と一緒にC・W・ペノック(1799-1867)、ボストンのB・シャタック、はそれまで曖昧に一緒にされていた腸チフスと発疹チフスは同じような原因で起きるとはいえ、それぞれ独立の病気であることを証明した。これはグラスゴーのA・P・スチュワートおよびロンドンのウィリアム・ジェンナー卿(1815-1898)によって確認された。この仕事に関係したのはダブリンのR・J・グレーヴズ(1797-1863)とウィリアム・ストークス(1804-78)、ロンドンのジョージ・バッド(1808-82)およびアメリカのダニエル・ドレーク(1785-1852)、S・H・ディクソン(1798-1872)、およびオースティン・フリント(1812-86)であった。この仕事は1860年までには発熱クリニックに関して正しく基礎づけられていた。

アメリカにおける発展
 19世紀が始まったときにアメリカに医科大学は3つしかなかった。そのうちハーバード・カレッジおよびペンシルバニア大学に関連した2つの医学校が重要であり、総合病院も2つしかなかった。医学教育はある程度に神学校と地盤を共通にした。医師は何年間か徒弟となり聖職者は神学における個人的な弟子をとった。もっと体系的な医学教育を希望し経済的にできる人たちはロンドンまたはエディンバラに行った。医学の文献はほとんど全て英国のものおよび(翻訳された)フランスのものであった。ラッシュその他の何人かは著書を刊行したが新しいものではなかった。2−3の医学雑誌だけが存在した。個人所有のものを別にすると2つの医学図書館だけがニューヨークおよびペンシルバニアの病院に存在した。もっとも高名な医師はフィラデルフィアのベンジャミン・ラッシュ(1746-1813)およびフィリップ・S・フィジック(1768-1837)であり、ニューヨークのデイヴィド・ホサック(1769-1835)およびサミュエル・ミッチル(1764-1831)であり、ボストンのジェームズ・ジャックソン(1777?-1867)およびジョン・C・ワレン(1778-1856)であった。小さいところにも有能な人たちが居たがあまり広く有名ではなかった。たとえばシンシナッティのダニエル・ドレーク、およびダートマスおよびイェールの医科大学の基礎を作ったネーサン・スミス(1762-1829)である。しかしビシャ、コルヴィザール、ラエンネック、ルイ、その他のようなフランスの研究者たちがこの世紀の最初の四半世紀に高名になり、アメリカのますます多くの学生たちがフランスに行くようになり、彼らが持ち帰った新しい精神はアメリカの医療にしばらくのあいだ革命を起こした。しかしアメリカの人口は莫大に増加して、正当に発展する以上に医学知識が早く蓄積するこおの要求が大きくなった。群集が必要とするほど早く教育ある医師たちを作り出すことは出来ず、時代は半製品の黄金時代であった。多分、大衆たちもまた医学においては公職におけると同じように訓練が不必要である(*専門家は不要)という考えを持っていたのであろう。機械装置は無限に何倍にもなり製品はそれに応じて価値が下がった。1870年まで医学校は公立も私立も至る所に作られ、志願者を獲得する競争が標準を非常に低下させた。卒業証書は2年で与えられ、授業時間は短かった。当局は厳しい勉強や注意深い実験を強制する気が無いので、教師たちは有能な教育を時には与えることができなかった。新しくずっと高い基準を最初に要求したのは1870年ごろのハーバードであった。この国の残りの場所においても優れた施設がこの先導に急速に続き、大勢の教育ある上流階級が医学だけでなく他の学部においても徹底した教育の必要性を認識し、医学は大きな科学であるだけでなく繊細な技術であることを理解した。いつものように金持ちたちはしかるべく寄付する場所があったら喜んで寄付する気があり、研究実験室および総合病院や専門病院の両方に気前よく寄付した。場所が許すならばこれらを数え上げるのは感謝を示す仕事である。ここではピアポント・モルガンとアンドリュー・カーネギー、ジョンス・ホプキンスとヴァンダービルト、シムズ、ストラスコーナ、マウント・スティーヴン、ペインおよびレインの名前だけをあげる。

研究方法
 もちろん前世紀が医学または生理学の実験を発明したわけではなかった。この方法はギリシアおよびローマの偉大な医師たちが認識し、2人の偉大なベイコン、ロジャー(1214?-94)とフランシス(1561-1626)、によって使用され、ハーヴィ(1578-1657)によって完全に発展され、優れた手法を使ってハンターによって利用された。しかしこれらの偉大な人物は正しい考えに不足したわけではないが、我々の時代になって徐々に作り上げられた道具や大量の実験器具を持たなかった。研究実験室は19世紀に、しかも中葉に向けて発達した。そこで研究者は3つの主な方向に向かっていた。すなわち、健康時における臓器の条件および機能、病気によって起きる変化の本性と機能の変化およびその変化の原因、およびその障碍を起こすものを中和することができる予防または治療の作用、であった。これらの研究の結果は新しい知識を作り上げ、1800年における知識とくらべてさえ大人と赤ん坊の関係がある。生理学および病理学における新事実は単に考古学的な興味のある前世紀において蓄積された知識を残しただけでなく、いかなる権威の支配からも我々を引き離す。今日のどのようにまともな結論であっても作業仮説に過ぎず、いつでも新しい事実によって廃棄されなければならないことを認識している。すなわち真の科学精神である。生命のどの部分、消化と同化、循環、呼吸と排泄、生殖と指示の機能、はすべて光の洪水によって照らされてきた。これは特に脳の研究において驚くべきものであり、脳の機能は触れることができないし手に入り難く、被験者を傷つけずに実験を行うことは明らかに全く不可能である。感覚および運動のインパルスの経路と働き、機能が存在する場所、思考と記憶の機械的な手段、の秘密に深く入り込んだだけでなく、以前には夢見ることが出来ず夢で見ることが出来たとしても使用できると思ったこともないかなりの数の治療法を利用することに成功してきた。
 この時代に顕著な特徴は専門化の発達である。ここで知識または判断の調整および幅の不足を、他の方法では不可能な知識の発展とを相殺しなければならない。科学的に言って事実表示の領域を広げ深めることにおいて、他の方法はこれ以上に強力ではない。実際に他の方法は医療の発展にこれほど効果的ではなかった。この専門化はその昔の無教育で単に当てずっぽう経験主義の「肺医者」や「熱医者」と混同すべきではない。ここで言う専門化とは総合的な医学知識および専門における完全な教育を基礎としているものを言う。1つの限られた領域、すなわち女性、子供、目や耳、喉、歯、脳の病気、またはそれ程まで限定されてはいないが心臓、肝臓、その他の臓器を得意の領域、とする医師たちが、医療において最も注目すべき勝利を得てきた。アメリカの医師たちは歯科および眼科、ならびに婦人科学または女性の病気を専攻した人たちの、完全に先頭に立っていた。この婦人病専門においては、女性の特殊な病気において生命と健康を保ち、ふつうの病気の女性だけでなく男性の身内および彼らの子供たちに与えた祝福は高く評価しすぎることはない。
 この専門化において最も優れているのは精神科であり、研究の結果としてこれに対する大衆の精神的な態度の変化は最も目覚しいものであり感謝に満ちている。主として中世期に見られた嘲りの態度、神のわざとしての哀れみ、または単なる恐れおよび嫌悪、から同情をもって研究されるようになり、しばしば軽減され、そして常に単なる機能疾患として認識される。我が国のラッシュ、イギリスのテューク(1732-1822)、ドイツのヤコビ(1775-1858)とハッセ、およびフランスのピネル(1745-1826)とエスキロール(1772-1840)の努力によって、この改革はすべての文明国において精神的な障碍を科学的に研究するだけでなく、そのケア(介護)とキュア(治療)に人間的で合理的な方法を導入する医師たちの一団を創り上げた。アメリカは精神障害者の治療で他の国に遅れを取らなかった。しかしアメリカにおける多くの良い理想にとっての呪い、すなわち政治、は未だに多くの州においてこの科学を壊すものであった。

予防
 「予防は治療より優れている」の最も輝かしい例は19世紀に見られる。古代までさかのぼると、国家は病気が最も盛んである主な条件を把握していて、我々が改めて達していないほどに公衆衛生体制を推し進めていた。モーセの律法は清潔、隔離、食物の強調においてすばらしい例を提供している。ギリシア人は食事、運動ならびに運動を完全に体系化して、彼らの理想は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(そして運動の専門家は耐久力が無いので良い兵隊にならないことを見出した)であった。ローマ人やギリシア人はイギリス人以上に殆ど執着と言えるほど入浴を好み、当時の公衆慈善家は図書館ではなく市に浴場を寄付した。しかし現代の科学はさらに進んでいる。病気そのものを作る原因を見つけて除いたり無効にする。18世紀にこれに光が当てられた。キャプテン・クック(1728-1779)とギルバート・ブレーン(1749-1834)は壊血病を起こす条件を認めて除いた。ジェンナー(1749-1823)はさらに進み種痘によって新しい予防医学を予想した。しかし、これらのすべては科学的基礎が与えられるまでは、単なる弱くて手探りの試みに過ぎなかった。この基礎は細菌学によって与えられ、後に述べる説明を理解するために少し述べなければならない。

予防医学の細菌学的基礎


 古代人たちは生命の起源について、大きな熱意を持ち時には深刻に推測し、病気と生きている小虫はある点で関連していると考えていた。そして病気と腐敗の関係を疑わなかった。最初の劣っていて粗雑な顕微鏡が発明されると腐敗している生物の研究に使われた。イエズス会士キルヒャー(1602-80)は1671年に腐ったミルク、チーズ、肉で「小さい虫」を調べ、1675年にオランダの商人レーウェンフック(1632-1723)は自分のレンズを改良して雨水、唾液、腸液、腐敗した物質に「アニマルクラ」を研究し、彼の時代の医師たちはこれらの生物がすべての病気の原因でないかと早くも疑って示唆した。1762年にウィーンのプラインスはすべての条件で液体を研究して、この信念に固く執着した。しかしこれは全部ではない。これらの生物は何処から来たか、これらは自然に発生したか、または他の身体から移ってきて増殖したのだろうか? 顕微鏡があるにもかかわらず、自然発生の理論は頑固にこの世紀の半ばを過ぎるまで続いた。ある有名な化学者は注意深い実験を行った結果として小虫は自然に発生したのであり、この生物は既に存在している形態であるという証明も彼および彼の支持者を信じさせることは出来なかった。これは1861年のパストゥール(1822-1895)まで残しておかれ、最終的に1876年(コッホ(1843-1910)とコーン(1828-1898))によってこの理論は永久に潰えた。最初の発見に続いてすぐにポランデ(1800-1879)とダヴェーヌ(1812-1882)によって炭疽菌が1863年に発見され、すぐ続いてリスター(1827-1912)の外傷感染の画期的な研究が行われ、無菌外科学の勝利になった。続いて回帰熱、ハンセン病、腸チフスのそれぞれの細菌が単離された。しかし何よりも大きな困難を克服したのはローベルト・コッホの1882年における結核菌、1884年のアジア・コレラの細菌の単離であった。それから他の病気の病原菌の一群が発見されたのに、不幸なことに数は少ないが最悪のものが、動物および昆虫だけでなく人間の病気が研究されても、解明されないで残った。
 発見の歴史はこれで終わりとしよう。しかしこれらの菌とは何だろうか? 普通人の考えはこの問題で非常に悩まされている。細菌はふつう一種の虫と考えられている。実際にこれらは動物の仲間ではなく植物界に属していて知られているうちで最小の生物である。これらはジェリーのような原形質がまったく木材線維のように固い膜で包まれている。これらは形によって3つのグループに分類される。(球形の)球菌、(棒のような)杆菌、(コルクせん抜き様と言うか波型の)らせん菌、である。球菌は2つ、4つ、房、または連鎖状、をしている。この中には直径が1/150,000インチと小さいものがある。杆菌は大きいが違いが大きく、長さが1/25,000から1/4,000インチで幅が1/125,000から1/16,000インチである。このうちには運動に使う鞭毛と呼ぶ器官を持っている。らせん菌はもっとも長くて時には1/600インチもある。これらはすべて分裂によって2つになるか、胞子すなわちたねを作ることによって増殖する。この増殖は速いようには見えないが、それは我々が古くからの算術的な策略キャッチを忘れているからである。毎時間に1回分裂する細菌は24時間で8,388,608になり、3日では口で言えないほど大きい数になり7,500トンの重さになる。勿論これは背理法によるものであり、これらが餌に利用しているものはこの系列の初期に使い尽くされてしまう。しかし餌が無くなるほかに自然はこの増殖を抑える他の方法を持っている。
 この点を論ずる前に細菌全体の本性を見ることにしよう。細菌を単に病気および死の原理であると考えるのは誤解である。これらは生命の普遍的原理でもあり、有害な少数種は善いことをする何百万の中に隠れている。しかしこれらのために生物の存在は崩壊する。地球上の最初の生物は細菌、すなわち生きてゆくのに窒素のみを必要とする生物、であり、生命は彼らの増殖を意味して居る。細菌は空気や水に沢山いて、土壌中では9フィートほどの深さまでいるし、すべての生物の外にも中にもいる。しかし当然それらの数は存在を保つための条件によって変化し、極端な標高や氷河の氷にはいないし、極地にも深海にも殆どいない。必要な条件とは(1)湿度でこれが無いとすべて死ぬ。(2)空気であり、これに関して3種類がある。空気が無ければならない好気性菌、空気があってはいけない嫌気性菌、どちらでもよい通気性嫌気性菌、である。(3)食物で、ある種のものには生きている組織でなければならず、大部分のものには死んだもので良いし、あるものにとってはミネラル塩と大気窒素でかまわない。(4)温度、生きているためよりは増殖のための両極端は華氏32度から170度で、好ましい範囲は60度から104度で、病原菌は(進化が意味するように)最適なのは98.4度すなわち血液の温度である。(5)光のうちで直接な日光はすべての菌を殺すが、普通の自然光は大部分のものにとって意味が無い。
 これらは莫大な数なので、ほとんど奇跡のような確かに超人的な成果をあげるような力を持っている。農場の生産物や乳製品、食肉用家畜または羊毛、皮革や角、多くの家庭用品、は細菌のお蔭である。細菌は我々の水道を汚染からまもる掃除人であるとともに、あるものは害からまもるために力を引き出している。さらに驚くことに確実にエンドウ豆やインゲン豆および多分すべての植物は、根にすんでいて窒素を含む鉱質を分解し、空気中の窒素を利用して、両方を植物に栄養物として与えている細菌を通して、土地から生命を得ている。
 したがって健康と病気の過程は同じように細菌の機能である。医科学が特に関係するのは、普通に「感染」と呼ばれている有害な細菌の拡散の過程ならびに発現を追求し、この体系が細菌を飢えさせたり毒殺する自然の傾向を強めるための方法を追求することである。予防ならびに治療の段階に進む前に、細菌が如何に入り、効果を如何に現すか、およびこれに対する身体の反応がどのようなものであるかを、短く示さなければならない。
 まず第1の細菌が入る方法は当然のことながら限られている。動物か昆虫に噛まれること、切り傷またはすり傷、感染した空気を吸うこと、細菌を含むものを食べたり飲んだりすること、による。特別な例は後に考察しよう。細菌の作用は毒素トキシンとして知られている毒を作ることによる。これは疲労感、食欲不振、はっきりしない全体的な不快感や、もっとはっきりした痛み、頭痛、熱、組織の炎症、たぶん全身の知覚麻痺を起こす。身体の反応は複雑であり困難であり、完全に研究しつくされてはいない。しかしある程度は知られている。正常の血液や組織は殺菌力を持っているが、完全に健康であっても身体によって違い、特定の菌にたいしてはもっと違い、身体によって適する菌と有害な菌とがある。菌の増殖に土壌が適しないことによって身体が菌にたいして戦うことを「一般的抵抗」と名付け、普通の病気にたいする免疫はこの力に頼っている。そして予防接種の秘密は、ある特定の細菌の増殖に適している土壌が食べ尽くされたら、新しい増殖は極めて遅くなることである。病原菌は生き延びる場所が無いので寄生場所を入手できない。しかしこの受身の抵抗に加えて能動的なものを遊走細胞である白血球すなわちリューコサイト、および主として侵入された組織だけでなく脾臓およびリンパ腺の細胞が行っている。これらなどは毒素のあいだで働いて化学組成に変化を起こし、最終的には抗毒素アンタイトキシンすなわち毒素を迎え撃つものを作り、これは毒素を中和して細胞が病原菌にたいして戦争を行い、これらに打ち勝つことができる。そして前に言ったように回復すると、同じ種類の細菌による将来の破壊に抵抗する部分的または完全な免疫が与えられる。
 しかし、この過程を短くしもっと確実にできるなら、抗毒素は病原菌が来るより完全にさきに働くことができたら大きな予防および防止の体系を得ることができるであろう。そしてもしも抗毒素が同様な病気で使われると身体の自然力を強化して病気を負かすのを助けることができるであろう。これが新しい血清治療体系であって1877年にパストゥールが開始しその後で一連の優秀な実験家たちが続けたものである。感染した血液の血清が患者の血液に注射する媒体に選ばれる。パストゥールはトリ・コレラで、レイノー(1834-1881)は牛痘で、この国ではサーモン(1850-1914)とスミス(1859-1934)が1866年に豚コレラにたいして、もっとも有毒な病毒を前もって接種して動物を治癒させ、健康な動物を免疫にすることによって、この治療法が有効であることを完全に証明した。しかし1892年にベーリング(1854-1917)がジフテリア抗毒素の価値に反対できないことを発表するまで、これらはあまり活気の無い興奮を引き起こしだけであった。不思議なことに素人だけでなく多くのばあいに医師もこれに反対した。部分的には誤解からであり、一部は動物実験にたいする人道主義からであった。これらの反対者の大部分は決定的な事実の重みおよび支持者たちの華々しい業績によって打ち負かされた。ジフテリアの死亡率だけについても、まだ10年にもならない血清療法の導入によって半減した。
 感染症にたいするすべての抗血清を作る一般的な方法を示すにはジフテリア抗毒素の製法がモデルになるであろう。ジフテリア菌をアルカリ性のウシ肉汁で8日から10日培養すると特に有毒な毒素を作らせることができる。それから毒素を単離してその活性を正確に測定し消毒した容器に入れて別にする。実験によって最も適した動物である健康なウマの首または前身1/4に20mlの毒素およびたぶんその半分の抗毒素を5日置きに3回注射する。それから1週間置きに毒素だけを注射して、最初だったらすぐに生命に危険な量にも耐えるようにする。2月後に採血して血清を確かめる。もしも満足であったらもう1カ月のあいだ前と同じようにすると、ふつう最高質の血清が得られる。次いでこの動物を充分に瀉血して血液を消毒した容器に入れて冷蔵庫に置く。血液凝固が終わると血清は凝固塊から吸引しその活性を実験室で正確に測定し、保存するために殺菌剤を入れ、使用のために瓶に入れる。破傷風および毒蛇に咬まれたときに使う抗毒素は同じように作られる。今世紀にはたぶん全ての感染症およびすべての毒素に細菌性の抗毒素が存在することになるであろう。

予防医学の個々の結果


 予防医学においてすでに行われた業績の要約は、細菌によって起きるヒトや動物の重要な病気についてのノートによって、多かれ少なかれ制御されて最高に得ることができる。しかしここで述べた天然痘および狂犬病(前者は種痘によって殆ど絶滅している)だけでなく、猩紅熱および麻疹の病原菌はまだ単離されていないことに注目しなけれならない。理由はこれらが極めて小さいからであり、牛肺疫菌は顕微鏡下で殆ど見ることができないし、微生物は細菌ではなく未知の生物かも知れない。
 これらの病気はいろいろに分類できるが、あるものは特別な分類が不可能である。しかし我々は過去の大きな天罰から始めよう。これらは直接の原因ではないとしても不潔、過密および一般的な不衛生によるものであり、その毒性および破壊性が原因である。
(1)ペストの大流行、または腺ペスト
 過去におけるこの病気の恐るべき破壊は繰り返して記載する必要は無いであろう。これは13世紀の後半にヨーロッパの人口の1/3から半分を殺した「黒死病」であった。長いあいだ殆ど消失したと考えられていたが1894年に恐ろしい強さで香港に再出現しインドに広がり幾つかの機会で激しく急激に出現しトルコや地中海沿岸のある部分で暴れまわり少範囲ではあるがグラスゴウ、南アメリカの港、ニューヨーク、サンフランシスコに現れた。しかし西ヨーロッパおよびアメリカでは容易に抑えこまれインドでは血清接種がかなり有効であった。この細菌は皮膚の傷から入り主として感染したラットからのノミに刺されたことによる。
(2)アジア・コレラ
 この恐ろしい疫病は19世紀半ばにさえアメリカで数千人の生命を奪った。今では完全に制御されていて出現しても商業の妨げにならない。これはインドのガンジス川の両岸に始まったもので、コッホはここでコレラのらせん菌とその広がる方法を見つけた。これによると殆どが感染した水を呑むことによって起きて接触によるのは稀であって、1873年以降にイギリスおよびアメリカで入国港以外に感染は殆ど無くなった。市の防疫が水の供給に依存していることは1892年におけるエルベ川の2つの市に示される。川の水を濾過せずに使っていたハンブルクは18000人の患者と8000人の死者が出た。濾過場のあるアルトナで患者は516人であって主としてハンブルクからの避難民であった。
(3)発疹チフス
 これが西洋で如何に絶え間ないものであり恐ろしい呪いであったかは信ずるのが困難であるが発疹チフスの歴史はヨーロッパの歴史であるとある研究者は言っている。大都市のすべてにおいて、野営地および船において、病院や監獄で、これは殆ど絶え間が無く、死亡率はぞっとさせるものであった。これは完全にゴミと過密によるものであって、単に市の衛生、物資やゴミの輸送および良質の水供給によって数少ないスラムを除いてこの病気は絶滅した。感染率はイギリスで百万人あたり1,228人(当時は区別されていなかったので発疹チフスと腸チフスの合計)から1838年に腸チフス137人と発疹チフス3人に減少した。
(4)腸チフス
 この病気は長いあいだチフスと同じとされていたが、今では別なものであることが知られただけでなく、発生条件の違うことが判っている。これはゴミや過密よりも下水管ガス、汚染した水、ミルクが原因である。綺麗な水と完全な下水が与えられた市はよくあるように感染源からミルクが供給されていなければ、現実にチフスは存在しない。ところが海辺の保養地は悪名の高いこの病気の発生地である。砂の掘り抜き井戸および過密な戸外便所から水が入る。細菌は1880年にエーベルト(1835-1926)によって発見されチフス菌と名付けられた。我々の都市でこの病気が続け様に流行したのは一部にはこの菌が非常に丈夫なためであり、治癒の後でも患者の身体の中で生き続けて汚染の手段になるからである。スペイン・アメリカ戦争で流行したのは過密のためのようであるが、むしろ海辺の例のように過密による汚染が理由のようである。田舎では不思議でないようである。地方生活には衛生が無く井戸は完全に無視され、時には家畜小屋の斜面にあった。典型的な例はペンシルバニア州のプリマス(人口約8000)で冬のあいだに腸チフス患者の排泄物は町の貯水池に入る流れの堤に捨てられ春になると融けて中に入り町に腸チフスが流行し1200人が死亡した。沸騰させた水と蒸留水の氷を使い、乳製品製造および水源の環境を完全に監視するのがしかるべき注意であり、医者および看護婦は排泄物を消毒するのが、真の予防である。
(5)ジフテリア
 この杆菌は1883-4年にクレプス(1834-1913)とレフラー(1852-1915)によって発見され2人の名前がついている。これは吸入または胃から入る。前に述べた方法で作られた抗毒素は致死率を半分にした。衛生学上の注意は初期の流行を大きく減少させた。後者すなわち予防とは、隔離と消毒、回復期における注意、軽い喉の異常に注意すること、そして学童の喉を定期的に注意深く調べることである。軽くて気がつかないようなときに子供が外に出て学校に行くのは注意していないので病気を拡散させる最悪のことである。子供の歯と口もまた注意深く用心しなければならないし扁桃腺炎がしばしば起きるようだったら扁桃腺を切除する。
(6)黄熱病
 これの病原体はまだ単離されていない。しかしゴミに依存するところは発疹チフスに非常によく似ているが、衛生を完全にすることによって熱帯地帯でホームになっていたハヴァナや以前に流行していた南部諸都市から実際上に消し去ることができた。同様にジャマイカからもまた殆ど無くなった。
(7)天然痘
 以前には広範であり時には破壊的であり、生きていて死以上に恐れられた疫病であったこの病気は種痘しかも種痘だけによって殆ど根絶され、地域共同体において種痘に反対した強力な部分だけに残ったことは不思議な現象であった。事実は圧倒的であった。天然痘が流行るところはいつでも種痘を受けていない地域、国、民衆であり、死亡者は殆ど全部が種痘を受けていないヒトたちであり再種痘したヒトには居なかった。1871年のフランス軍およびドイツ軍のように2人が同じ条件で隣り合って寝ているときには種痘したものは病気にかからず種痘してないものが殺されていた。エジプトのように現地人は強制的に種痘され外国人は免れているところでは、死亡者は外国人5人にたいし現地人は3人であった。現地人はずっと貧乏で家や食事が悪く医学的な看護が悪く常識的に言って主な犠牲者になると考えられていたにも拘らずである。もしもある国の全員が種痘を受けしかるべき間隔で再種痘を受けたとしたらこの病気はドイツ軍隊におけるように完全に消失することであろう。この病気が存在し続けさせているのは種痘を逃げるものである。種痘を受けないフランス系カナダ人のあいだに今でも残っている災難はどうであるかと言う不変な例である。例えば1885年4月1日に市立病院であるモントリオール病院で1人の天然痘死亡者が出て、罹っていない患者は家に帰った。天然痘は野火のように広がりこの年の終わりまでに3,164人が死亡し市の冬のビジネスは壊滅し損害は何百万ドルに達した。種痘した100人の内で暴露したときに天然痘に罹ったのは100人のうちで1人以上ではなく殆ど誰も死亡しなかった。種痘しなかったもので完全に99%は罹病し25から30%は死亡した。しかし覚えていなければならないのはしばしば再種痘しないと完全な安全性は得られないことである。牛痘の力はヒトによって異なり永続的であることは稀であり時には1年または2年以下だからである。動物のリンパ液から他の病気に罹る危険は無くこのことが種痘を受けない口実にすることはできない。
(8)結核(いわゆる肺病を含む)
 O・W・ホームズ(1809-1894)が「白い疫病」と呼んだものである。最も壊滅的な単一の死病でありアメリカ合衆国で1年間に12万人の死亡に責任があり、これは肺炎を除いたすべての感染症を合わせたよりも多い。以前に(あまり根拠が無く)遺伝病と呼ばれたものであるが1880-2年にコッホが単離した杆菌によることが明らかになった。遺伝と言われたものは主として環境であり一部は貧血の傾向によるものであった。伝染は一部は感染したミルクによるものもあるが、大部分は他の肺病患者が道路や家または時には病棟のゴミに吐いた痰の乾いたものからの粒子を吸入して起きる。当然のことに死亡は監獄や「施設」のように空気の自然循環の悪いところに多い。「自然」は患者ができるだけ多くなるようにしている。1人の瀕死でない患者は24時間に20億から40億の細菌を放出することが知られている。これらはハンケチから、顎鬚や口髭から、患者が使った家具その他から振り落とされたり、汚染した床から叩き出される。これらは全般的に広がっているので、どこかの臓器に結核巣が無いヒトは考えられない位である。結核菌は肺だけに限定されているわけでは無いからである。結核にたいする最大の武器は、第1に栄養および清潔を最高に保ち胸の保護に注意することである。第2は乾燥した痰が危険なことを大衆に教育することである。第3は病例の注意および登録である。第4は初期病例を治療するための公的サナトリウムの設立である。第5は重病患者のための専門病院である。大きな進歩がすでになされている。この病気が多いマサチューセッツで患者の割合が1853年以来1000人あたり42人から21人に減少した。ニューヨーク、グラスゴーその他の大きな市でも減少は同様である。
(9)肺炎
 フレンケル(1864-1916)が1886年にこの菌を単離した。対および鎖になって増殖して吸入によって体内に入り健康なヒトの1/5の唾液に存在する。これは医学および衛生学によって減少しない病気であり、見たところ増加していて死亡率について結核の次に位置する。これは特に老人(典型的な老人病)や障碍者や不摂生者のように循環が活気の無いものの病気である。しかし多数の強い者もまた殺してしまう。治療は基本から革命化したがすべての患者の1/5から1/4は死亡する。今までのところ最も価値ある新しい方法は突然の心臓不全を防ぐことである。
(10)マラリア
 1世代前までこれは我々のリストの内で最も判らない病気の一つであった。今でも文明の最悪な障碍の1つであり、白人が熱帯に植民するのを困難にしている。これは湿地、沼および新しい土地を造成し、下水道を引くことに密接に関係している。主として秋に流行し夕暮れから明け方に罹り、接触感染はしない。しかし、この病気を特に研究するためにアルジェリアに赴いた外科医ムシュー・シャルル・ラブラン(1845-1922)が赤血球の中に病原体を発見するまで何も知られていなかった。これは細菌ではなく小さな原形質性のもので、赤血球内で透明な輪として始まり、赤血球内の色のついたものを餌にして大きくなり、黒っぽい粒子を作り、ある大きさになると分割および再分割して莫大な数になって、急性の発作的な発熱および明らかな震えを起こす。何種類かの発熱発作がそれぞれ特有の寄生虫によって起こされる。ロンドンのパトリック・マンソン博士(1844-1922)により、伝染を媒介するのは湿地の産物であり夕方以降に活動することが知られている蚊ではないかと示唆された。そしてインドにいた陸軍外科医のロス(1857-1932)は蚊がトリのあいだで同様の寄生虫を伝染させることを見つけた。この寄生虫は蚊の胃細胞でを発育して糸状のものになり、唾液腺に移動して蚊が他のトリを刺すことによって移る。人間における感染においてもこれが主な経路であることが明らかになった。ここで言う蚊はアメリカ合衆国北部で普通にいるイエカキューレックスではなく、この寄生虫が発育し感染を起こすのは主としてハマダラカアノフェレスである。決定的な実験は、これらの蚊にマラリア患者を刺させて非マラリア地帯の健康人を刺させて感染させたことと、1900年の6月1日から9月1日の最悪の季節にローマの周りの危険な平野で、2人が昼間は自由に身体を暴露したが夕方以降はしっかりした網の中にいることによって、マラリアに罹らなかったことである。その結論は、沼地やよどんだ水たまりを排水し、マラリア患者はキニーネで完全に治療して蚊に刺されても病気を伝染しないようにし、夕方以降は外に出ないようにし家に完全に網をはることによって、ヨーロッパ人が最悪の地帯でも住めることであった。
(11)性病
 これらの病気はある面で我々が述べなければならないことのうちの最悪のものである。何故かと言うと純潔な子供たちを完全な毒性でもって感染させ彼らの生涯を苦しみで満たし、同じように純潔な夫人たちを悲惨および恥辱に巻き込むからである。感染は犠牲者のうちで最初に罹った片方だけでは留まらない。その(感染)原因の本質から厳しく抑制されてはいないので、社会が撲滅したり関係ある作用を減らすのは不可能である。医師および一般人はこの点でそれぞれ厳粛な任務を持っている。健康のためには欲望の満足が必要であり結婚をしないつもりになっている独身者にたいして、医師はとくに禁欲の使徒として振る舞いこれらの病気が他に感染するあらゆる努力をすることである。一般人はデリカシーとか同情的な無知とかの良心の咎めによって社会による監視を妨害しないことである。このことにたいする反対は当然である。女性たちは不正に対してすでに恥ずかしい重荷を受けているのでこれは不公正な恥辱であると感じる。寛大な人たちは法的な承認は法的な軽減であり弁護であるとする。そして経験によるとここに真の危険が存在する。一旦、法律によって保護されると警察の重点は悪名高い家々を減少させるのではなく酒場の場合のように保護する方に廻りずっと悲惨な結果を招く。しかしどのような危険でも現在のひどい条件よりもまだ良い。現在は市の売春宿は最も純粋であるべき家庭への感染の流れとなっている。
(12)産褥熱
 開業医および産院において恐ろしいほどしばしば見られた5%から10%以上に及んだこの病気の死亡率だけではなく、ふつう二重の死別を含むことを思い出すと、この病気が殆ど完全に絶滅されたのは現代医学の大きな勝利の1つである。これが感染性であることは古くから疑われてきたが、オリヴァー・ウェンデル・ホームズ(*解剖・生理学教授、詩人、随筆家)が1843年にこれを信ずるに至った事実を完全にしかも明らかにして刊行した。しかし才人で詩人は医科学で権威を持たないと一般に専門家たちは永年にわたりこのことをバカにしていた。他の人たちは徐々に彼の意見を入れ始めた。しかしこれが完全に試みられるようになったのはリスターの消毒処理であった。これによる死亡率は今では1%の1/3に過ぎない。
(13)狂犬病
 この病気はアメリカで動物に広範に分布しているがヒトのあいだではあまりふつうではない。しかしペットが沢山いて、どれも襲われて伝染する恐怖が広がっている。ヨーロッパではそれほど稀ではない。病原体は単離されていないがパストゥールはその神経系にたいする影響から計算して、ある種の接種が健康動物を免疫状態にして強力な量の病原体を中和することを確かめた。彼はパリに狂犬病を治療するための研究所を設立して確かに狂犬病の動物に咬まれた人たちの死亡率を1%の1/2以下にした。イヌでは隔離と口輪をはめることが唯一の予防策である。
(14)ハンセン病
 これはたぶん他のヒトと接触したときだけに皮膚の擦過から細菌が入って起きるものである。そうではあるが普通に考えられているのに反して、ほんの軽度に感染性があるだけである。ハンセン(1842-1909)によって1879年に発見され、それ以後は予防条件について活発で非常に希望の持てる研究がなされた。アジアでは古くから広範囲に知られていていたが、サンフランシスコに中国人が来たり、ノルウェー人が北西部でかなり定着させ、ルイジアナおよび軽度に他の州で地方病になっていることは、一般には知られていなかった。ニューブランズウィック(カナダ南東部の州)でも同様であった。アメリカ合衆国にとってさらに重要なこととしてハワイおよびフィリッピンにはかなりお大勢の患者がいる。これは隔離および監視によって容易に抑えこむことができる。

 他の細菌の幾つかを述べることができるが、その発見はまだ大きな予防にまで至っていない。知られているうちでもっとも恐ろしいは破傷風すなわちテタヌスであって1884年にニコライエル(1862-1942)が発見したものである。これは傷から入り、他の場所では壊疽になるのと同じように確実にある熱帯地区では破傷風になる。
 インフルエンザすなわち「グリップ」は知られている最小の菌の一つを持っている。これは乾いた鼻汁によって広がり鼻咽頭から入る。炭疽病は主としてウシやヒツジの病気である。その細菌は単離された最初の病原微生物であり、吸入、感染した食物または擦り傷から入ることができる。

治療医学の変化
 新しい医療は新しい学説またはむしろ病気についての新しい科学知識に従うと言うのは同じ事実の繰り返しである。このような知識を得る唯一の対象はそれを医療に具体化させることである。病気において発酵の法則が発見され最終的には細菌の作用であるとなってからは、身体が対立する「体液」によって動かされていた時のように「同じ」または「似ている」ものによる治療法は存在することが出来なかった。発熱は活気ある体液(*血液)の異常であるから瀉血を必要とし、病気は身体のどのような働きとも関係が無く主な症状を与える臓器だけが関係するとし、ある学派は病気をある種の波と考えて同様なもっと強力な波によって抑えられるとし、他の学派はいかなる理論的な仮説もまったく拒絶して印刷されたり伝統的だったり実験的な病歴だけに頼っていた。しかしこの世紀とくにその後半における大きな革命は薬の位置であった。世紀の始めには瀉血への古くからの信頼がまだ大きく支配していた。ブールハーフェ自身は医療の殆どすべての方法を利用し、18世紀の終わりにワシントンはその犠牲になった(*風邪を引いて瀉血により死亡)。しかしこの(*19)世紀の中葉には減少し始めた。ホメオパシーおよび正統の学派は医療の基礎を薬の研究と摂取に置いていたし多くのものは置いていた。彼らは薬の量と強さが違っていた。大量で粉薬や水薬の効き方は吐き気に比例するとしたり、少量のものの砕き方や薄め方によるとしたが、病気を取り扱うのに一つの能率の良い方法があるとはみなさなかった。
 今日の進歩した医学は薬品を捨て去っていない。それより、むしろこれまでよりも薬品に注目し、幾つかの良く試して価値および活性のあるものを、これまでよりも高く評価している。現在の薬の多くは不活性かまたは害があり、作用が確かでなく、さらにもっと不確かな人間の機能に応用していることを知っている。しかし使わなければならない数少ない本当の薬や治療に使う物質を完全に研究して科学的に使うようにしている。これらは疑わしいいろいろな多数の物質ではなく、キニーネとジギタリス、および阿片、鉄と水銀とヨードカリ、などである。自然薬のあるものは極めて歴史のあることは興味深い。ヨードは古代に海綿を燃やした灰として知られており、麦角の特殊な作用は非常な古代に牧畜業者の心に印象づけた。キナの皮は決して新しいものではなかった。すればできるのに我々は自分たちの万能薬のリストに多くの追加を行っていない。しかし化学は我々に膨大な貢献をしてくれたし将来は多分もっと貢献するであろう。コカインのような新しい物質の発見の他に、良くても効力がいろいろであり純度や保存期間がいろいろと違う不純な薬の代わりに、効力を計算できる純度のある活性成分を与えてくれている。キニーネのように確実で(重要な病気に有効で)ある新しい特効薬を持つことができない理由は無い。
 しかし新しい学派は何か医薬を与えなければならない義務を持っているとは思っていない。1世代前にほとんどすべての医師はそうしないと医業を続けられないと思っていたが、それが安全であるとも科学的であると誰も思ってはいなかったであろう。もちろん今でも患者または患者の友達が薬すなわち実際には必要でない疑わしい薬を服用して機嫌をとらなければならなかった例はあるかも知れないし、実際にしばしば実際に治療効果のあるのは心が浮き浮きとすることであって、薬の作用が効くのを希望をもって待つことによってのみ可能なこともある。そして医師によっては今でもその昔に習った(*役に立たなくても薬を処方する)ことをわざと忘れられないことがある。しかし変化は大きい。現代の病気治療は古くに言われていた「自然治療」方法、すなわち食事と運動、沐浴とマッサージに依存している。言い換えると安らかで完全な栄養、血液の流れをよくすること、排泄系または組織の循環の障碍を除くことによって自然力に最高の機会を与えることである。典型的な例は腸チフスである。19世紀の始めにこの病気はもっとも極端に荒っぽい「諸手段」によって治療された。すなわち、瀉血、水膨れを起こさせる、嘔吐、下剤、アンチモニーや水銀の処方、などの勇ましい療法であった。今では患者は沐浴され看護されて注意深く世話を受けるが薬を与えられることは稀である。これは一部は薬の作用についてのパリおよびウィーン学派の注目すべき実験の結果であり、これは最も強い信念であり一部は常に存在して非難できる対象であるホメオパシーの教えを揺るがしたものである。正規の医師は誰もホメオパシーの「無限に量の少ない薬」が直接の治療になるとは思ってはいないだろう。しかしホメオパシーの医師たちは他よりも多くの患者を失っていないことは確かであった。ここで一つだけ結論を引き出すことができる。すなわち「大部分の薬はそれを服用した病気には効果が無い」ということであった。
 これらの「自然療法」は上に示した。しかし個々の要素をさらに解析するのは価値がある。これは慌て者の読者が考えるようにすべての文明の結果を捨て去って未開の状態に戻るのでないことに注意して欲しい。自然療法が効率の良いことは明らかに科学の知識および器具の改良、および一世代前には達することが出来なかった生活を楽にし清潔にする文明による千もの改良が自然療法を一流の治療方法にしたのである。
 たぶん一番上に位置するのはよく訓練された看護師であろう。彼(女)らは多くの見せかけの愛他主義者よりも偉大な人道主義者であるだけでなく、医師たちを看護と不安の重荷から自由にしている。無知で頑固であり普通は気まぐれでありしばしば迷信を信じすべての医師の命令を無視することに誇りを持っている女性の代わりに、これらの聡明で誠実な女性は医師のすべての指示を実行し危険の徴候を注意深く見回りメモを準備して医師が危ない患者の進展および毎時間の変化を知ることができるようにしている。
 治療および真に健康の保持における食事の重要性は、そのシステムが医師の主題になる前にも完全に見落とされることはなかった。しかし、何時にも治療所において完全に認識され、強く強調され、高く持ち上げられたことはなかった。多すぎる食物または調理を誤った食物、食べるのに急ぎ過ぎ、これらすべては外国人が国民病としてあだ名にしている消化不良に加担していて、だいぶ良くはなったが今でも最も恐るべきものである。過食もまた広がっているブライト病(*糸球体腎炎)および動脈硬化の主な原因である。砂糖菓子やドラッグストアの詰め合わせ、アイスクリームソーダや人口香料、は他の強力な原因である。とくに少女にとっては食事と食事のあいだにキャンディーを食べることである。ランチカウンターにおけるビズネスマンの5分間食事はビジネスタイムを節約する代わりにしばしば自分の健康を損なう。アルコール飲料の問題はふつう道徳または政治の討論に任せているが、ほとんど1世代または2世代も古いことではないが健康に重要な関係がある。ライトビールの導入は酔っ払いを減らしただけではなく、肝臓、胃、心臓、動脈の器質性疾患を減少させた。
 この数世代のアメリカにおける低額の楽しい戸外運動の著しい普及以上に一般的な健康に有効な影響を与えているものは無い。気候が違うのでここではヨーロッパに比べて絶えず運動をする習慣を持つのは困難であり、社交が関係していなかったら大部分の人たちは無理をしようとはしないであろう。我々はスポーツや競技に熱中して来た民衆ではなく、以前には充分な手段が無かった。今ではテニスとゴルフがあり、自転車その他が多くの人たちの体格や特に神経の状態を良くしている。もちろんこれらのことにも判断が必要であり、たぶん健康な組織を持つ若者にのみ適する激しい肉体的なスポーツに熱中して自分に傷害を与えている高年の人たちもいることであろう。
 マッサージにはちょっと触れるだけである。その目的はまず循環の障碍を除くことである。細菌その他に対する正常の条件を作るのに正常の血液は充分でなければならず、マッサージは循環を最も自由にさせる。沐浴は科学的な医療では「ハイドロセラピー」と呼ばれ特殊な機能として障碍のある発汗システムを自由にさせる点を除いて同様である。
 これらに第4のものを加えることができるであろう。これはある意味ですべての中で最も自然なものである。何となればこれは他の何よりも古く何千年も前に互いに他人を疑う以前に、人間の目盛りの最も底において、未開人によって行われたものである。すなわち暗示であり催眠である。この種の治療の主として困難なことは、医療で使うのにしても、一定の結果を確かめる何らかの方法を準備するにも、あまりにも少しのことしか為されていないことである。もう1つは他のすべての心の科学と同じように、曖昧であること、神秘的なこと、その表現を規定できないこと、ペテンおよびペテンを呼びこむのに抵抗できない貪欲な騙されやすさの希望を持てない空気に囲まれていること、である。しかし何はともあれ精神医学的な方法は常に重要であるが、主として認識されていない役割を治療学において行っている。精神を浮き上がらせ、血液をもっと自由に流れさせ、障碍が無く神経にその役割を果たさせるところの信頼から、すべての治療が生ずる。失望すなわち信頼の欠けることは最も堅固な体格をほとんど死の扉に沈める。最上の医薬を失望のもとに与えられていたときに、信頼はパンの錠剤または1さじの清水で殆ど奇跡のように治癒することであろう。医術全体の基礎は医師へ、彼の医薬へ、彼の方法への信頼である。これは新しい発見ではない。ガレノスは「彼は信頼が最高のものに最上の治療を行う」と言った。自分の信頼にとってもあまりにも有毒であった万能薬を摂取して死んだ医者で化学者でハッタリ屋のパラケルスス(1493?-1541)は自分の患者に、完全に信頼し強い想像力を持つとその効果があるだろう、と言った。
 18世紀の記載者および医療者がメスメリズムと名付けた催眠術については触れるだけしかできない。医療者が違うとこれを使った結果は異なり、ここでも個人的な方程式が非常に重要であることを示唆している。最初に科学的な研究を行い利用を試みた英国マンチェスターのブレード(1795-1860)は成功しなかった。インドにいた英国外科医は非常に成功し268例の手術を行いその頃はまだ行われていなかった麻酔の効果がすべてに見られた。この可能性は大きく誇張されてきているが、(ペテン師の場合を除いて)術者の主張ではなく大衆の騙されやすさによるものである。暗示に敏感となる新しい条件を作るよりは正常に存在するものを増加させているように見える。器質性の病気では実際のところ役に立たない。これが役に立ったのはすべて神経系疾患と分類される疾患で、すなわち、ヒステリー、痙攣性機能障碍、子供の悪習慣および薬剤やアルコール習慣の犠牲者である。時には出産および外科に使われたが、根拠が無くときには危険であった。歯科医が亜酸化窒素(笑気)を使うとき以上に証人が居ないでするべきではなく、法律は特別免許証またはある程度の医師に施術を制限すべきである。
ウィリアム・オスラー MD
オクスフォード大学
内科学欽定教授
[#改ページ]

人名索引


あ行
アウエンブルガー、レオポルド(1782-1808)Leopold Auenbrugger
ヴァンダービルト(1794-1877)Cornelius Vanderbilt
ウィルヒョウ、ルドルフ(1821-1901)Rudolph Virchow
エスキロール(1772-1840)Jean-※(アキュートアクセント付きE)tienn※(アキュートアクセント付きE小文字) Dominique Esquirol
エーベルト、カルル(1835-1926)Karl Joseph Eberth
か行
ガーハード、ウィリアム・ウッド(1809-72)William Wood Gerhard
ガレノス(129-199)Galen、Galenus、Galenos
カレン、ウィリアム(1710-90)William Cullen
カーネギー、アンドリュー(1835-1919)Andrew Carnegie
キルヒャー(1602-80)Athanasius Kircher
グレーヴズ(1797-1863)R. J. Graves
クック、キャプテン・ジェームズ(1728-1779)James Cook
クレプス、エドウィン(1834-1913)Edwin Klebs
コッホ、ローベルト(1843-1910)Robert Koch
コルヴィザール、ジェアン(1755-1821)Jean Nicolas Corvisart
コーン、フェルディナンド(1828-1898)Ferdinand Julius Cohn
さ行
サーモン、ダニエル(1850-1914)Daniel Elmer Salmon
ジェンナー、ウィリアム(1815-1898)Sir William Jenner
ジェンナー、エドワード(1749-1823)Edward Jenner
ジェームズ・ジャックソン(1777?-1867)James Jackson
ジョンス・ホプキンス(1795-1873)Johns Hopkins
シャタック、ジョージ(1834-1920)George B. Shattuck
スティレ、アルフレッド(1813-1900)Alfred Still※(アキュートアクセント付きE小文字)
ストークス、ウィリアム(1804-78)William Stokes
スミス、シオボールド(1859-1934)Theobald Smith
スミス、ネーサン(1762-1829)Nathan Smith
た行
ダヴェーヌ、カシミール(1812-1882)Casimir Davaine
ディクソン、サミュエル・ヘンリー(1798-1872)Samuel Henry Dickson
テューク、ウィリアム(1732-1822)William Tuke
ドレーク、ダニエル(1785-1852)Daniel Drake
な行
ニコライエル、アルトゥール(1862-1942)Arthur Nicolaier
は行
パストゥール、ルイ(1822-1895)Louis Pasteur
パラケルスス(1493?-1541)Paracelsus
バッド、ジョージ(1808-82)George Budd
ハラー、アルブレヒト(1708-77)Albrecht von Haller
ハンセン、ゲルハルト(1842-1909)Gerhart Almauer Hansen
ハンター、ジョン(1728-93)John Hunter
ハーヴィ、ウィリアム(1578-1657)William Harvey
ハーネマン(1755-1843)Samuel Hahneman
ヒポクラテス(紀元前5〜4世紀)Hippocrates,
ピネル、フィリップ(1745-1826)Philippe Pinel
ビシャ、ザヴィエル(1771-1802)Xavier Bichat
ブライト、リチャード(1789-1868)Richard Bright
ブラウン、ジョン(1736-88)John Brown
ブルセ、フランソア(1772-1838)Fran※(セディラ付きC小文字)ois Joseph Victor Broussais
ブレード、ジェイムズ(1795-1860)James Braid
ブレーン、ギルバート(1749-1834)Gilbert Blane
ブールハーフェ、ヘルマン(1668-1738)Hermann Boerhaave
フィジック、フィリップ・S(1768-1837)Philip S. Physick
フリント、オースティン(1812-86)Austin Flint
フレンケル、アルベルト(1864-1916)Albert Fraenkel
ベイコン、フランシス(1561-1626)Francis Bacon
ベイコン、ロジャー(1214?-94)Roger Bacon
ベーリング、エミル(1854-1917)Emil Adolf von Behring
ペノック(1799-1867)C.W. Pennock
ポランデ、アロイス(1800-1879)Aloys Pollender
ホサック、デイヴィド(1769-1835)David Hosack
ホームズ、オリヴァー・ウェンデル(1809-1894)Oliver Wendell Holmes
ま行
マンソン、パトリック(1844-1922)Patrick Manson
ミッチル、サミュエル(1764-1831)Samuel L. Mitchill
モルガン、ピアポント(1837-1913)Pierpont Morgan
モルガーニ、ジオヴァニ(1682-1771)Giovanni Battista Morgagni
や行
ヤコビ(1775-1858)Carl Wigand Maximilian Jacobi
ら行
ラエンネック(1781-1826)Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) Laennec
ラッシュ、ベンジャミン(1746-1813)Benjamin Rush
ラブラン、シャルル(1845-1922)Charles Laveran
リスター、ジョセフ(1827-1912)Joseph Lister
ルイ、ピエール(1787-1872)Pierre Charles Alexandre Louis
レイノー、モーリス(1834-1881)Maurice Raynaud
レフラー、フリードリッヒ(1852-1915)Friedrich L※(ダイエレシス付きO小文字)ffler
レーウェンフック(1632-1723)Antonie van Leeuwenhoek
ロス、ロナルド(1857-1932)Ronald Ross
わ行
ワレン、ジョン・C(1778-1856)John C. Warren
[#改ページ]

訳者解説


 本ファイルはウィリアム・オスラー卿(1849-1919)の“A Concise History of Medicine”(エンサイクロペディア・アメリカーナ出版、1919)を翻訳したものである。著者の死去すぐ前に刊行されたこともあり、緒言などが無いので著作の動機、目的、書かれた時期などは判らない。百科事典の大項目として書かれたのではないかと思われるが、それにしては医学史そのものについての記載があまりにも少なく、大部分が現状における感染症予防および臨床治療についての記載が中心である。刊行は遅れたが草稿作成が1913年以前と思われる「近代医学の興隆」(1921)における医学史についての考え方とかなり違っているように感じられる。
 訳者は決して本書を低く評価しているのではない。むしろ19世紀から20世紀の変わり目における大臨床家の考え方を示したものと思っている。ウィリアム卿がマラリア、腸チフスなどの予防や治療にいかに努力したかが判るし、瀉血治療などの冒険的な治療や大量の薬投与などについても論じられている。医師にたいする警告の書とみなすべきかも知れない。





底本:Sir. William Osler, M.D. F.R.S., "A Concise History of Medicine" (Copyright 1919 by the Encyclopaedia Americana Publising Co)
   2019(平成31)年3月26日青空文庫版公開
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下に提供されています。
Creative Commons License
翻訳者:水上茂樹
2019年3月25日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。




●表記について


●図書カード